朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
朝日連峰の猿渡、ヌルマタ沢一帯は県の自然環境保全地域となっている。この一帯はブナやミズナラを主体とする優れた天然林で、原生林地帯としては朝日山地の中でも朝日俣流域とともに最も貴重な原始的自然林地帯です。とくに御影森山、焼野平に向かう緩斜面は樹高25メートルに及ぶブナ極相林が発達し、朝日山系随一の美林となっています。
※『郷土学習辞典』より抜粋 →アクセスマップ ※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。 朝日山岳会(PC) 観光協会 観光協会(PC) 朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC) |
心なごむ明鏡橋を見つめて
橋の写真家 平野暉雄氏 (株式会社景観技術センター代表取締役) 〈文化が消えてしまうものづくり〉 私は土木設計会社で10年間設計を学んだ。はじめは手計算だったが、次第にコンピュータの時代になり、「早く・安く・丈夫なもの」を主目的に設計する時代になった。しかし、それだけで作ってはその町の文化が消えてしまうのではないかと思った。34歳の時(1977)に独立し“写真の中に完成する橋のイメージを作る”景観設計の会社を興した。見え方を重視することが美しさになるのではと考えた。 橋の写真を撮り始めたのは、講義する母校の立命館大学の学生達にきれいな写真で橋を見せたかったから。すると、古い橋が素晴らしいと思った。現代の橋は、大きい橋、新しい橋、化粧した橋など、絵にならない違ったイメージを感じ、味気ない橋が多い。 〈日本一心なごむデザインの明鏡橋〉 便利よりも、心なごむ観点から物作りしないと世の中全体が味気ないものになってしまう。土地の人が心なごむ橋がいい。 『日本の近代土木遺産』という文献があるが、この中に橋が1000橋位、写真掲載のほとんどない一覧表で紹介されている。私は大体8〜9割は見てきた。明鏡橋みたいな素晴らしい橋に出会えるのは10橋に一つあったら良いほう。明鏡橋は何度でも来て写真を撮りたくなる橋の一つ。リピートしたくなる橋こそ心なごむ橋といえる。明鏡橋は開腹型アーチ橋では日本一の心なごむ橋だと思っている。 〈明鏡橋の素晴らしさの理由〉 山形県内では、明鏡橋、大江町の最上橋、寒河江市の臥竜橋の三つが一番素晴らしい。2002年4月に朝日のあたる明鏡橋を撮らせていただいた。明鏡橋がなぜ素晴らしいかというと、アーチの曲線(円弧の両下端を結んだ線と円弧の頂部との高さ)が非常に大きく、並列に3本のアーチ(3主構)のきれいな円弧になっている。また、桁と支柱の接合部も円弧で繋がれている。高欄も円弧でデザインが統一されている。最上橋のようにアーチが3径間連続になると高さが低くなる。明鏡橋のほうがアーチの曲線がゆったりしている。 ぺらぺらの定規をアーチに曲げると、両端に力がかかり非常に硬くなる。明鏡橋も臥竜橋も、両岸とも岩でできているからアーチができる。岩場のある所が川の流れは早くなるので、芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」の句は、庄内ではないと思う。アーチにすると大きく架けることができるから、流れの早いところに橋脚を立てる難工事をしなくていい。非常に力学や自然にあった作りになっている。一つの円弧でこれ以上きれいなコンクリートアーチ橋は日本にはほとんどない。 〈思い入れのあるものを守り継ぐ町づくりを〉 昨日、佐竹さんの家(佐竹家住宅)の外観を見せてもらった。他にもあると思うが、この地方の特徴を現した家である。あのような作りの家は他のも残してあげるとこの町の誇りになるのではないか。 現在は安くて丈夫な材料がいっぱい出回っているが、修理される時は、町の景観保全のため(できるだけ元の材料と同じもので」)修理費を出してあげて残して欲しい。 日本の文化を次の世代に残すのは大変な苦労がいること。私は京都生まれだが約1200年間の歴史があって守り継がれてきた。守るのは新しいのを作るより大変な努力がいる。特に今の時代はどちらかというと新しいほうが好まれているが、そうではない。そこに思い入れがあることによって日本の文化が守られるのではないか。特に、土地の「言葉」「食べ物」「見るもの」を大切にできたら心なごむ町が出来上がっていくと思う。 お話 : 平野輝雄(ひらの・てるお)氏 プロフィール 1943年京都市に生まれる。1968年立命館大学理工学部卒業。会社勤務を経て,1977年〜株式会社景観技術センター代表取締役社長、1992年〜2006年立命館大学非常勤講師、1988年明石工業高等専門学校非常勤講師、日本写真協会会員、土木学会フェロー会員、キャノンクラブ会員。著書に写真集『日本の名景 橋』『橋を見に行こう〜伝えたい日本の橋〜』がある。 ※写真は『橋を見に行こう〜伝えたい日本の橋〜』より抜粋しました。 景観技術センター公式サイト(PC) →伝えたい日本の橋 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
