朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 4月15日現在で、まだまだ雪の下でしたが、溶け始めた上流部では花芽が顔をのぞかせていました。日当りの良い斜面では咲き始めていました。

藤沢盛治さんのお話
杉山と長谷地エリア
 町道杉山〜水本線を杉山から登り、通称「大道」と呼ばれる所、標高500mを越えるあたりに広がるブナ林の中にいくつかある湧水とそれを集めて流れる小さな沢の周辺にはミズバショウが群生しています。
 群生地一帯は杉山地区で管理しており、公民館活動として、夏の草刈りや案内板の設置などを行って整備しています。例年、4月の下旬頃雪解けとともに花が咲き、道路の除雪もしていますので、その時期にぜひ訪れていただきたいものです。

お話: 藤沢盛治さん(杉山)
 大沼の浮島は、前半は朝日岳と非常に深い関係があります。朝日岳は、人間にとって大切な水の源ですから、神様が山から田植え前に降りてきて、秋に帰っていくと思われていました。ですから、修験者は神様のいる山に入って、体を鍛え験力を得たのです。当時、朝日修験は栄えたようです。
大行院の文書には朝日岳に宿坊を建てたとか、水口、野々山などのルートから登ったとか書かれています。役の行者によって発見された。そして北条時頼の時に閉鎖されたとなっています。しかし、このような言い伝えは県内によくあるようです。竜山、御所山、肘折などもそうです。
 ここには、水に対する信仰があったと思います。沼には24から66の島があると言われていたのが、江戸時代には、それが日本の国の数32になったと思われます。池の形は上から見るとキツネに見えます。カササギ橋もあります。キツネは、稲荷様で水の神様。カササギは七夕で農耕の神様です。そんな意味から大沼は神の住む地だったのです。
 大沼は個人より時の支配者の願いをかなえる場所だったようです。鎌倉の将軍大江氏、最上氏などの名前が残っている文書が多く残っています。江戸時代に朱印地になったのもそんなことからだろう。しかもその順番が、慈恩寺の次になっています。慈恩寺は平泉と並ぶ東北一の寺だから、大沼の位の高さがわかります。そのため月に4度は島にこもり神事をしていたようです。そんな大切な所だから、周りの木は切らないとか、朱印状をもらいに行く時は皆で分担するとかの取り決めがありました。
 大沼の人は、神事をする以外は、農業をしていたようです。米を作り、畑を作り、蚕を飼い、青麻を作っていました。
 またここには、多くの有名人が来た話が多くあります。藤原実方は本当かどうか分からないが、芭蕉は来ていない。芭蕉塚は、18代の別当が俳句が好きで作ったようです。多くの旅行記に書かれているのは本当で、出羽三山の帰りに寄ったのだろう。出羽三山には7〜8万人が来た。丑の年は15万人もきたのだから、かなりの人が大沼にも来た。大沼では泊めたり案内していたのだろう。明治時代の村山地方の収入は30万で10万が紅花、10万が商業で、10万が出羽三山といわれています。多くの人がその帰りに寄ったとすれば、大沼もかなり賑わったと思います。だから県内に広く知れ渡り、神殿の修復などには多くの寄付が集まったらしい。今の私達が考える以上に大切な所だったのです。だから、大正15年に国の名勝に指定されたのだろう。

お話:鈴木 勲氏(朝日町文化財保護委員、郷土史研究家)
 大正15年に、日本を代表する植物学者三好先生が、国の名称にするために調査に来られました。
 大沼は、標高330mですが、非常に珍しい植物がたくさんあります。たとえば、ここのホオノキは、10mくらいのところから枝がまっすぐ上に伸びています。また、ここには雑木林になる標高なのですが、ブナなどの標高の高いところの木と、標高の低いところの木が一緒に生えています。また、沼地の林もあります。山形ではここだけです。ブナは太いものも細いものもありますが、葉が大きいのが特徴です。ブナの葉は、鹿児島が小さく、北海道が大きいのですが、ここのは特に大きいです。
 湿原の植物では、ハルニレもあります。この木は、土地が豊かだという証拠です。アイヌは昔からハルニレのあるところを開拓してきたのです。さらに、アイダモ。これはいい板がとれます。それに天然スギもあります。スギは暖かいところの植物で、最上川沿いに少しありますが、それがここに残っています。アサダも神社などに残っているだけで今は少なくなりました。
 ここは低層湿原なのですが、白竜湖よりいい状態です。カサスギ、アマモ、カングモ、それにヤナギトラノオなど氷河期の生き残りも5〜6種類あります。
 さらに大切なのは、ここは日本で浮島研究の基準地に指定されています。浮島を研究する人は必ずここに来ます。ですから、朝日町だけではなく、日本としても非常に大切なところです。
お話:吉野智雄氏(山形県文化財保護指導員、植物研究家)
