朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

04.佐竹家エリア
 水口地区の「弥十綸朕⇒戮蝓廚蓮⊂赦贈僑映に復活した郷土芸能。水稲の豊作を祈願する踊りです。例年8月15日に、地元朝日町常盤の五百川三十三観音の一つ「水口観音」境内で上演されます。

Youtubeで公開いたしております
水口「弥十綸朕⇒戮蝓

制作/NPO法人朝日町エコミュージアム協会
取材・撮影/長岡信悦 花山 護 
編集/スタジオ蒲公英
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お話 白田吉蔵氏(常盤)

■師匠は、庄内の温海の人だった。
 私は、昭和6年常盤の農家に生まれで80歳は越した。あの頃は、部落のどこ行ってもカヤ葺きの家ばかりだったから、仕事は無くならないだろうと思って、カヤ葺き職人になった。本間さんって師匠は、温海の五十川から来ていた人で、こちらに来て春から雪の降って仕事のできなくなるまで出稼ぎだった。当時は、仕事をする家に寝泊まりして稼ぐのよ。家の人と同じで、まだ太陽の出ない4時半ごろから朝仕事だ。7時に朝食、10時に一服、12時に昼食、昼は2時間休む昼寝して休まないとだめだ。3時に休んで、6〜7時ころまで、明るくなれば働き、暗くなるまで働いたのだ。最初は、弟子だから物を運んだり、カヤを上げたり下げたり、その間に盗み見して仕事を覚えるのだ。どだことするのか、こうしたら良いとか、考えなければならないのだ。年季奉公は3年間で、無給で師匠について回って覚えると、免許皆伝だ。珍しいことだが、師匠は修了書を書いてくれた。そのあと1年は、お礼奉公だ。終わった頃で、20才だった。

■昔は、カヤ葺きの仕事はいくらでもあった
 その頃は、仕事はいくらでもあった。屋根葺きは、あんまり道具を使わない、だから大変なんだ。何でもできるようになるのに10年かかる。棟とかをきれいにするテクニックとか、物差しで測ったりしないからね。1回1回全部状態が違うから、屋根屋根によって、自分の判断でしなきゃならない。一応基本はあるけど、屋根によっていろいろあるから、大工さんみたいに測ってするのではないから難しい。のきっぱだって、まっすぐにするのは難しい。頭と目とカンで考えて平らにしないといけない。道具もすべて自分で作るのだ。長いことやって来ると、どんな仕事もできるようになる。最近、寒河江の慈恩寺を西郡の7人全員で、春から秋までかけて5年くらいで全面改修した。

■材料は山から採って来る
 カヤ葺きの材料は、各家で準備したものだ。30坪の家なら、9,000ぱ必要だった。もちろん修理するにもカヤが必要で、山に近い人は山から取ってくる。一ツ沢には、カヤ刈りの解禁日があった。町の人は、畑のすみに作っておいたのだ。普通の家の毎年の補修なら1反もあれば間に合った。良いカヤは山の日あたりの良い所に生えた硬いのだ、河原のも良い、肥やしの多い畑のそばは、ワアーて伸びるが柔らかくて弱い。一番良いカヤは、スゴロのカヤって言って、葉っぱがさっぱりないカヤで、春に集めるのだ、雪が終わった後、ハカマが雪で取れてすくっと立っているのを根っこから刈って来るのだ。沢山は採れないが、これを少しだけ軒先に使うと、白くてきれいで、何年たっても軒先下から見たらわかる、これがよい家だ。カヤ屋根にはカヤとともに、縄とコダネギ(小駄根木)がいる、コダネギは山から採って来る、マンサクの木が軟らかくて折れにくいので、一番良い。ブドウつるも使うし、細木(細い杉丸太)も何本も山から持ってきた。

■カヤ葺きの家は、100年持つ
 カヤ葺きの家は、昔は100年持つと言われた。新しく葺くと、20年間は何もしなくてよい。そのあとは、毎年300ぱ位ずつカヤを補給して補修していく、6〜7年で、屋根を1周していけば、一番長持ちするのだ。きちんと管理していれば、雨は洩らないから中の縄も腐らない、そうすれば手入れも簡単だ。
 最近は、カヤ葺き職人も減ってしまった。昔は五百川だけで15〜16人、朝日町で45人、西郡では120人いたのだが、今は西村山で7人だ。茅葺きの家も減って10軒もない、今は佐竹家や水口の観音堂をしているが、80歳越えて屋根に上るのは、続けているからできるのかもしれない。息子からやめろと言われるが、するいことだからする。我々の世代は、わりあい丈夫な人が多い。終戦の年卒業したのだから。今は、朝日町で一人だけだな。仕事も増えないだろうから、最後のカヤ葺き職人だな。
(No.1204 聞き書き/西澤信雄 写真提供/朝日町広報)


白田吉蔵(しらた きちぞう)氏
昭和6年(1931)生まれ。
現在、西村山郡草屋根職組合連合会会長。15歳からカヤ葺き職人になる。
81歳の今も現役で、最後に1軒屋のカヤ葺きの新築の家を葺き建てたのは65歳の時。埼玉県でドイツ人から頼まれたゴルフ場の中の建物で、材料はカヤの代りにヨシを使用し、ドイツから運んだそうです。

No.1204 白田吉蔵氏(常盤)
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第一番 水口(十一面観世音)
第二番 松程長松院(子安観世音)
第三番 松程馬頭堂(馬頭観世音)
第四番 杉山(糸引観世音)
第五番 針生(十一面観世音)
第六番 宇津野(聖観世音)
第七番 太郎祥光院
第八番 太郎南(子守観世音)
第九番 立木(千手観世音)
第十番 白倉(千手観世音)
第十一番 勝生(聖観世音)※道路拡張工事に伴い立木光源寺に仮安置
第十二番 大沼
第十三番 大沼浮島
第十四番 大暮山萬福寺(聖観世音)
第十五番 大谷馬神(馬頭観世音)
第十六番 大谷(聖観世音)
第十七番 富沢 大澤寺
第十八番 富沢
第十九番 左沢法界寺(子安観世音)
第二十番 樋ヶ沢
第二十一番 大巻
第二十二番 和合宗覚院(子育観世音)
第二十三番 送橋(千手観世音)
第二十四番 前田沢(聖観世音)
第二十五番 新宿東永寺(千手観世音)
第二十六番 宮宿小塩山(千手観世音)
第二十七番 八ッ沼(聖観世音)
第二十八番 能中(聖観世音)
第二十九番 川通
第三十番 夏草(聖観世音)
第三十一番 中沢福寿院(聖観世音)
第三十二番 雪谷(如意輪観世音)
第三十三番 雪谷(如意輪観世音)
番 外   宮宿福昌寺(筆観世音)
縁起
※観音霊場巡りはタクシーの利用をお勧めいたします。
 朝日観光 0237-67-2424
 ヨシダタクシー 0237-67-3131

 江戸時代、酒井藩のもとで朝日岳麓の白倉では銅などを掘る鉱山があったが、雨による水害の度にその鉱毒が流れ遠く左沢まで稲が枯れた。その原因を知らない当時の農民達は、朝日権現の下を掘ったための山の怒りだとして鉱山の閉鎖をしようとした。
 その首謀者であった水口の石橋太郎と中沢付近の待神(たいじん)上人が、遠くは七軒村・左沢まで閉山勧告旨を書いた廻状をやり、五百川一帯の百姓が、鉱山に酒米を供出していたその元締めであった白倉村の竹内家、立木村の阿部両家に押しかけ、米、酒の供出をしない旨を公約させ鉱山の経済封鎖をした。
 この農民一揆を怒った酒井藩(松山藩)は、首謀者の石橋太郎、待神上人を逮捕して左沢に送った。石橋の人徳に感心した上人は、これからの世をより良いものにするよう頼み太郎を逃亡させた。その当時は十年で時効となるため、石橋太郎は十年間西国八十八ヵ所を中心に日本全土を放浪した。
 十年間の長い月日を過ごして戻った石橋は、当然自分の家などなくなっているものと思ったが、水口の対岸の雪谷から見たら残っているのがわかり感激し、最上川を一目散に渡った。そして、佐竹文右衛門の許に走って、自分が今まで生き長らえたのはひとえに西国八十八ヵ所の観音様の為であるとし、待神上人の冥福を祈ることを目的とした「五百川三十三観音」を作るための援助を頼んだ。
 それがきっかけとなって五百川三十三観音は成立したと云われ、一番は自分の生まれた水口村で、三十三番は彼が自分の生家を見たという雪谷村となっている。
※『寒河江高校研究集録』昭和45年(1970)発行より
※「白倉騒動」は、天候不順による凶作の原因は、金掘りなどの山稼ぎや行人達の木川新道開発が山の気を動かしたためであるとして、天保3年(1832)6月に起こった。(朝日町史上巻より)
霊場一覧
エリア地区/常盤(夏草〜水口)

