駅名看板に隠された秘密?
国鉄時代は看板などは駅の職員の手作りであった、と聞いたことがあった。とすれば、前のものに上書きして使うことは容易に想像できる。けれども行き先駅名が違っているのである。表示からすればこの駅名看板は、線路の西側か待合室の内部又は車寄せの上部に設置されるべきものである。残念ながら今のところ、この看板が使われていた写真や記録は発見できていない。
防雪林の所にすれ違い線があったというが、この看板がもう一つのホームがあったことの証拠品であれば面白いと思うが。さて、この看板は何を語っているのだろうか。たかが看板、されど看板である。
関西からおいでの方から教えてもらったもう一つの秘密は次回紹介します。
→ たかが駅名板、されど駅名板:おらだの会
→ 成田駅の宝物(32) 国鉄時代の駅名看板:おらだの会
成田駅の宝物(32) 国鉄時代の駅名看板
「成田駅の宝物」に真打登場、今回は駅名看板が宝物です。成田駅にはこの看板が2枚あります。以前はホームのベンチに立てかけていたのですが、ソジル(損傷する)のが心配で、駅の旧事務室内に置いています。
「なぜドールちゃんと一緒の写真を掲載するの、変なおじさん!」と言われそうです。この看板は旧国鉄時代のものですが、ドールちゃんとも不思議なマッチングを見せていると思いませんか。「昭和萌え」とか「昭和映え」と言われますが、駅名看板もきっとその一つですよね。
駅名看板は旧事務室でご覧になれますが、ドールちゃんは異人さんに連れられて遠くの国に行っちゃいました。
成田駅の宝物(31) 昭和30年頃の成田駅画
写真は、駅茶(旧駅事務室)南側の壁に掛けられている羽前成田駅の絵画です。成田駅においでになった方が撮影したものを、傾き補正をして送ってくれたものです。その方も「いい絵ですね」と驚いていましたが、改めて見ると駅舎の中にこんな立派な油絵が飾られていることはすごいことだと思います。
駅舎の修繕工事が終了した頃に、地元の作家が寄贈してくれたもので、昭和30年頃の風景とのことです。この頃はホームまでの出越部分に木製の床がテラス風に造られていたようです。母屋とトイレ小屋の間に柵があることや空に張られた電線が当時の雰囲気を伝えてくれます。
ホーム側から駅舎全体の風景を記録したものはとても珍しく、大切に残していきたいものです。
成田駅の宝物(30) 昭和17年の切符
切符マニアが飛び上がって喜びそうな切符を寄贈いただきました。かすれてはいるものの日付は昭和17年3月15日と読めます。見所は「東京市内ゆき」、「3等4圓60餞税共」、「二月一日ヨリ増税40餞」、「下圖省線内」の文字と朱鉛筆が引かれていること。
ウィキペディアによると、東京市は1889年(明治22年)5月1日から1943年(昭和18年)7月1日まで存在し、その後は東京府と統合されて東京都になったと記されています。また鉄道省は、1920年(大正9年)5月15日から1943年(昭和18年)11月1日まで存在していたそうです。
混雑に紛れて寄贈してくれた方から詳しいお話を聞く時間を作れなかったことが残念です。先にいただいた777の切符と共に成田縁に奉納したいと思います。どうもありがとうございました。
【おらだの会】777の切符についてはこちらをごらんください
成田駅の宝物(29) 復活傘電
「昭和時代の木製電柱がある!」とフェイスブックに投稿した人がいました。その時は「こんな電柱、珍しくもないのに」と思ったものです。駅舎のすぐ北、トイレの入り口付近にあるその電柱に、12月初旬、電気工事屋さんが上って作業をしていました。そして設置されたのが写真の傘電。映画「三丁目の夕日」に出て来そうな品物です。
『所ジョウジのJapan』という番組がありました。「平成世代が大絶賛 昭和レトロがスンゴイ」「若者が叫ぶエモイって何だ!?」という番組です。そういえば駅ノートに「この駅エモイ」と書かれていたことを思い出します。この「外灯もエモイ」となるのでしょうか。
さて、この傘電を発注したのは山形鉄道の工務科だそうです。何よりも社員の方がこうした駅の設備にも気を遣ってくれることが嬉しいです。その心意気も含めて成田駅のお宝に認定したいと思いますが如何でしょうか。