8往復、国鉄時代と同じですね

  • 8往復、国鉄時代と同じですね

 さてさて、関西からおいでになったライターさんが、「駅銘板の秘密」に続いて発見したのがこの写真でした。これは1987年(昭和62年)12月30日に、羽前成田駅協力会が『新生長井線誕生祈願餅つき大会』を行ったものです。何故、12月30日に駅の待合室で餅つきをすることになったのか。一つは翌年の4月20日に山形鉄道株式会社が創立されることになったこと。2点目は赤湯駅に山形新幹線が停車することになり、新生長井線に旅行客が来てくれることを祈った。そして3点目は、駅協力会(おらだの会の先輩方)の一人が、お餅大好き人間がだったことなのです。

 

 そんなことはどうでもいいですが、関西のライターさんはこの写真を見て一言。「今の長井線と同じ8往復だったのですね。」と。今年の3月までは12往復だったのですが、4月から諸般の事情により8往復になっていたのです。減便で不便を感じている人が多いかもしれませんが、The国鉄時代と同じだったのです。さすがにライターさんはすごいですね。

 

 さて、大正3年の赤湯~長井間開通時の本数は、新長井市史によれば5往復でした。5往復、8往復、12往復、8往復・・・。山鉄は国鉄時代から1.5倍増便した。今、8往復に戻さざるを得なかった。そこには苦渋と悔しさと、申し訳なさがあったはずだ。私たち住民は、この社員の悔しさを知らなければならないだろう。今日スタートした「7人展」のテーマは「頑張れ!山鉄」だ。

2025.07.12:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

駅名看板に隠された秘密?

  • 駅名看板に隠された秘密?
 7月のある日、駅茶に関西からのお客様がおいでになった。その方は、「羽前成田駅&西大塚駅比較展」を熱心に見られていたが、旧事務室にある2枚の駅名看板を見つけて撮影をしていた。そして「この看板は上書きされていますね。」と言う。見ると確かにそれらしき痕跡が確認できた。行き先を示す「ながい」の下には「こぐは」、「こぐは」の下には「ながい」という文字が見えるのである。つまり下書きの看板とは逆向きの表示になっているのである。


 国鉄時代は看板などは駅の職員の手作りであった、と聞いたことがあった。とすれば、前のものに上書きして使うことは容易に想像できる。けれども行き先駅名が違っているのである。表示からすればこの駅名看板は、線路の西側か待合室の内部又は車寄せの上部に設置されるべきものである。残念ながら今のところ、この看板が使われていた写真や記録は発見できていない。
 防雪林の所にすれ違い線があったというが、この看板がもう一つのホームがあったことの証拠品であれば面白いと思うが。さて、この看板は何を語っているのだろうか。たかが看板、されど看板である。
 関西からおいでの方から教えてもらったもう一つの秘密は次回紹介します。
 → たかが駅名板、されど駅名板:おらだの会
 → 
成田駅の宝物(32) 国鉄時代の駅名看板:おらだの会

2025.07.10:orada3:コメント(0):[成田駅の宝物Ⅱ]

「長井線を応援する地元写真家7人展 Ⅸ」スタート

  • 「長井線を応援する地元写真家7人展 Ⅸ」スタート

 「長井線を応援する地元写真家7人展」が7月11日(金)からスタートします。「7人展」は2020年(令和2年)9月に初めて企画実施されました。この年の4月はコロナに対する緊急事態宣言が発出され、移動を伴った交流事業ができなくなった時期にあたります。
 その5月に、広田泉さんがユーチューブで「本当の応援とは」と題して、ローカル線の応援のありかたについて羽前成田駅での事業を紹介しながら、自身の信条を熱く語ってくれました。それを見て、地元で頑張らなければ外からの応援もあり得ないことを、改めて考えさせられたのです。

  → Bing 動画
 自分達で何ができるかとずーっと悩んでいた末の答えの一つが、「山形鉄道を応援する地元写真家7人展」でした。7人展は、住民の連携によってフラワー長井線を応援する取り組みを構築することを目指すものです。

