朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

思いのいっぱい詰まった豆菓子
 この寺で学校が開かれたのは明治八年。今から123年前の事です。そして、今の旧三中分校、三餘学校となったのが明治十五年のことです。
 さて、三餘学校の頃から三中分校になってもずっと伝えられてきたものがあります。なんだと思いますか。そう、まめです。今日受付でもらった煎ったまめに砂糖がまぶしてあるものです。白い砂糖です。私の大爺ちゃんも私のお父さんも、そして私も三中分校に入学するときには必ず持たせられました。重箱一杯の豆をもって入学式に行って、入学式が終わるとそれを広げてみんなで食べたんですね。白い砂糖なんかはホントに高価だった頃、その高価なお菓子を持って入学式に臨んだんですね。重箱一杯たがって、みんなでがばがば食ったわけです。
 でも、この豆の中には一つの願いが込められています。入学したときからおっきくなるまでずっとまめで暮らせますように、角のある人間でなく丸く優しい人間になってくれますように。母ちゃんだの願いがこの豆には込められているんです。お母さんたちの愛情がいっぱい詰まった豆なんです。

寺子屋を開いた盛恬和尚
 さて、この三中分校、学校として始まったのは明治八年でした。しかし、私がこれからお話しするのは学校が開かれる前の、寺子屋の時代の話です。
 寺子屋を開いた人はどんな人かというと、名前を盛恬というお坊さんなんです。りっぱな顔しったね。この盛恬和尚さん、偉いお坊さんだったんです。しわくちゃで、口をぎゅっと曲げているような、けっこう性格がごうじょっぱり。気むずかしいお坊さんでした。どこで生まれたかというと、山形の船町一乗院というお寺に生まれました。名前は、「一」と書いてはじめと呼びました。寛政二年今から208年前に生まれた人です。五歳の時に山形宮町の両所の宮、成就院という寺がありました。この成就院という寺に盛諄というりっぱなお坊さんがいました。そのお坊さんについて得度式を受け、元浄という僧名をいただきました。その後、盛諄和尚さんから盛恬という名前を改めてもらったのがはじまりです。盛恬という名前をもらって何をしたかというと、羽黒山の山岳仏教、または船町の貴船神社社斉、真言の開祖である大日経、または事相、教相、漢詩等々、あらゆる勉強を三十八年間積みました。

盛恬和尚八ツ沼へ
 三十八歳の年、山形の成就院にいたこの盛恬和尚は、初めてこの若宮寺に住職として入ることになったのです。山形からここまで住職としてやってくるんですね。何できたと思う?歩いて。その通り。山形から歩いてきたんですが、一人で来たわけないですよ。家財道具みなもってきたんです。長持〜、日常生活品、経典や様々な書物、様々な法具、そういった物をみんな詰め込んでやってくるわけです。この八ツ沼という土地から百二十人が出向いて迎えたんです。ずっと来る様子はさながら大名行列のようでした。そういうふうに古文書には記載なっています。んだらどの道ば来たんだべ。山形から山辺、山辺から大蕨、大蕨から送橋、前田沢、宮宿、助ノ巻、船で渡てこの八ツ沼にずっとのぼて来たんだね。
 文政十年の年、初めてここの若宮寺の住職になったとき、最初におこなったのは、境内地の整備と伽藍の整備でした。一番最初に手がけたのは、皆さんが座っているこの上、ごう天井の絵。これは皆川義川定信という狩野派の絵描きさんを呼んで、八十八枚描かせたのです。貝殻、珊瑚など様々な顔料で描いたのがこの狩野派の絵です。わざわざついてきたんです。その人は、盛恬和尚が好きだからついてきたんです。そして、一生懸命描いてくれたのがこの絵です。
 同じようについてきた人がいます。山形は長谷堂出身、名工とうたわれた、粟野音松という人がいます。その人は何をしたかというと、欄間を彫っていったのです。阿吽の龍、これみな彫っていったんですね。丹念に丹念に一木を彫っていったんです。こっちの欄間は二十四孝、親孝行を題材にした欄間が非常に多くあります。この若宮寺には、二十四考の郭巨の鍬堀りや太公望の覆水盆に返らず等をあらわしたものがあります。一度やっとことはもとに戻らないんだ最後まで責任を持ってやりなさいよということなど色々なことを教えてくれています。正面の阿吽の龍を見てください。二匹の龍が荒波の中にいます。上に行くに従って波は穏やかになっています。これは人生を表していて、アーと生まれてから人生の荒波にもまれて、ンと亡くなるまでを描いています。そしてその御霊を後ろの観音様がふねに乗せて、須彌山の世界まで導いていく様子を考えてつくているんですね。
 盛恬和尚は一生懸命堂内の整備を行いました。今は本堂ですが、その当時は講堂、学びの場所でした。一生懸命勉強する人を集めて経典などの勉強を教えたのです。それが寺子屋の始まりだったのです。そうして十一年間を過ごしました。

