朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

05.八ッ沼エリア
{PDF} ダウンロード 329.2KB_Adobe PDF

お話/佐竹啓次さん(高田区長)

■きっかけと整備
 ビオトープは平成16年に造った。きっかけは、公民館が新しくなった時に、減反休耕田になって荒れている裏の景観だった。なんとかしようということになり、地主の方にも協力してもらいメダカやホタルの棲む池を造ることになったんだ。
 池に流れ込む堰は、地区の方々と相談して、町の志藤六郎村おこし基金を使って、地元の建設会社に頼んで整備した。石は上郷のものを使った。

■朝日町在来メダカとの出会い
 メダカは大谷の渡邉勝美さんから譲っていただいた。有名な宇宙メダカを育てている天童市の佐藤政則さんに相談したら、渡邉さんが溜め池で朝日町の在来種を守っていることを教えて下さった。昔は身近な川にいたのになぁ。
 最初は14匹からスタートしたけれど、今ではたくさんいる。今年も小さいメダカがたくさん生まれた。2年位生きるみたいで、親と子供とひ孫という感じで、3世代いるようだ。

■管理
 周りの草は、地区の方々がボランティアで刈ってくれている。刈るのは大変な作業だけど、みんなやる気まんまんでしてくれている。今年は3回くらい刈ったかな。池の浮き草はメダカの隠れ場になっているけれど、そのままにしておくと水も見えなくなるほど増えてしまうので、度々取り除いている。

■様々な生き物の住処
 ここには丸々太ったトノサマガエルやウシガエルもいる。太っているのはメダカを食べているからじゃないかな。身近に見かけなくなったイトトンボも、ここには3種類程いる。この前は、何十年かぶりでカワセミが飛んできた。サギもよく来る。メダカやカエルを食べているんじゃないかな。タニシもカワニナもたくさんいる。このカワニナをゲンジホタルの幼虫が食べているんだ

■ホタル観賞会
 ホタルはだいたい6月20日から7月10日まで見られる。ピークは、その年にもよるけど6月28日あたりかな。夜でも気温が高く、湿った空気の時にたくさん見られる。
 毎年、スイカや飲み物を準備してホタルの鑑賞会をみんなで楽しみながらやっている。こんな小さな堰に、ホタルがずらぁと来るから「何でこんなに多くホタルが来るのか」「不思議だ」と、みんな感心して見ていく。特に子供たちがすごく喜んでくれて、その顔を見ると、また整備を頑張ろうという活力になってくる。メダカもホタルも、地区のみんなで育ててきたから、見学に来てもらえるのがとてもうれしいんだ。
(取材/2010年7月 逸見なぎさ) 
上記ダウンロードボタンよりPDFファイルを開く事ができます。

渡邉勝美さんのため池
佐竹啓次さんプロフィール
メダカとホタルの里マップ
高田のブナ林

{PDF} ダウンロード 2.9MB_Adobe PDF

 高田地区在住の岩崎孝彦さんが描きました。上記よりダウンロードして見学の際にお役立て下さい。
メダカの高田分校とホタルの里
{PDF} ダウンロード 456.7KB_Adobe PDF

お話 / 佐竹啓次 氏(高田区長)

■高田地区について
 高田は、標高300m。15戸の人口は39人。60歳以上の方が多い集落。いまだに五つの蔵も残っている。立派な石垣も素晴らしいよ。
 みんなで力を合わせて元気にやりましょうということで、数年前から「ブナ、メダカ、ホタル」を柱に頑張っている。手作りの案内看板もあちこちに立ててあるが、これは10年前に引っ越していらした岩崎孝彦さんにお願いして作って貰ったんだ。岩崎さんは絵も堪能な方だ。なかなか洒落た看板で、すごく評判がいい。高田地区のいいとこは、良いものはすぐ取り入れるところ。欲張りって言われるかな。

