朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 八ッ沼山地からの地下水が湧いています。文政年間(1818〜1829)に、豊向庵という寺の解体移転にともなって出た土台石を使って造られたといわれ、村人の生活用水として長年利用されてきました。簡易水道がひかれた昭和30年代に一度姿を消しましたが、昭和63年に区民の願いにより復元されました。

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 「八ッ沼七名勝」の一つ。現在は水田になっていますが、天保13年(1842)以降に若宮寺住職盛恬法印が村人の暮らしが豊かになるよう開田しました。小松家文書によると、布山にあった朝日嶽社の僧“山仙坊”という者が沼に入水し命果てたのでそう呼ぶようになったとあります。また、八ッ沼城落城の際、一子兼通と婚約者の弥生姫が落ちのび身を沈め、一族郎党も自害した場所とも伝わっています。

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※八ッ沼〜西船渡に至る道路から眺められます。
 現在水田になっているかつての果沼の沼縁には、明応年間(1492〜1500)に旧家佐竹三郎兵エ家が建立した薬師堂があります。傍らには南寿庵や屋敷がありました。婚礼を前にして五百川合戦に巻き込まれるという悲話「弥生姫伝説」の弥生姫と兼通は、薬師如来の祭礼の時、ここではじめて出会ったと伝わります。

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※細い農道につき走行ご注意下さい。
 五百川合戦の時、戦いになった壇の越で、武将の小関加衛門が戦死し、近くの森に葬られました。その後、夕方になるとこのあたりからうなり声が聞こえるようになりました。近くの沢水の音が、米を研ぐように聞こえるとも云われています。

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※分かりづらい場所です。エコミュージアムルームでご確認下さい。
 夜中に何者かが黒ずきん姿で村人を驚かせることが続きました。あとをつけると「自在坊」のかたわらに立つこの首のない地蔵様のところで姿を消したそうです。女の地蔵様だったそうです。
 この地蔵様は、どこにでも出張して子供の病気を治してくれていましたが、ある帰り道のこと、急ぎすぎて転んでしまい首をなくしてしまっていたのです。

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 石須部に至る橋を渡り下流に向かって少し下ると、河岸の林の中に不動尊の社が建っています。裏手には不動滝が流れ落ちています。朝日岳の山岳信仰が盛んだった頃、布山の修験者達がこの滝に打たれて身を浄めたところと伝わり、小さな滝ですが独特な雰囲気の漂う名滝です。
※『郷土学習辞典』より抜粋

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※分かりづらいときはエコミュージアムルームもしくは地元の方にお尋ね下さい。
 寺の過去帳によると、寛文元年(1661)に法明寺の僧、日延上人が江戸雑司ガ谷に蓮成寺を開いたとあり、300年後の明治28年(1895)に現在地の西船渡に移転しました。日蓮宗。
※『ふるさと朝日町散歩』より抜粋

※元は若宮寺があったが、慶長5年(1600)の出羽合戦の折に上杉家により焼き討ちされた。

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※本堂内見学は事前にお申し込み下さい。
 毎年9月の第3日曜日に、カヌー愛好家や地元有志らが集い川下りをしながらゴミを拾うイベントが開かれています。毎年、軽トラ2台分程のゴミを拾います。終了後の芋煮会も人気です。ぜひご参加下さい!
第2回2007年の様子(PC)
第3回2008年の様子(PC)
第5回(2010)の様子
→問合せはSD SPORTSサイトより(PC)
 尾花沢丹生の巣林寺10世和尚の開創しました。裏山にありましたが延宝年間(1673~1680)に現在地に移り、二度火災に遭った歴史があります。寺の宝に永正年間~寛文年間(1504〜1672)に長岡久郎左衛門家で使用した大はかりやほら貝があります。また本堂内の蔵に祭られている金毘羅様やおしら様は火災の焼失を免れた貴重なものです。天井絵「花」も有名です。曹洞宗。五百川三十三観音第7番札所
※参考文献/『郷土学習辞典』阿部美喜男編著 『続・山形のお寺』大風印刷発行
※本堂内の見学は直接お問合せ下さい。祥光院 Tel0237-67-2444
五百川三十三観音縁起
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大正15年(1926)に、宮宿郵便局長をしていた父の栄三郎が自費で建てた。新しい局舎ができた昭和33年まで使われていた。道路拡張で今の位置に少し動かしたんだ。
お話/鈴木澄さん(宮宿)

玄関は山高帽のような屋根がせり出していた。観音開きの扉、その両隣には明かり取りのアーチ型の洒落た小窓が付いていた。玄関の上の掲額には「局便郵宿宮」と書いてあった。当時、寒河江西村山地区では一番モダンな局舎として名高かった。玄関を入るとガラスで仕切られた高いカウンターがあり、右側には公衆電話室もあったな。
お話/落合登喜雄さん(宮宿)