 浮嶋神社は、役の行者と覚道が創設して、一院三十三坊があった。私の家もその坊のひとつであった。四代前に柴橋から嫁に来た人の持参金で浮島神社神輿を寄付したごとにより、資格を得て、私の家で行者を泊めるようになった。最上家では庄内の人を、私の家では福島の人を泊めた。浮島というイメージが船が沈まねという縁起を生んで、海岸に住んでいる漁師の人がたくさん来て宿泊した。私の家では、昭和十年頃まで、坊を営むことで生計を立てた。行者を、御行様、御行様と呼び、家の前に玄関が二つ、脇に一つと、玄関が三つあった。
屋根もピーンとした立派な屋根だった。食事には精進料理を出して家の所得も相当なものだった。
 その当時の部落の繁栄を再現するためにも、浮嶋神社を活かしていかなければならない。その当時、浮嶋神社を経由して朝日に出かける行者と月山に出かける行者がいたが、私の家の使用人が先達となり案内した。その修験者の道を復活すったいという話もあり、
古くなったお守りなどを燃やす場所として復活したらなんたべという話が、現在出ている。
お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)取材 : 平成6年
 浮島には、科学的には説明できない神秘的なことがうがい。浮島の不思議な出来事は、私の姉の佐藤ちよが、『浮島物語』にまとめて出版している。私の姉は、浮島に隣接した道路を歩いて三年間大暮山分校に通った。毎日、欠かさないで浮島を観察して、不思議だなと思うことを記録に残した。その記録に残したのが『浮島物語』なんだ。
 おらだが浮島に関して不思議に思うのは、雑木林の落ち葉が大沼のまん中さ、ひとりで集まり、流れる方さ真直ぐに流れることだ。そして、朝、行ってみると落ち葉が全部消えている。
また生の葉っぱが底に沈んでいる。科学者たちは、いろいろ解釈をするけれど、私達は神秘的なものと思ってる。それは、お姫様が来て大沼を掃くのだという言い伝えがある。
お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)
 立木にある朝日川河川公園は、川遊びや芋煮会など、最も朝日川と親しめる場所となっています。8月第一週に開催される渓流まつりは毎年大勢の人が参加します。朝日川の川遊びはコシジロアブの出始める8月初めまで楽しめますが、河川公園は周りに林がないためかアブは少ないようです。
※アブは排気ガスに集まりますのでエンジンはすぐに切りましょう。

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 朝日川十景の会(代表/長岡啓)では立木地区より朝日鉱泉にかけての美しいポイントを、毎年看板を立てて紹介しています。
※ 写真は「与市の大岩」
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朝日川渓谷の転石
与市の大岩
五枚田の滝
玉石橋の清流
木川ダムの水鳥
朝日の白滝
猿渡の渓谷
朝日鉱泉の大朝日
ヌルマタ渓谷のブナ原生林
愛染峠の朝日連峰
 大沼の湖面の色は昔から変わらず土色だった。泥が厚く堆積している。泥がガスとともに真っ黒になって出てきてそこさ植物の種が落ちて浮島ができたという話もある。また、いくつものちっちゃい島が大きな島に押されて、陸に上げられたりすることもあるから、常に管理する必要がある。昔は手入れする人がいた。島が動かなくなる所まで何べんも押して適当な場所を探す必要があるがだいたいそのポイントがわかって来た。雨の降りそうな時は、水の湧く所さ集まる。その状況を見て天気を予測することもできた。
 浮島を守る会は、浮島の環境を守るために、私一人だけでなく、年配者から若者まで、みんなして一生懸命になって活動できないものかと、ボランティアで始めた。そして、結成してから毎年島切りを実施している。以前、浮島の手入れをしない時代には、浮島の数が減ってしまったこともある。根っこが水底にくっついてしまうから、それを切り離さんなねがった。会のメンバーが一生懸命手入れしたさげ、今のような状態になった。
 さらに、景観が悪いところの枝を切ったり、林の中を伐り払ったりして、観光と結び付けたいけれど、先生たちが考えている「手を全く加えない自然を目玉にした観光」との考え方の違いに私達も戸惑っっている。
 浮島の復元をしてから二十年近くなるが、島切りをする所が1メートル位空洞になっている。これは鯉がつついて根っこを食うからだと思われる。んださげ、島切りをすると、片方には根っこが深くいっぱい付いているが、もう片方には根っこが少ない状況になっている。このため、浮島を切り離して出すと、グラッとひっくり返るみたいになる。これで非常に苦労した。
お話:白田隆さん(浮島を守る会会長) 取材 : 平成6年