朝日川十景の一つ。源流を鳥原山とする白滝は、その水量や高さから朝日川随一の名滝といわれています。山岳信仰が盛んだった持統10年(756年)には弁財天を建立してた歴史があります。
※白滝橋たもとの太いブナの樹の所から滝の正面へ登る山道があります。 →アクセスマップはこちら |
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お話/長岡清一郎氏(大暮山) (大黒舞との出会い) 大黒舞との出会いは23歳の時。日東ベストの大谷工場に勤務するようになって2年目。旅行の宴会で演し物をすることになり、たまたま同僚の武田光昭さん(寒河江市)が清助新田に伝わる大黒舞を舞える事が分かり、彼を師匠に習ったのが始まり。初めての舞は大好評だった。あれから27年にもなる。 (舞いの思い出) その後、話を聞きつけた同級生の結婚式や、町内の方の年祝いなど、いろんなお祝い事に呼ばれるようになった。最初は面白半分にやっていたが、結婚祝いなどで頼まれた時に、「これはその人の「人生の門出」という大事な一コマだ」ということに気付き、そこから心を入れ替え、心を込めて舞うようになった。 思い出深い舞はいくつもある。山形市のホテルキャッスルで開催された国際交流のイベントではインドネシアの方が民俗舞踏を披露した時に、お返しに私が日本の舞いということでやらせていただいた。終わったあとに笑顔で写真撮影をお願いされた。舞踏に国境はないと感じた瞬間だった。町の移動芸文祭では、民謡会の生歌、生演奏で舞った事もある。一昨年は、空気神社で開催された環境イベントでも舞った。途中でCDプレイヤーの電池がなくなって音楽なしでやったが、温暖化防止を祈願し意義のある舞いとなった。 なにしろ祝い事なので、なにがあっても絶対に止まらないと決めている。大きな舞台になったのは、日東ベストの60周年記念の総合文化祭。オープニングで250人を前に舞った。最も緊張したのは、私の師匠の武田さんの師匠の方と結婚式で偶然一緒になり交代で舞った時だった。合計すると、これまででおそらく100回以上は舞ったと思う。 (演出) いつのまにか舞いだけではなく演出にもこだわるようになっていた。いい発表の場になったのが、私も実行委員をしていた旧大暮山分校の白い紙ひこうき大会だった。ドライアイスや煙幕を焚き、登場の曲を流し、被り物もした。たくさんの紙の蝶も飛ばした。10年の間に実に様々なことをやり、演出が進化していった。初めて参加した方は驚かれたと思うが、知っている方は、今か今かと待っていてくれたようだった。10回の大会で10種類の演出を試みたことになる。一昨年の最終大会では300人以上の皆さんを前に舞わせていただいた。 (衣装と小道具) おのずと衣装や小道具をそろえるようになった。衣装は、東京に住む叔母から京呉服等のきらびやかな端切れを送ってもらい、母に縫ってもらった。今の衣装は3着目になる。打ち出の小槌も、はじめは空き缶に色紙を貼り木の柄をつけた自前のものだった。背景にもこだわることがある。桜の木を作ったり、草を描いて立たせたり、四方に立てた笹竹にしめ縄を張ってみたり。昨年の大暮山分校感謝祭では、会社の廃材をいただいて、溶接して「光背」を作り背負った。 衣装に着がえる時や、化粧をしている時に、鏡の自分を見ていると、不思議なことに気持ちがだんだん大黒様になってくる。身支度が整うとすっかり大黒様になる。気持ちを切りかえる大切な時間となっている。 長岡清一郎(ながおか・せいちろう)氏 昭和34年1月生まれ。52年日東ベスト株式会社に入社。 57年より大黒舞を始める。大暮山在住。 取材 : 平成22年1月 安藤竜二 撮影 : 上、大井寛治さん 下、荒木淳一さん ※上記ダウロードボタンより印刷用pdfファイルが開けます →大暮山の大黒舞(2) |