・佐竹家住宅の見学申し込みはエコミュージアムルームが受け付けております。直接申し込まないようお願い致します。

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)
 国指定重要文化財「佐竹家住宅」は、最上川の舟運が盛んだった頃の大庄屋の住居です。大庄屋を務めた佐竹長右衛門家は、米沢藩に通船差配役を任命された家柄で、大淀村から川通村までの、船子(水主)雇い、綱手道の管理、梁仕掛けの管理、破船の救出における人足割り当て、払い米(濡米)の世話など、安全な通船を図る仕事をしていました。現在の建物は、元文5年(1740)に建てられたもので、山形県内陸部における上層農家の現存する建物としては保存の状態がよく、歴史を知る貴重な民家です。

※現在も佐竹さんご家族がお住まいです。見学の申し込みは、エコミュージアムルーム Tel0237-67-2128が窓口となっております。直接佐竹さんに申し込みされないようお願い致します。また、毎年見学会も催されていますのでお問い合わせ下さい。

佐竹家住宅について/鈴木治郎氏(pdf)
佐竹家住宅見学会
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 戦国時代の最上家と上杉家の戦いの舞台の一つ。朝日川の流れと川側の絶壁による守り、そして敵兵を一ヵ所におびき寄せて攻めるための曲輪や三十堀、たて堀の配置がなされています。常盤地区を挙げての整備により明確に見る事ができるようになりました。
 正面には、かつて栄えた朝日岳信仰の第一遥拝所だった水口十一面観音堂があります。
※写真は西部公民館から見た水口観音堂と楯跡(写真/安藤美智子)
歴史見学会 「朝日町の天地人」(PC)

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※十一面観音堂の裏山です。
 慶長出羽合戦の折、千人の上杉勢は朝日町の五百川城(城主/望月隼人)攻略に16日もかかり、長谷堂合戦への参戦に遅れたと考えられます。水口楯の前を流れる朝日川はその最初の激戦地。「上杉越羽軍記」によると、赤見外記、北条右近、中条與次(鮎貝城主)ら上杉勢は、増水した朝日川を挟み望月隼人勢と、鉄砲の打ち合いとなりました。赤見外記が朝日川を渡ろうとするのを見た上杉勢の地下馬上 伊藤豊後(中津川)が、真っ先に渡り、命を投げ打って大勢に切り掛かり突破口を開いた武勇伝が残っています。水口楯を突破した上杉勢は西船渡にあった若宮寺を焼き払い五百川城(八ッ沼城)へ向かいました。
 かつて栄えた朝日岳信仰の第一遥拝所。 宝暦5年(1755)に当時の大庄屋佐竹長右衛門が中心になり再建しました。貴重な江戸中期の代表的な三間堂ですが、言い伝えによると旧観音堂は八間堂であり、現在の場所の裏山南斜面に在ったとされます。朝日町指定有形文化財。五百川三十三観音第1番札所。朝日町大字常盤に634
 また、観音堂のすぐ裏山には、戦国時代に上杉勢との戦場となった水口楯の遺構を見ることができます。
※参考文献/『朝日町史』朝日町教育委員会
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 佐竹家住宅への石段を上る途中左側の観音堂は、宝暦の大洪水の時、米沢市春日町の旧家堀江家の守護仏が流れ着いたのを拾い上げて祀ったと伝わります。宝暦9年(1759)建立。五百川峡谷三十三観音第30番札所。朝日町常盤い84-1
※抜粋 /『ふるさと 朝日町散歩』朝日町広報委員会
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 国指定重要文化財「佐竹家住宅」は、最上川の舟運が盛んだった頃の大庄屋の住居です。現在の建物は、元文5年(1740)に建てられたもので、山形県内陸部における上層農家の現存する建物としては保存の状態がよく、歴史を知る貴重な民家です。
 また、水口地区には佐竹家が中心となって再建した十一面観音堂や、戦国時代の上杉家と最上家の戦いの場となった水口楯跡があります。



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 JAさがえ西村山西五百川支所の建物は、昭和3年に創立20周年記念事業として建てられた鉄筋コンクリート建築です。当時として鉄筋コンクリートの組合事務所は、全国的に珍しかったそうです。
 細部に見られる洋風な装飾や、丸いステンドグラス、そして通りにどっしりとそびえ立つプラタナスの並木がとても印象的です。
 取材させていただいた佐竹支所長から、同じ建物が九州の方にもあるらしいという話を聞きました。もし、今もまだ残っていたら是非見てみたいなと思いました。
 白壁、幾何学的デザインの木製のドア、三階の半丸窓、昔の計算機、たくさんの昔の帳簿、木製の本棚、地下室、玄関…。様々な歴史が刻まれています。
報告 : 宮森友香(エコルーム職員)
取材 : 平成14年(2002)
※内部見学はJA西五百川支所にお問い合わせ下さい。
 Tel0237-67-2131