朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 和銅年間(708〜14年)信越地方より、山形県内陸部に多くの移住があり先進的な農業技術と共に大沼浮島周辺に見られる神仏混合の山林宗教が入ってきました。同時代、朝日山箕輪に極楽寺を建て柴灯を焚いて神仏に祈願しています。14年後に鳥原山(十谷ケ原)に二之宿を設け、持統10年(756年)には朝日権現堂を再興しています。その外に八幡社・大黒堂、白滝には弁財天を建立しています。造営と維持には多大の労力と経費が用いられ、それを支える行者や修験者等の人数は極めて多かったことを示しています。

お話 : 西澤信雄さん (朝日鉱泉ナチュラリストの家代表)
※写真/佐竹伸一氏
 生態系の豊富さは、山菜や茸採りで生計をたてた時代も最近までありました。落合の手前にはぜんまい採りの山小屋があり、夫婦で山に入り夫の採ったぜんまいを妻が茹で干して揉んで乾燥させている光景がありました。
 朝日連峰は別名東北アルプスとも呼ばれ、本格的な登山客には喜ばれる山行を提供できる貴重な山でもありました。この山をホームグラウンドにして厳しい登山練習を重ね、昭和44年に朝日分校山岳部男子チームが、尾瀬を会場にした第13回高校総体に参加して優秀な成績を残しています。
 朝日連峰は美しい山と言われるのは、自然の美しさのみでなく朝日山岳会等による清掃登山、登山道や水場の確保に努力していることも大きく貢献しています。
お話 : 西澤信雄さん (朝日鉱泉ナチュラリストの家代表)
※写真/佐竹伸一氏
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お話 : 北畠教爾氏(朝日町史編纂委員)

〔なぜ朝日軍道が必要だったのか〕
 天正年間、庄内地方が上杉家の領地になりました。その後、上杉家は慶長3年(1598)に豊臣秀吉によって、所替えを命ぜられ、越後の国から会津へ移されます。越後・北信濃を削られまして、庄内と佐渡と長井・会津・仙道の方が領地になりました。120万石ということで、石高はぐんと増えて五大老の一人になるんですが、今まで、越後と繋がっていた庄内が切り離されます。それで庄内と置賜の経営にあたっていた直江兼続にとって、両地方を結ぶ連絡路がぜひ必要だということになるわけです。それが朝日軍道ということになります。(地図参照)
 兼続は庄内を治めるために、出羽三山の力を利用しようとして、湯殿山に沢山いろんな物を納めたり、寄進したりしています。さらに、佐野清順という腹心の坊さんを羽黒山に派遣しますが、文禄4年(1595)には寂光寺法頭清順という羽黒の別当に就任し、羽黒全部を押さえたことになります。その後、清順は、関ヶ原合戦の後出羽三山から追われ、朝日軍道を通って米沢へ逃げます。米沢では笹野観音の別当になり、後には定勝の侍者として儒教の先生になっています。

〔置賜の史料に見られる朝日軍道〕
 慶長4年(1599)上杉家の家臣である春日右衛門が、朝日軍道の番人頭だと思われる源右衛門にあてた黒印状によると、朝日軍道のことを「庄内すく路」と書いてあります。「直路」と書いて「すぐろ」と言ったのでしょう。また、その小屋番をさせるにあたり、檜材で曲げ物をつくったり、材木を切り出したり、狩猟をするのに係る税金を免除するということと、田地を持たず、百姓でない者がいたなら、だれでも山の小屋に連れて行って番をさせろということを命じております。
 朝日軍道の入り口である長井市草岡の青木家所蔵文書によると、同じく慶長4年に、春日右衛門が、軍道の案内役をしてくれた草岡村の修験者や村人5人に対して、苦労をかけたので役義(租税や課役)を免除した記録があり、その後約200年経った寛政8年(1796)になっても、子孫に対して先祖が貰った褒美をそのまま認めている安堵状の記録もあります。