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お話/長岡清一郎氏(大暮山) (変身) 衣装に着がえる時や、化粧をしている時に、鏡の自分を見ていると、不思議なことに気持ちがだんだん大黒様になってくる。身支度が整うとすっかり大黒様になる。気持ちを切りかえる大切な時間となっている。 (前口上) 舞いの前に述べる前口上には、福を授ける十種類の祈願の言葉がある。 「あ〜っと来たりや皆々様に、明きの方から福大黒様が、ど〜さりと舞いこんだあ〜、さあ〜て、お大黒様というものは、一で俵をどんと踏んまえて、ニでに〜こり笑うて、三で盃の大きいやつでごくごくと飲み干しまして、四つ世の中よいように、五つ泉が台所よりこんこんとわき出すように、 六つ無病息災で、七つ何事、悪事、災難、火災等には絶対に合わないように、 八つ屋敷の悪魔をきれいさっぱりは〜ろうて、 九つ米蔵、金蔵、七十五棟をどんと建てかえまして、十で当座の皆々様がまめで達者で働きますよう、ど〜っさりと祝ってまいろう〜 」 あらゆる福を願って声を上げる。 (大暮山の大黒舞) 私の家でも古くから大黒様を祀っている。知らずに惹かれていたのかも知れないな。 大暮山地区でも昭和30年代頃まで大黒舞はあったと聞いている。小松又一さんや川口米男さんが若い頃に舞い手を務め、五、六人の集まりで門付けをして歩いたと聞いている。子供たちに教えていたとも聞くので、大暮山の大黒舞の歴史は古いのかも知れない。偶然、私が復活したことになった。 (舞いの指導) 地元の人などに頼まれて、舞い方を教えた人もだいぶいらっしゃる。10年前頃は職場で愛好会を作って楽しんでいた。その会員の皆さんは今でも私の応援に駆けつけてくれる。和合婦人会では、敬老会で披露したいと依頼を受け指導をさせていただいた。どんどん広まってみんなで盛り上げられたらいいと思っている。 (やりがい) ご覧になった皆さんに喜んでいただけることがなによりのやりがい。お一人、お一人からお誉めの言葉や、感謝の言葉をかけて頂いたときの達成感、充実感はなんとも言えない味わいがある。また、主役の方を盛り上げ、なおかつ自分も盛り上がることができる。この上ない至福の時に感じる。 だから依頼があるたびに、最善の舞を出せるよう、事前に何度も練習を重ねている。いつも舞うたびに、上へ、上へ研鑽することを心がけている。これからも、もっともっと極めたい。 長岡清一郎(ながおか・せいちろう)氏 昭和34年1月生まれ。52年日東ベスト株式会社に入社。 57年より大黒舞を始める。大暮山在住。 取材 : 平成22年1月 安藤竜二 撮影 : 荒木淳一さん ※上記ダウロードボタンより印刷用pdfファイルが開けます →大暮山の大黒舞(1) |
木川ダムは、昭和33年に朝日川第一発電所の取水用として朝日川の深い渓谷を利用して造られた越流型直線重力式コンクリートダムです。最大出力9000kw。
→朝日川第一発電所(水力.com) →木川ダムの水鳥(朝日川十景) →アクセスマップはこちら ※狭い道ですのでお気をつけて走行下さい。 |
朝日川と寒河江川上流のブナ林(朝日町・大江町・西川町)は「21世紀に残したい日本の自然100選」(1983年 森林文化協会、朝日新聞社)に選定されています。
これは、全国から4万5000通の応募、候補地は2000カ所以上の中から選ばれたものです。この選定によって全国的に注目されるようになった自然地がも多く、森林文化協会はその後17年間、10地点で定点観測を続け、自然の変化を追っていました。 概要: 山形県西川、朝日両町にまたがる磐梯朝日国立公園の一部で、国内でも有数のブナ林が広がる。樹齢は250年から600年で、直径1メートル以上の巨木も多い。ブナ林の根元には、その可憐な姿からオトメユリともよばれるヒメサユリが群生し、桃色や白の花を咲かせ幻想的な美しさを見せる。 ※白滝や朝日鉱泉からの登山道を歩くことができます。 ※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。 朝日山岳会(PC) 観光協会 観光協会(PC) 朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC) |
これは昔からの建物で、新宿の自慢の一つ。めずらしいということで、たまに写真撮りに来る人もいる。そんなに古くはないな。恐らく明治位だと推測している。古文書がないからはっきり分からない。トタン葺きにする前は木場葺きだった。