郵便の他にモールス信号の電報業務もしていた。戦時中はたくさんの召集令状が届き、そのたびにその方に電報を届けに行った。辛い仕事だった。二階は電話交換室で、24時間、電話をかけた人の線と相手の線をつなぐ仕事を交代でやっていた。郵便、電報、電話と、宮宿町の全ての情報はここに集まっていた。文化発祥の役割を担っていた建物だったといえるね。
お話/清野寅男さん(宮宿)

(取材/平成12年6月 安藤竜二)
 九月はじめ一枚のCDが届いた。その一週間ほど前の山新に、朝日町が生んだ詩人海野秋芳の詩を、町の有志グループ「燭の会」が朗読しCDに収めたという記事が出ており、早速朝日町エコミュージアムを通して取り寄せたのだった。
 海野秋芳については、『やまがた現代詩の流れ-2006/やまがたの詩の存在-』で、鈴木直子氏による紹介文を通してはじめて知った。大正六年(1917)生まれの海野秋芳は十六歳で小学校高等科を卒業し上京、薬局の住み込み店員となる。詩に目覚めたのはこの頃だが、その後泉與史郎に師事し本格的に詩作に取り組み、精力的に作品を発表する。薬局を退職後金属工業所の職工として働くが、腎臓結核で太平洋戦争のさ中、昭和十八年(1943)二十六歳の若さで夭折した。
 今回CDとして世に出されたのは、詩人25歳の時に発刊された、唯一の詩集『北の村落』の朗読。町で五年前に開催された「海野秋芳シンポジューム」の参加者の中から数人が集まり「秋芳の詩を読む会」を結成、「燭の会」と名づけ、月一回の集まりで彼の作品を読み解く活動を重ねてきたとのこと。CDには高村光太郎から寄せられた序文と34編の作品すべてを載せたブックレットも添えられている。朗読は、11人の会員がそれぞれ3〜4編を担当しているが、最年少のメンバーは秋芳の大甥にあたる青年で、詩人が亡くなったときとほぼ同じというのも縁のように思われる。
 CDからはじめに流れてくるのは、どこか懐かしい想いにつつまれるメロディー。電子音楽による手作りの曲は朝日連峰の裾野を吹きすぎる風のようだ。集中何度か挿入され特注ののテーマ・ミュージックといったところ。
 高村光太郎の序文に続いて詩の朗読がはじまる。ふるさとの風景や情景、当時の貧困にあえぐ寒村の様子、その故郷への思慕、労働にたずさわる者の思索、そして戦争への複雑な感情-、様々なテーマの作品が、淡々と、読み続けられる。ドラマティックな展開やパフォーマンス的な表現はほとんどない。感情移入も極力抑えられているように思われる。演劇や朗読のプロ、あるいはセミ・プロ的な人が読めば、ずっと違った〈作品〉に仕上がったであろう。率直に言わせてもらえば、いわゆる‘上手な朗読’とはいえないものもある。また‘正しいアクセント’や‘イントネーション’などにこだわって、注文をつけようと思えばいくらでもつけることはできるかもしれない。が、そんなことはここでは瑣末なことだと思わずにいられない。読み手は、生半可な色などつけずに、それぞれの詩のことば一つひとつをていねいに、いとおしむように読んでいる。むしろそれ故に聴き手は自分なりの秋芳の世界をイメージすることができるといってもいい。
 小さな町で制作された素朴な一枚のCDから、海野秋芳はわたし(たち)の宝物」という、会の人々の熱い想いがまっすぐに伝わってきて、手放しで嬉しく、同時に詩人生誕100年にあたる2017年の、詩集『北の村落』復刻版の出版を心から応援したい気持ちでいる。
 最後に短い作品をふたつ紹介しよう。

 故園
あの頃のほころびを
木綿針でつついて
日向ぼっこの婆さんがいる

 土
この生活(くらし)になれても
苔むした無縁墓石に
何の希(ねがい)をかけようか

都会がへりの人見れば
ゆらぐこのこころ
聞かないでくれ

粧ひのまぶしさ
百千の金 何になろう

稲穂天を指す秋
一杯の粥すすりあふても
しぶとく生き抜いて
俺ら
みのりする秋を知っている


『E詩14号』( E詩の会 2009.10発行)より抜粋
 平成19年、佐藤五郎氏により五百川峡谷に30kmに渡り人工的に掘削した舟道があることが確認されました。これは元禄時代の米沢藩御用商人西村久左衛門が開削した遺構で国内最長の規模を誇ります。この大工事により、最上川舟運と北前船による西回り航路がつながり、米沢藩はもちろん流域に大きな産業をもたらしました。
※写真は渇水すると現れる明鏡橋下の舟道遺構

佐藤五郎さんのお話
五百川峡谷の舟道遺構

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア