朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
最上川舟運と五百川峡谷 横山昭男氏(山形大学名誉教授) 〈金比羅・象頭山信仰と舟運〉 朝日町長寿クラブ連合会で調査し発行下さった『朝日町の石佛』によると、朝日町には象頭山・金比羅権現の石碑が全部で22基ある。江戸時代末期に作ったものが多い。香川県琴平郡にある金比羅権現は、舟乗りや舟乗りに関係する人たちやその家族が信仰していた。最上川を下って、日本海の西廻り航路を通って江戸に行くにも大阪に行くにもそこを通る重要な経過点なので、安全航海するためや家内安全も含めて信仰していた。舟の仕事をする人がだんだん増えた証拠といえる。 〈最上川舟運の展開と特色〉 舟運が急速に発展したのは、江戸時代に全国が幕府により統一され、税金を重たい米で納めるようになってから。便利な川舟や海舟がどんどん使われるようになった。 最上川舟運開発の大きな出来事は、最上義光による碁天、三河の瀬、隼(村山市)の三難所開削。ここを砕く事により、山形から酒田まで通れるようになった。 数十年後の寛文年間には、河村瑞賢が西廻り航路を開発した。これが大きな出来事になったのは、起点が最上川河口の酒田だったから。それは、最上川流域に二十万石近い幕府の領地ができ、税金としての米を幕府まで運ばなければならなかったため。海のルートも最上川のルートもしっかりしたものが必要だった。 〈元禄時代の最上川舟運とその後〉 元禄時代に、最上川舟運に米沢藩の参画があった。寛文年間まで、米沢藩は置賜地方と福島に30万石を持っていた。しかし、寛文四年に15万石に減らされ、今の福島県分がなくなってしまった。これにより、それまで江戸に米を出す場合は、福島へ陸送して阿武隈川から東廻り航路で運んでいたのを、最上川を通すようにしなければならなくなった。通るようにしたのが有名な西村久佐衛門の開削だった。西村は米沢藩の御用商人。自らも多額な投資をして五百川峡谷を開削した。 五百川峡谷にはおそらく、それまで作業用の舟や渡し舟はあっても、左沢まで一貫して通る舟はなかった。開削のおかげで常時川舟が通れるようになった。これは大きなこと。ここだけでなく、中流、下流まで通ったのだから、最上川全体にとっても大発展だった。この五百川峡谷開削は大革命だったと言える。 最上川船請負差配役は、いろんな人が所有している川舟をうまく動かすために全体を統括する人のこと。享保年間からはじまり寛政年間の60〜70年位続いた。ただ、最終的にはかなりの困難をきたし、差配役だけには任せられなくなり、川船役所を作った。差配役と幕府の役人と両方で川船の統帥をやって乗り越えた。 その頃、米沢藩では御手船(大名の船)を作った。上流は小鵜飼船だった。小鵜飼船は左沢からは下って行けない。左沢から下流の酒田まではひらた船(�、平田)だった。寛政4年の記録では、小鵜飼船は100俵積みが12艘、50俵積みが48艘。あわせて60艘位が左沢から上流、五百川峡谷とか白鷹、長井の方まで上り下りしていた。 〈五百川峡谷の舟運〉 朝日町大舟木村の川船番所の管理は米沢藩だった。船数、怪しい荷物の取り締まり、規定以上の荷物の取り締まりなどをしていた。一石楢村(夏草)の大庄屋佐竹長右衛門家は、米沢藩の通船差配役をしていた。船子(水主)雇い、綱手道の管理、梁仕掛けの管理、破船の救出における人足割り当て、払い米の世話などの仕事をしていた。米沢藩の安全な通船を図る仕事をしていた。 お話 : 横山昭男氏(山形大学名誉教授) 平成18年(2006)最上川学 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
会が発足してまず取り組んだのは、種子の採取。町外から栽培に適した強い品種を取り寄せることも可能でしたが、「朝日町の在来品種をこつこつそだてていこう」というのが会の方針でした。