盛恬和尚再び八ツ沼へ
 そうしていると、山形の成就院の盛諄和尚が亡くなったんです。これはいけないということで十一年間務めたこの若宮寺をやめていきます。そして成就院で六年間を過ごしますが、八ツ沼が恋しくなって、天保十三年の年、成就院を隠居することを宣言したんです。八ツ沼衆が「盛恬和尚、まだ来てけねが、まだ、勉強おしぇでけねが」といい、その八ツ沼の意気込み、勉学にかける努力、人の心、ここに残った自然が盛恬和尚を呼び戻したのです。みんなは、名声をとどろかしている盛恬和尚をまたここの住職に迎え入れることができるというので大変喜びました。今度は二百三名で迎えに行ったんです。久しぶりに戻ってきた盛恬和尚は八ツ沼はやっぱりいい所だなと思い、また一つ事業を興すことを考え、始めたのが鐘楼堂の再建でした。

鐘楼堂の再建と開田事業
 今の鐘楼堂はだいたい150年前に建てられた物です。この鐘楼堂を建てるに当たっては左沢の菅野辰吉という人が、弟子たちも引き連れてきて建てました。なんと七年間かかって建てたものです。七年間の歳月、しかも設計図などはなく、棟梁の頭の中にしかなく、弟子たちは棟梁の言うとおり切ったり削ったりしてやっと作ったのです。高田の大庄屋長岡権四郎家文書には、そのときの様子が書かれています。七年間もかかったんだからよっぽどお金かかったんだべなとおもうべっす。お金であげなかったんでなかったんですね。文書の中には、米何斗、みそ、べべこ何枚、おしめ何枚などという記述があります。おしめなどとあるところを見ると、ついてきた弟子夫婦の間に子どもが生まれたということがわかります。七年間の間村衆もがんばって協力したんだね。
 弘化二年には盛恬和尚は江戸の寛永寺まで行っています。江戸上野の寛永寺で大日経を講義してくださいといわれていったんですね。江戸まで名声が響いていたこの盛恬和尚、数年の間大日経の経典の講義をしてきました。江戸まで歩いていったんですよ。三週間も四週間もかかったことでしょう。江戸で講義を終わってからすぐ戻ってきたかというとそうではなく、大阪までまた歩いて、釣鐘を注文しにいったんです。大阪河内屋五郎左右衛門という人にこの鐘作ってけねがと頼んできました。そしてできあがったのが嘉永三年の時でした。
 ようやくこの鐘が完成して間もない頃、盛恬和尚は、こんどは村のために開田事業をおこしました。天保年間には果沼の薬師堂の周りにあった沼を埋め立てて開田しました。そのほかに慶応元年には五百刈り、または壇の越、お墓だった所を拝んで、整地し開田し、水田を開きました。

多くの人材を育てた寺小屋
 そんな事業をいっぱい重ねて、天保年間に寺子屋を開きました。県内だけかと思ったら大間違い、福島、いわき、郡山あたりからもいっぱいお弟子さんたちがやってきて、三百人以上の生徒さんがここで書道や漢詩を学んだという伝えがあります。一生懸命学んでいってその精神を全国に広げていったわけです。
 巣立っていった人はたくさんいるのですが、夏草に佐竹恒雄さんというお宅がありますが、そこの先祖様で佐竹正詮というお弟子さんは衆議院議員まで立身出世なさいました。盛恬和尚の教えの中から心の精神とか、そういうことを学んでいったんだと思います。
 
