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(19)旅客列車が気動車に

  • (19)旅客列車が気動車に

 長井町、長井村など1町5カ村が合併して長井市が誕生したのは昭和29年11月15日。この日、新生長井市の誕生を祝うかのように長井線の旅客列車がディーゼルカーに代わった。赤湯梨郷間開業から41年、羽前成田駅開業から32年後のことである。長井市史には「煙から解放された」とあるが、当時の市民の率直な感想であろうか。

 

 山形市の知人が昭和30年2月の車両配置表で調べてくれたところによると、この時山形機関区にはキハ45500形が12両配置されていたとのことである。そのうちの何両かが長井線に配属されたと思われる。なお45500型車両は昭和29年から30年にかけて99両製造。昭和49年から廃車が始まり昭和55年には全車が除籍されたようである。

 

 その配置表には、長井線のさよならSL列車となった蒸気機関車59634号も山形機関区に配置されていたと記されています。59634号は今も北九州市に保存されています。長井線を走った初代のディーゼルカーにも思いを寄せたい気がするのは私だけでしょうか。

 

 

【おらだの会】写真は長井市史(第4巻)より。撮影年次、車番、型式等は不明。

【追   記】この写真をご覧になった知人から連絡が入りました。「先頭車両は窓が小さいことから南東北以北向けの寒冷地仕様のキハ22形、後車がキハ17形(45000形から称号改正)とみられる。キハ22形が入っていることから撮影年次は昭和42年以降と思われる。」とのことでした。有難うございました。

2022.03.02:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(18)昭和24年の赤紙?

  • (18)昭和24年の赤紙?

 終戦後の長井線の運行状況について、長井市史第4巻では次のように記されている。

「(大正3年11月15日の赤湯~長井間)開通当時は、客車1日5往復、貨車1回の運行であったが、昭和3年には客車貨車混合で6往復となった。  (略)  敗戦直後は機関車も客車も極度に不足し、昭和20年・21年には長井線は貨車に人をのせて1往復という状況で、列車事情が曲がりなりにも回復し、東京方面への中学生の修学旅行が復活したのは昭和27年度からである。」

 

 成田駅に残されている宝物で終戦後の歩みを辿ってみたい。写真は経理関係者への訓示であり、以前「成田駅の宝物」で紹介したものである。裏面に「24.7.2?」の日付スタンプが押されており、昭和24年のものと思われる。終戦後の混乱が治まらぬ中にあって、職員に服務規律の徹底を呼び掛けたものであろうか。それにしてもこの色を見ると召集令状を連想してしまうのは私だけだろうか。

 

⇒ 成田駅の宝物 事務注意書き:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.28:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

8年越しの夢

  • 8年越しの夢

 昨日の地元紙に山形鉄道の運転士になった社員が紹介された。小学生の時から「将来は運転士」の夢を抱いていた彼は、8年越しの入社試験を経て山形鉄道に入社。その後2年間の勤務しながらの猛勉強を経て、運転免許試験に合格したのだそうだ。

 

 還暦をとうに過ぎた我が身を振り返って、彼のように夢を持って生きてきただろうか、と恥じ入るばかりである。「これからも地元に愛される長井線であり続けられるよう、心地よい乗客とのやりとりと運転を心掛けたい」との言葉に、彼が歩んできた職歴の重さを感じた。

 

 ボーっと生きている我ではあるが、せめて列車に手を振ろう。長井線で旅する人にも、その列車を運転する人にも、それぞれの人生があるのだなぁ、と思いながら。

2022.02.26:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

(17)終戦の詔勅を聞く

  • (17)終戦の詔勅を聞く

 

 昭和20年8月15日正午、終戦の詔勅が出された。鉄道紀行家として有名な西脇俊三氏は、玉音放送を今泉駅前で聞いた時のことを「時刻表2万キロ(角川文庫)」に次のように書いている。

 

 「駅舎からコードが伸びていて机の上のラジオにつながっていた。それを数十人が半円形に囲み、放送がはじまるとラジオが天皇であるかのように直立不動で頭を垂れた。(略) 何事もなかったかのように蒸気機関車が蒸気を吹き出しながらホームにすべり込み、顎紐をきりっと締めた機関士やショベルを握った助士の姿も、いつもと変りなかった。変わりようのないことではあるが、それが強く印象に残った。」

 

 この時、羽前成田駅の駅長は第6代の髙山季之助氏(昭和16年5月11日~昭和20年10月18日在任)であった。髙山駅長はじめ駅に集う人たちは、どんな思いでこの放送を聞いたのであろうか。

 

 

「今泉駅に残る昭和」はこちらからどうぞ

 ⇒ 長井線乗車リポート:おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.24:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

(16)戦時下の青春

  • (16)戦時下の青春

 昨年は太平洋戦争開戦から80年であり、マスコミでも様々な特集が組まれたようである。「平和を求めて-わたしの戦争体験」という本がある。長井市中央史談会が発足25周年記念事業として1997年(平成9年)8月15日に発行したものである。

 寄稿された方は95名にものぼり、その中には今は亡き中学時代の恩師の顔もあった。その中から「戦時下の青春」と題した寄稿文の一部を紹介したい。時間の流れに沿って淡々と記述される寄稿文を読むと、上の写真に映し出された人たちが停車場に到達するまでの時間とその後の情景が見えてくるような気がする。

 

 昭和20年4月8日、16歳の春、私は江田島へ旅立った。その日は朝から自宅で壮行会が行われ、大勢の人が集まった。(略) 

 森部落の鎮守である津嶋神社で必勝祈願をして貰い、安藤在郷軍人会の音頭で「万歳三唱」をしてから、楽隊を先頭に、手に手に日の丸の小旗を持った壮行の隊列は、「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからは、手柄立てずに帰らりょか」と歌いながら長井橋を渡り長井駅に向かった。

 長井駅前大通りは、出征兵士を見送る群衆でいっぱいだった。森の楽隊は、ラッパや太鼓の音をさらに高らかに響かせ、部落の人々は、声も枯れよとばかり軍歌を歌って行進し、私を駅まで誘導してくれた。(略)

 汽車がホームを出るときは「ばんざい」「ばんざい」の歓声と別れを惜しむ人々の糾喚で混雑を極めた。列車には大勢の出征兵士が乗っていた。興奮して泣いている人、目をつむってもの思いに沈んでいる人、その胸のうちは人さまざまであり、本人しか知る余地がない。(以下略)

 

 

【おらだの会】文中の音楽隊は、森地区に大正7年に組織された青年音楽隊のことである。写真は『写真で見る致芳のあゆみ』(致芳地区文化振興会平成14年11月発行)より。

※こちらの記事もご覧ください⇒ 停車場から戦地へ:山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)

2022.02.22:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]