朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 鮎は香魚とも言う。餌が水ゴケなので、西瓜のような爽やかな香りの魚であったから。五百川峡谷では昔、鮎やサクラマスがよく獲れたので、皆さんよく食べていた。
 漁をする人々はそれを生計のたしにしていて、最上川の簗で獲れたばたばたとしたマスや鮎は旅館などに売っていたようだ。
 家庭で食卓に上るときは串に刺してあぶったのに白砂糖をかけ、その上にしょう油をかけて食べていた。塩焼きや田楽もしたようだ。飯のおかずにも酒の肴にもなったものだ。
 酒の肴といえばニンニクの下部がふくらんだ時期に食べる「氷頭もみ」というのがあった。生のマスの頭とニンニクを薄く切って混ぜもみ、火にかけた酢・砂糖・塩で和えたもので、その時期になると料亭などで食べたものだった。今ではサクラマスもあまり獲れなくなり、そのような料理をいただくこともなくなった。
お話 : 鈴木治郎さん(宮宿) 取材 : 平成20年

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 杉山の花山傳夫さんの家には、代々伝わる船曳き絵があります。
 舟運が盛んであった時代、酒田や最上川の川港から、荷物を積んだ川船が上流に上る場合、帆(ほ)と綱(つな)を使いました。風のないときや難所の多いところでは、曳き網に頼りました。そのため、各地に綱手道が設けられ、船曳き集落や船曳きを専門とする人々もいたそうです。
 この絵について花山さんは、「子どもの頃からあった。いつの時代に手に入れたものかは不明だが、おそらく三百年位前のものかも知れない。舟が描かれず三人の人足衆だけが描かれている点など、大江町の若宮簗所有のものと作風が似ている。」
 また、山形大学名誉教授の横山昭男氏からは、「上半身裸で前傾姿勢になり、ありったけの力で曳いているようだ。船曳き人足の実際の様子が生々しく表れている。帰りといっても舟は空ではなく、ある程度沈めて安定させなければならないから、塩などの帰り荷は必要な物だった。重さが足りない時は石や灯篭を積んでいたようだ。
 五百川峡谷は瀬が多いので特に大変な場所だったのではないか。船曳きの写真は明治時代のものが少ししかないので、仕事振りを知る上で貴重な絵といえる。」と教えていただきました。
取材 : 平成18年

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 朝日町長寿クラブ連合会で調査して発行くださった『朝日町の石佛』によると、朝日町には象頭山・金毘羅権現の石碑が二十二基ある。江戸時代末期に作ったものが多い。
香川県琴平郡にある金毘羅権現は、舟乗りや舟乗りに関係する人たちやその家族が信仰していた。最上川を下って、日本海の西廻り航路を通って江戸に行くにも大阪に行くにもそこを通る重要な経過点なので、安全航海するためや家内安全も含めて信仰していた。船の仕事をする人がだんだん増えた証拠といえる。   
お話 : 横山昭男氏 (山形大学名誉教授)
平成18年

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 醍醐味は、流れを読みながらカヌーを操り、瀬を一つずつクリアしていくところです。
 流れは不思議で、壁があるようです。上流から白波のたつ流れに入り込むときは、まっすぐ行こうとするとひっくり返され、流れから出ようとすると、出るところの水が逆に流れているのでやはりひっくり返されます。始めた頃はそういう理屈が分からず、度々ひっくり返されました。まるで河童にひきこまれるようでした。
 また、波から出られなくなるポイントがあります。5分くらい動けなくなったこともありました。ひっくり返って、やっと出られると思っても、また戻されて同じ状態に戻ってしまうのです。川に遊ばれていました。
 上手な人は、飛んだり、跳ねたり、前回りをしたり、自由自在にカヌーを操ることができます。カヌーランドは、そんなことを楽しめる素晴らしい流れとして、日本でも有名な場所になっているのです。おかげで、全国レベルの大会が開かれるなど、たくさんの人が訪れています。

