朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
「不動院」は、俺だは「法印様」と言ってた。山伏だったんだ。その不動院というところが、ずうっと昔から薬師様の別当だったらしい。名字は大江というんだけど、子孫は山形で暮らしているらしい。
(お話 : 熊谷與志雄さん 熊谷小三郎さん 取材 : 平成6年) 薬師様は、昔は村のものでなかったなよ。ちょうど私の家の上手に「ほういんさまー」ってあって、その人のものだったらしいな。大江豊麿ったていう人だったけど、私が小さい頃は居たんだ。転出後も家はあって他の人が借りていたな。 (お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年) |
法印様(不動院)の家をほごす(解体)頃まで、奥の使っていない部屋に「十二天様」があった。手もげたり、足もげたりしていたんだ。ほごす時に上のお堂に持っていったなだと思うなよ。
(お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年) |
薬師如来修復実行委員会の副委員長をさせていただいた。お蔭で、京都の国立美術館まで修復の様子を見せてもらいに行ったんだ。国立美術館では、普通は国宝級のものしか扱ってもらえないところ山形大学の先生のお力添えで特別に修復してもらったなよ。
お薬師様は、足もぼろぼろで立ってられなかったなだ。このままでは、身体の方もだめになってしまうということで、修復してもらったなったな。修復の様子などは、普通見せてもらえないんだけど、これも特別に見せてもらたんだ。 国立美術館の修復する所では、仁王様がゆうに入るすばらしい大きい消毒室で、真空状態にしてガスを入れ燻蒸するんだ。そして薬剤で丁寧に丁寧に解体して、神経を使って気の遠くなる作業だっけ。 残念だったのは、身体の中になにも書いていなかったことだね。仕方ないから作り方とかから、いつ頃のものか推定してもらうしかなかったなね。私は思いがけず、いい思いさせてもらったなよ。 立派といえば、ここの参道も「造った人の技量がはかられる」と、よくほめられんなだ。この長い参道は、木の根でちょっと壊れたり、木を切った時壊した所を修理したくらいで直したことがないなよ。お参りすっときは、ここら辺も見てけろな。 (お話:熊谷武四さん 取材 : 平成6年) |
大沼の発見は今を去ること約1300年前の白鳳9年(680)の昔にさかのぼります。大和国(奈良県)の修験者役の証覚(小角)が、その弟子覚道をともない、朝日岳を目指し修行の途中、大沼に着きました、島々が浮遊する神秘的な影に感動した役の証覚が、湖畔に浮島稲荷神社をまつり、弟子覚道に託したとされます。祭神は「宇迦之御魂命」「天熊之大人神」。例祭は5月5日。五百川三十三観音第12番札所
※『大谷郷』より抜粋 → 浮嶋稲荷神社由緒 → 浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表 小林富蔵さんのお話 →神社のお祭り 白田隆さんのお話 →浮島稲荷神社のこと 最上俊一郎さんのお話 →浮島雅楽保存会のこと →五百川三十三観音縁起 →五百川三十三観音霊場一覧 →アクセスマップはこちら |
拝殿前の二基の石灯籠は、元和7年(1621)最上義光の孫にあたる13代山形城主最上義俊(家信)が進納したものです。幢身(竿)には、最上一族のお家騒動のなかで、最上家の武運長久を祈願し、この難局をきり開くために知見を求めている17歳の幼主の心境がきざまれています。一基は熊野権現に寄進されたもので、明治初期浮島稲荷神社に合祀された折に移されました。朝日町指定有形文化財。
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浮島は風の向きなどに一切関係なく、静かに、あるときは走るように動き、すれ違ったり、一列に並んだり自由自在に遊泳する。大正14年に国の史跡名勝地に指定された。「…大小種々の島形の団塊となり、水面に遊し浮島をなせり。島形五、六十に達す。この島は風なくして除々種々の方向に運動し…奇観極まりなし。…全国浮島中最も著名なるものなり。」(指定理由書より抜粋)
※『大谷郷』より抜粋 →アクセスマップはこちら |
大沼には多くの文人が訪れている。古くは長徳元年(995)に藤原実方が二首の歌を残し、橘南谿(1754〜1805)は『東遊記』に紹介し全国に知られることとなった。湖畔の芭蕉句碑は享保から天明年間(1716〜88)に地方俳人として活躍し中央にも名の聞こえた鸞窓(大沼大行院43代)が建立したもの。またすぐ近くには、訪ねた記念に建てた大正14年(1925)の花の本聴秋の石碑や昭和10年(1935)の福田古道人の句碑もある。
