朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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昔、刷って配った地図の原版があったから刷ってたけれど、あんまりきれいには刷れなかった。 名前がところどころ見えなくなっているけれど、これは消したのではないか。ここは徳川幕府の配下になっていたのが、御維新なって国さ返上したものだから、あまり思わしくないというので隠したみたいだな。 こっちの色が付いている原版は、文化年間に作ったものだな。二百年くらい前だ。三十三坊とか、家の配置が書かってあるべ。あと、関所も書いてあるな。八つ沼の部落と大暮山の部落とそれから勝生の部落に行くところにあったんだな。誰も彼も大沼に入ることはできなかったんだ。許可がいるんだ。 お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主) ※↑上記ダウンロードボタンより「羽州大沼山浮島神池の図」の拡大版を見られます。 |
護摩壇は神社の所と山伏岳(高田の上)にある。この二つの護摩壇を真直ぐ延長していくと大朝日の山頂さつながるんだ。修験者で大朝日まで行けない人は、大沼で祈祷して山伏岳で祈祷して、大朝日を遥拝(ようはい)したんだ。山伏岳の護摩壇には大きな松の木があって、昔は寒河江あたりからも見えるんだっけ。それがなくなって、なんだか物足りない気がするんだ。長岡山あたりからも見えるんだっけ。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主) |
エリア地区 / 大沼、大暮山
・大型バスは八ッ沼~大沼線をご利用下さい。大谷からは通れません。 (お願い) このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。 ・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。 ・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。 ・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。 Tel0237-67-2128(月曜休) |
大沼部落が干ばつになり、村中みんなで木の地蔵様を沼に入れて祈願して直会をしたところ、物凄い雨が降ったという記録がある。その時に地蔵様の左腕が取れて、負傷して、私の家に保管された経緯は本当の話だ。
それは、大沼の水が三十センチ位減った時のことだった。村中総出で、婿にきた親父が祈願したれば、物凄い雷とともに雨が降ってきた。そして、一晩のうちに浮島の水量がいっぱいになったが、肝心の地蔵様が見えなくなってしまった。これは、先程話した浮島の空洞になった所に地蔵様が入り込み、そのままにしたから水かさが増して、地蔵様が出られなくなってしまったのではないかと思われる。 地蔵様がいなくなったことで、私の親父は祖父に大いに怒られ心配して、必死になって地蔵様をさがしたけれど見つかんねがった。その後、しばらくしてから、浮島の手入れをしていた仁吉という人が教えに来てくれた。小さい浮島が真向かいから近づいてきて、仁吉さんの前でくるくる回って戻って行ったんだと。これは神様のお告げと思って、私の親父のとこさ来てこの旨を伝えてくれた。泳ぎが達者だった親父がその浮島の底さ潜ってみたら、そこに地蔵様がいたんだっけど。 お話:白田隆さん(浮島を守る会会長) 取材 : 平成7年 |
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磐梯朝日国立公園朝日連峰の主峰が大朝日岳です。標高1870m。大きな花崗岩塊の山で、原始的景観に優れ、高山植物も豊富。急峻で北アルプスに匹敵する山容を持ちアルピニストに人気の山となっています。また、「朝日町」の町名を決めた由来の山でもあります。
※『郷土学習辞典』より抜粋 →マップ ※朝日鉱泉より正面に眺めることができます。 ※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。 朝日山岳会(PC) 観光協会 観光協会(PC) 朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC) |
朝日軍道は、上杉景勝の家臣、直江兼続によって開削された全長65kmにわたる日本の歴史の中でも有数の軍事道路です。飛地となっていた庄内の領地と連絡する目的で作られました。大朝日岳をはじめ御影森山や西朝日岳のの斜面に電光形の痕跡を見ることができます。
全ルートは、長井市草岡 ~ 長井葉山 ~ 御影森山 ~ 大朝日岳 ~ 西朝日岳 ~ 三方境 ~ 以東岳 ~ 大鳥池 ~ 茶畑山 ~ 高安山 ~ 八久和峠 ~ 鶴岡市鱒渕 ※写真は西朝日岳の電光形軍道跡 花山忠夫さんのお話 →大朝日岳周辺の朝日軍道 北畠教爾さんのお話 →なぜ必要だったか →置賜の史料より →朝日町の史料より ※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。 朝日山岳会(PC) 観光協会 観光協会(PC) 朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC) |
