朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 今から375年前御普請(幕府の公費)により築堤されたものです。この西堤も老朽化したため、5年の歳月と1億7300万円をかけ改修。平成九年に完成いたしました。   
 『大谷往来』に、西の「溜井に鷺立ち(つつみにさぎたち)」、名物は、西堤の鮒(ふな)の記述があり、当時は村一番の堤で、また鮒釣りの名所として有名だったのでしょう。       
 この堤の特長は、大旱魃(かんばつ)の時でも、三分の一の水は、大谷村の防火用水として残さなければならない約束事が今でも守られていることです。昔の人は不時の災害に備え万全の対策を講じていたようです。

『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋
編集 : 平成14年(2002)
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 寺の創建は南北朝時代の貞治年間(1362〜67)。曹洞宗のお寺としては県内でも5本の指に入るほど古く、村の名を山号にした由緒ある寺です。白田内記藤原安重の懇情を受けた湖海理元和尚が開山し、本師の道愛禅師を一世としました。
 もとは虚空蔵菩薩御堂がある裏山の開山にありましたが、寛文8年(1668)盗賊の放火にあい全焼。21年後の元禄2年(1689)白田内記家が主になり現在地に再建しました。それから百年後の宝暦11年(1761)お盆の8月16日の晩、失火で再び消失。それ以降大谷の送り盆は1日早い15日に行うようになったといわれています。三年後、渡辺平治郎、大谷武助、白田六郎右衛門、大谷五郎兵衛が中心となり安永3年(1774)に現在の永林寺が再建されたのです。
『大谷郷』より抜粋
秋葉山エリア(大谷)
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※白山神社の隣りです。
 左陣は身長2.5m阿形(開口の形)の密迹金剛、右陣は2.4mの那羅延金剛です。文久3年(1863)に西の天満宮焼失で焼け残った仁王尊を明治3年(1870)に仮安置していた永林寺山門に再建しました。
 昭和21年には、台風で仁王門が倒れ体内から祈願札が発見され、元禄5年(1692)に京都の仏師井関宗意、同念性の二人の手によって作られたものであることが分かりました。(写真は那羅延金剛)
『大谷郷』より抜粋

永林寺
秋葉山エリア(大谷)
 元禄12年(1699)大谷大堰をつくった一人である白田内記則安の三男安豊(内匠)が病身のため、健康を祈願して独力で寄進したものでした。この梵鐘は京都の藤原国次という人が作ったもので名鐘といわれていました。しかし、昭和17年(1942)10月、戦争が激しくなり金属不足から供出させられ二度とその姿と音を聞くことができなくなりました。
 現在の梵鐘は、昭和42年(1969)に鋳造されたもので、これまでの梵鐘と重量、音色とも勝るとも劣らない立派なものです。
『大谷郷』より抜粋
秋葉山エリア(大谷)
 大谷盆地は水利に恵まれなかったため、大谷大堰や油子沢新堰とともにたくさんのため池が作られてきました。江戸時代に幕府が整備した「内林」のため池や「西堤」。村人達が自力で作った「仲丸」「猿田」のため池。大谷川を塞き止めた悲願の「馬神池(ダム)」など、昔は40個以上あったそうです。現在も10個以上のため池が大谷の水田を潤しています。平成22年3月「馬神池と大谷の郷」が、農水省の「ため池百選」に選定されました。(応募数600件以上)
※写真は谷地山のため池

主だったため池
馬神池
西堤
内林の堤
衣沢のため池
谷地山の睡蓮池
※詳細な位置はエコミュージアムルームにお問い合わせ下さい。
田畑開拓の歴史
秋葉山エリア(大谷)
Q1・・いつ建設されましたか。
上郷ダムの建設は、昭和35年11月15日に工事に着工し、昭和37年 2月23日に完成し、その日より発電を開始しております。