素晴らしい景色と伝承
 さて、盛恬和尚さん二回目に八ツ沼に来る時、何で八ツ沼はいい所だって言ったんだべ。それは八ツ沼衆がみんな気持ちのいい人だということ。一生懸命学ぼうとする努力がすこしずつ報われているということ。むかしからあるものを大切にしているということ。そういったことがすべて盛恬和尚にとってすばらしいことだったのだと考えています。
 また、この若宮寺の後ろに春日沼というところがありますが、沼の景色、鴻の森に囲まれた熊野神社、鈴ヶ森に囲まれた春日神社、向かって左手奥に見える若狭山、緑が湖面に映える春、夏、秋、冬。ほんとにきれいなんです。湖面の中には夫婦岩と言われる大小の岩が渇水すると見えてきます。夏、秋、朝早くこの沼の所に出てみると、朝もやがパーッと、まるで天女が羽衣で湖面を掃除しているようです。それから自分たちが一生懸命努力して作った果沼、秋になると黄金色に実った穂が一面に見える景色。ここの鐘楼堂からまちを一望する景色。もう一つ、400年程前にはこの館山にはお城、山城があり、このあたりは戦場と化していました。その一角に七つ井戸というところがあります。その七つ井戸というところから望む景色はまさに壮観です。今言ったことはすべて八ツ沼の七名所と言われるようになりました。そんな自然をもっている八ツ沼を盛恬和尚は大変愛したんだと思います。
 この八ツ沼周辺いろんな事が伝承として残っています。鈴ヶ森の鳥の声、提灯岩、化け石、阿吽の水、沼の変水、また周りには、活地蔵、小関壇の異変、いろんな伝承が残っています。そんな伝承もここに住んでいる人たちみんな孫たちにつたえてきたものです。
 自然にここは街道となって栄えていきます。八日町、七日町、袋町、上町、中宿、寺宿いろんな町があって約百軒が軒を連ねる街になりました。大谷の方には猿田越えの街道、高田には山伏の道、石須部の方におりていく道、石須部からずっと朝日、黒鴨に抜けていく道、ここは、要衝の場所だったんです。

西五百川を潤す水と人の心
 また八ツ沼は水のうまいところで、五本桶とか庵の井戸とかふだに水が出てくるところです。うまい水だぞ。その水が、滑田の方までいってそこででるセリ、これは絶品。これほどうまいセリは日本中探してもどこにもない。香りといい、歯ごたえといい、ほんとにいいセリが出るんだな。
 八ツ沼で暮らすうえでは唯一水も大切でした。穀物も大切でした。しかし、もっともっと水が欲しいということで、源次兵衛堰ということを考えたこともありました。しかし、これは幻に終わりました。でも水をもってこようとして努力した地区がこの西五百川地区にはいっぱいあります。水口堰もそうです。三中堰も松程堰もそうです。みんなその地区でそれぞれ一生懸命努力して生きてきました。その生きてきた証がいま我々が住んでいる西五百川という地区です。
様々な文化・遺産がいっぱい詰まっているこの西五百川という地区、八つ沼という地区をもっともっと知って、よりよい所を一生懸命勉強し、活かしていこうではありませんか。今日の和尚さんの話は初めて寺子屋を開いた人、盛恬和尚の話でした。
登坂 高典さん(若宮寺副住職)
平成10年 
 大谷の獅子踊りは、江戸時代の後期、文化年間(1804〜17)に、天満宮の神官であった白田家31代外記清安(きよやす)が仙台藩角田村(現在の角田市)の切幕の獅子を取り入れたのが最初といわれている。
 毎年、二百十日の前夜8月31日の風祭りに奉納するほか、8月15日には「送り盆の供養獅子」として永林寺本堂前で踊っている。
 この獅子踊りも戦後、後継者難のため解散寸前にあったが、大谷4区(浦小路)の青年たちが、伝統ある郷土芸能の保存継承を決意、幾多の困難を克服して飛躍的に発展させたのである。その努力と功績が認められ、昭和57年(1982)に朝日町無形文化財に、平成3年(1991)には山形県無形文化財に指定された。
『大谷郷』より抜粋 写真は送り盆の供養獅子

大谷獅子踊りの由来
大谷獅子踊り保存会
大谷獅子踊りの思い出
映像(Youtube)
大谷の獅子踊り/佐藤孝男さん
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』
秋葉山エリア(大谷)
白山神社・永林寺マップ
 白山神社は承和7年(840)、加賀の白山権現より勘定したと伝えられています。その後、大江家や最上家より社領の安堵を受け、慶安2年(1649)徳川将軍より19石4斗余のご朱印地をいただいています。もとは村の中央にありましたが、小学校と隣接していたため終戦後に進駐軍より命令され解体。昭和25年に西野天満宮跡地とされる現在地に再建しました。旧大谷小学校校門先のヒバの木は、白山神社本殿跡に植えられた記念樹です。
『大谷郷』より抜粋