 ホームでフラワ―号に手を振る親子の姿があります。また「長井線に元気をもらいながら通院しています」と語ってくれる御婦人もいます。私たちおらだの会も、山形鉄道を応援しているのではなく、山形鉄道から元気をもらっているのだと思う事があります。それは7人展に参加するメンバーも同じだろうと思います。今年、山形鉄道はいろんなことが重なり、2020年当時よりも大変な状況かと思います。エールだけでも届けたいと思う。頑張れ、山鉄!!
  → 長井線を応援する7人展:おらだの会
  → 今年、そして明日へ(2):おらだの会

2025.07.08:orada3:コメント(0):[イベント情報]

木造駅舎『絆』展  駅舎を愛する人々と共に

  • 木造駅舎『絆』展  駅舎を愛する人々と共に

 広田泉さんは、2021年(令和3年)3月28日に53歳という若さで旅立たれた。羽前成田駅開業100周年となる年であった。一周忌となる令和4年の春には「泉の桜」を植樹し、「特別写真展 昨日の一歩、明日の一歩」を開催した。そして米屋こうじさんに広田泉さんとの想い出を語ってもらった。米屋さんは最後に、「泉さんのおかげで、この場所に新たなつながりや思い出が生まれている」として、「共にあること」を大切にしていこうと結んだのでした。

 → 広田泉伝 [ 完 ]  明日の一歩 共にあること:おらだの会

 

 フラワー長井線に残された二つの木造駅舎。2010年から今日まで、二人の写真家が情熱を傾けて応援してくれた駅舎である。写真は、昨年の長井線祭りの前夜祭に集まった首都圏からのお客さんとの交流会の様子である。米屋さんが撮影したものであり、そのタイトルは「駅舎を愛する人々」であった。また今年になって西大塚駅では、不定期ではあるが週末に待合室での土産品等の販売が始まっている。

 「駅舎を愛する人々」の思いが過去から現在、そして未来へとつながりつつあるようにも思える。木造駅舎が最初に繋いだのは二人の鉄道写真家であったが、その後地域の人々と駅舎を愛する人々を繋いでくれていたのだ。この絆を大切にして、山鉄を元気に、地域を元気にしていきたいと思う。(木造駅舎『絆』展は、7月6日で終了となります。)

 → 芋煮会の前夜祭!:おらだの会

 

2025.07.06:orada3:コメント(0):[停車場風景]

木造駅舎『絆』展  二人の写真家が目指したもの

  • 木造駅舎『絆』展  二人の写真家が目指したもの

 2015年(平成27年)10月の長井線祭りに参加してくれた広田泉さんは、翌年から続けざまに長井線応援企画を実施してくれました。2016年(平成28年)4月の「ちゃぶ台写真展」に続いて同年10月に企画された「長井線祭り協賛3駅交流写真展」が印象深いものでした。西大塚駅で米屋こうじさん、時庭駅は123の会、羽前成田駅で広田泉さんが写真展をやったのです。この事業と同じような企画を、米屋こうじさんは2012年(平成24年)4月に実施していました。西大塚駅と成田駅、蚕桑駅で行われた「木造駅舎ギャラリー展」がそれです。

 → 三駅合同写真展:山形鉄道 おらだの会

 → 鉄道憧憬 山形鉄道駅舎内写真展・後半スタートです。

 

 二人の鉄道写真家は、沿線の各駅が住民と共に盛り上がっていく姿を追い求めていたのではないかと思うのです。広田さんが語っていました。「何とか線路を繋げ、人を繋げてニッポンを繋げたい。本気でそう考えていますので、応援よろしくお願いいたします。」と。「ローカル線は地元の人に愛されないと残っていけない。だから私は、駅を愛している人を応援したい。」と。その思いは、米屋さんも同じ思いであろう。広田さんは最後に語ります。「地元の人に言いたい。皆さんは何をやってる? ここで生きる覚悟がありますか?」と。10年たった今、私たちは「線路を繋げて人を繋げる」ことができたのだろうか。

 → 広田泉さん逝く ~ 線路を繋げて人を繋げて:おらだの会

2025.07.04:orada3:コメント(0):[停車場風景]