お話 : 大井寛治さん(曲淵) 平成18年

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五百川峡谷の魅力
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鮎漁と巨鮎
                     お話 熊坂正一さん
                    (最上川第一漁業共同組合理事長)


 私は流し網で鮎を取っている。夕方に川の流れに沿って網を仕掛けておくと、朝方に引っ掛かる。禁漁日まで毎日やっている。重たくて上げられないほど掛かることがある。1シーズンでおよそ4〜500匹捕る。
 五百川峡谷は「巨鮎(大鮎)」がいるので有名だ。巨鮎は一尾が150グラム以上、全長26センチ以上。友釣りファンもそれに惹かれてやってくる。私は最高で40センチ位320グラムのを捕ったことがある。五百川峡谷は餌がいいから育つんだ。餌は藻。けい藻、らん藻という藻がつく。3日あったら充分つくな。
 今年は天然鮎の遡上が多く、70%以上になった。それは理由がある。県内水面漁場管理委員会の指示により、毎年10月4日から10日まで、県内のありとあらゆる漁法での漁が禁止になる。簗も網も釣りもだめ。親魚を早く海に下らせて産卵させて来年の遡上に資するようにしている。我々もそれに協力している。

熊坂 正一(くまさか しょういち)氏
昭和11年(1936)生まれ。朝日町宮宿在住。昭和35年(1960)法政大学文学部卒業。教員を経て朝日町役場に奉職後、昭和60年(1985)〜平成4年(1992)まで町助役を務める。現在、山形新興株式会社専務取締役。最上川第一漁業協同組合代表理事組合長。

最上川第一漁業組合
※写真は巨鮎ではありません

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 最上川全体でおよそ40ヵ所の簗があったが、朝日町にはそのうち7ヵ所あった。荒砥から左沢間の五百川峡谷全体では11ヵ所あった。こんなにある所は他になかった。どうしてかというと、激流(瀬)、岩盤、中州があるから。簗の仕組み上、段差のある瀬がないと仕掛けられない。それに、中州のない所に作るには上流から長くせき止めなければならないから大変だ。
 6〜7月、鱒が簗の仕掛けてあるその瀬の段差を上るとき、水の勢いで、どっとひっくり返されて簾の上に落ちる。これが遡上する魚の取り方。下る魚、落ち鮎などは上からぞろぞろ入る。問題は、いろんな木や草などのゴミも簾にかかる。これを丁寧に落とさないと簗がだめになる。
 簗には、必ず魚を食べさせる料亭のような場所があった。鱒の季節には鱒を、鮎の季節には鮎を、それからウナギなどもよくごちそうになった。
 簗は、増水で流されれば大きな損害になるが、儲かるときは儲かる。落ち鮎の季節はあまりに掛かりすぎて、手伝い人は面倒くさくなって流してやったほど。
 上郷ダム建設で簗を全廃するにあたっては、一簗につき240万円から3,300万円までの補償金が出た。八天簗は簾座が三つもあるから、漁獲数も多かった。

お話 : 熊坂正一氏(最上川第一漁業協同組合代表理事組合長)取材 : 平成18年

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 青苧を売り物にするには、ただ自生するからといって出来るものではなかった。きれいに育つように相当手入れをしていたんだ。枝など出てしまうとダメだし、長さもなんぼ以上と規定があった。短いのや枝が出てしまったものは、家庭用として使っていた。
 刈ったものは、束にして水に浸けていた。普通の井戸では無理だったから、長掘に重石を載せて浸けていたような気がするな。それを背負ってくるので、一束でも相当重かった思い出がある。
 水に浸けた後は、皮をはいで輪のように丸くおっくり置いていた。はぐ人が広げてすぐできるようにしていた。
 はぐのも人によってかなり差が出たな。すっとできる人もいれば、途中でもげてしまう人もいた。私の家では、上手な人を特別に頼んでいた。
 売り物の青苧は、先の方をきれいに筆の先のようにして格好よくしていた。どうやっていたかは覚えていないが、じいさんがなめながらしていたような覚えがあるな。本当にのり付けしたようにきれいになっていた。
 最後に一束ずつ天日に干して、真っ白く仕上げていた。売り物として出荷するには、色や形は大分やかましく言われていたな。特に色が重要で、真っ白いものが一番だった。
お話 : 志藤富男さん(大谷)
 
