朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 新宿地区の小高い場所に立つ愛宕神社からは、新宿地区や宮宿の町を眼下に眺められます。ベンチも設置され地区民の憩いの場となっています。
 今井治郎三郎家は、鳥屋ヶ森城主岸美作守の家老を先祖とし、新宿の肝煎名主・大庄屋を務めた家柄です。特に14代治郎三郎は、横浜を拠点に蚕糸貿易の大事業を行い横浜商業会議所副会頭も務めました。さらに奥羽鉄道の誘致や電気事業、通信事業の促進など郷土振興に大いに尽力し、15代は東五百川村長、16代は宮宿町長を務めるなど地方自治にも大変功績を残しました。残された石垣に、当時の隆盛ぶりをうかがい知ることができます。

今井治郎三郎家について
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※旧新宿警備所前付近です。
※現在は別の方がお住まいです。敷地内には入らないで下さい。
 「新宿」という名前ではありますが、鳥屋ヶ森城の城下町だった新宿地区は、中心地の宮宿よりも古い歴史を持ちます。
 新宿地区には、かつて今井治郎三郎家の生糸製造工場があり、特に養蚕(ようさん)が盛んな地区でした。屋根構えの大きな家が多く残っているのは、屋根裏を蚕室に使っていたからです。特に大きな建物は(現今井優一さん宅 / 見学不可)は、蚕の種屋を営んでいたそうです。
→熊谷與志雄さんのお話
蚕の種屋「旧高田家」の住宅について
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※山沿いの通りに特に古い家が多く残ります。
〜祖父の初仕事〜
 私の祖父は、中学を卒業して初めて働いたところが明鏡橋の架け替え工事だったと話します。一番記憶に残っているのは橋脚の土台となる土を玄播山から運んだことと言います。当然ですが工事用のダンプなどは無いため、すべて手作業で運んで大変だったということを昔の思い出話として話してくれました。

〜父の水遊び〜
 祖父が橋の工事に携わったとすれば、父はその下で遊んだ少年時代の思い出話をしてくれました。明鏡橋付近、最上川の左岸は栗木沢、右岸は大隅、それぞれの子供たちにとって絶好の遊び場でした。栗木沢が橋よりも少々上流、大隅が橋よりも少々下流に泳ぎ場があったといいます。泳ぎに疲れたり、体が冷え切ったときは、水の浅いところで温かくなった水に浸かり体をあぶったということです。最上川を泳いで横断できれば一人前と認められたり、対岸に向かって石を投げたり、栗木沢と大隅それぞれ川の両岸のお隣同士で同じような遊び(ときにはケンカも)をしていたようです。

〜私の少年時代〜
 私の年代になると、もう川で泳ぐものはいませんでしたが、ちょうど二見屋さんの現在の主である遠藤憲一氏の長男が私の弟と同級生で仲がよかったので、私も小学生の頃はよく河岸に遊びに行きました。
 雪解けによる増水が引いた春先ごろは、岸にいろいろなものが落ちていました。釣りに使う浮きや軟式ボール、ゴムボール、靴類からその他の生活雑貨、使えるものから役に立たないものなどあらゆるものがあって、それらを拾って帰るのがうれしかった思い出があります。
 また、梅雨が明けて夏になると、父に連れられて明鏡橋の真下で釣りをしました。以前は近くの沼で浮き釣りしかしたことがなかったので、初めて最上川に行った時はリール竿と吸い込み針を使ういわゆる「ブッコミ釣り」にとてもわくわくした覚えがあります。明鏡橋の下には今でも昔の橋の支柱を立てたと思われる直径50cm、深さ30cmほどの丸い穴が数箇所あり、そこに釣った魚や、稚魚程度の小さな魚を捕まえて放しては楽しんでいました。河岸にはその他にも、明鏡橋の少し上流・中州の手前辺りにちょうどお風呂くらいの四角の穴があったり(昔の岩採り場の跡らしい)して、子供心ながらも何の跡か疑問に思っていました。釣りをしない日でも、中州に行ったり、上流下流両方の河岸をどこまで歩いていけるか散策してみたりと、特に目的がなくとも何気なく遊びに行っていたものです。

お話 : 佐久間 淳さん
あさひまち宝さがし2002(平成14年)

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 最上川舟運の盛んだった頃、米や漆などとともに代表的な積荷だったのが「青苧」です。古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。名声を博した奈良晒、越後縮、近江蚊帳の原料は、おもに山形県や福島県で栽培されていた青苧で、その半数は朝日町の「五百川苧」や大江町の「七軒苧」だったそうです。今でもいたる所に自生しています。

和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
志藤富雄さん、
白田千代志さん、
堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
青苧の使われ方
報告
青苧糸とり体験記

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


エコミュージアムの小径 第3集。国の名勝「大沼浮島」は歴史が古く、伝説の多い昔から著名な観光地です。大沼を代表する皆さんからお話をうかがいました。 A5版
 編集・発行/朝日町エコミュージアム研究会 平成7年
北の村落