Q2・・どんな発電をしていますか。(発電)
最上川本川に高さ23.5メートルのダムを築いて水をせき上げ、それによって得られる落差により発電を行っています。

Q3・・どれ位発電していますか。(量)
発電所では、最上川より最大で毎秒百立方メートルの水を取水し、最大出力一万5400キロワットの発電を行っています。また、年間発生電力量は約8000万キロワット時で一般家庭約二万戸分となっています。

Q4・・どこに配電していますか。(場所)
発電した電気については、地元朝日町や山形周辺をはじめとするお客様に供給しております。

Q5・・どのような仕事をしていますか。
発電のために必要な水車・発電機等の機器の維持管理および洪水時のダム操作を行っています。

Q6・・苦労していることは。
上郷ダムの上流より、生活廃棄物等を含んだゴミが大雨のとき大量に流れてくることから、ゴミ処理に苦労しています。

Q7・・ゴミについての対策はありますか。
ゴミの処理については取水口に設置した移動式除塵機により、河川から陸揚げし、ゴミの分別のうえ、適正な処分およびリサイクルを実施しています。

Q8・・魚道について教えて下さい。
アユ、サケなどの魚が遡上できるように階段状の水路を設置してあります。魚道延長は330メートルあり、ダム水位に関係なく、常時毎秒一立方メートルの水を流しております。

Q9・・建設時のエピソードなど、その他上郷ダムについてご存じでしたら何か教えて下さい。
当時発電所の建設工事は昼夜兼行で進められ、多くの組員や行員、それに地元からも大勢の老若男女の労務者が出て工事現場で働いていました。そんな中で長い期間の大工事ともなれば、そこここの工事現場に何時しか美しいロマンスの花が咲き、寸時の休みを惜しむようにしてささやき合っている何組かのカップルが発見されたそうです。そのロマンス組がやがて実を結び、発電所工事が完成し世の人々に明るい灯を送る頃、めでたくゴールインしたと聞きます。

ご回答 東北電力株式会社山形支店
    電力流通本部土木グループ 笠原信年氏(平成20年)

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 旧西五百川小学校三中分校は、明治十五年に建てられたものであり、非常に古い校舎です。
 全国的に見て、学校としてはもちろんのこと、明治初期の時代に建設された三階建ての建物で現在まで残っているものでは、大変珍しいものとなりました。山形県内でも同時代の三階建ての建物は、おそらく三中分校しか現存していないと思われます。
 創建当初の姿については、設計図などがないために詳しいことは分かりませんが、現状から見えるこん跡や申請図として提出された『三中村学校新築建図』(図2参照)を参考にすると、二階の窓は現在よりずっと少なく、縦長の細い窓が相互に離れて配置されていた可能性があります。部屋の間取りや外観についても、時代とともに改修を重ねたようです。
 現在の建物の概要(図1参照)を説明すると、木造三階建てで、総二階建ての建物の上に、面積を縮小した三階が載った形となります。基礎は自然石を切り出したものに直接柱が建つ石場建てです。窓の開口部は片引きや引き分け障子戸を用いています。壁の部分は和風の土蔵造りで、壁に空けられた丸窓が大きな特徴となっています。
 本来丸窓は、西欧のレンガや石を積み重ねる組積造りでできるもので、当時の日本にその技術はありませんでした。三中分校の丸窓は、土蔵造りの白壁に丸い型枠をはめ込む「擬洋風的建築手法」で造ることにより、洋風に見せる努力をしたと考えられます。このようなことから、創建に際しては、まったく西欧指向がなかったとはいえないと思います。
 要するに三中分校は、明治初期の時代において、和風様式を基にした、堂々たる白亜(白壁)の三階建ての建物で、学校建築としては、非常にざん新でユニークな存在であります。大工の棟梁の名も明らかであり、在来の伝統的技法に従いつつも、意欲的な西欧建築への指向も見える、地元大工棟梁の苦心の作といえます。
 一部に改修の跡も見えますが、保存状態は良好です。明治初期の地方における学校として、また当時の新しい建築に対処した地元棟梁の技量の知られる作例として貴重であり、建築史上、文化財的価値は高いものと考えます。現在、破損が進んでいる所もあることから、今後の利用方法も考え、その保存修復には、十分の考慮を期待しています。

講演 東北大学名誉教授 佐藤 巧 氏
(旧三中分校シンポジウム基調講演(平成10年)より)
 今もやっている遊びに「春の山遊び」がある。山菜がうまく、りんごの仕事が忙しくなる前の春盛りに、冬から開放された喜びを身体の内外から味わうものになっている。
 村のみんなに山遊びのことを連絡し、当日の役割分担を決め、村で一番高い高森山か、村を一望できる田の頭の古峯神社に歩いて登り、途中の旧道の由来や清水、種まきこぶしなどをお年寄りから聞きながら,春の陽を浴びながら進む。その中で興味のあったものに「館山にあったお城のお姫様弥生姫が紅葉狩りにきた伝説のある「緋の沢」の話がある。そんな話を聞きながら頂上に着くと別動隊が朝から準備していた昼の宴が始まる。
 昼の宴は、山菜をふんだんに入れた「いれか汁」と鰊汁。途中採ってきた山菜をその場で天ぷらにして振る舞う。子供は自家製のりんごジュース、大人はビールに日本酒を注ぎこみ、つらかった冬の話や四方山話が満開になる。帰りはいっぱい気分でぽかぽか陽気の中をゆっくりと下って来る。そして段取りを含め三日の春遊びが終了する。…と思ったら公民館に入り、山遊びの反省会となる。山から里遊びになり夜も深まっていく。これが送橋の春の山遊び。

お話 : 清野孝一郎さん(送橋)
取材 : 平成17年(2005)
 夏の送橋川での遊び。瀬になり広くなっている場所に石と草などを使ってやや大きめの池のようなものを作る。その池の水をふんどし一丁の姿で、井戸かきの要領で水を干していく。仲間数人で汗だくになってがんばるが、最初は全然水が減らない。やはり川の水が入ってくる所があり、また水止め作業を行って掻き出す。やがて岸辺の草が大きく垂れ下がるようになると魚の背中が見えてくるようになる。掻き出す動きも益々早くなり出し、のどもカラカラになってくる。一番低い所に魚が集まり始める時がもっとも興奮する。気をもんで「かぶたれ」する者が出てくる。それを尻目に魚を捕まえ篭に投げ入れる。懐かしく楽しかった夏の思い出。

お話 : 清野孝一郎さん(送橋)
取材 : 平成17年(2005)
 和紙づくりは、昭和41年頃まで夫が主に冬仕事でしていた。私も手伝いをしていたが、漉き方は1年しかしていない。和紙作りは夫の母がしていたことだが、どこから伝承されたかは分からない。古槙部落では多い時には5軒くらいで和紙作りをしていた。材料のコウゾは家の付近に植えてあるもののほか、八ッ沼などの西五百川方面から購入しソリで運んでいた。できた紙は主に障子紙として使われた。宮宿の近江屋などに納品していた。

〈製造工程〉
1.コウゾを60センチ程度の長さに切る
2.桶をかぶせて半日くらい蒸かす
3.あたたかいうちに皮をはぐ
4.村の人に委託し、皮から黒い表皮をはぎ取ってもらう
5.その白い内皮を煮る
6.すりこぎ棒より大きめの棒で叩く。(家族みんなで)
7.水を張った舟に入れる
8.目の粗い布に入れて水分をとばす
9.水にニレの根を加工したものをいれた紙すき用の舟にいれる
10.紙を漉く
11.漉いた紙を取りやすいようにクグ(草)をはさみこんで重ねる
12.万力で水分を搾る
13.厚手のトタン状のものに貼る
14.下から水蒸気をあてて乾かす
15.周囲の部分を切りそろえる
16.20枚位に束ね出荷する
※蒸かす桶は古槙和紙組合の共有だった

お話 : 清野よし子さん(古槙)
取材 : 平成17年(2005)

 空気神社は、昭和47年頃に朝日町松程の白川千代雄さんが「日本には八百萬の神が様々あるのに「空気」を祀る事を忘れていた。「空気神社」を建てよう」と提唱していたものを、平成2年(1989)に町民有志「一歩会」の働きかけにより実現したものです。本殿の設計は、平成元年にコンペが行われ、51点の中から谷津憲司氏(東北工業大学建築学科助教授)の作品が選ばれました。
 空気豊かな自然と空気に感謝するこのモニュメントは、ブナ林の中に、5m四方のステンレス板を鏡に見立てて置いたもので、四季折々の風景がこの鏡に映り、空気への感謝をよりいっそう強く感じさせてくれます。空気の日に制定した6月5日の例祭では、鏡の上で地元小学生の「巫女の舞」や浮島雅楽保存会により「雅楽」が奉納され多くの人で賑わいます。

清野寅男さんのお話
空気神社の誕生
アクセスマップはこちら
※入口駐車場より参道を10分程歩きます。
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〈きっかけは一人の町民の思い〉
 空気神社は、朝日町松程の白川千代雄さんが「私たちの先祖は、日本には八百萬の神の社が様々あるのに、私たち生き物にとって一分一秒その恩恵をいただかなければ死滅してしまう「ありがたい空気」を祀る事を忘れていた。「空気神社」を朝日町に建てよう」と、提唱していたものです。この考えが、朝日岳山麓家族旅行村「Asahi自然観」のオープンを契機に実現することになりました。まだまだ環境問題は縁の遠い時代ではありましたが、当時の観光協会長だった菅井敏夫を中心に私たちが下に入り、町おこしのために「この地に作ろう」と気勢をあげたのでした。
 当時は「若者がいなくなって村の神社の神輿もかつげない時に新しい神社を作るなんて」と反対者も多数いました。しかし、各集落の区長、各法人、団体等に熱意を伝えて、農協や商工会、漁業組合に賛同をいただくことができました。そして、区長さんや団体の有力な方々に役員になっていただきいよいよ寄付集めが始まりました。一万円以上は芳名板に名を刻して永久に感謝するとしました。残念な事に、当時の私は国家公務員だったので、神社の寄付集めはしないほうがよいだろうということで、できませんでした。お盆などに子供たちが帰省して空気神社に来ると、父親やじいさんの名前を見つけ感心してながめていきます。

〈「光と音」で表す神社のしくみ〉
 さて、空気は色も形も重さもないもの。ご本尊が空気の神社を、どのようなものをどのような方法で作るか?頭を悩ませました。当時の小林富蔵町長が、知り合いの東京の武蔵野工業大学の先生に相談しました。すると先生は「環境問題のこの時代に必要である」と、大いにご賛同下さいました。しかし先生も神社は手がけた事がなく分からないので、全国の建築美術工芸の専門家や大学などによびかけて設計をお願いしてはどうかとご指導をいただき、コンペテーションを行いました。
 佳作まで賞金を出すことと、1500万円の予算で作ることを前提として募集した所、全国から多数の方に応募していただきました。
 結果、仙台の東北工業大学の谷津憲司先生が設計したものが採用されましたが、これまでの神社の形式とは全く違うものになりました。
 外部表面の5m四方のステンレスの鏡板は、森羅万象、春夏秋冬の全てを写し出すもの。すなわち空気を光に変えて写し出します。また、3mの深さの地下殿には素焼きの大きなかめが12個設置してあり、外部の振動を音に変えることができます。空気を音に変えて表すことができるのです。

〈独自の参拝方法「天空感謝」〉
 毎年6月5日の祭礼の時には、地元和合小学校の子供たちが巫女の舞いを奉納します。寒河江の八幡宮から「豊栄の舞」を伝授していただき練習を重ねたものです。
 参道には「木・火・土・金・水」の五つのモニュメントが建っています。これは古代中国の「五行」の思想を取り入れたもので「この世の中のものは全てこの五つの元素から成り立つもの、空気もここから生まれたものである」という考えから建てました。ヒマラヤの回して拝む「マニ車」を真似て、ぐるぐる回せるようにしてあります。最後の水のモニュメントでは、ブナの森の水が湧き出るしくみになっており、参拝者がここで水を飲み、手足を清めて、空気神社に参拝できるようにしてあります。
 参拝方法については、宗教的なこだわりはないのでどのような参拝でもよいですが、空気神社奉賛会では二礼四拍一礼を勧めております。二礼したあと、春夏秋冬に四回柏手を打ち、次に空高く両手を上げ、空気を一杯吸って、「いつも大切な空気をありがとう。空気を汚さないよう注意します」と誓って最後に一礼をする。この天空感謝の参拝方法は空気神社にしかないものです。

お話 : 清野寅男さん(宮宿)
平成19年 空気神社案内時に採録 ※写真は清野さんです。
上記ダウンロードボタンよりPDFファイルを開く事ができます。
 五百川峡谷ビューポイントにも推薦された川通地区の最上川フットパスは、五百川峡谷ならではの切り立った川岸や、舟道、稲荷神社の御池とされた雪花渕と桜並木の風景などを眺めながら歩けるコースとなっています。また、村内には三瀧山観音寺をはじめ、古い絵馬のある観音堂、見事な彫刻のなされた町内唯一の八坂神社、町内で最も古いと推測される石仏などがあります。※詳しくは秋葉山エリア川行をご覧下さい。

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※アクセス看板が未設置です。上流部入口は観音堂のある墓地の終わり(ガードレールの終わり)付近、下流部入口は集落の終わり付近です。

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ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
〈大竹國治さんのこと〉
 國治じいさんは、明治十三年生まれ、大地主の息子で昔は福島の蚕業学校なんか行ってたし、和合の信用組合なんかも作ったり、大正六年からずっと村会議員や町会議員もしていた。昭和十八年前後には宮宿町長なんかもしていたから普通の百姓の人ではなかったらしい。昔は、養蚕の種屋をしていた。この家も総二階で蚕を二階なんかに飼っていたのだろう。種屋は良い種を見つけるのが仕事で、この家の造りもこの土間も広いのは売り買いしていたからだな。

〈國治さんと考古学〉
 國治さん自身は、考古学的なものは何も残していないが、書については興味があったえらしい。歌お膳や何かにも詳しくて近さん(國治さんの息子)が結婚する時は、お膳とか何か輪島の名人に注文していろいろなお花とか鳥とか描いてあって、一枚ずつ違う文様のを取り寄せたりしたこともあった。
東京に行ったときも、三越からお土産を買ってくるような人だった。良いものを見る目はあったのだろう。私は詳しく分からないが、いろいろなものに興味を持った人だったらしい。昭和十二年に明鏡橋の工事があって、その時に自分の畑から出た石を見つけて二階の部屋にとっておいた。二階は、滅多に人の行かないところだから置いておくには良かった。これが大隅の旧石器だった。

〈田原眞稔さんとの関係〉
 國治さんの妹が大井沢に嫁いでいて、その旦那さんは校長先生なんかした人で、その子供が倫子さんで田原さんの奥さんだ。だから、仲人なんかもしたと聞いた。倫子さんの実家は大井沢で、あの当時だと冬は行くのが大変で正月なんかこの家によく遊びに来ていた。それで田原さんが考古学に興味があるからというので見せたのだろう。だからきっと、國治さんは大隅で見つけた石が、石器と分かっていて二階にとっておいたのじゃないか。

〈潤次郎さんも発見した〉
 潤次郎さんは昭和六十二年五十四歳で亡くなったが、区長もしたし森林組合なんかの仕事もしたし、教育委員も務めたんだ。昭和五十四年にまた道路の改修工事があって国道二八七号線の工事をした。この時に潤次郎さんも畑に毎日のように見に行って、自分の畑が削られるときに掘ってまた石器を一個発見したのだな。この石器発見で、はじめて大隅遺跡が発掘された。調査は、この時が初めてらしい。三個くらい見つかったと聞いている。