 青苧は、おがるほど良いと聞いていた。青苧の高さは二メートル以上あったから、育てるのに肥やしのようなもの、おそらくたい肥をつかっていたのではないかな。
それから青苧の芽がでるのは霜が落ちなくなってからだから、霜は心配なかったな。
 本当に青苧は高く売れた。だからみんな一生懸命していた。
私の家には青苧はぎの道具も残っているが、はぐ時に使う「引き板」は、度々新しいものを重ねていくことで、弾力が出てやりやすくなったんだ。
お話 : 白田千代志さん(大谷)

 昔から、茎から繊維をとる青苧は、大切な衣料の原料となり、主に夏季衣料に用いられ、奈良さらし、越後縮、近江蚊帳などの原料となった。
 明治元年(1864)「最上名所名産名物番付」の横綱は最上の紅花で、その次が最上青苧になっている。その青苧の半数が「五百川苧」「七軒苧」が占め、名産として格付けされていた。今で言えばメーカー品のようなもので高い値で取引されていたといわれている。
 しかし、その青苧も明治の末頃から養蚕業の発達によって、畑地は桑が主流を占め、衣類も高級な絹織物に変わった。そのため青苧栽培は衰退してしまったようだ。
お話 :堀敬太郎 さん(大谷)

志藤 富男(しとう とみお)さん
昭和3年(1928)生まれ。農業 朝日町大谷六在住。
白田 千代志(しらた ちよし)さん
昭和3年(1928)生まれ。農業 朝日町大谷五在住。
堀 敬太郎(ほり けいたろう)さん
昭和3年(1928)生まれ。朝日町エコミュージアム案内人 朝日町大谷一在住。

取材 : 平成19年(2007)

志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
青苧の使われ方
和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
報告
青苧糸とり体験記

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


 じいさんが青苧を栽培して製品化して出荷していた。いつも胸元にカスがいっぱい付いていたのを覚えているな。
 青苧は水にも強く丈夫だったので、一般家庭では主にひもや綱として使っていた。貴重なものだったから、使っていたのは売り物にならない色の悪い物や、はいで残った表皮を利用していた。
 私の家では、馬の手綱(馬のくつわに付けて引く綱)として使っていた。藁では馬の力ですぐ切れてしまうから、青苧でないとだめだった。一本を二間から3間くらいになって使っていた。御神楽の天狗のひげにも使っていたな。青苧は白くて先のほうが細くなっているから、櫛でかっつぐと、いい感じになったんだ。それから、水道工事をしている地元の鍛冶屋さんがよく貰いに来た。水道から水が漏れないように、ネジに巻いて締めてパッキン代わりに使っていたんだ。
お話 : 志藤富男さん(大谷)

 綿代わりとしても使っていたな。皮をはいで残った表皮(一番上の皮)を水に浸し
ながら叩いて伸ばし、拡げたものを乾燥させ綿の代用品として布団などに利用していた。昔、兵士として出征する時には日の丸の旗を立てたが、その登り竿のひもも青苧で作っていたな。鯉のぼりにも使っていた。家には青苧でなったたこ糸も残っている。藁のように何さもかにさも使うと「ほだなさ使うな」とごしゃがれたものだった。
 この辺りでは、皮をとった茎の木の部分を�からむし�と呼んでいた。それは茅葺屋根の軒先の角のかたい部分に使っていた。家を壊したときに屋根の中からすこだま出てきた。お話 : 白田千代志さん(大谷)