 沼の水が汚染によってアオコが発生していることがわかった。前々から心配していた。それで町に話をし、相談している。町では調査したいとしている。浮島を守る会としては、お客さまが来て喜ばれるようにしたい。自然を守る方たちは、人工的な手を加えるなと助言してける。まず、鯉にえさをやることはダメだと言われる。鯉は進駐軍に捕られて随分少なくなった。なんといっても赤・白の鯉が必要だべということで三十年くらい前に放流した。その鯉が成長して立派な鯉になった。しかし、その鯉に餌をやるのは、水を汚すことになるので、餌は売らんねことになった。
 沼の近辺はりんご園がうがいが、昔は林だった。開墾に適した所だったさげ、周囲が全て畑になった。そんで、沼の水を保護するために、早急に側溝を整備する必要がある。そうすねど雨水と一緒に藻も入ってしまう。大沼の水は、湧水だけで維持されている。昔はもっともっと湧いていた。この頃少なくなった。三ケ所位から水が湧いていたが、この湧水量が少なくなると浮島の動きが悪くなる。
お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)
 家内と二人で沼に行って不思議だなと思ったことがある。これは昭和五十三年に私がはじめて町長選挙に出るとき、お参りに行ったんだ。そしたら相当大きな島が私たちの方へすーっと寄って来た。鯉にえさをやるところに立ってたら、目の前まで二つおっきな島が、寄ってきたんだな。ああいうのを、奇瑞(きずい)って言うんだろうな。「当選間違いないなんねが」なんて話してきたっけな。
お話:小林富蔵さん(元朝日町長)
昔は今よりもっと手入れをしたから、島はもう少し多かったかもしれない。しょっちゅう‘島出し’をした。白田仁吉という人が茶屋を経営しておったころは、毎日あそこにおったわけだから、毎日島出しをしない日はなかった。誘客のためにもしたんだろうと思う。ところが戦後、茶屋がなくなってからはめったにしない。現在浮島を守る会のメンバーがするが、これも昔ほどではないかもしれないな。
お話:小林富蔵さん(元朝日町長)
 子供のころから、沼は神様いっとごだからいたずらさんにぇ。釣りをしてならん、とか。それから沼はいつ見ても秋になっても、水面に木の葉がいっぱいになっていることがない。沼はいつでもきれいだと。なぜだか?それは明け方、お姫様が出てきて、沼の上を掃くんだと。だからいつもきれいなんだと。そんなことを教えられて、ふぅーんと思ってたね。理論上は分からんけど、複雑な対流で動くんでないかということで、いろんな研究者が研究したが、まだあまりよく分かってはいないんだな。もともとあの沼は神様の遊ぶ場所だと、神、人ともに遊ぶ場所だと言われている。神様にとっても人にとっても憩いの場だと、こういう言い伝えというか、そういうことが云われてきている。ところが、島は動くといっても、いつでも動くわけではないから、せっかく遠くから来て動くのが見れなかった人がたくさんいるわけだ。そういう人はほんとうに動くんだろうかと疑問を持つ人もいるわけだ。
お話:小林富蔵さん(元朝日町長)
 お祭りでは、神主が五人くらいかな。それに白装束を着たのが付いでって、いわゆる大唐傘というカラガサね。中国の古代絵なんかにもあるが、神主に差しかけるやつがあるでしょ、あれが珍しくてね。それから我々が子供の頃まで神楽があった。いわゆる笙(しょう)なんかだ。昔のとおりの神楽だな。今はレコードでやってるけど、昔は本物があった。で、村の青年がそれをやったわけだ。今も楽器はあるが、する人がいなくなった。
お話:小林富蔵さん(元朝日町長)取材 : 平成6年
 子供の頃沼に行ったのは、大きな鯉がいるから鯉を見にと、それから、当時は沼参詣というのが毎日来ておったね。沼の観光客だね。その当時、白田仁吉という人とおたかさんという人が茶屋を経営しておった。今の湖畔の家から沼の方に行くと広場があるが、そこに北向きに茶屋があった。そこで貧乏人の子供である我々は、浮島に来る観光客に「何がけろ」と言って、食べたこともないものを貰って食べるとか、そういう興味で沼に行ったな。
 それから、もう一つは遊び道具を拾うために行ったね。缶詰めの空き缶を拾ってきて、そいつのまん中に火箸で穴を開けて、紐を通して木っ端に結んで、今の竹馬のようにして、パカパカと歩く、そういうおもちゃだな。それを作ったり、釣りに行く時の‘びく’の代わり、大きな缶詰缶を拾ったりして遊んだ覚えがあるな。
 それからその当時は、御行様というのが白装束で何十人と来ることがあった。するとよく茶屋で食べたりするから、沼にも寄って神社にお参りをして、ここから出羽三山の方に行ったんじゃないかな。その当時の子供達は、御行様が何十人と来ると、どういうことを言ったかというと「お〜ぎょうさ〜ま、じぇにけろ」と言うた。行者が供養というか信仰上から、たまに金をくれる人がいた。んだど、一銭とか五厘とか一つぐらいもらったりしたことがある。食物がなくて困っている人を助けるという意味もあったんだろうね。実際にもらったことは一ぺんぐらいだな。たいがいの人はくれない。そういうことがあったな。御行様は年に二回くらい来るがったがな。
お話:小林富蔵さん(元朝日町長)