〈國治さんは偉かった〉
 國治じいさんが偉いと思うのは、戦争に負けてこれからは今までと違って生きなくてはいけないというので、大きな屋敷のこの家のお坪を少し壊してりんごを植えたり柿を植えたりした。この気構えはなかなかできないな。自分が大事にしてきたお坪壊すのだから。その変化は偉かった。雑木林もりんごに換えた。今もそのままりんごを作っている

〈この土地の良さ〉
 ここの大隅の場所のことだけど、この間全国を地質調査に回っているという人が来て、ここは風景も良いし三メートル下は岩盤で地震に強い。排水も良いし井戸水も枯れない良いところだ。ご先祖さんは、良い所を探したなと誉めていた。こんな良い所だから大昔から人も住んでいたのだろう。最上川の段丘には遺跡が多いということらしい。そこは住むにも良いところだ。

〈大隅の旧石器のこと〉
 大隅の旧石器が見つかって、田原さん達が研究したのだけど、長い間放っておかれた。これだけ価値のあるものだと思う人が少なかったのだろう。國治じいさんは、石器は貴重なものであれば私有化してはならない。社会へ提供するべきだといって、全部あげたと聞いている。だから町でこういうものを大切にしてもらえたら、國治じいさんも喜ぶだろう。

お話 : 大竹敦さん

〈小学校三年から石器拾い〉
 田原眞稔が石器や土器に興味を持ったのは、小学校三年くらいからだったと聞いている。その頃だと、この大隅あたりを歩いては、石器や土器を拾いに出かけたらしい。今も残っているが、ボロリュックと巻き尺なんか持って歩いていた。菅井進さんなんかと一緒に歩いたこともある。石器のでる所は、裏に丘陵があって、下は開けているという所だと話していた。そして、こういうところが昔の人が住まいするのだと話してくれた。

〈結婚した頃〉
 眞稔さんは、大正十四年生まれで、私は大正十五年生まれです。私は大井沢(西川町)生まれで、父は学校の先生で姉は医者(志田周子)だった。私は、兄が出征して帰るまでの約束で家に帰った。そんな私をみて、叔父が田原との縁談を進めてくれた。どうせ百姓するなら良い場所がいいと思っていたので、家の周辺が畑なのは、働きよいと思った。

〈田原家のこと〉
 眞稔さんもこの土地が好きだった。田原家は、五町歩の御朱印地を持っている神社だった。大谷には、白田外記、内記など御朱印地が多かった。この田原家は、本業は神職で、医業が副業だった。三代前頃は、寺子屋をしていて近隣の子弟を教えていた。兄が医者になる予定だったが、若くして死んだので後を継いだらしい。

〈『縄紋』を出していた頃〉
 考古学が好きだったので、入門書から専門書、までずいぶん多く読んでいたようだ。山形師範では、長井政太郎先生の弟子で、三面部落の調査の時の原稿も自分が書かせてもらった。昭和二十年に師範を卒業すると和合小学校に勤務した。この頃菅井進さんや大竹家と知り合った。私が結婚したのは、昭和二十六年だから、もう『縄紋』も終わりの方だった。今でも多くの人達から来た手紙が残っているが日本中の研究者と連絡していたようだ。後々までいろいろな連絡が来ていた。学校から帰って夜中になると原稿を書いていた。あまり遅くまで起きているので朝はつらかったようだ。学校に遅れて行ったりしていた。あの頃はそれでも勤まったが、今だったら勤められたか分からない。昭和二十二年に『縄紋』第一集出しているけど、あの時は紙の少ない時代で、教員になってからの給料は、ほとんど『縄紋』に使ったと思う。私は、一度も主人の給料を見たことがない。