■ブナ
「ブナ」は250年も生きる木だそうだ。高田地区のブナ林は、戦時中の昭和19年に飛行機の材料として国に供出するために、原生林を伐採し、それから育った森だ。樹齢は65 年くらいだから、人間の歳になおすと、25、6歳くらいの若者だね。推定で400本ほどある。
 以前は「ブナ」をわざわざ見ようという考えはなかった。しかし、このブナ林は宮宿から6kmのとても身近な場所にある。3年前から山形県の「みどり環境税」を利用して、ブナ林の美しさを身近に知っていただけるように力を入れてきた。
その一つが、一周りおよそ3.5kmある手作りの探索コース。なるべく人工的にならないように整備し、一部は獣道も利用する事によって、
人が頻繁に手入れをしなくても良いように考えた。途中には、棚田や30ヘクタールの地区所有の杉林、ヤマナシの大木、炭焼き跡、伝説が残る修験者の道も通る。展望台は2つ整備した。東展望台からは宮宿を一望でき、西展望台からはAsahi自然観を手前に朝日連峰の大パノラマを手にとるように見る事ができる。
 恒例になった「ブナの森探索会」ではそれらを説明しながら区の皆さんと案内している。3回目の今年は雨にもかかわらず35人の参加があった。ブナの木肌につけられた熊の爪痕を見せたら、大人は怖がっていたが子供たちはとても喜んで見ていた。参加者の中には、「マイナスイオンを感じ、胃の病気が良くなったみたいだ」と、うれしい感想を話してくださった方もいる。
 来て下さった方から喜ばれると、自分たちの力にもなる。今の高田地区の生きがいでもあるんだ。
(2010年7月取材 逸見なぎさ)

佐竹啓次さんプロフィール

※上記ダウンロードボタンより印刷用pdfファイルを開けます

高田ブナ林探索会の様子(PC)
{PDF} ダウンロード 193.3KB_Adobe PDF

高田地区在住の岩崎孝彦さんが描きました。上記よりダウンロード(PC)して見学の際にお役立て下さい。初めての方はエコミュージアム案内人をご利用下さい。
高田のブナ林
 三中分校へは、昭和五年、六年と在学しました。当時の入学児童数は二十二人で、先生が一人、子供たちは着物(和服)やもんぺで通学していました。また、現在のようなノートがなかったことから、石盤(筆記用の粘板岩の薄い板。昔、子供が石筆で文字や絵を書くのに使った)を使い「はな・はと・まめ・ます」などと読み書きをしていたものです。
 終戦後は、三中分校を使い素人演芸会を開いていました。農作業が終わると自然に地区民が集まりああでもない、こうでもないと夜遅くまで練習した思い出があります。
お話 : 鈴木栄一さん(八ッ沼)

 私が入学したのは昭和二十八年で、児童数は五十人くらいだったと思います。当時の思い出は、一生懸命に掃除をしたことや校舎の周りを走り回ったこと、学校の帰り道で化石探しや魚捕りをしたことなどが記憶にあります。最近までは、私の住む能中地区の「協有会」という若衆会で、年一回、校舎周辺の清掃作業をしていました。また同級会では、集合場所を三中分校にして、思い出話に花を咲かせてます。やはり、大人になった今でも、何かしら三中分校と関わりをもっていたい気持ちがあります。
お話 : 海野義弘さん(能中)

 私は昭和六十二年の入学で、児童数は十人でした。授業は普通の教室での授業のほか、野山の探検や青空教室などがあり、楽しかった思い出があります。少人数だからこそできた授業だったと思います。また、三中分校は、勉強だけでなく遊びでも中心でした。これは昔からそうだったと思いますが、卒業してからもつい立ち寄ってしまう、そんな忘れられない存在ですね。
お話 : 佐竹千鶴さん(八ッ沼)

 昔は公民館がなかったことから、地域活動や青年団、消防団活動となると、毎晩のようにこの校舎の三階に集まり、酒などを飲み交わしながら語り合った記憶があります。このように三中分校は、子供たちだけでなく大人も公民館的なものとして利用した、地域に根差した学校でした。閉校となった今でも三中地区のシンボルとして、私たちの心にしっかりと生き続けている宝です。
お話 : 佐竹充廣さん(八ッ沼)

(平成10年 旧三中分校シンポジウム・パネルディスカッション「三餘学校は私たちの宝物」にて)

田川順一さんのお話

〈獅子踊りは、子供がする〉
 八つ沼の獅子踊りの獅子は子供がするものだ。獅子は三人牡獅子(オジシ)、雌獅子(メジシ)、供獅子(トモジシ)だ。それに、笛が三人「天」「地」「人」そして、太鼓が「太陽」「月」「雷」の三人で構成されている。
 子供の獅子踊りは珍しいものだ。東北の大会に行ったことがあるが、他はすべて、大人の人が獅子になっていたようだな。大谷の獅子踊りも大人だな。
 ここの、獅子踊りは、小学校三年生くらいになったら始めるのだ。そのころになったら、踊れる体力ができるということだ。
 なぜ子供が、それは、かわいいからだな。ここの獅子踊りは、春日神社のお祭りに合わせているので、昔から、旧暦の閏年にする。だから4年に1回だ。うまくその年にあわないと獅子踊りの仲間に入れないのだ。三年生か四年生で旧暦の閏年になると入れるのだな。