秋葉山エリア(大谷)
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旧神社跡マップはこちら
 大谷地区には、西の天満宮、北野天満宮、高木天満宮、峯壇天満宮の四つの天神様があり、古くから村人の崇拝を受けてきました。
 白田内記家・外記家は、菅原道真の子孫であるといわれ、そのため代々天神信仰が厚く、大谷の四天神は白田一族と関わりのある人が建立したといわれています。西の天満宮は白山神社と合祀されました。(写真は峯壇天満宮)
『大谷郷』より抜粋
大谷の白田氏と天神様(見学会)
幻の大谷天満宮を訪ねる(見学会)

アクセスマップ
峯壇天満宮
高木天満宮
北野天満宮
※いずれも分かりづらい場所にあります。地区の方にお聞きするかエコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。
秋葉山エリア(大谷)
五百川峡谷ビューポイント。「果樹畑を手前に沈提や用のはげ、そして広い空の風景を最上川が迫って流れてくる感じが好き。小さい頃から見慣れている風景。眺めながら入れる「粧坂鉱泉露天風呂」があったらいいな。」
  撰/村山茂雄さん(粧坂)

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※国道287号より粧坂地区に至る追分石より少し入ったあたりです。

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五百川峡谷ビューポイント。
「元禄時代に書き綴られた『大谷往来』の風景と変わりなく滔々と流れる最上川が眼下に見える。」
撰・写真/堀敬太郎さん(大谷)
※写真は「絵になる風景賞」受賞(平成10年)
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※県道112号より入った秋葉山グラウンド南側駐車場に登り口があります。

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五百川峡谷ビューポイント。「最上川と用のはげの力強さに惹かれる風景。昔はナマズやジンケン、ヤツメウナギなどの魚獲りに熱中した」
 撰/堀 茂さん(栗木沢)

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ビューポイント一覧
五百川峡谷ビューポイント。「新旧明鏡橋と朝日岳も見える。春は色とりどりに花が咲き、秋は大隅側川縁の紅葉がひときわ美しく、冬は霧氷が朝の光でキラキラ輝く」
  撰/志藤正雄さん(栗木沢)

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 いくつもの中州、白波のたつ激流、色とりどりのカヌー、りんご園そして遠くに旧明鏡橋や桜公園の美しい風景を見ることができます。「最上川ビューポイント」は 、山形県が「母なる川・最上川」への関心と愛着を深めることを目的として、最上川の良好な眺めを得られる地点を公募し、寄せられた258件129ポイントの中から11景を選定したものです。

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※カヌーランドより県道9号を上流へまもなく。

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五百川峡谷ビューポイント。「舟運の安全を祈る川船衆の信仰を集めていた神社。春先の水が豊富な時、たくさんの米沢藩の舟が往来したであろう」
  撰/横山昭男さん(山形市)

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※カヌーランドから上流の川通地区の入口付近。道が狭くなっている所にコンクリート階段の参道登り口があります。道下の静かな流れは「雪花渕」と呼ばれる稲荷神社の神池と伝わります。

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五百川峡谷ビューポイント。「ゆったりと流れる最上川。特に春は桜並木の景色がすごくきれい」
  撰/志藤 渚さん(川通)

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・エリア地区/白倉
・空気神社参道は濡れていると大変滑りやすいのでご注意下さい。
・雪が溶けるまで空気神社は見られません。

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)
五百川峡谷ビューポイント。「酒田あたりとも違う最上川の雄大さを感じる。夕日が落ちるほんの一時、波がキラキラと夕焼けに染まるのが美しい。りんご畑も広がりっている。冬景色は特に好き」
  撰/浅井周作さん(宮宿)

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※川通り地区より上流へ向かい観音堂を過ぎたあたりです。

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五百川峡谷ビューポイント。「リンゴ畑に囲まれた校庭を進んだ眼下に、大きく曲がりうねった最上川を挑める。翠碧の川面は四季折々に美しい表情を見せる」
  撰/川勝節子さん(大江町)

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五百川峡谷ビューポイント。「連なる山々を従えた大朝日岳を望む。布山と高田、長沼集落を正面に朝日町の象徴的な山村風景が広がる」撰/多数

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