なあんだ また雨來るだべ
そうだべな

けふで十日もならうに重すぎる北國の空模様である
この樣に 雨空低くたれ
粟の穂先天を指す秋
それは すざまさしい海浪の迫る豫告ではあるまいか

父(とっ)つあ 行田(なめだ)さ行つて見ろ 穂先 天コふいてるから
俺あ 見たくもない
親も 子も
今年こそと勵ましあひながら
たぎる樣な水田の害草(くさ)をとり 稻株(かぶ)の繁出(もで)を數(かぞ)へたのに
仕方がない大根葉(ひば)を納屋にしまふんだ
それから飮水を汲んで呉れ
冷雨降る日を 木の根などくべて
膏薬をあぶり 疲れた關節(ふしぶし)にはる
おつ母(かあ) 白髪拔いてやるべ
構はないでくれ 針の溝 この暗さでは通らないから――
野良着繕ふ母も老ひたのか
賣薬袋さげた下にうづくまり 振り向きもせず 荒れた
 掌をうごかすのである
野良話は 雨の日を暗くのしかゝつて來る


蕗(ふき)

ながい旅から
ほこり立つ道をゆられ
歸へつて來た

もどかしく
どつと かけ込みたい氣持(こヽろ)を支へて
やきつけられた 日傘

戻らうか
詫びようか

いまさらに 顔のなく歸へつて來て
母を呼ぶこゝろ

うかがへば
しがみつく絆をゆすぶつて
女人が笑つてゐる


北の村落(2)

押し潰されそうな山峡の村落である
今日は下駄屋のよね坊が賣られて行ったそうな‐‐―あれ
 も一年足らずで大きなお腹をかゝえて來るだらうよ
前借に前借を重ねて娘を銘酒屋に沈める貧困な村である
今度は何處の娘が 泣寢のまぶたを覺ますだろうか

大雪が祟って稲穂がつんと立つたきり
收穫(とりいれ)のない秋
淋しい田圃の畔で 爺様たちがこぼしてゐる

―――俺達も長生きするでねがつたなア
―――全くだ 祿な飯も食(くら)へられねいで いつそ
―――まあまあ そう云ふたとて どうにもならないし
來春まで待つだね

齢ぼうけや 女子供寒々と殘り
ひたむきに 若者が出かせぐ都會の魅力

あこがれがあこがれを引いて
義理さへもなく さびれゆく
村落の光なき夕暮である

昭和七年東北地方を苛んだ冷水害は今や忘れられ
ようとしてゐる、忘れてはならない、村を愛す
る心は先祖を愛する心だ―――昭和十五年春――


雲ひくき日に
  -友人Y君の英霊かへる-

君は
僕の側から
隙間風の様に
征つた

とほく
海を越へ
長江のほとりで
任務についた

廻轉する
世界も知らずに
すきだつた論説欄も見ずに
固く銃を握ったまゝ

また 秋が來て
君もかへつて來た
無言のすがた いたましく
半旗に護られながら

いまは
なんにも云へない
御苦勞様
御苦勞様


血型

ながいこと カーキ色の從隊がつゞいた
多くの顎紐をかけた戰闘帽の中から
おまへは 兄さんと呼んでくれた
 章 元氣で行つて來い
握つたおまへの掌は
逞ましくふしくれ 何か どぎついものにおもはれる

前線へ行く兵隊 
百千の旗に歡呼するどよめき
その中で 握ぎりかへすおまへの掌
 章 今日を忘れるな
多くの顎紐をかけた戰闘帽の中に
もつとどぎつい その掌を握らせてくれるまで
私は其の日を待つている
おまへも忘れないでくれ

海山越へて征つても
つながつてゐるものがある
ながれるものがある


飢ゑてみろ

どいつもこいつも 坐りたい車席(クッション)を
總立になつてゆずりあふ手合(てあい)ども
にやにや笑ひながら坐りこんで終ふなら
いっそ立たずにそつぽを向けばいゝでないか

色褪せたそれが道徳か 博愛か-世にすねた盲人(めくら)の仁
 義と云ふものか

金のカマボコ指輪がなんであらう
狐の襟巻きがなんであらう
隣席(となり)のつゝましい勞働者をみるがいゝ
何故のステーブルファイバーか
何故のふしくれ双手(もろて)であるかを

でこぼこの道は 車がゆれるものだ
絶間ない振動が車を壊すのだ
疲れきつた運轉者らがすべての犠牲となる

日毎夜毎 足元から翔けてゆくものの羽叩きを聞け
そいつらの諦めきつた虚空への後姿を見送つてやれ
さってゆく眞白な翼は なぜ灰色の歳月を忘れたか
凍てついた寒月のあたりになぜ神々は新しい子供の産聲
 を聞かねばならぬのか
蒼白い爪を噛んでみろ
なんであらうと 飢ゑてみろ
飢ゑてそのあと血を吐いてみろ