 江戸時代から明治時代にかけて朝日町の代表的な一大産業だった青苧は、衣料の原料として何百両という取引が行われていた。年貢として納めていた家もあったほど珍重された物だったから、一般家庭では何にでも使えたという訳ではなかった。
 私たちが子どもの時代には、ごく一部の人しか作っていなかった。家でも作っていなかったから、青苧糸を束で買ってくるものだった。やはり一番はひもや綱として使っていた。下駄の鼻緒などにも使ったりしていた。今みたいにビニールひもなんてなかったから、一般家庭において青苧はなくてはならない貴重な生活必需品だった。
 それから、「からむし」を乾かしたものに硫黄を先に少しつけて、釜戸などに火をつける「点け木」としても使っていた。よく燃えるから、火種としてとても重宝していたんだ。
 農家による青苧生産は栽培から「日干苧」として出荷するまでで、青苧糸を使って布を織るということはなかった。
お話 : 堀敬太郎さん 取材 : 平成19年

志藤富雄さん、
白田千代志さん、
堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
報告
青苧糸とり体験記

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア

 残念なことに雨があがらず、室内で糸とりにチャレンジしました。
 はじめに、講師でお招きした和田新五郎さんが出演されたVTR『和田新五郎さんの青苧』を見て予習し、その後実際に、作業の仕方を教わりながら体験を進めました。
 前日から用水路に浸しておいた青苧から、まずは葉っぱをとり、根元20センチ位を折り、使わない茎を取り出しました。手が茶色になることにみんな驚いていました。そして剥いだ皮を台において、スクレパーを使って茶色い表皮を取り除きました。しかし、これがなかなかうまくいきません。実は、糸をとるための台は本物を見よう見まねで作っておいたのですが、この材質が柔らかかったことが原因でした。本来は、硬くて薄い板を重ねて使っていたのだそうです。皮をはぎとるスクレパーとして準備したケーキ用のへらは好評でした。
 作業しながら、年輩の参加者の皆さんは、いろいろな思い出話をされていました。「季節になると学校休んで手伝わされた。青苧は見るのもいやな程手伝わされた」と苦笑してた方も。
 途中、志藤富雄さん(大谷六)が、おじいさんが作っていたという出荷用の青苧糸をお持ち下さりました。本物の柔らかさやきれいさに感心しました。
 天気が悪く仕上げの乾燥はできませんでしたが、和田さんからいただいていた糸を使って、実際に紡いでみたり、なってみたりして楽しみました。本当に糸の状態になるのが驚きでした。

協力 東北芸術工科大学博物館実習生
平成19年(2007)7月15日
場所 秋葉山交遊館ときめき体験館
講師 和田新五郎さん
参加者 32人

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


 大谷裏小路の和田新五郎さんは、現在も「青苧」を栽培し、糸をとっています。
 古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。
 和田さんの栽培している青苧は、昭和10年(1935)、15歳のときに祖父の元治さんと植えたものを残しておいたものだそうです。糸をとる「青苧はぎ」は、母ふみえさんの仕事で、収穫したものは馬具用の縄をなったりするのに使っていたそうです。
 八月、刈り取りや青苧はぎを見せていただきました。和田さんは背丈ほども伸びた枝を一本一本刈り取ると、手のひらで茎をぎゅっと掴み、手前に引き、葉っぱを見事に扱き落としました。私も真似をしてみましたが、柔らかな手のひらではとても痛くてできませんでした。また、糸をとるために、一晩水に浸けた茎に鉄製のへらを押しあてて引っ張り、青い表皮をはぎとる作業は弱くするととれず、強すぎると糸が切れそうになったりしました。大変でしたが楽しく体験させていただきました。
 手のひらに付いた茶色い染みは四、五日消えませんでしたが、昔の青苧職人と同じと思うとうれしくなりました。
 報告 宮森友香(エコミュージアムルーム職員 2004)