〈東京大学で講演したことも〉
 日本中で『縄紋』読んでいたみたいで縄紋文化研究会には、日本中に会員がいたようだ。文部省から研究費をもらっていたこともあったが、経済的には大変だった。この研究には、会費とか会議とかいろいろなお金がかかったようだ。学術会議の会員にもなっていて人文学部の選挙権もあった。昭和三十年頃だったと思う。「縄文学の提唱」という題で、東京大学で論文発表してきた頃が、主人としては一番良い気分の時だったと思う。
それ以降、病弱な子がいて、母が病気になったりで、生活に重点を置かざるを得なくなり、学校を辞めたのだと思う。農業で生きられる人ではないと思ったので、私も、私の姉たちも学校を辞めないようすすめたが、言い出したら聞かない人だった。

〈縄文の博物館を作ろうとした〉
 学校を辞めたのが昭和三十二年です。私が畑、主人が給料と二つあるのが良いと思っていたが、りんごを始めていたので、それを本格的にするというので辞めた。学校辞めてりんご作ろうとしたのは「縄文博物館」を作るのが夢だったと話していた。にんごで生活を安定させて夢を実現しようとしたが、現実には思うようには行かなかった。

〈日本のシュリーマンに〉
 体こわしてからも菅井さんなんかが、改めて発掘しようとか誘いに来たけどあまり熱心ではなくなった。シュリーマンの様に大きなことをやりたかった。そのためにはお金が必要で、それで農業で生活の基礎を築きたいと思った。その頃、給料は安いし戦後の食糧不足の時代だったが、和合の方はりんごで景気が良かった。りんごで稼いで本格的に縄文の研究したかったのじゃないかな。大学の非常勤講師もしていたが、農作業が忙しくてそれどころではなくなった

〈何にでも研究熱心だった〉
 学校を辞めてりんごづくりと鳥飼もした。鳥飼したときも『養鶏の日本』なんて本を読んでいた。りんご箱でゲージ(鳥かご)を作って五百羽も飼ったことある。その卵を仙台のお菓子屋に売りに行ったり、塩釜から魚のアラをトラック一杯買ってきたりした。何でも大規模にしたい人だった。研究熱心で鳥のくちばし切ったり、羽根切ったりしてどうしたら効率良く育てられるか研究したりもした。
 りんごも作り始めると青森の渋谷雄三さんの剪定の本を取り寄せて勉強していた。剪定は、教えに行ったこともあるし賞ももらったし、本人も剪定が一番面白いと言っていた。でも、若いときから労働した人ではないから、労働の連続はできなかったのじゃないかと思う。
 大竹の叔父は、大分主人を気に入ったらしく、和合小から送橋に転任になるときなど教育委員会に異議申し立てをしたハガキもある。だから、石器も預ける気になったのだと思う。旧石器のことが次第に知られるようになってくると、山形大学生や石器に興味を持つ人が訪ねてくることが多くなり、仕事に影響するようになっていたし、柏倉先生や加藤稔先生等も見にいらっしゃったのを覚えている。その頃だったと思う。「山形大学に貸してやることにした」と言っていたのを覚えている。どなたと、どんな約束をしたのかは分かりませんが、貸してやったと言っていました。
 この家には、集めてきたいろいろな石器や土器が町から貰った収納箱に残っている。いつかどこかで展示できたら良い。

〈この土地が好きだから〉
 千年近くも続いている家なので、できるだけこの土地を残したいと思っていたのだと思う。ずいぶん苦労もさせられたが、夢のある楽しい人だったと思っている。個人でスプレヤー(消毒などの散布機)を採り入れたのも早かったし、自家用の車を入れたのも早かった。中古で買った牽引車を今も使っている。この土地を残してもらったおかげで、今も働けて何とか生きてこられたのだと思う。
眞稔さんもこの土地が好きだったから、ここでりんごづくりをしたのだろう。小さい時から自分が大きくなったら、この土地に住んでこの土地を守ると話していたらしい。
 本当にこの土地が好きだったのだろう。手相を見る人に、五十代で命に係わる病気をすると言われたと言っていた。四十代半ばで大病をし、五十五までの人生は短すぎたと思う。

お話 : 田原倫子さん
平成8年