背柱の腐れかゝつた生物のやうに
ありつたけの力をしぼるモートルを据えて
ひとら 油のなかに糧を求める職場である
あの頃の心を いげつなくずらせて
今日もまた十分の休憩を無上の生きがひに待つ心

長すぎる作業のあとの休憩ベルが鳴る
必死の廻轉に太息する機械の沈默がある
よごれきつた少年工のはしたない談笑が崩れて
おれは習ひかけた語學を落し書きする
まるであの頃母の白髪を見つけた つまらない感情に似
 てゐる

窓ごしにちらつく特務工手の視線にふれて
いつかしぼんだ可憐なグルッペの無駄話
今は追ひ詰められたぎりぎりの一日にゐる彼等である
夜があけて 乘りなれた割引電車 はつとする始業の                    
ベル 工長がやけに意張るのだ
――ニグロを使ふ奴等のやうに

味氣ない日課がおまへらのやうにある俺だ
いつそ叩きつけたい書類などもある
磨滅させて終ひたいバイト ドリール
それがおめおめ今日も犬齒をかんでこらへた
やつぱり俺は意氣地がないか 意固地だか

ベルが鳴る 始業 油に蝕まれる一日がある
グッとスイッチを入れた二十五馬力のモーター
あか錆びて シャフトが プーリーが ベルトが廻轉する

工場の 機械の 汚れた菜ッパ服の仲間ら
聞くがいゝ あの古びたモートルのせつない獨白を
なに故の 所詮は束縛(しば)られたものの地團駄であらうか

※海野秋芳詩集『北の村落』より抜粋
夭折の詩人 海野秋芳


此處には東北の冷害がある。北方の水の災が
ある。天をさす稲穂のなげきがある。そして
農民の低いが凄い言葉がある。人の決して忘
れてならないものがある。世を擧げて一つの
方向に全力を致せねばならぬ時、國に心の和
を最も貴しとして必ず之を守り通さねばなら
ぬ時、上ばかりを見て無思慮の強引を重ねる
のは危険である。低く生きて下を深く見る事
こそ銃後をまもる者の責任であり、しかも其
の透徹の甚だ難いことが嘆ぜられる。詩人は
機微を見る。寸言片語の間に底邊の全生活を
も把握する。この詩集の特殊の色調に人は目
をみはるであろう。人をして目をみはらしめ
る力を此の詩集が持ってゐる事を信ずる。
一冊の詩集も斯かる時深い洞察への道を人に
開くのである。

高村光太郎

※海野秋芳詩集『北の村落』より抜粋
※写真は原稿です。
夭折の詩人 海野秋芳
平成13年に開催された「朝日町りんごシンポジウム」の記録集。りんごの効用と酢、家庭料理、パネルディスカッション他。 A5版
編集・発行/朝日町エコミュージアム研究会
 エコミュージアムの小径 第5集。「大谷往来」は元禄時代以降に大谷地区の寺子屋で教材として活用されたもので、地区内の名勝・旧跡・特産物が紹介されています。A5版
 編集・発行/大谷往来シンポジウム実行委員会
※エコルームで販売しております。(郵送可)500円
エコミュージアムの小径 第11集 編集・発行/NPO法人朝日町エコミュージアム協会
※エコルームで販売しております。(郵送可)500円
 エコミュージアムの小径 第7集。大沼を由来とする山伏神楽が、宮城県丸森町で伝承されていることが分かり、600年ぶりの里帰り公演が叶えられました。大行院当主最上敬一郎氏のお話、宝物紹介、シンポジウム報告など。A5版 編集・発行/大沼浮島ものがたり実行委員会 平成12年(2000)
※エコルームで販売しております。500円(郵送可)
 日常では見られなくなってしまった町の花「ヒメサユリ」を、栽培を通じて普及・PRすることを目的として、平成9年に結成されました。椹平の棚田を見下ろす一本松公園には、種を植えてから開花まで6年の歳月を費やして育成した在来種のヒメサユリが数多く見られるようになりました。ポット入り苗の頒布も試みられています。
※写真は会長の長岡嘉一郎さん
エコミュージアムの小径 第4集。大竹国治が保存していたものを、菅井進氏が粗石器として同人誌『縄文』に発表しました。これは旧石器第一発見とされている群馬県の岩宿遺跡よりも早い発表だったのです。
A5版 編集・発行/旧石器シンポジウム実行委員会 
※エコルームで販売しております。(郵送可)500円
朝日町エコミュージアムの小径第8集。水とくらしをテーマに、八ッ沼地区内に残る幻となった源次兵衛堰、五本樋、椹平の棚田(能中)など旧跡やため池をめぐり、先人の知恵のある暮らしに触れました。A5版 編集/NPO法人朝日町エコミュージアム協会、山形県土地改良事業団、山形県
※エコルームで販売しております。500円