朝日鉱泉は、江戸末期に朝日大権現の霊異によって発見・開湯されたと伝わり、昭和40年代までは「朝日館」「古川屋」の二軒の鉱泉旅館がありました。炭酸カルシュームの泉質は、腎臓病、胃腸病などに特効があるとされ、農閑期の湯治客と登山客で賑わいました。特に登山シーズンには浴客が一日300人を越すこともあり、宮宿からの出張売店もあったそうです。
湯治客が減り登山者も白滝コースの利用が増え、両館共に廃業しますが、昭和50年(1975)に「朝日館」が「朝日鉱泉ナチュラリストの家(西澤信雄氏経営)」として再建されました。昭和61年には大朝日岳を眺望できる現在地に移転し、大朝日岳登山や渓流釣り、山菜・茸採り、自然観察などの基地として利用されています。館内には朝日町エコミュージアムブナの森サテライトの展示コーナーも設置してあります。(見学は要問合せ) ※参考文献 /『朝日町史下巻』、「ランプの朝日鉱泉」文・長岡幸助(昭和30年山形新聞記事) →朝日鉱泉ナチュラリストの家 →朝日鉱泉ナチュラリストの家 (PCサイト) →アクセスマップはこちら |
胸高幹周り9.27m。林野庁「森の巨人たち」で日本の巨木100選に選ばれました。上倉山の頂上を越えたあたりの登山道から少し入った所にあります。近くには幹周り8mや6mのクロベもあります。
→アクセスマップはこちら ※朝日鉱泉より2時間登山 ※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。 朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC) |
朝日連峰の猿渡、ヌルマタ沢一帯は県の自然環境保全地域となっている。この一帯はブナやミズナラを主体とする優れた天然林で、原生林地帯としては朝日山地の中でも朝日俣流域とともに最も貴重な原始的自然林地帯です。とくに御影森山、焼野平に向かう緩斜面は樹高25メートルに及ぶブナ極相林が発達し、朝日山系随一の美林となっています。
※『郷土学習辞典』より抜粋 →アクセスマップ ※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。 朝日山岳会(PC) 観光協会 観光協会(PC) 朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC) |
心なごむ明鏡橋を見つめて
橋の写真家 平野暉雄氏 (株式会社景観技術センター代表取締役) 〈文化が消えてしまうものづくり〉 私は土木設計会社で10年間設計を学んだ。はじめは手計算だったが、次第にコンピュータの時代になり、「早く・安く・丈夫なもの」を主目的に設計する時代になった。しかし、それだけで作ってはその町の文化が消えてしまうのではないかと思った。34歳の時(1977)に独立し“写真の中に完成する橋のイメージを作る”景観設計の会社を興した。見え方を重視することが美しさになるのではと考えた。 橋の写真を撮り始めたのは、講義する母校の立命館大学の学生達にきれいな写真で橋を見せたかったから。すると、古い橋が素晴らしいと思った。現代の橋は、大きい橋、新しい橋、化粧した橋など、絵にならない違ったイメージを感じ、味気ない橋が多い。 〈日本一心なごむデザインの明鏡橋〉 便利よりも、心なごむ観点から物作りしないと世の中全体が味気ないものになってしまう。土地の人が心なごむ橋がいい。 『日本の近代土木遺産』という文献があるが、この中に橋が1000橋位、写真掲載のほとんどない一覧表で紹介されている。私は大体8~9割は見てきた。明鏡橋みたいな素晴らしい橋に出会えるのは10橋に一つあったら良いほう。明鏡橋は何度でも来て写真を撮りたくなる橋の一つ。リピートしたくなる橋こそ心なごむ橋といえる。明鏡橋は開腹型アーチ橋では日本一の心なごむ橋だと思っている。 〈明鏡橋の素晴らしさの理由〉 山形県内では、明鏡橋、大江町の最上橋、寒河江市の臥竜橋の三つが一番素晴らしい。2002年4月に朝日のあたる明鏡橋を撮らせていただいた。明鏡橋がなぜ素晴らしいかというと、アーチの曲線(円弧の両下端を結んだ線と円弧の頂部との高さ)が非常に大きく、並列に3本のアーチ(3主構)のきれいな円弧になっている。また、桁と支柱の接合部も円弧で繋がれている。高欄も円弧でデザインが統一されている。最上橋のようにアーチが3径間連続になると高さが低くなる。明鏡橋のほうがアーチの曲線がゆったりしている。 ぺらぺらの定規をアーチに曲げると、両端に力がかかり非常に硬くなる。明鏡橋も臥竜橋も、両岸とも岩でできているからアーチができる。岩場のある所が川の流れは早くなるので、芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」の句は、庄内ではないと思う。アーチにすると大きく架けることができるから、流れの早いところに橋脚を立てる難工事をしなくていい。非常に力学や自然にあった作りになっている。一つの円弧でこれ以上きれいなコンクリートアーチ橋は日本にはほとんどない。 〈思い入れのあるものを守り継ぐ町づくりを〉 昨日、佐竹さんの家(佐竹家住宅)の外観を見せてもらった。他にもあると思うが、この地方の特徴を現した家である。