〈昔は道路で練習をした〉
 昔は、三人だけしか練習しなかったので、ケガとか病気ができなかったのだ。春日神社の祭りは、必ず八月十五日と決まっているので、練習は七月の中頃から毎晩一ヶ月も続くのだから、それは大変だ。昔は公民館もなかったので、八ツ沼の道路に裸電球を家から出してしたものだ。だから、雨の日は休みだった。今は公民館があるので雨の日も練習する。演目は全部で二十いくつかある。
 「通し」ですると、五十分もかかるのだから、それは覚えるのも大変なものだ。昔は、他に楽しみなんか無かったので、練習だというと、子供や大人がたくさん集まったものだ。だから、見ていて覚える子供も多かった。選ばれた子供はうれしかっただろう、親達も誇りに思っていただろう。

〈親子3代で出た〉
 今は、一日だけだけど、昔は、祭りの日の本番と、氏子総代とか、役員衆の家回りとか、協力部落の西船渡なんかも回ったので、三日はかかった。大変だったなあ。
 本番当日は春日神社で半分踊って、行列作って関所、関所で踊った。関所て、この辺では『宿』て言うけど、下宿、中宿、上宿て言うんだけど、そこでも踊った。そして、若宮寺では全部「通し」で踊った。そして、納めということで、春日神社で残りの半分を踊るのだ。今は一日で終わるので、西船渡にもその日に回っている。体力はいるのだ。
 獅子は三年生くらいの子供がいい、見るからにかわいいから。牡獅子は、踊りのリーダーだから、六年生位かな。雌獅子も、高学年だな、初めて入った子供が、供獅子になるのだ。当たる人は、三年生から初めて、何回も踊ることになる。昔の閏年は4年に1回ではなく、一年おきとか、二年おいてとかあったからな。俺は、踊りでは二回くらいかな、その後は、笛で高校生から何回も参加した。それに、田川家は笛とか、佐竹家は太鼓とか家によって代々決まった役があったような気がする。俺の家では、親父が、頭取、俺が笛、息子が獅子踊り、なんて、親子三代で出たこともある。親子二代なんていくらでもあるな。

〈大名行列、昔は320人〉
 獅子踊りは、踊り三人、笛三人、太鼓三人だが、道化役の「三八(さんぱち)」てのがあって、ヒョットコの面をかぶっておどけるのだが、この人が、すべてを把握していてだれかが間違えると、さっと行っては直させるのだな。獅子踊りは大名行列の中にいるのだ。道中お殿様が疲れたときに慰めるのだ。行列は、本当はすばらしい人数がいるものだ。本なんかによると、三百二十人ちかくなっている。今はそんなに人がいないから。先払い、御神輿、奴、天狗、武具、槍や鉄砲だな、大獅子、氏子総代、獅子踊りの順だな。
 獅子踊りをしたときの楽しみ、子供のころは、氏子とか、役員衆の家を回ると、必ずごちそうが出るから、それが楽しみだった。お盆のごちそうだから、スイカとか貰えたからな。今みたいに、練習のときに、ジュースが出たりとか無かったな。サイダーが出たかな、いや、そんなこと無かった気がする。それに楽しみは、『花』だな。あれが貰えるのを楽しみにしているな。

〈今は子供全員が参加〉
 今は全員の子供たちが参加するようになった。子供の数も減ったから。昔は一杯いたのだが、今は全員でも九人くらいだ。だから、今は此の部落に生まれた子供は男の子なら全員する。そして交替交替で踊ることになっている。だから部落全体の行事になるのだろう。女の子は参加しない。このお祭りは、女は参加しないのだ。ただ、子供会は別で、女の子も大獅子の幕をひっぱったりしている。獅子踊りの「かぶりもの」は張り子で作られているので、雨が降ると傷む、そのときは、修理しながら使っている。
 「かぶりもの」は山鳥の尾羽根と鶏やチャボの毛でできている。獅子は鹿のことだから、牡獅子は山鳥の羽根の角が大きく立ち上がり、雌は鶏の羽根で巻いている。供獅子は子供だから角が短い。壊れたら修理をしながら使うのだ。
 今の練習はテープで行い、本番の何日か前から生笛で行うのだ。テープだと毎日同じだが、生笛だと踊りや太鼓を見ながらするので、それに合わすこともできるのだな。1ヶ月も練習すると、だれがうまくて牡獅子になり、自分は何の役目かわかってくるようになる。昔は牡獅子は1人だけだったが、今は何回も交替ですることになっている。

