朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
五百川峡谷ビューポイント。「酒田あたりとも違う最上川の雄大さを感じる。夕日が落ちるほんの一時、波がキラキラと夕焼けに染まるのが美しい。りんご畑も広がりっている。冬景色は特に好き」
撰/浅井周作さん(宮宿) →アクセスマップはこちら ※川通り地区より上流へ向かい観音堂を過ぎたあたりです。 →ビューポイント一覧 |
五百川峡谷ビューポイント。「リンゴ畑に囲まれた校庭を進んだ眼下に、大きく曲がりうねった最上川を挑める。翠碧の川面は四季折々に美しい表情を見せる」
撰/川勝節子さん(大江町) →アクセスマップはこちら →ビューポイント一覧 |
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五百川峡谷ビューポイント。「新五百川橋の間に、東西五百川郷を結んだ渡し場があった。川・橋・集落の俯瞰が美しく、歴史の面影を残している」
撰/若月啓二さん(西船渡) →アクセスマップはこちら →ビューポイント一覧 |
五百川峡谷は巨鮎(大鮎)が育つことで有名です。毎年、県内外から多くの友釣りファンを呼びよせています。巨鮎は重量150グラム以上、全長26センチ以上をいいますが、まれに300グラムを越え40センチ近い大物も育つそうです。鮎の餌である藻が五百川峡谷には特に豊富にあることが理由とされています。
熊坂正一さんのお話 →鮎漁と巨鮎 →最上川第一漁業組合 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
昭和30年代まで最上川全体には、およそ40ヵ所の梁(やな)がありましたが、五百川峡谷には11ヵ所、朝日町内だけでも7ヵ所もあり、県内一の梁数を誇っていました。五百川峡谷には、連続する瀬と岩盤そして中洲が多くあるため、簗をかける条件に恵まれていたのです。しかし、残念ながら上郷ダム開発時に全廃してしまいました。現在は白鷹町と大江町に観光簗が復活しています。
熊坂正一さんのお話 →最上川で一番多かった簗 →マスノスケ 鈴木治郎さんのお話 →鮎と鱒(ます)の料理 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
私も上郷ダム建設で冬の間だけ稼がせてもらった。仕事の中身は番線曲げやもっこ担ぎ、セメント、パケットの掃除などいろんなことをしたっけなあ。日当は350円位だった。時には“こまわり”ていうて、ノルマを終わすと二時半頃に終わることもあった。川に中洲があったけど、そこにも畑があって舟で畑仕事に行ったりしたもんだ。はじめはダムの建設に反対したけど、役場も進めているし長いものに巻かれろってことで、賛成したんだ。んだげっと、今考えてみると、いい時代にしてもらた気がするなあ。花火大会もあったし、ワイン祭りもあるし、町や地域のためになったんだと思うな。あと、工事で犠牲になった人もいたけど、工事に来てだ人に嫁行った人も何人かいたな。とても賑やかな時代だったな。
お話 : 柴田つやさん(大滝) 取材 : 平成15年上郷宝さがし →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
大谷盆地中央の広い平坦な所は、水利に恵まれず、昔から荒地と湿地がほとんどでありました。水田といえば、山田や谷田で小さな溜池や沢水、わずかな清水(涌水)と、天気まかせの天水を利用して細々と耕作していたのです。その田んぼも、日照りになると、田は割れ、稲は枯れてしまい、毎年のように水不足に悩まされてきたのです。そんな時代が何百年と続いてきたのでした。
江戸時代になって、初めて大型のため池が二か所つくられました。それは山形藩主鳥井忠政預り支配のとき御普請所(幕府の公費)により、郡中の幕府領内の村々から大勢の人足が出て築かれたものです。内林のため池は寛永三年(1626)、西堤は翌年の寛永四年に完成したのです。 それから二十年後、慶安元年(1648)に村人だけの力(自普請)で中丸と猿田のため池二か所を構築したのです。これらの本格的な溜池四か所の完成により、盆地周辺の山裾一帯が新田開発され、耕地面積も倍増しました。しかし、平地を開田するだけの水量はなく荒地のままだったのです。 『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋 編集 : 平成14年(2002) |