和田新五郎さんのお話
栽培から糸とりまでの作業
DVD『和田新五郎さんの青苧』

志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
青苧の使われ方
報告
青苧糸とり体験記

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五百川峡谷の魅力
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1.霜の季節が過ぎた頃、まばらに伸びた新芽を背丈が揃うようにいったん全て刈る。
2.お盆頃に、根元から刈り取り、葉を取り除く。
3.束にして、水に一晩浸けておく。
4.茎を折り木質の芯を取り除き、皮だけをはぎ取る。
5.専用の板に載せ、鉄製のへらを使って緑色の表皮を取り除き、糸を取り出す。
6.一束ずつ天日に軽く干す。

お話 : 和田新五郎さん(大谷)
取材 : 平成16年(2004)

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 最上川の荒砥・左沢間は五百川峡谷と呼ばれ、急流で難所が多い上に、昔は峡谷入り口の菖蒲(白鷹町)に黒滝という丈余(約三メートル)の滝があり、船の運航ができなかった。従って米沢藩の全ての物資の藩外輸送は山越えを強いられ、幕領の年貢米は二井宿峠か板谷峠越えで福島まで馬で運び、阿武隈川を船で下り、東回りの回船で江戸まで運んだので、費用がかさんだほか荷痛みがあった。
 元禄(約三百年前)の頃、米沢藩の御用商人西村久左衛門は、この黒滝をはじめとする五百川峡谷の難所を開削すれば、荷を藩内から船だけで酒田まで下すことができ、当時河村瑞賢により開発されていた日本海西廻り航路に結びつかれば、航路は下関・瀬戸内海・大阪と長くなるがきわめて安全に荷痛みもなく江戸まで運べると考えた。
 西村の本業は青苧商だったが、幸い縁戚に角倉了似という大土木実業家がおり、その援助で間兵衛という優秀な手代を譲り受け、綿密な調査をさせた上、船大工は大石田から、船鍛冶は越後の飛鳥井村から呼び寄せて準備し、藩および幕府の許可を取り付け、元禄六年(一六九三)開削に取り掛かった。
 その工法は、川の流れを迂回させて滝を干上がらせ、岩の上で焚き火をして岩を焼き、川水を掛けて岩を割ったり、岩盤の上に高い櫓を建て、重い鉄錐をロープで縛り、大勢で吊り上げて落とす「どん突き工法」を用いたりした。工期は一年三ヶ月、総工費一万七千両(現在で一七億)の巨費を投じて翌七年九月開通。間兵衛船と呼ばれた船は米沢藩米を積んで、五百川峡谷を矢のように下り酒田まで通船したのである。この上下の通船がもたらした恩恵ははかり知れず、まさに水運の革命といえるものだった。
 しかし昔のことゆえ、工事の成功や船の安全には神仏の加護を祈ることが第一で、川沿いに神仏に堂宇の再建や鰐口の奉納などの安全祈願が行われた。また、この舟運を持続するため、菖蒲と左沢には船陣屋を置き通船を管理し、途中には通船差配役を置いて、船を曳き上げる綱手道の整備や難破船の濡れ米の処理などをさせた。
 五百川峡谷の朝日町域には大滝瀬・どうぎ瀬・三階滝などの難所が多くあり、しばしば船が難破し、その都度濡れ米を引き揚げた。これには川沿いの百姓が頼まれ、引き揚げた米は払い受けて餅をついたそうで「かぶたれ餅」と言われた。
 しかし、この舟運は後に訳あって西村から藩運営に変わった。そして後年、陸上交通の発達でその役目を終えた。綱手道も今では殆ど姿を消し見られなくなった。

お話 : 若月啓二さん(西船渡) 平成18年

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五百川峡谷の魅力
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五百川峡谷の自然の素晴らしさ
                    お話 姉崎一馬氏(自然写真家)