〔朝日町の史料に見られる朝日軍道〕
 慶長4年(1599)上杉家の家臣である春日右衛門が、朝日軍道の番人頭だと思われる源右衛門にあてた黒印状によると、朝日軍道のことを「庄内すく路」と書いてあります。「直路」と書いて「すぐろ」と言ったのでしょう。また、その小屋番をさせるにあたり、檜材で曲げ物をつくったり、材木を切り出したり、狩猟をするのに係る税金を免除するということと、田地を持たず、百姓でない者がいたなら、だれでも山の小屋に連れて行って番をさせろということを命じております。
 朝日軍道の入り口である長井市草岡の青木家所蔵文書によると、同じく慶長4年に、春日右衛門が、軍道の案内役をしてくれた草岡村の修験者や村人5人に対して、苦労をかけたので役義(租税や課役)を免除した記録があり、その後約200年経った寛政8年(1796)になっても、子孫に対して先祖が貰った褒美をそのまま認めている安堵状の記録もあります。

お話 : 北畠教爾氏(朝日町史編纂委員)
朝日町エコミュージアム20周年記念事業(09'11.08) 
パネルディスカッション「直江兼続が開いた朝日軍道」より

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 「不動院」は、俺だは「法印様」と言ってた。山伏だったんだ。その不動院というところが、ずうっと昔から薬師様の別当だったらしい。名字は大江というんだけど、子孫は山形で暮らしているらしい。
 成原家に移管される前に、何年間かは「薬師講」で管理し、お祀りしていた時期があるんだな。でも、いわゆる信者の集まりなので、なかなか管理することがままならない。それで成原家で引き受けることになったんだ。今は、薬師講はなくなったようだな。成原家でも一生懸命してくれたんだけれども、現在は新宿区全体でお祀りするようになった。
 ただ、まったく新宿区と関係がなかったというんでなく、昔から一戸二十把ずつの萱を供出して薬師堂の屋根の改修や補習を行ってきたし、明治とか大正の板札を見ると、屋根改修とかで寄付してきたことがわかる。お金を出せなかった人は「人足」といった労力奉仕で出した人もいるんだな。
 まあ、区の管理になってから、昭和三十年代なかばには、萱が集められなくなってきて、今のトタン屋根に直したんだな。今頃になって、役場の人からは「もったいないことした。お堂も県指定文化財になったのに」と言われるけど、仕方ないんだな。だから、昔から半分は区のものとして大切にしてきた薬師様なんだ。
 掃除は、各組一年間の当番で、折を見てしている。冬になると、当番で正月と八日の道踏み、そして雪下ろしをしている。
 昔は、自治会って言って今でいう子供会が日曜日や夏休みに掃除をしてた。大人のまねで自主的に行ったもんだ。ただ、掃除中にけんかしたり、お堂の鐘をへこまして、さんざんな格好にしたり、悪いこともしたけどな。お堂の脇の小山でお紫灯もしたな。ほだなことが小さい頃の一番の思い出だな。

(お話 : 熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さん 取材 : 平成6年)


