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スキー検定1級合格

  • スキー検定1級合格
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同じ会社で、同じ相模原市に住み、実家は同じ山形、連れ合いも同じ長崎、子供は同じ2人、山歩き友、スキー友である先輩、定年になり軽井沢でスキー講習アルバイトを始めた、山大スキー部で1級取得していたがカービングのない昔の滑り、インチキラクターではまずいと、インストラクター検定を受け始め合格した、インチキラクターはインストラクターへと昇格した!その先輩から検定受けてみろとのアドバイス、2年前のこと、我流で楽しく滑ればそれでいいと、板も昔の競技用板だった、受けるならカービングスキーもやるからと、板とウエアを譲り受け、スケジュールを調整し、スキー練習の旅へ、友人知り合いが雫石でインストラクターをしているので個人レッスンを受けさせてくれた、初めて安比でもスキーして米沢で2級検定を受けた、これは一発合格、昨シーズンは仕事が忙しく1回も滑りにいけず、今シーズンは山形暮らしとなりシーズン券を購入、1月の検定講習を受け2月検定講習の後に検定受けたが、不合格,まだこの時、何が悪いか分かっていない、1級は肩位置、腕の位置、足の曲げ、体の傾斜も全てポイント、スピードコントロールも微妙な加速を見逃さない、分かったのは3回目の検定講習末日、癖の首位置を指摘された、自分では気が付いてないが谷を向ける頭は山側に五木ひろしのようにかくっと曲がるそうだ、修正に時間が足りないまま試験当日、早めに行き5本滑った、もう今年はあきらめた、来シーズンも挑戦だなと知り合った人とも話していたがなんと合格、非常にうれしい、講習でしりあったメンバーからも祝福の声、非常にありがたい、来シーズンも講習会は参加しよう、先輩にもお礼を伝えよう。

 

2016.03.12:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

原田城その2(浅加稲荷)

  • 原田城その2(浅加稲荷)
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文政4年(1821)6月のこと、大雨で内山沢堤が危ないとの報を受け、堤の崩壊を防ごうと作業に出向く、必死に作業をしていたが、あっという間に崩壊し、作業していた2名が押し流されてしまった、もう死ぬばかりと思ったとき、一匹の狐が忽然と現れ、藤ずるを2人の頭上に投げてきた、2名はこれにしがみつき助かった。崩壊した堤は、地元名士の努力で復旧の運びとなり上杉藩からも助成金を賜り、文政8年(1825)完成した、この年、2名が濁流から命を落とすところを助かったのも、堤の復旧が無事完成したのも稲荷大明神の御加護の賜物である、これに報いるため、ここに稲荷大明神を建立、竹駒稲荷(宮城)より分霊を受け、この置賜公園ダリヤ園(原田城)のところに創立しました、その時、創立者浅野政次、加藤孫右衛門の姓の一文字ずつを取り、『正一位浅加稲荷大明神』と命名したと語り伝えられている。(神社横説明看板参) 

 昭和36年(1961)8月、このお稲荷さん前でばあちゃんと私の3兄弟、そして母の一番上の姉でお参りし記念撮影している写真があり投稿、あれから50年以上たち、昨年2015年5月に娘と孫連れて帰省した折、認知症で部屋に篭っている母を連れ出し朝散歩した、健康でいられることに感謝の祈り、神社も横にあるベンチも同じであった、古写真ばあちゃんと孫の私(右となり)、現在母と私そして孫(娘の長男)の”ひろき”で記念撮影、昨年母は満86歳、父87歳、兄60歳となり還暦と米寿祝いを兼ねて松島で祝いを行った、その際に分霊を受けた宮城の『竹駒神社』にも立ち寄り、お参りしてきたので写真を投稿。  氏神様へ”健康でいられることに感謝”です。

2016.03.10:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

新山神社その3

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小学生の頃、夏の思い出、地元小松町内の諏訪神社と新山神社のお祭り、夜店が多く出ていて、人もたくさん集まった、ハッカパイプにモナカアイスやイカ焼き等々、それに型抜きやお金が入ったヨーヨーとか小遣いと葛藤しながら夢中で挑戦した、何を買おうかと心がときめいていた、この日は、まずはなんと言っても特別ボーナスのこづかいをゲットする必要がある、友人とそろっていくのが楽しいが家の前でお小遣いをねだって泣いていた幼馴染を思いだす。

[母と子の葛藤。。]”なんで100円も小遣い入るのやーー(母ちゃん)”だってみんなは300円はもらってるよーーー(子) ・・家は貧乏だから小遣いなんかやらんねよ!、家のそばでも食ってろ!(母)・・・うわーーーんん(子は大声で泣く)・・そんな光景が懐かしい、昨年田舎にUターンして来たので、神送りとか神社の風景とか見れなかったお祭りも記録で撮り始めた。新山神社は幼稚園も近く中学校もここで育ち、思い出深い場所、新山の獅子も作ってみたので掲載。

2016.03.09:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

原田城その1

  • 原田城その1
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実家の裏は原田城になる、最近町の各種イベントでたびたび出没する、ゆるきゃら、『虎駒』 

  幼名虎駒、伊達輝宗の命により、虎駒が原田家の嗣子となることを命ぜられ、御字を賜って宗時と称し、左馬之助と名付けられる。原田家第17代当主となった。天正11年(1583年)にはわずか18歳にして原田城の城主を継いだ。剛直な性格にして勇武の士であったといわれ、才気に富み、各所の戦いにおいて顕著な戦功をあげ、輝宗やその子・政宗の厚い信頼を受けた。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉による奥州再仕置きによって伊達氏が米沢を召し上げられ、岩出山に移封となると、宗時も原田城から離れ政宗に従った。

文禄元年(1592年)、秀吉よる朝鮮出兵では、政宗に従って渡海するが、文禄2年(1593年)に釜山にて風土病を患う。御暇を賜い帰船したが、病が益々重くなり釜山浦近くの島に滞留して対馬国まで戻ったが、そこで病死した(釜山浦で死去したという)。29と言う若さで没している。

 二代後にあたる原田甲斐宗輔は仙台藩伊達家の家老となり、1970年のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』の主人公となり樅ノ木は原田家の菩提寺である東陽寺にある。 樅の木は原田家の愛木である。

 昭和53年9月実家に帰省したときの写真があり投稿、原田城南側の石碑から撮影、2016年2月同じ場所で撮影したのと比較すると、松の木は虫にやられ、本丸にあった大きな3本杉も無くなっている、本丸のところ原田城止の横に草木塔の石碑が平成4年に建てられている。4枚目は本丸跡から南側方向を望む、2016年2月雪の少ない早朝、朝日がきれいだったので撮影した。

2016.03.07:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

川西ダリヤ園その3

  • 川西ダリヤ園その3
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旧ダリヤ園は現在ハーブ園になり新ダリヤ園は鏡池の奥、小松スキー場の下に移動して街の温泉施設『まどか』のドーム型建物から良く見える位置にある。

 ダリヤは他の花と違い8月1日から11月上旬と長く楽しめる、毎年最後の日は摘み取りが出来て、はさみと包みは用意してくれているから手ぶらでOKである、実家でも毎年ラスト日は来ていたようです、昨年2015年11月3日ラスト日認知症が進んでいる母だが一緒に、初めて摘み取り行きました、母はこのダリヤ園で栽培、管理等の仕事13年していたので、いろいろとくわしい、あれこれ迷いながら摘み取るのは楽しく、摘み取った花は数週間観賞で楽しめる、いい企画、それにしても色や形、種類の多さに驚きます。

2016.03.07:li-no:コメント(0):[歴史探訪]