〈田川家は代々笛〉
 俺は長いこと笛をしてきた。この田川家は代々笛を吹いてきたので、百年も続く笛が残っている。昔俺の家は「飴屋」をしていたのだが、左沢まで材料を買いに行った帰りなど、四ノ沢の坂から吹くと、ここまで聞こえたと言う。この笛の音は今ある部落の笛よりは高いので、一緒には吹けないが、俺の家の前で踊ってくれるときだけは、この笛を吹くことにしている。一度、羽黒山とか、空気神社とか荘厳な場所で一人で吹いてみたい。
 この祭りが今まで絶える事なく続いてきたのは、おそらく、部落の人の神事や芸能に対する意識だろう。それに、多くの人が子供のころからこのお祭りに関わってきたOBだからだろう。今でもこのお祭りに合わせてお盆に帰ってきて、一緒に楽しんでいる人が多い。部落の人数は少なくなったし費用もかかるが、頑張って残して行きたい。

お話 : 田川 順一さん(八ッ沼)
取材 : 平成10年

大名行列の様子(2009年)
八ッ沼 春日神社
八ッ沼の大名行列
八ッ沼の奴振り
八ッ沼エリア
関連書籍『八ッ沼物語』
 八ツ沼は康平の頃(1058−1064)は、 沼が多かったので、多沼村と言っていた(13沼)が、その後沼の数が八つに定着したことで、八ツ沼になったとされています。その沼は、1.本社の大沼(春日沼)2.滑田の諏訪沼 3.果沼の薬師沼 4.山屋の菖蒲沼 5.大沼道の芦毛沼 6.荒谷の荒沼 7.明端の葦沼 8.大田代の雨沼であるが、今では本社の大沼(春日沼)だけが残っています。
お話 : 小松寿一さん
(平成10年 旧三中分校シンポジウムにて)
 八ツ沼には、七不思議を始め、七名所、六森等があります。
「七不思議」は、1.鈴ヶ森の鶏の声 2.沼中の変水 3.沼尻の阿吽の清水 4.大石の化け石 5.大石の提灯石6.小関壇の異変 7.自在坊の活地蔵 
「七名勝」は、1.本社(春日神社)の境内 2.沼中(春日沼)の夫婦岩 3.鴻の森の熊野神社 4.若草山の眺望 5.果沼の薬師堂 6.旧城跡(八ツ沼城)の七つ井戸 7.八ツ沼の鐘楼堂
「七名物」は、1.春日沼の源五郎鮒 2.芦毛沼の左巻田螺 3.油子沢の岩まめ 4.滑田の芹 5.長根の小百合 6.大刈屋の赤泥鰌 7.家向の痩せ蕨
「六森」は、1.糖塚森 2.前森 3.田中森 4.若草森 5.鈴ヶ森 6.弁天森
「三石」は、1.大石の臼石 2.若見谷の碁盤岩 3.糖塚の神楽岩

お話 : 小松寿一さん(八ッ沼)
※平成10年 旧三中分校シンポジウムにて
 当地の豪族若狭茂経が建久年間に登勢堂(とせど・若宮寺の南の方)に築城したのが八ツ沼城の始まりです。いろいろな資料をまとめると次のようになります。
◆五百川と八ツ沼城の築城
1. 建久年間(1190〜98)五百川城主若狭の祖、蔵人という者、源義家に従って清原の残党平田次郎、同五郎を討ち、この地を賜り五百川と称した。その子孫重経は、泰衡の臣谷川右京を討滅して塞を八ツ沼に造った。
正平年間(1346〜1367)若狭守重政が長崎城主大江綱房によって滅ぼされるまで五百川領は続いた。
2. 文明元年(1469)又は五年、原家の祖先で原越後守は子隠岐忠政、小松加賀等とが五百川に来て八ツ沼に築城し八ツ沼城主となった。
(原家数世九十九年間)
〇1原越後守頼貞 〇2原紀伊守 〇3原隠岐守忠政 〇4原美濃守慶秀 〇5原甲斐守忠重 〇6原半兵衛兼道

◆ 原家の由緒
原家の祖先は、原土岐光衡と申す仁で、足利尊氏の御舎弟、左典厩直義公の家臣で、その正統は応仁の乱で、細川勝元に属した。乱後越前の国に入り、原越後守時代は敦賀城主として十二万石を領したという。その子隠岐守忠政の時に、明応元年(1492)、三角、佐々木の合戦に加わり、敗れて出羽国の山中に逃れ、八ツ沼に城を構えた。

