上杉家が会津120万石から米沢30万石に移封になった際、城下に家臣全員を収容しきれなかったため、防衛の役割を与え下級武士を郊外に配置、荒地の開墾なども行わせた、この武士達は原方衆(はらがたしゅう)と呼ばれ、主は野を耕し、女達は機を織って生計をたてながらも馬を飼い武芸に励んだという、屋敷裏手は広い畑と果樹、前庭にはウコギの生垣がある典型的な原方衆の屋敷が今も残る、米沢市南部の地区芳泉町、寛文4年(1664)に15万石に減らされるものの明治維新まで上杉家は続きます、米沢市内は火災や都市開発で古い建物は残らなかったが、郊外であるが故、当時のままの通りと屋敷が残っています、残念ながら近代の民家にかわったり、空き家となったところも目立ってきてましたが、ウコギの生垣など歴史遺産として保存会ががんばっておられます。 庭の松も枯れてしまっているがなんかオブジェに見える。
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