明治16年(1883)より毎年旱魃が続き、特に明治十九年は、歴史に残る大旱魃となったのです。田植後6月18日は一日雨。それより8月22日まで、五5、6回一時的な雷雨があったものの、65日間ほとんど降雨なく、連日摂氏30度以上の猛暑が続き、稲や野菜も枯れはじめ、収穫は半作という悲惨な状況でありました
油子沢新堰完成後20年にして、またもや水不足が問題となったのです。そこで衣沢に30日間通水できる大型の溜池築堤を村会で決議、明治新政府の基盤も弱く、国からの助成は困難な状況にありまた、村民に費用の全額を負担させることもできず、苦心相談の結果、村の有力者5人より、田地買上代として150円の寄付を願い、村民の協力で、難工事も順調に進み遂に完成したのが滑の股ため池(通称村堤または衣沢の堤)であります。 明治23年建立の「滑股溜池碑」に総工費1,593円、総人夫1,050人と刻まれています。 →滑の股溜池碑写真 『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より 編集 : 平成14年(2002) →アクセスマップはこちら |
大谷で最初に、大型のため池が御普請所(幕府の公費)によりつくられたのが、内林のため池です。今から377年前のことです。
現在の潅漑面積は、7,1ヘクタールで内林水利組合が管理運営をしています 堰堤(えんてい)からは、大谷盆地全域を一望でき、春夏秋冬、季節ごとに変わる大谷の美田を楽しむことができます。 大谷の周辺には、昔あったものを含め、大小40以上のため池がありました。学校にプールができ、落ちると危ないからと親から注意され、溜池に寄りつかなくなりましたが、昔は溜池がレクリエーションの場でありました。特に、この内林の堤は、大谷地区のプールがわりに、毎日水泳や釣りを楽しんだものです。このように、溜池に関わった人、親しんだ人が大勢いたのです。 『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋 編集 : 平成14年(2002) →アクセスマップはこちら |
今から375年前御普請(幕府の公費)により築堤されたものです。この西堤も老朽化したため、5年の歳月と1億7300万円をかけ改修。平成九年に完成いたしました。
『大谷往来』に、西の「溜井に鷺立ち(つつみにさぎたち)」、名物は、西堤の鮒(ふな)の記述があり、当時は村一番の堤で、また鮒釣りの名所として有名だったのでしょう。 この堤の特長は、大旱魃(かんばつ)の時でも、三分の一の水は、大谷村の防火用水として残さなければならない約束事が今でも守られていることです。昔の人は不時の災害に備え万全の対策を講じていたようです。 『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋 編集 : 平成14年(2002) →アクセスマップはこちら |
寺の創建は南北朝時代の貞治年間(1362〜67)。曹洞宗のお寺としては県内でも5本の指に入るほど古く、村の名を山号にした由緒ある寺です。白田内記藤原安重の懇情を受けた湖海理元和尚が開山し、本師の道愛禅師を一世としました。
もとは虚空蔵菩薩御堂がある裏山の開山にありましたが、寛文8年(1668)盗賊の放火にあい全焼。21年後の元禄2年(1689)白田内記家が主になり現在地に再建しました。それから百年後の宝暦11年(1761)お盆の8月16日の晩、失火で再び消失。それ以降大谷の送り盆は1日早い15日に行うようになったといわれています。三年後、渡辺平治郎、大谷武助、白田六郎右衛門、大谷五郎兵衛が中心となり安永3年(1774)に現在の永林寺が再建されたのです。 ※『大谷郷』より抜粋 →秋葉山エリア(大谷) →アクセスマップはこちら ※白山神社の隣りです。 |
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