お話 : 小松寿一さん(八ッ沼)
平成10年 対談「八ッ沼のおこり」より
※写真は古城跡
 村山地方の領土拡大を狙った最上義光は、八ツ沼城と鳥屋ヶ森城(新宿)を攻略します。これが五百川合戦です。
 最上軍は、大蕨口より二千騎、義光本体千騎、併せて五千騎で五百川に攻め入ってきました。そのときの八ツ沼城は五百騎といわれ、最上軍を相手に小関加衛門、客僧羽黒弁寛を中心によく戦いましたが、家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛も戦死し、永禄八年八月十五日山形城主最上義光によって八ツ沼城が落城しました。落城説は天正九年、同十二年もありますが、朝日町史では永禄八年説を用いています。
 岸家は朝日将軍木曽源義仲後胤、岸美作守源朝臣義満は、木曽義仲十五代の末裔で、柴田兼頼を頼って関東より移住したと言われますが明確ではありません。
宮本 八ツ沼城主原甲斐守重忠、墓が若宮寺に鳥屋ヶ森城主岸美作守の墓が福昌寺にありますが、どちらも永禄八年八月十五日死亡とあります。
お話 : 小松寿一さん(八ッ沼)
※平成10年 対談「八ッ沼のおこり」より
写真は八ッ沼城跡

 八ツ沼落城には悲しい物語がある。八ツ沼城主原家と、鳥屋森城主岸家との婚姻の話だ。
 八ツ沼城主、原甲斐守忠重に原半兵衛兼道という若君がおった。また鳥屋ヶ森城主というと、岸美作守にそれは美しい弥生姫という息女がおったそうだ。果沼のお薬師様のお祭りに二人が出会い、見初めるようになった。半兵衛兼道が弥生姫を八ツ沼の名勝地春日沼に誘い、二人は楽しい一時を過ごしていた。
 和合に和合但馬守秋広侍がいて、その日に最上川で釣りをしていたが釣れなくて、春日沼で釣をしようと春日沼に来ていた。たまたまそこで半兵衛兼道と一緒にいる弥生姫をみて一目ぼれをしてしまう。和合但馬守は弥生姫を奪おうとしたが、反対に半兵衛兼道の警護の侍におっぱらわれてしまった。
 その後半兵衛兼道と弥生姫の結婚話はとんとんと進み婚約した。おもしろくないのが和合但馬守で、花嫁を略奪せんと宮宿清水の渡し場で待ち伏せし、むがさりの行列を襲ったが、行列を守っていた侍におっぱらわれて退散した。腹の虫が納まらない和合但馬守は、山形城主最上義光に八ツ沼城主、原甲斐守忠重と鳥屋ヶ森城主、岸美作守が山形城をねらっていると讒言した。その讒言により最上義光が兵を動かした。これが五百川合戦の原因と言われている。多勢に無勢、八ツ沼城に敗戦の色が濃くなったころ、半兵衛兼道と弥生姫は二人そろって死のうと、お城の後ろ側にある屏風谷へ下り、春日沼に身を沈めた。そして夫婦岩になったと言われている。
お話 : 小松寿一さん(八ッ沼)
※平成10年 旧三中分校シンポジウムにて
※写真は春日沼の弥生姫像
『西五百川小学校百年のあゆみ』によれば、中国の魏の古書『魏略書』の「日餘夜 時餘雨也 而年餘冬也(日の余りは夜にして、時の余りは雨なり。そして年の余りは冬なり)」にあるといわれています。この三つの余りは農作業もできないことから、過ごし方によっては、どのようにも過ごせるものです。しかし、若者たるものは、夜と雨と冬こそ活用し修養に精進せよ、との教訓ととらえることができます。私なりに解釈すれば、「働くこと、生きること、生活すること」の本業を大切にし、その余りを自分なりに工夫し時間を見つけて、有効に勉強に結び付けようということだと思います。
お話 : 石島庸男さん(山形大学教授)
※平成10年 旧三中分校シンポジウムにて
 三中分校は、明治八年に八ツ沼村若宮寺に八ツ沼学校として設立されたことから始まります。同年、八ツ沼村、能中村、西船渡村の合併により三中村となり、翌年には三中学校と改称しました。その後、児童数が増えたことからでしょうか、明治十五年三月に現在の校舎である三中学校の新築工事がはじまり、同年十一月には、和洋風三層の新校舎が落成。校名もシンポジウムのタイトルである「三餘学校」と改めています。おそらく山形県内においてこの三中分校は、擬洋風(和風造りでありながら洋風造りを装った建物)の建物では一番古いかもしれません。
お話 : 石島庸男さん(山形大学教授)
(平成10年 旧三中分校シンポジウムにて)
思いのいっぱい詰まった豆菓子
 この寺で学校が開かれたのは明治八年。今から123年前の事です。そして、今の旧三中分校、三餘学校となったのが明治十五年のことです。
 さて、三餘学校の頃から三中分校になってもずっと伝えられてきたものがあります。なんだと思いますか。そう、まめです。今日受付でもらった煎ったまめに砂糖がまぶしてあるものです。白い砂糖です。私の大爺ちゃんも私のお父さんも、そして私も三中分校に入学するときには必ず持たせられました。重箱一杯の豆をもって入学式に行って、入学式が終わるとそれを広げてみんなで食べたんですね。白い砂糖なんかはホントに高価だった頃、その高価なお菓子を持って入学式に臨んだんですね。重箱一杯たがって、みんなでがばがば食ったわけです。
 でも、この豆の中には一つの願いが込められています。入学したときからおっきくなるまでずっとまめで暮らせますように、角のある人間でなく丸く優しい人間になってくれますように。母ちゃんだの願いがこの豆には込められているんです。お母さんたちの愛情がいっぱい詰まった豆なんです。