 「法印様〜ほういんさま〜」という家があって、そこの最後の当主が大江豊磨さんという人だった。その人の親戚という人が米沢にいて、お盆あたりにお参りに来ている。大江さんがいつ頃転出したかは、はっきりしないんだけども、大正末あたりではないかっていう話だ。山伏みたいな修験者で祈祷とかしていたらしい。
 豊磨さんたちが転出した後も、昔からあった薬師講で、お祀りやなにかをした。薬師講の箱があって、その中に薬師講のことを書いた綴りが残っているんだ。書いてあることは全部目を通したことはないけれども、薬師講には十二軒の名前があった。今は、新宿に六軒ぐらい残っている。昭和十二〜三年頃ぐらいが最後らしく、その後は戦争やらなにやらで、詳しいことは記されていない。その他には、幟(のぼり)とほら貝、数珠、杖、『妙法連華経』という八巻が入っている。
 薬師講の人たちで引き継いで、十二月八日には、今でいう「契約」みたいな飲み会もやって一年の会計をしめていたようだ。家では一番近くだから、何やっても「先立ち」みたいな形で、してたようだね。私がおばあちゃんから引き継いでいることは、お祭りの時に、真鍮でできた三つの器に“ふかし”をもって、お薬師様に、もう一つは湯殿山のところに上げることかな。
 お祭りの他には、昼休みの時間を利用して「お千度参り」を、四月に三日間している。参道のまん中に水を入れた桶を置いて、椿の葉で額を清めてお参りするんだ。重箱に豆を五百粒数えて持って行く。区の人がみんな来るけど、たいてい女子衆がくるな。その中で年長の人が、お堂の中で豆の数を数えてお参りするんだ。
 お薬師様は、健康を守る神様ということもあるし、薬師講があったから、こうして残ったと思うんだ。これからも、みんなで守っていがんないと思っているんだ。
(お話 : 成原 浩さん 取材 : 平成6年)

 薬師講の家々で当番して、お薬師様の「おどすこす(お年越し)」って12月だが11月の八日にかんなねがったな。本家のばあちゃんが、まだ嫁っこの時、手伝い行った覚えあんなよ。八日に「御八日-おようが-」だから、お参り行ってきたっていう人が今でもいるな。お祭りは旧の4月8日だっけな、それが新歴の5月8日になって、今度は日曜日になった。
(お話 : 小関 絹さん 平成6年取材)
薬師堂 瑠璃殿
 五月に行われるお祭りは、「お薬師様のまつり」とか「薬師まつり」とか言ってるな。
 昔は、五月八日と決まっていたんだが、今は、五月の第二日曜日にするようになった。世の中、勤め人が多くなって忙しい時代だから、準備する人もお参りする人も日曜日でないと来られないということで、若い人から要望出たことなんだ。年寄りは「お祭りは動かすもんでない」ということで反対だったんだけど、お祭りは賑やかにすねどダメだということで、何年か議論して平成元年から五月の第二日曜日になった。今は、花火も寄付してもらって上げているし、区民あげての行事になっている。
 区の各組ごとに当番制でしているんだ。五班まであるから五年に一回は当番が回ってくる。どういうふうなお祭りにするかは、それぞれの当番によって工夫があるな。カラオケしたり売店出したり。なるべく区あげてにぎやかにしたいと思っているんだ。
 まず、準備だけれど、今年は五月三日にお堂の周囲の草刈りや掃除、堰上げをする。当日はのぼりを立て、お堂のまわりに幕を張り、門灯などをつけて飾り付けをする。幕は紫色で新宿の文字を染め抜いたものだし、門灯も新宿の文字をデザインしたものなんだ。
 当番はお参りに来た人に御馳走するために、煮しめ料理を重箱につめて持ち寄るんだ。赤飯は、全戸からもち米二合ずつ提供してもらって御馳走している。お酒もふるまって賑やかなお祭りだな。当番の組の婦人会では、だんごやこんにゃく、焼そばなんかの売店を出すんだ。ただ、焼そばは肉を焼くので、山門の下のところでしたな。昔は不動院が山伏だったから、お祭りのときは、ほら貝を吹いたりした覚えがあるな。
 お参りに来る人は、区民は老若男女ほとんど参加する。そのほかは隣の大町区の人が多いな。昔から新宿区と関係があったからな。それから、山形や東京からも来る。近郷近在からお祭りに来てもらって300人ぐらいになるかな。普段でも、特に新聞に薬師様のことが載ってから遠くからもお参りくるようになった。薬師様は健康を願う仏様だから病平癒をお祈りしていく人が多いな。助からねという人が助かったりしている御利益のある、ありがたい仏様なんだな。
(お話 : 熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さん 取材 : 平成6年)

