朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
金毘羅権現は舟乗りやその家族が安全を願い信仰していたものです。『朝日町の石佛』(朝日町長寿クラブ発行)によると、町内には象頭山・金毘羅権現の石碑が21基もあります。江戸時代末期のものが多く、大巻観音地蔵堂には寛永六年(1629)に立てられた町内で最も古い石碑があります。石碑の多さは最上川舟運が栄えたことを現しているのだそうです。
横山昭男さんのお話 →金毘羅・象頭山信仰と舟運 →アクセスマップはこちら ※集落内の神社は山ノ神社です。大巻観音地蔵堂はさらに奥にあります。 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
明治8年(1875)経費のすべてを地元で負担し、最上川本流で初めての橋「明鏡橋」が架けられました。その後、洪水等で流失が相次ぎますが、昭和12年(1936)ついにコンクリート製のアーチ橋が完成しました。これが「旧明鏡橋」です。六代目明鏡橋が完成するまで、69年間にわたり国道を行き交う人々の往来を支えてきました。平成18年、優れたデザインを理由に選奨土木遺産に指定。橋の写真家平野暉雄氏(京都在住)は「開腹型アーチ橋の中では日本一心和む橋」と絶賛されました。
※撮影/高橋茉莉さん(仙台市) →アクセスマップはこちら 平野暉雄さんのお話 →心なごむ明鏡橋を見つめて 菅井敏夫さん、志藤正雄さんのお話 →旧明鏡橋の思い出 菅井一夫さんのお話 →明鏡橋の傍らで 志藤正雄さんのお話 →夏の芋煮会“えるか汁” 志藤三代子さんのお話 →すいとん入りえるか汁 佐久間 淳さんのお話 →明鏡橋の思い出 菅井敏夫さんのお話 →明鏡橋物語全12話(PC) →書籍『明鏡橋物語』について |
明鏡橋近くの高台(上の山)にある桜公園は、地元栗木沢区で整備された憩いの場です。桜咲く頂上からは、五百川峡谷ビューポイントの一つの、新旧二つの明鏡橋が架かる美しい景色を眺めることができます。東屋も整備されていますから、お弁当を広げるおすすめポイントとなっています。
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昭和53年、用の当時小学6年生だった斉藤正弘君と渡辺政紀君が発見。ヤマガタダイカイギュウは800万年前の海にすんでいたほ乳類で、ステラーカイギュウ(18世紀に絶滅)の祖先にあたるものではないかと考えられています。 海牛類の進化を知る上で世界的に貴重なもので県指定文化財となっています。
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水面より170mの高さを誇る最上川最大の絶壁が明神断崖(通称:用のはげ)です。江戸時代の舟人も圧倒したと伝えられ、その姿は大朝日岳山頂からも確認できます。黄金の橋や竜神伝説が残り、周辺地域には、ヤマガタダイカイギュウ化石発掘地、上川原山ノ神縄文遺跡などもあり、遥かな歴史を想像できる場所となっています。断崖は最上川を境にした大江町にありますが、朝日町側からその全容を見ることができます。
※朝日町真中地区から眺められます。川岸からの見学地は分かりづらくなっています。エコミュージアムルームにお問い合わせ下さい。 →用のはげと周辺めぐり(2008) →辰年!竜神信仰の明神断崖を訪ねる(2013) →フォトギャラリー(PC) →アクセスマップはこちら →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
明治時代の大土木工事。寒河江市、中山町、山辺町の水田を潤す用水のための取水堤が設けられました。
四ノ沢頭首工とともに、山形盆地の農地には相当量の五百川峡谷のきれいな水が利用されています。 →アクセスマップはこちら ※国道287号線から用のはげ下に見ることができます。 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
松竹の人気映画『男はつらいよ〜葛飾立志篇〜』(第16作 昭和50年12月制作)の撮影に、舟で最上川を渡るシーンの撮影が「中沢の渡し」で行われました。
→『男はつらいよ』公式サイト(PC) →アクセスマップはこちら →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
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この松永氏の寄稿(山形新聞)が海野秋芳を改めて紐解くきっかけとなりました。
海野秋芳の思想伝える〜農民視点に人間の悲哀〜 詩人/松永伍一氏 書庫で資料探しをしていたら1冊の珍しい詩集が出てきた。海野秋芳の『北の村落』である。昭和16年に鵡鸚社(東京)から出ている。定価1円70銭。 記憶は確かではないが、三十数年前に私が『日本農民詩史』を執筆中に古本屋で見つけたものらしい。その中の一遍を取り上げて論評しただけで、出生地もプロフィルもわからぬまま歳月が過ぎたが、こんどこの詩集が偶然書庫から出てきたのは、海野秋芳の名とかれの詩業がこのままでは消えてしまうぞ、との天の警告に思えて私は義務感につき動かされた。そしてこのテーマで「直言」に一文を草し、末尾に「ご存じの方があればプロフィルを教えて欲しい」と書き添えた。 すると本紙編集部(山形新聞)から電話があって、山形県朝日町の出身で、昭和18年に二十七歳で他界しているとのことであった。「あの詩集1冊を残して夭折したのか」との思いが、私の胸を打った。 『北の村落』は東北農村の凶荒をうたい、土着者の目ではなく離農者の望郷の熱い視線で「村」をあぶり出している。