寺子屋を開いた盛恬和尚
 さて、この三中分校、学校として始まったのは明治八年でした。しかし、私がこれからお話しするのは学校が開かれる前の、寺子屋の時代の話です。
 寺子屋を開いた人はどんな人かというと、名前を盛恬というお坊さんなんです。りっぱな顔しったね。この盛恬和尚さん、偉いお坊さんだったんです。しわくちゃで、口をぎゅっと曲げているような、けっこう性格がごうじょっぱり。気むずかしいお坊さんでした。どこで生まれたかというと、山形の船町一乗院というお寺に生まれました。名前は、「一」と書いてはじめと呼びました。寛政二年今から208年前に生まれた人です。五歳の時に山形宮町の両所の宮、成就院という寺がありました。この成就院という寺に盛諄というりっぱなお坊さんがいました。そのお坊さんについて得度式を受け、元浄という僧名をいただきました。その後、盛諄和尚さんから盛恬という名前を改めてもらったのがはじまりです。盛恬という名前をもらって何をしたかというと、羽黒山の山岳仏教、または船町の貴船神社社斉、真言の開祖である大日経、または事相、教相、漢詩等々、あらゆる勉強を三十八年間積みました。

盛恬和尚八ツ沼へ
 三十八歳の年、山形の成就院にいたこの盛恬和尚は、初めてこの若宮寺に住職として入ることになったのです。山形からここまで住職としてやってくるんですね。何できたと思う?歩いて。その通り。山形から歩いてきたんですが、一人で来たわけないですよ。家財道具みなもってきたんです。長持〜、日常生活品、経典や様々な書物、様々な法具、そういった物をみんな詰め込んでやってくるわけです。この八ツ沼という土地から百二十人が出向いて迎えたんです。ずっと来る様子はさながら大名行列のようでした。そういうふうに古文書には記載なっています。んだらどの道ば来たんだべ。山形から山辺、山辺から大蕨、大蕨から送橋、前田沢、宮宿、助ノ巻、船で渡てこの八ツ沼にずっとのぼて来たんだね。
 文政十年の年、初めてここの若宮寺の住職になったとき、最初におこなったのは、境内地の整備と伽藍の整備でした。一番最初に手がけたのは、皆さんが座っているこの上、ごう天井の絵。これは皆川義川定信という狩野派の絵描きさんを呼んで、八十八枚描かせたのです。貝殻、珊瑚など様々な顔料で描いたのがこの狩野派の絵です。わざわざついてきたんです。その人は、盛恬和尚が好きだからついてきたんです。そして、一生懸命描いてくれたのがこの絵です。
 同じようについてきた人がいます。山形は長谷堂出身、名工とうたわれた、粟野音松という人がいます。その人は何をしたかというと、欄間を彫っていったのです。阿吽の龍、これみな彫っていったんですね。丹念に丹念に一木を彫っていったんです。こっちの欄間は二十四孝、親孝行を題材にした欄間が非常に多くあります。この若宮寺には、二十四考の郭巨の鍬堀りや太公望の覆水盆に返らず等をあらわしたものがあります。一度やっとことはもとに戻らないんだ最後まで責任を持ってやりなさいよということなど色々なことを教えてくれています。正面の阿吽の龍を見てください。二匹の龍が荒波の中にいます。上に行くに従って波は穏やかになっています。これは人生を表していて、アーと生まれてから人生の荒波にもまれて、ンと亡くなるまでを描いています。そしてその御霊を後ろの観音様がふねに乗せて、須彌山の世界まで導いていく様子を考えてつくているんですね。
 盛恬和尚は一生懸命堂内の整備を行いました。今は本堂ですが、その当時は講堂、学びの場所でした。一生懸命勉強する人を集めて経典などの勉強を教えたのです。それが寺子屋の始まりだったのです。そうして十一年間を過ごしました。