※『大谷郷』より抜粋 最上敬一郎さんのお話 →芭蕉塚 →アクセスマップはこちら |
文化3年(1806)の浮島絵図面には、「七夕の夜、牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬をかささぎが翼をならべて天の川を渡したという故事によって名づけられた。神秘的で霊験あらたかな浮島にふさわしいところからこの名がある。また、相愛の男女がこの橋を渡ると縁が結ばれると伝えられている」とあるそうです。昭和55年(1980)に閼伽沼と共に復元されました。
※鵲橋説明板より →アクセスマップはこちら |
別当大行院は役の証覚の弟子覚道の直系であり、現当主の最上氏は54代目を数えます。浮島稲荷神社は、源家、徳川家、大江家、最上家など時の権力者の尊崇厚く祈願所として加護を受けてきたことから、多くの貴重な文書が所蔵されています。
※『大谷郷』より抜粋 ※無断見学不可 最上敬一郎さんのお話 →緋網代の駕篭 →弁慶の笈 →ウワバミのミイラ →大沼絵図 → 浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表 →アクセスマップはこちら |
「雨願い地蔵」と呼ばれ、地区の皆さんに親しまれてきたお地蔵様は、白田隆さんの自宅でお祀りしています。雨を願う時は、このお地蔵様を大沼に浮かべて祈願したのだそうです。
※見学はできません。 白田隆さんのお話 →雨願い地蔵様 |
大暮山地区を一望できる小高い丘に八幡神社が建っています。本殿屋根葺き替えのおり、発見された棟札には「文政□□年、棟梁□□」と書かれており、少なくとも文政年間には建立されていたことが分かります。
ご神体は桧の一本造りで、素朴にして雄大な作品です。高さ40センチメートル。臥獣に乗った応神天皇の立像で江戸中期の作と推定されています。 4月15日の例祭は村を挙げて盛大に行われます。 ※『大谷郷』より抜粋 →アクセスマップはこちら |
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昔は、五月八日と決まっていたんだが、今は、五月の第二日曜日にするようになった。世の中、勤め人が多くなって忙しい時代だから、準備する人もお参りする人も日曜日でないと来られないということで、若い人から要望出たことなんだ。年寄りは「お祭りは動かすもんでない」ということで反対だったんだけど、お祭りは賑やかにすねどダメだということで、何年か議論して平成元年から五月の第二日曜日になった。今は、花火も寄付してもらって上げているし、区民あげての行事になっている。
区の各組ごとに当番制でしているんだ。五班まであるから五年に一回は当番が回ってくる。どういうふうなお祭りにするかは、それぞれの当番によって工夫があるな。カラオケしたり売店出したり。なるべく区あげてにぎやかにしたいと思っているんだ。
まず、準備だけれど、今年は五月三日にお堂の周囲の草刈りや掃除、堰上げをする。当日はのぼりを立て、お堂のまわりに幕を張り、門灯などをつけて飾り付けをする。幕は紫色で新宿の文字を染め抜いたものだし、門灯も新宿の文字をデザインしたものなんだ。
当番はお参りに来た人に御馳走するために、煮しめ料理を重箱につめて持ち寄るんだ。赤飯は、全戸からもち米二合ずつ提供してもらって御馳走している。お酒もふるまって賑やかなお祭りだな。当番の組の婦人会では、だんごやこんにゃく、焼そばなんかの売店を出すんだ。ただ、焼そばは肉を焼くので、山門の下のところでしたな。昔は不動院が山伏だったから、お祭りのときは、ほら貝を吹いたりした覚えがあるな。
お参りに来る人は、区民は老若男女ほとんど参加する。そのほかは隣の大町区の人が多いな。昔から新宿区と関係があったからな。それから、山形や東京からも来る。近郷近在からお祭りに来てもらって300人ぐらいになるかな。普段でも、特に新聞に薬師様のことが載ってから遠くからもお参りくるようになった。薬師様は健康を願う仏様だから病平癒をお祈りしていく人が多いな。助からねという人が助かったりしている御利益のある、ありがたい仏様なんだな。
(お話 : 熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さん 取材 : 平成6年)
ここら辺の地名を薬師堂って言うなよ。お祭りの時は、薬師堂の人と薬師講の人が別当すんなだっけ。お参りはみんな来たな。
(お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年)