 五百川峡谷は、何度かボートで下っているが、とにかく素晴らしい自然が残っている。他の所と違って川岸が切り立った崖なので、人の手が入ってない(入れない)から、自然の迫力や豊かさ、景観の素晴らしさを見ることができる。この魅力は、道路から見下ろしても分からない。実際に川を下りながら見ると、川の持っているパワー、大自然のエネルギーを感じる。「こんなにも違うのか?」と思ってしまう。感動の大きさは数百倍違う。
 川岸は変化の大きい自然といえる。崖が崩れたりする不安定な場所は、パイオニア的な植物が多い。ケヤキ類をはじめとして水に強い樹木が多く、大木もけっこうある。切り立った川岸では、太くなりすぎると支えられなくなってしまうので巨木とまではいかないが、それでも太い木はいっぱいある。
 なにより人が入れないので、生き物たちのサンクチュアリ(逃げ場)となっていて、とても貴重な場所といえる。
 以前、仲間と静かに五百川峡谷を下った時には、アオサギやゴイサギ、ヤマセミなどがたくさんいた。特にゴイサギは、四畳半ほどの柳の茂みから100羽以上も出てきて驚かされた。ヤマセミは、数十メートルに一羽は出てきた。この鳥は奥山に行かないとなかなか見られないから、一般的に憧れの鳥となっている。町の中でこんなに見られるのはとても珍しいこと。鳥を観察する人たちにとっては、とても面白い場所でないか。
 日本の自然を象徴できるのは、森と川だと思っている。森がなければ川はないし、川がなければ森が育たない。川は、接してみなければ理解できない自然です。多くの人に、素晴らしい五百川峡谷に接して感動して欲しい。きっと、自然の豊かさ、川の恵み、循環など、我々が生かされている根源の自然を感じてもらえるのではないか。

お話 : 姉崎一馬さん(立木) 取材 : 平成19年 

姉崎 一馬(あねざき かずま)氏
昭和23年(1948)京都生まれ。朝日町立木在住。
雑木林から原生林まで日本全国の森林をフィールドとする自然写真家。山形県朝日連峰山麓を活動の中心とした子供のための「わらだやしき自然教室」もボランティアとともに行っている。著書に「はるにれ」(福音館書店)、「はっぱじゃないよ、ぼくがいる」(アリス館)など多数。

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川岸はサンクチュアリ
                お話 姉崎一馬氏(自然写真家)
 最上川五百川峡谷の川岸は変化の大きい自然といえる。崖が崩れたりする不安定場所は、パイオニア的な植物が多い。ケヤキ類をはじめとして水に強い樹木が多く、大木も結構ある。切り立った川岸では、太くなりすぎると支えられなくなってしまうので巨木とまではいかないが、それでも太い木はいっぱいある。
 なにより、人が入れないので、生き物たちの逃げ場となっていて、サンクチュアリとしてとても貴重な場所といえる。
 以前、仲間と静かに五百川峡谷を下ったときには、青サギやゴイサギ、ヤマセミなどがたくさんいた。特にゴイサギは、四畳半くらいの柳の茂みから百羽以上出てきて驚かされた。ヤマセミは、数十メートルに1羽は出てきた。この鳥は、奥山に行かないとなかなか見られないから一般的に憧れの鳥となっている。町の中でこんなに見られるのはとても珍しいこと。鳥を観察する人たちにとってはとてもおもしろい場所ではないか。
お話 : 姉崎一馬さん (立木) 取材 : 平成19年

姉崎 一馬(あねざき かずま)氏
昭和23年(1948)京都生まれ。朝日町立木在住。
雑木林から原生林まで日本全国の森林をフィールドとする自然写真家。山形県朝日連峰山麓を活動の中心とした子供のための「わらだやしき自然教室」もボランティアとともに行っている。著書に「はるにれ」(福音館書店)、「はっぱじゃないよ、ぼくがいる」(アリス館)など多数。

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 つぼみがふくらみ始め、今年も伊豆権現(宮宿栄町)のご神木樹齢700年の桜のライトアップが始まりました。