盛恬和尚再び八ツ沼へ
 そうしていると、山形の成就院の盛諄和尚が亡くなったんです。これはいけないということで十一年間務めたこの若宮寺をやめていきます。そして成就院で六年間を過ごしますが、八ツ沼が恋しくなって、天保十三年の年、成就院を隠居することを宣言したんです。八ツ沼衆が「盛恬和尚、まだ来てけねが、まだ、勉強おしぇでけねが」といい、その八ツ沼の意気込み、勉学にかける努力、人の心、ここに残った自然が盛恬和尚を呼び戻したのです。みんなは、名声をとどろかしている盛恬和尚をまたここの住職に迎え入れることができるというので大変喜びました。今度は二百三名で迎えに行ったんです。久しぶりに戻ってきた盛恬和尚は八ツ沼はやっぱりいい所だなと思い、また一つ事業を興すことを考え、始めたのが鐘楼堂の再建でした。

鐘楼堂の再建と開田事業
 今の鐘楼堂はだいたい150年前に建てられた物です。この鐘楼堂を建てるに当たっては左沢の菅野辰吉という人が、弟子たちも引き連れてきて建てました。なんと七年間かかって建てたものです。七年間の歳月、しかも設計図などはなく、棟梁の頭の中にしかなく、弟子たちは棟梁の言うとおり切ったり削ったりしてやっと作ったのです。高田の大庄屋長岡権四郎家文書には、そのときの様子が書かれています。七年間もかかったんだからよっぽどお金かかったんだべなとおもうべっす。お金であげなかったんでなかったんですね。文書の中には、米何斗、みそ、べべこ何枚、おしめ何枚などという記述があります。おしめなどとあるところを見ると、ついてきた弟子夫婦の間に子どもが生まれたということがわかります。七年間の間村衆もがんばって協力したんだね。
 弘化二年には盛恬和尚は江戸の寛永寺まで行っています。江戸上野の寛永寺で大日経を講義してくださいといわれていったんですね。江戸まで名声が響いていたこの盛恬和尚、数年の間大日経の経典の講義をしてきました。江戸まで歩いていったんですよ。三週間も四週間もかかったことでしょう。江戸で講義を終わってからすぐ戻ってきたかというとそうではなく、大阪までまた歩いて、釣鐘を注文しにいったんです。大阪河内屋五郎左右衛門という人にこの鐘作ってけねがと頼んできました。そしてできあがったのが嘉永三年の時でした。
 ようやくこの鐘が完成して間もない頃、盛恬和尚は、こんどは村のために開田事業をおこしました。天保年間には果沼の薬師堂の周りにあった沼を埋め立てて開田しました。そのほかに慶応元年には五百刈り、または壇の越、お墓だった所を拝んで、整地し開田し、水田を開きました。

多くの人材を育てた寺小屋
 そんな事業をいっぱい重ねて、天保年間に寺子屋を開きました。県内だけかと思ったら大間違い、福島、いわき、郡山あたりからもいっぱいお弟子さんたちがやってきて、三百人以上の生徒さんがここで書道や漢詩を学んだという伝えがあります。一生懸命学んでいってその精神を全国に広げていったわけです。
 巣立っていった人はたくさんいるのですが、夏草に佐竹恒雄さんというお宅がありますが、そこの先祖様で佐竹正詮というお弟子さんは衆議院議員まで立身出世なさいました。盛恬和尚の教えの中から心の精神とか、そういうことを学んでいったんだと思います。
 
