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くたびっちゃ

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Uターン、Iターンで田舎暮らししてる方と、知り合いも徐々に増え、いろんな体験をすることも増えてきた、ずーーと雨で農家は稲刈りが出来ず気をもんでいる、Iターンで農業してる青年の田んぼで稲刈り手伝い、そば師匠とも知り合いで2人でとなってたが、師匠は、あっ用事があると欠、ほんとかな??うまく逃げられた(笑い)ので、2人で稲刈り、稲の運搬、あーーーーー、うううーーほんとに”くたびっちゃ”腰はぐだぐだ、腕はぱんぱん、昨日は帰宅後、疲れた疲れたの連発に、父はだらしねえーなと一言、たしかにデスクワークしかしてなかった都会暮らしからすれば体が出来ていない、徐々に慣れればいいサー、今日は幼馴染と出かけるので手伝いはパス(内心ほっとしてる)、明日はハセがけ、杭がけもするというので手伝い頼まれた。

2016.10.02:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

米坂線開通90周年

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大正15年(1926年)に山形県側の米沢 - 今泉間が米坂線として開業、1931年に新潟県側の坂町 - 越後下関間が開業し、同時に山形側も手ノ子まで延伸、以降、両側から延伸を繰り返し、1936年の県境区間を最後に全通し、ことし大正15年の米坂線から開業90周年となり、記念の入場券が発売されたので買ってきた、28日は小松駅でイベントあったらしいが、気付いてなく残念、10年後100周年は盛大にやるのかな・・丸田写真館さん寄贈の大正15年9月28日の開通記念写真は町あげて盛大にお祝いしていたことが伺える、開通50周年記念(1976年)写真は小松駅にあったもの、1977年成人した年、何気に撮った写真があった、そして2016年2月の90年目の冬、特別雪の少ない年の小松駅写真である。 そういえば中学卒業(1972年)春、SLが最後となるので同級生と小松駅から今泉駅、手ノ子駅まで自転車でSL写真を撮りに行ったことが蘇る、当時の写真探してまた同じ場所で写真撮らなくては・・ネガも残してあるはずだ。

2016.09.30:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

笹野観音(米沢)

  • 笹野観音(米沢)
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現在の本堂は天保14年(1843)江戸時代の末期に再建、建築図面が当時の大工棟梁の子孫宅に大切に保存されているということで、完全な図面が現存しているのは珍しいようです、茅葺の屋根がいまも維持されていて重厚な趣を与えている、置賜特有の月夜燈もある、門前のところには笹野の里に伝わる笹野彫のお店があり、観音様参拝の縁起物として農民の手によって伝承されてます。本殿内に獅子頭がありました、例祭のときにまた訪れようと思います、

2016.09.30:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

さいかち壇(米沢)

  • さいかち壇(米沢)
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米沢ブラ散歩、『さいかち檀と六面地蔵』という看板があり、いい雰囲気でサイカチの老木が茂ってたので写真撮り、さいかちは樹齢数百年というような巨木もあり木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いられる、豆果は?莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で利尿薬として用いるとある。またサポニンを多く含み古くから洗剤として使われ、莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつては石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用されていたようである(煮出して使う)。棘も、腫れ物やリウマチに効くとされ、豆はおはじきなど子供の玩具としても利用されるとあります。利用価値のある木を植えているものです。 立派な六面地蔵があります、ここは三道が一箇所で交差し六道の基点となるところ、この地方で現存する唯一の辻と記載してある、六道に迷える人々を救う六体の地蔵尊を表し、この地を往来する旅人や住民の幸せを願って建立されたものとなってます安永の頃、南側には大きな安山岩を野積した土塁のある文殊堂もあった。

2016.09.29:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

置賜民俗学会in小国町

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9月25日の日曜久々の晴れ、幼馴染が置賜民俗学会で小国を廻るというので付いて行った、小国町は父の仕事場であり、小学の低学年頃はよく休みの日についていった、昭和30年代後半のころの話、小国に行くには険しい山道がたくさんあった、中でも宇津峠は、まだ九十九折の砂利道で対向車がくると崖のすれすれのところで待機して、車も性能が悪く、オーバーヒートしたりして、羽越水害のあった昭和42年以降道はよくなり、今では実家のある小松から30分程度でついてしまう、町も水害後に一変して昔の面影はまったくない、置賜の民族訪ねは、米沢女史短大の教授案内で、大宮子易両神社から産屋、越後米沢街道を廻る、越後米沢街道はバードの通ったところを走破しようとは思っていたがいまだ小松の中だけしか歩いていない、黒沢峠も初めてだった、ネットではよく見ていたが、ここはゆっくりじっくり徒歩で歩こうと考えている、興味が湧いたのが産屋、子易神社のすぐ近くにあり、現存するものは全国でも珍しいという、昭和43年が最後の使用と記載されていた、昔お産は家が穢れるというので、みな産屋で行いましたということです、都度村総出で組み立てて、産後7日間はかわるがわる部落の人が世話し、終了するとまたばらしていたそうです、今年87歳の母に聞くと大正時代はみなそうだったらしいが昭和天皇になり考えが異なり、母の世代、昭和一桁からはみな自宅お産となったと聞きました、昭和の43年まで使用されていたこの地区特別のような気がします。この子易神社は父が私たち3兄弟、そして私の子、私の孫まで欠かさずお参りしていたそうで、私は2年前3人目の孫が生まれたときに始めて父とともにお礼参りに来ました、境内に花子と太郎(昔のワープロソフトを思い出す)石があるが花子は河原から出てきた自然石、太郎は加工したもので何れも昭和の比較的新しいものです。

2016.09.27:li-no:コメント(0):[歴史探訪]