HOME > 記事一覧

諏訪神社(その1)

  • 諏訪神社(その1)
  • 諏訪神社(その1)
  • 諏訪神社(その1)
  • 諏訪神社(その1)
  • 諏訪神社(その1)

諏訪神社の創建は不詳、当初は出羽国の守護神として諏訪大社(信濃国一ノ宮)の分霊を勧請したのが始まりとされ奈良時代の和銅5年(712)には社殿が造営されたと伝えられています。格式も高く貞観12年(871)に従五位下に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社としては記載されていませんが、当地方を代表する古社として歴代領主にも庇護されてきました。伊達氏により社殿の建立と社領が寄進され羽前国総鎮守として篤く庇護されてきましたが、当時の当主伊達政宗が天正19年(1591)に米沢から岩出山城(宮城県大崎市岩出山)に移封になり、新たな領主となった蒲生氏郷からは社領が認められなかった為に衰微しました。慶長6年(1601)に米沢藩を立藩した上杉家は崇敬社として庇護し社領50石を安堵されています。古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され明治5年(1872)に郷社に列しています。例祭8月26日に『しゃぎり』27日に『小松豊年獅子踊』が行われる。

諏訪神社山門脇には「草木供養塔」「山神塔」「庚申塔」の石塔群がみられる。、昭和56年の正月撮影の山門と現在(2016)と観ると献燈が新しくなり、古い常夜搭、月夜搭が鳥居の後ろに移動している。 多くは『常夜燈』と刻まれ、『月夜燈』と刻まれたものは全国的に見て置賜地方のみに存在している。一説によると「上杉鷹山公は月夜には火を灯さず、月の出ない夜にのみ、照明として使用したのではないか」と言われている。そう置賜には”もったいない”質素、倹約、また自然に対する感謝気持はどこよりも強く、月夜燈や草木塔などにそれが現れている。

2016.08.29:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

夏の終わり(神送り)

  • 夏の終わり(神送り)
  • 夏の終わり(神送り)
  • 夏の終わり(神送り)
  • 夏の終わり(神送り)
  • 夏の終わり(神送り)

実家のある川西町小松地区、諏訪神社のお祭りは26日に『しゃぎり』で始まり、27日は『豊年獅子踊り』、そして28日『神送り』で終わる、これが終わると今年も夏が終わったー!としんみりしたものです。 神送り、調べると(一つは陰暦9月30日または10月1日,出雲に旅立つ神を送り出すこと。また,その日の宮参り、2つ目が疫病神を追い払うこととあります。 小松の神送り、虫送りと同じように笛・太鼓にあわせ『ヨーセ、ヨッセ、ヨッセー』と唱えながら西区、南区、北区それぞれ町内を通り、中央の十印屋さんとこの交差点で合流し年毎の順番で村境まで行きお札を指して終了となる、子供が少なくなったとはいえ、3地区集まると長い行列になります。29日は旧隣村の中小松が神送りします。

 

 

2016.08.29:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

49年前の8月28日29日の羽越水害

  • 49年前の8月28日29日の羽越水害
  • 49年前の8月28日29日の羽越水害
  • 49年前の8月28日29日の羽越水害

今から49年前のこと、諏訪神社のお祭りの8月26日から降り続いた雨、しゃぎりは出来たが翌27日の獅子踊り、次の28日の神送りは中止となり,その夜、川西町や、小国町をはじめ、新潟・山形両県の4市8町に大きな被害を与えた羽越水害があった、そのとき小学5年、夜、噴水のように床から水が上がってきた、すぐに畳が浮いて歩けなくなり、父は大声で2階に行けと指示がきた、家には1年上の兄とまだ1年生の弟、そして新潟から小学前の従妹2名に伯母とおばあちゃんが遊びに来ていて総勢9人、ガラスの割れる音、家にものがぶつかるどーんという音、電気は消え恐怖を覚えた、家は1階の天井に水がつくと流されると言う、家電で2階に上げたのは当時高級品であった家具調カラーテレビのみ、火事場のばか力で父がひとりで上げたがあとでどうやってひとりで上げれたか覚えが無いという、このときのとうちゃんは頼もしかったのを覚えている、うろたえるおばあちゃんや幼稚園の従妹にたいして父はみんな助けるからと・・ロープを準備しいざとなったらみなロープで繋がって離れないようにするといっていたのを思い出す、夜が明け簡易ボートで自衛隊の人が大丈夫ですかと家々を廻り、人数分の菓子パンをくばってくれて、すごくほっとしたのもよく覚えている、翌日はもちろん学校休み、家は親戚が集まってくれて掃除だった、子供は邪魔になるからと、僕たちは近所を見学していたが家や車が流れていたり、牛や豚の死骸もあった、泥にまみれた街中はぬかみそが腐ったようなにおいがしていた、この水害の後、河川はひろくブロックの護岸となり、水路はみなコンクリートになって行った、治水対策は進んだが近所で見られた蛍も糸トンボもこの年以降高度成長ともあわせ農薬の普及でまったく見られなくなったのである。

2016.08.27:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

小屋模型

  • 小屋模型
  • 小屋模型
  • 小屋模型
  • 小屋模型

依頼された、民家模型、小ぶりの山小屋でまとめてみた、仮称『里山一郎』が描く山のアトリとして作成、基礎のブロックから土台と柱立て梁に桁、束(つか)母屋(もや)棟木(むなぎ)と家の構造の勉強になった模型作り、屋根の垂木(たるき)は寸法比が異なりもっと多くなる、あまりの数に少し幅広で作成ゴメンナサイ。。模型作りは完全リタイヤ後のかやふき民家模型作りの勉強でもあるのだ、そこまで残ってくれるか萱屋根民家、絶滅寸前でかやふきさんも絶滅寸前。。昨年かやふき講習とかやってみたが難しい、簡単にはできません・・かや家も簡単には手をつけれません・・せめても模型でがまんしたい。

2016.08.27:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

新潟市古町(その2)

  • 新潟市古町(その2)
  • 新潟市古町(その2)
  • 新潟市古町(その2)
  • 新潟市古町(その2)
  • 新潟市古町(その2)

新潟は幕末には開国五港に選ばれ、港町として大いに栄え、花街としても繁栄した、老舗料亭、ブラタモではタモリさん初のお座敷遊び、貧乏人ではうかつにはいれませんから・・ランチコースも万クラス、弁当ランチなら入れるかな?町は小路がいっぱい家の数が6軒あったことから6軒小路、かって新潟は堀と橋のまちで芸者さんも多く風情のある街並みだったが、堀は車社会となり役目を失い埋め立てられ、その遺構は柳の木だけがのこり、地名に西堀、東堀と名残を見せるのみ、人情横丁にはその説明看板があるが橋の遺構は申し訳なさそうに残っている。ブラタモでも撮影してましたんで行ってみた、昔の写真が街の看板にあったので掲載、うーーん堀に柳の木いい感じでした昭和30年代まではこんな感じでした、高度成長とともに成長したものもあるが、失ったものも大きい・ひとつの通りだけでも残っていればいいのに・・

2016.08.27:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]