素晴らしい景色と伝承
 さて、盛恬和尚さん二回目に八ツ沼に来る時、何で八ツ沼はいい所だって言ったんだべ。それは八ツ沼衆がみんな気持ちのいい人だということ。一生懸命学ぼうとする努力がすこしずつ報われているということ。むかしからあるものを大切にしているということ。そういったことがすべて盛恬和尚にとってすばらしいことだったのだと考えています。
 また、この若宮寺の後ろに春日沼というところがありますが、沼の景色、鴻の森に囲まれた熊野神社、鈴ヶ森に囲まれた春日神社、向かって左手奥に見える若狭山、緑が湖面に映える春、夏、秋、冬。ほんとにきれいなんです。湖面の中には夫婦岩と言われる大小の岩が渇水すると見えてきます。夏、秋、朝早くこの沼の所に出てみると、朝もやがパーッと、まるで天女が羽衣で湖面を掃除しているようです。それから自分たちが一生懸命努力して作った果沼、秋になると黄金色に実った穂が一面に見える景色。ここの鐘楼堂からまちを一望する景色。もう一つ、400年程前にはこの館山にはお城、山城があり、このあたりは戦場と化していました。その一角に七つ井戸というところがあります。その七つ井戸というところから望む景色はまさに壮観です。今言ったことはすべて八ツ沼の七名所と言われるようになりました。そんな自然をもっている八ツ沼を盛恬和尚は大変愛したんだと思います。
 この八ツ沼周辺いろんな事が伝承として残っています。鈴ヶ森の鳥の声、提灯岩、化け石、阿吽の水、沼の変水、また周りには、活地蔵、小関壇の異変、いろんな伝承が残っています。そんな伝承もここに住んでいる人たちみんな孫たちにつたえてきたものです。
 自然にここは街道となって栄えていきます。八日町、七日町、袋町、上町、中宿、寺宿いろんな町があって約百軒が軒を連ねる街になりました。大谷の方には猿田越えの街道、高田には山伏の道、石須部の方におりていく道、石須部からずっと朝日、黒鴨に抜けていく道、ここは、要衝の場所だったんです。

西五百川を潤す水と人の心
 また八ツ沼は水のうまいところで、五本桶とか庵の井戸とかふだに水が出てくるところです。うまい水だぞ。その水が、滑田の方までいってそこででるセリ、これは絶品。これほどうまいセリは日本中探してもどこにもない。香りといい、歯ごたえといい、ほんとにいいセリが出るんだな。
 八ツ沼で暮らすうえでは唯一水も大切でした。穀物も大切でした。しかし、もっともっと水が欲しいということで、源次兵衛堰ということを考えたこともありました。しかし、これは幻に終わりました。でも水をもってこようとして努力した地区がこの西五百川地区にはいっぱいあります。水口堰もそうです。三中堰も松程堰もそうです。みんなその地区でそれぞれ一生懸命努力して生きてきました。その生きてきた証がいま我々が住んでいる西五百川という地区です。
様々な文化・遺産がいっぱい詰まっているこの西五百川という地区、八つ沼という地区をもっともっと知って、よりよい所を一生懸命勉強し、活かしていこうではありませんか。今日の和尚さんの話は初めて寺子屋を開いた人、盛恬和尚の話でした。
登坂 高典さん(若宮寺副住職)
平成10年 
 旧西五百川小学校三中分校は、明治十五年に建てられたものであり、非常に古い校舎です。
 全国的に見て、学校としてはもちろんのこと、明治初期の時代に建設された三階建ての建物で現在まで残っているものでは、大変珍しいものとなりました。山形県内でも同時代の三階建ての建物は、おそらく三中分校しか現存していないと思われます。
 創建当初の姿については、設計図などがないために詳しいことは分かりませんが、現状から見えるこん跡や申請図として提出された『三中村学校新築建図』(図2参照)を参考にすると、二階の窓は現在よりずっと少なく、縦長の細い窓が相互に離れて配置されていた可能性があります。部屋の間取りや外観についても、時代とともに改修を重ねたようです。
 現在の建物の概要(図1参照)を説明すると、木造三階建てで、総二階建ての建物の上に、面積を縮小した三階が載った形となります。基礎は自然石を切り出したものに直接柱が建つ石場建てです。窓の開口部は片引きや引き分け障子戸を用いています。壁の部分は和風の土蔵造りで、壁に空けられた丸窓が大きな特徴となっています。
 本来丸窓は、西欧のレンガや石を積み重ねる組積造りでできるもので、当時の日本にその技術はありませんでした。三中分校の丸窓は、土蔵造りの白壁に丸い型枠をはめ込む「擬洋風的建築手法」で造ることにより、洋風に見せる努力をしたと考えられます。このようなことから、創建に際しては、まったく西欧指向がなかったとはいえないと思います。
 要するに三中分校は、明治初期の時代において、和風様式を基にした、堂々たる白亜(白壁)の三階建ての建物で、学校建築としては、非常にざん新でユニークな存在であります。大工の棟梁の名も明らかであり、在来の伝統的技法に従いつつも、意欲的な西欧建築への指向も見える、地元大工棟梁の苦心の作といえます。
 一部に改修の跡も見えますが、保存状態は良好です。明治初期の地方における学校として、また当時の新しい建築に対処した地元棟梁の技量の知られる作例として貴重であり、建築史上、文化財的価値は高いものと考えます。現在、破損が進んでいる所もあることから、今後の利用方法も考え、その保存修復には、十分の考慮を期待しています。

講演 東北大学名誉教授 佐藤 巧 氏
(旧三中分校シンポジウム基調講演(平成10年)より)