下はポンプ庫で、上は火の見やぐらになっている。火事が起こるとすぐに登って「どの辺だろうか」と眺めたんだろうな。半鐘は少し離れた別の所にもあって、そこに番小屋もあつた。だから、あっちに行ったりこっちに行ったりしていた時代があった。そこでも火の晩をしたり、水かけの控え場になっていた。 それから火の用心をした。錫杖(しゃくじょう)を引きずって歩くと、砂利道だからジャラジャラ音がして、みんな「消防が来た。火の用心さんなね」と分かるわけだ。柏木を打つようになったのは新しいな。子供の火の用心なんかも戦後少したってからやり始めた。その前までが錫杖引きずってたんだ。夜警は戦争中くらいまで毎日していた。 上は畳敷きで仮眠もできる。小さいころ登ってみんな落書きなんかして遊んだんだ。今も残っている。私のはないな。(笑) (話 : 熊谷與志雄さん 取材 : 平成17年11月) |
『朝日町史編集資料第六号 今井治郎三郎家文書(上)』『朝日町の歴史』(朝日町教育委員会刊)によると、初代今井左衛門兼満は鳥屋ヶ森城主の岸美作守義光の家老を先祖とし、代々新宿村の肝煎名主・大庄屋として精働し、天保年間(1830〜)以降には在方荷主(買次問屋)として青苧集荷商や土地の集積に着手したとあります。
特に14代今井治郎三郎は、地元新宿で生糸製造会社を設立するのみならず、横浜を拠点に蚕糸貿易の大事業を行い、史編集資料には「膨大な財力を利用して諸種の事業に関与し、その明敏な頭脳と非凡な才腕をふるい、努力奮闘し、蓄財益々加えた」と紹介されています。また、奥羽鉄道の誘致や、電気事業、通信事業の促進など、郷土の振興にも大いに尽力しました。明治時代後半に生糸が暴落するまでは、今井家がもっとも隆盛を誇った時代といえます。 14代今井治郎三郎の活躍ぶりを年表にしてみました。 安政 4年(1857)11月生まれ。幼名政吉。 明治 3年(1870)父嘉兵衛の死により、13歳で家督をつぐ。 明治 10年(1877)(株)良進社を新宿に興し、10ヵ年以上にわたり生糸の機械製造を行う。 明治25年(1892)横浜市弁天通で蚕糸貿易商となる。人望高く横浜取引所仲買委員長を七回、横浜商業会議所議員も勤め副会頭にもなる。宮宿まで電信を架設するため、西村山郡会議員や県議会議員の地位を活用して促進にあたる。明治31年(1898)山形電気株式会社設立に尽力、重役となる。またこの頃に奥羽本線鉄道の誘致に奔走。板谷峠トンネル工事に際しては、自ら煉瓦工場を設置し資材を供給する。 明治42年(1909)今井五郎八に協力して「今井商業銀行」の創立に出資、および運営指導にあたり、地方金融に多大の貢献をする。 大正元年(1928) 生糸の暴落により、横浜取引所を整理し新宿に戻る 大正2年(1913)山形電気会社で白岩町の白岩発電所、西五百川村の旭発電所を建設する。 大正8年(1919)川土居村の吉川発電所を建設する。 その後も今井家は、15代は東五百川村長、16代は宮宿町長を勤めるなど、引き続き地方自治に功績を残された家柄で、ご子息は昭和40年代に資産を整理し新宿をはなれ東京都内に生活されています。 ※写真は大正初期の今井治郎三郎家の正門(今井孝一郎氏所蔵) |
江戸時代は、村のことを「郷村」と呼んでいた。その郷を使って「郷倉」と呼ぶようになった。ここには、冷害や干ばつなどの不作時に備えて部落で米を蓄えておいた。郷倉は江戸時代から昭和まで続いてきた歴史がある。「恩賜郷蔵」と看板があるのは、昭和のはじめに天皇陛下から予算をもらって建てたから。現在は収納庫にして使っているが、ちょっと前は子供の卓球場にしていたこともあったな。
(お話 : 熊谷與志雄さん 取材 : 平成17年11月) |
新宿の古い家がどれも大きいのは、屋根裏が養蚕の蚕室として使っていたからだ。今ではめずらしい建物になるのかな。私らは珍しいとは感じないな。
ここは高田さぜんじさんという名主をつとめた方の家で、蚕の「種屋」で方々に知られていた。現在は今井左官屋さんが住んでいる。総二階の上に梁の上があるから三階分ある。もともとは茅葺き屋根だった。昔は屋根葺き屋さんがいた。時代が下がってくると萱が買えなくなって茅葺きはなくなってきたんだ。萱を買うとすれば仙台のほうから持ってくるとかしなければならなかった。屋根葺き屋さんも少なくなった。 (お話 : 熊谷與志雄さん 取材 : 平成17年11月6日) |
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※朝日鉱泉より2時間登山
※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。
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