あのような作りの家は他のも残してあげるとこの町の誇りになるのではないか。 現在は安くて丈夫な材料がいっぱい出回っているが、修理される時は、町の景観保全のため(できるだけ元の材料と同じもので」)修理費を出してあげて残して欲しい。 日本の文化を次の世代に残すのは大変な苦労がいること。私は京都生まれだが約1200年間の歴史があって守り継がれてきた。守るのは新しいのを作るより大変な努力がいる。特に今の時代はどちらかというと新しいほうが好まれているが、そうではない。そこに思い入れがあることによって日本の文化が守られるのではないか。特に、土地の「言葉」「食べ物」「見るもの」を大切にできたら心なごむ町が出来上がっていくと思う。 お話 : 平野輝雄(ひらの・てるお)氏 プロフィール 1943年京都市に生まれる。1968年立命館大学理工学部卒業。会社勤務を経て,1977年~株式会社景観技術センター代表取締役社長、1992年~2006年立命館大学非常勤講師、1988年明石工業高等専門学校非常勤講師、日本写真協会会員、土木学会フェロー会員、キャノンクラブ会員。著書に写真集『日本の名景 橋』『橋を見に行こう~伝えたい日本の橋~』がある。 ※写真は『橋を見に行こう~伝えたい日本の橋~』より抜粋しました。 景観技術センター公式サイト(PC) →伝えたい日本の橋 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
朝日川十景の一つ。源流を鳥原山とする白滝は、その水量や高さから朝日川随一の名滝といわれています。山岳信仰が盛んだった持統10年(756年)には弁財天を建立してた歴史があります。
※白滝橋たもとの太いブナの樹の所から滝の正面へ登る山道があります。 →アクセスマップはこちら |
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お話/長岡清一郎氏(大暮山) (大黒舞との出会い) 大黒舞との出会いは23歳の時。日東ベストの大谷工場に勤務するようになって2年目。旅行の宴会で演し物をすることになり、たまたま同僚の武田光昭さん(寒河江市)が清助新田に伝わる大黒舞を舞える事が分かり、彼を師匠に習ったのが始まり。初めての舞は大好評だった。あれから27年にもなる。 (舞いの思い出) その後、話を聞きつけた同級生の結婚式や、町内の方の年祝いなど、いろんなお祝い事に呼ばれるようになった。最初は面白半分にやっていたが、結婚祝いなどで頼まれた時に、「これはその人の「人生の門出」という大事な一コマだ」ということに気付き、そこから心を入れ替え、心を込めて舞うようになった。 思い出深い舞はいくつもある。山形市のホテルキャッスルで開催された国際交流のイベントではインドネシアの方が民俗舞踏を披露した時に、お返しに私が日本の舞いということでやらせていただいた。終わったあとに笑顔で写真撮影をお願いされた。舞踏に国境はないと感じた瞬間だった。町の移動芸文祭では、民謡会の生歌、生演奏で舞った事もある。一昨年は、空気神社で開催された環境イベントでも舞った。途中でCDプレイヤーの電池がなくなって音楽なしでやったが、温暖化防止を祈願し意義のある舞いとなった。 なにしろ祝い事なので、なにがあっても絶対に止まらないと決めている。大きな舞台になったのは、日東ベストの60周年記念の総合文化祭。オープニングで250人を前に舞った。最も緊張したのは、私の師匠の武田さんの師匠の方と結婚式で偶然一緒になり交代で舞った時だった。合計すると、これまででおそらく100回以上は舞ったと思う。 (演出) いつのまにか舞いだけではなく演出にもこだわるようになっていた。いい発表の場になったのが、私も実行委員をしていた旧大暮山分校の白い紙ひこうき大会だった。ドライアイスや煙幕を焚き、登場の曲を流し、被り物もした。たくさんの紙の蝶も飛ばした。10年の間に実に様々なことをやり、演出が進化していった。初めて参加した方は驚かれたと思うが、知っている方は、今か今かと待っていてくれたようだった。10回の大会で10種類の演出を試みたことになる。一昨年の最終大会では300人以上の皆さんを前に舞わせていただいた。 (衣装と小道具) おのずと衣装や小道具をそろえるようになった。衣装は、東京に住む叔母から京呉服等のきらびやかな端切れを送ってもらい、母に縫ってもらった。今の衣装は3着目になる。打ち出の小槌も、はじめは空き缶に色紙を貼り木の柄をつけた自前のものだった。背景にもこだわることがある。桜の木を作ったり、草を描いて立たせたり、四方に立てた笹竹にしめ縄を張ってみたり。昨年の大暮山分校感謝祭では、会社の廃材をいただいて、溶接して「光背」を作り背負った。 衣装に着がえる時や、化粧をしている時に、鏡の自分を見ていると、不思議なことに気持ちがだんだん大黒様になってくる。身支度が整うとすっかり大黒様になる。気持ちを切りかえる大切な時間となっている。 長岡清一郎(ながおか・せいちろう)氏 昭和34年1月生まれ。52年日東ベスト株式会社に入社。 57年より大黒舞を始める。大暮山在住。 取材 : 平成22年1月 安藤竜二 撮影 : 上、大井寛治さん 下、荒木淳一さん ※上記ダウロードボタンより印刷用pdfファイルが開けます →大暮山の大黒舞(2) |
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