 ここら辺の地名を薬師堂って言うなよ。お祭りの時は、薬師堂の人と薬師講の人が別当すんなだっけ。お参りはみんな来たな。
(お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年)


 「不動院」は、俺だは「法印様」と言ってた。山伏だったんだ。その不動院というところが、ずうっと昔から薬師様の別当だったらしい。名字は大江というんだけど、子孫は山形で暮らしているらしい。
(お話 : 熊谷與志雄さん 熊谷小三郎さん 取材 : 平成6年)

 薬師様は、昔は村のものでなかったなよ。ちょうど私の家の上手に「ほういんさまー」ってあって、その人のものだったらしいな。大江豊麿ったていう人だったけど、私が小さい頃は居たんだ。転出後も家はあって他の人が借りていたな。
(お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年) 
 この木造薬師如来立像は、像高が100センチメートル。材質構造は、桂材・一木割矧ぎ造りで、彫眼・漆箔仕上げである。頭・体の根幹部は、通して両耳の後ろを通る線で前後に割矧ぎ、三道下で頭部を割離す。これに左右の体側部各一材を両肩部で矧ぎつけ、袖を含め体幹部と共木で彫出す。両手首から先、両足先は、後補檜材で矧ぎつけている。襟際以下の背面材や、両耳朶も後世に補修したもので、漆箔も後補である。
 形状は、頭部が螺髪切子型で彫出し、肉髻は珠、白ごうは相を表わさない。納衣は両肩を覆い、左腕は垂下し、掌(たなごころ)を上にして薬つぼを持ち、右腕は屈臀(くっぴ)、掌を前にして立て五指を開き、やや左足先を外に開いて直立した形をとる。肩幅が広く堂々とした正面観をあらわし、衣文も流れるように美しいこの像は、願容がきわめて都ぶりのすぐれた藤原様式の典型的な表情である。
 製作年代は十二世紀の比較的早い時期(藤原時代後期)と推定され、作者は地方の優れた仏師で、平安時代中期の京都の有名な仏師・定朝(〜1057)以後の影響をその表情に受けついでいる。
 薬師如来を祀っている東善(漸)院瑠璃堂は、羽黒山修験の末寺で、豊龍神社を祀る、もと東守寺の配下寺であることが、この御堂に保存されている棟札にて知ることができる。棟札には、宝永五年(1708)四月、造立主は不動院・東善院とあり、供養導師は東守寺永学と記されている。
 史実としては疑わしいが、この薬師如来は天智天皇の時代(662〜71)異国の仏師父子が都の誓願寺の本尊阿弥陀如来を造立した際、その余材を持って医王仏(薬師如来)の尊像を作って、東善院に納めたと『宗古録』に書かれている。
 しかし何よりも雄弁に朝日町の藤原文化を物語ってくれるのは、藤原時代に地方仏師の手による薬師如来立像が存在することである。