しかもあの時代にあって厭戦のテーマが書かれていたのだ。 詩集が書かれたのは太平洋戦争勃発の年であり、前年は「皇紀二千六百年」を奉祝する行事がつづき「神国日本」を鼓吹するムードがちまたに満ち満ちていた。「美しの日本」をうたいあげるならいざ知らず、農村の貧困や戦がもたらす人間の悲哀を訴えるとなれば、身の危険すら感じなくてはならなかったろう。 後に戦争協力の詩を書くことになる高村光太郎が、この詩集に序文を寄せている。「此処には東北の冷害がある。北方の水の災いがある。天をさす稲穂のなげきがある。そして農民の低いが凄い言葉がある」という書き出しで「低く生きて下を深く見ることこそ銃後をまもる者の責任」とも述べている。「凄い言葉」の中身を読みちがえたのか、意図的にぼかしたのか、作者には「銃後をまもる」積極的な意識はなかったはずである。 つぎに引用する「雲低き日」には「親友Y君の英霊かへる」とサブタイトルがある。 君は 僕の側から 隙間風の様に 征った とほく 海を越へ 長江のほとりで 任務についた 回転する 世界も知らず 好きだつた論説欄も見ずに 固く銃を握ったまま また 秋が来て 君もかへつて来た 無言のすがた いたましく 半旗に護られながら いまは なににも云へない 御苦労様 御苦労様 ほかに厭戦をテーマにした「仏間」(夫を戦死させた姉の狂おしい様を描く)などがあるが、それらの視点が娘を売らねばならなかった農民たちの生存への視点と重なっていることに、私は感じ入った。海野秋芳については本紙の「本の郷土館」シリーズで松坂俊夫氏が触れておられる(平成7年7月8日付)が、この機会に一人でも多くの人々がこの詩人の思想に触れて下さればと、願ってやまない。 (平成 年)山形新聞特別寄稿 松永伍一氏(まつなが ごいち)プロフィール 詩人・エッセイスト。1930年福岡県に生まれる。八女高校を出て中学教師8年、1957年以降文筆生活。文学・民族・美術・宗教など広範囲にわたる評論で知られ、とくに子守唄・農民詩・キリシタン・古代ガラスの研究者として著名。あらゆる文学組織に参加せず。『日本農民詩史』全5巻の大作により毎日出版文化賞特別賞を受ける。テレビ・ラジオ出演も多く、ドキュメンタリー番組の制作にもかかわってきた。趣味の絵画で10回を超える個展を開く。著書には『日本の子守唄』『天正の虹』『散歩学のすすめ』『フィレンツェからの手紙』『老いの品格』『花明かりの路』『快老のスタイル』『金の人生 銀の人生』『感動の瞬間』『モンマルトルの枯葉』など140冊がある。2008年没。 |
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秋にスズメバチが来るのはひどいね。亀蜂(キイロスズメバチ)も来るけど、ひと回り大きい熊蜂(オオスズメバチ)も来る。数匹でかがって二時間くらいで皆殺される。
ガマガエルも来る。よく箱の下からくぐって出てきて、静かにじっとして蜂を食っている。けっこう食っているんだ。かわいそうで殺せないから、用の橋の向かいさ置いてきても、三日も経つとちゃんと戻ってきている。(遠藤理さん/栗木沢) 熊には最近、特にやられる。猟友会へ有害駆除をお願いしたりするんだ。採蜜期にやられるのはどうしようもない。巣箱を移動するにも近いと戻ってしまうから、蜜源を一ヵ所あきらめることになるんだ。最近はやられそうな場所は、あらかじめ牛用の電気牧柵を使うようになった。(安藤光男さん/宮宿) 取材/平成6年(1994) |
新宿(あらじく)地区の南東に位置する山地は、岸美作守(きしみまさかのかみ)義満が居城した鳥屋ヶ森城跡です。永禄8年(1565)娘の弥生姫と八ッ沼城主原甲斐守の子兼道との婚約成立をもって最上義光との五百川合戦につながり両城ともに落城しました。(天正9年、12年説もあり)慶長5年(1600)の出羽合戦では上杉勢に攻められ再び落城しました。曲輪、三重掘、たて掘、家臣の屋敷跡などが残っています。
→アクセスマップはこちら ※登り口は東永寺と郷倉の間の細道です。舗装はされていますが狭いです。 |
山頂の城跡からは朝日岳や月山・葉山、朝日町西〜中〜北部の町並みを一望することができます。城主の岸美作守も眺めていたであろう景色に、身近に歴史を感じさせてくれる場所です。山頂は遊歩道が整備され、鐘楼堂跡を訪ねることもできます。
→アクセスマップはこちら ※登り口は東永寺と郷倉の間の細道です。舗装はされていますが狭いです。 |
館山山頂へは新宿の東永寺裏手に続く山道を車で10分ほど。(舗装はされているが道は狭い)山頂の鳥屋ヶ森城跡には、通称“テレビ塔”と呼ばれる放送局の中継施設が設置され、朝日町の中部・西部地区(一部北部地区にも)電波を送っています。
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旧新宿警備所は、一階は消防ポンプ庫、二階の畳の敷かれた部屋は仮眠のできる火の見やぐらとして使われ、夜警の拠点となっていました。夜警は戦争中までは毎晩行われていたそうです。明治時代の建物と推定されており、屋根は木場葺きでした。独特な姿が新宿地区の自慢の建物となっています。
熊谷與志雄さんのお話 →旧新宿警備所について →紅葉の城下町“新宿”を訪ねる(PC) |
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→フットパスあさひ見学会報告(2009 PC)
→フットパスあさひ見学会2(2009 PC)
→アクセスマップはこちら
※カヌーランド駐車場にフットパス全体図の説明看板が設置されています。
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