昭和五十年 朝日町指定有形文化財 
平成三年  京都・財団法人美術院にて修理
平成五年  山形県指定有形文化財

ここに述べた事項は、群馬県立女子大学の麻木脩平氏の調書と財団法人美術院の解説書、並びに『朝日町の歴史』より紹介してみた。
 法印様(不動院)の家をほごす(解体)頃まで、奥の使っていない部屋に「十二天様」があった。手もげたり、足もげたりしていたんだ。ほごす時に上のお堂に持っていったなだと思うなよ。
(お話 : 小関 絹さん 取材 : 平成6年)
 薬師如来修復実行委員会の副委員長をさせていただいた。お蔭で、京都の国立美術館まで修復の様子を見せてもらいに行ったんだ。国立美術館では、普通は国宝級のものしか扱ってもらえないところ山形大学の先生のお力添えで特別に修復してもらったなよ。
 お薬師様は、足もぼろぼろで立ってられなかったなだ。このままでは、身体の方もだめになってしまうということで、修復してもらったなったな。修復の様子などは、普通見せてもらえないんだけど、これも特別に見せてもらたんだ。
 国立美術館の修復する所では、仁王様がゆうに入るすばらしい大きい消毒室で、真空状態にしてガスを入れ燻蒸するんだ。そして薬剤で丁寧に丁寧に解体して、神経を使って気の遠くなる作業だっけ。
 残念だったのは、身体の中になにも書いていなかったことだね。仕方ないから作り方とかから、いつ頃のものか推定してもらうしかなかったなね。私は思いがけず、いい思いさせてもらったなよ。
 立派といえば、ここの参道も「造った人の技量がはかられる」と、よくほめられんなだ。この長い参道は、木の根でちょっと壊れたり、木を切った時壊した所を修理したくらいで直したことがないなよ。お参りすっときは、ここら辺も見てけろな。
(お話:熊谷武四さん 取材 : 平成6年)
 大沼の発見は今を去ること約1300年前の白鳳9年(680)の昔にさかのぼります。大和国(奈良県)の修験者役の証覚(小角)が、その弟子覚道をともない、朝日岳を目指し修行の途中、大沼に着きました、島々が浮遊する神秘的な影に感動した役の証覚が、湖畔に浮島稲荷神社をまつり、弟子覚道に託したとされます。祭神は「宇迦之御魂命」「天熊之大人神」。例祭は5月5日。五百川三十三観音第12番札所
※『大谷郷』より抜粋

浮嶋稲荷神社由緒

浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表

小林富蔵さんのお話
神社のお祭り
白田隆さんのお話
浮島稲荷神社のこと
最上俊一郎さんのお話
浮島雅楽保存会のこと

五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 拝殿前の二基の石灯籠は、元和7年(1621)最上義光の孫にあたる13代山形城主最上義俊(家信)が進納したものです。幢身(竿)には、最上一族のお家騒動のなかで、最上家の武運長久を祈願し、この難局をきり開くために知見を求めている17歳の幼主の心境がきざまれています。一基は熊野権現に寄進されたもので、明治初期浮島稲荷神社に合祀された折に移されました。朝日町指定有形文化財。

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 大沼は、標高310mの山あいの地にあり、南北約70mの小さな湖沼で、狐の形をしているといわれています。湖畔にある浮島稲荷神社の神池とされ、湖岸の老い松と四面の深緑が調和する神秘的な沼として千年余の間保存鑑賞されてきました。しかし、戦後周辺の自然環境が大きく変化したため六十余りあった浮島が十数個に減少しました。昭和62年(1987)大沼地区民が主体となって「浮島を守る会」が組織されました。
※『大谷郷』より抜粋

小林富蔵さんのお話
沼の不思議
神聖な場所「大沼」
子供の頃の大沼
島出し
白田 隆さんのお話
『浮島物語』
大沼の水
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 浮島は風の向きなどに一切関係なく、静かに、あるときは走るように動き、すれ違ったり、一列に並んだり自由自在に遊泳する。大正14年に国の史跡名勝地に指定された。「…大小種々の島形の団塊となり、水面に遊し浮島をなせり。島形五、六十に達す。この島は風なくして除々種々の方向に運動し…奇観極まりなし。…全国浮島中最も著名なるものなり。」(指定理由書より抜粋)
※『大谷郷』より抜粋

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 大沼には多くの文人が訪れている。古くは長徳元年(995)に藤原実方が二首の歌を残し、橘南谿(1754〜1805)は『東遊記』に紹介し全国に知られることとなった。湖畔の芭蕉句碑は享保から天明年間(1716〜88)に地方俳人として活躍し中央にも名の聞こえた鸞窓(大沼大行院43代)が建立したもの。またすぐ近くには、訪ねた記念に建てた大正14年(1925)の花の本聴秋の石碑や昭和10年(1935)の福田古道人の句碑もある。
※『大谷郷』より抜粋

最上敬一郎さんのお話
芭蕉塚
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