自生のものは植物としてそう強いわけではなく繊細。手間暇がかかることを承知の上、能中の一本松公園に自生しているものから種子を採取し、平成9年秋に種まきを行いました。 その後、順調に発芽・生育し迎えた平成13年秋、栽培地が手狭になったため、広い土地に移植することになりました。しかし、これが悲惨な結果を生むことに。 移植場所が距離的に遠く、手入れが行き届かなかったことや土壌が合わなかったことなどが原因で数が激減。平成17年、やむなく当初の自生地である一本松公園に戻すことになりました。 これまで、いろいろな失敗がありましたが、その都度、会の志である「ヒメサユリの町」らしくなるまで頑張らなくてはならないという「使命感」を思い出し、がんばってきました。これからも会として、一本松公園などへの定植を毎年継続していきますが、これまでの挫折から学んだ栽培技術を、多くの人に伝えていくことが今後の私たちの役割と思っています。 毎年6月、家庭の庭先など、町内いたるところでヒメサユリが咲く風景…いつしかそんな日が訪れることを夢見ています。 お話 : 長岡嘉一郎さん (大谷六 ヒメサユリ愛好会会長) 『広報あさひまち平成21年6月号』より抜粋 →朝日町の花ヒメサユリ |
第四紀、広くゆるやかだった流れは、地殻変動による大地の隆起とともに急流となり、流れは川底を浸食し、数万年の時間をかけて五百川峡谷が誕生しました。特異な瀬がたくさんある理由として、岩盤を削り込む流れのため川床が浅いことや、中上流部にあり比較的水量が少ないこと、横切る何本もの断層が存在していることなどが上げられるそうです。
佐竹伸一さんのお話 →五百川峡谷の誕生 1 →五百川峡谷の誕生 2 →五百川峡谷の誕生 3 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
田川順一さんのお話
〈獅子踊りは、子供がする〉 八つ沼の獅子踊りの獅子は子供がするものだ。獅子は三人牡獅子(オジシ)、雌獅子(メジシ)、供獅子(トモジシ)だ。それに、笛が三人「天」「地」「人」そして、太鼓が「太陽」「月」「雷」の三人で構成されている。 子供の獅子踊りは珍しいものだ。東北の大会に行ったことがあるが、他はすべて、大人の人が獅子になっていたようだな。大谷の獅子踊りも大人だな。 ここの、獅子踊りは、小学校三年生くらいになったら始めるのだ。そのころになったら、踊れる体力ができるということだ。 なぜ子供が、それは、かわいいからだな。ここの獅子踊りは、春日神社のお祭りに合わせているので、昔から、旧暦の閏年にする。だから4年に1回だ。うまくその年にあわないと獅子踊りの仲間に入れないのだ。三年生か四年生で旧暦の閏年になると入れるのだな。 〈昔は道路で練習をした〉 昔は、三人だけしか練習しなかったので、ケガとか病気ができなかったのだ。春日神社の祭りは、必ず八月十五日と決まっているので、練習は七月の中頃から毎晩一ヶ月も続くのだから、それは大変だ。昔は公民館もなかったので、八ツ沼の道路に裸電球を家から出してしたものだ。だから、雨の日は休みだった。今は公民館があるので雨の日も練習する。演目は全部で二十いくつかある。 「通し」ですると、五十分もかかるのだから、それは覚えるのも大変なものだ。昔は、他に楽しみなんか無かったので、練習だというと、子供や大人がたくさん集まったものだ。だから、見ていて覚える子供も多かった。選ばれた子供はうれしかっただろう、親達も誇りに思っていただろう。 〈親子3代で出た〉 今は、一日だけだけど、昔は、祭りの日の本番と、氏子総代とか、役員衆の家回りとか、協力部落の西船渡なんかも回ったので、三日はかかった。大変だったなあ。 本番当日は春日神社で半分踊って、行列作って関所、関所で踊った。関所て、この辺では『宿』て言うけど、下宿、中宿、上宿て言うんだけど、そこでも踊った。そして、若宮寺では全部「通し」で踊った。そして、納めということで、春日神社で残りの半分を踊るのだ。今は一日で終わるので、西船渡にもその日に回っている。体力はいるのだ。 獅子は三年生くらいの子供がいい、見るからにかわいいから。牡獅子は、踊りのリーダーだから、六年生位かな。雌獅子も、高学年だな、初めて入った子供が、供獅子になるのだ。当たる人は、三年生から初めて、何回も踊ることになる。昔の閏年は4年に1回ではなく、一年おきとか、二年おいてとかあったからな。俺は、踊りでは二回くらいかな、その後は、笛で高校生から何回も参加した。それに、田川家は笛とか、佐竹家は太鼓とか家によって代々決まった役があったような気がする。俺の家では、親父が、頭取、俺が笛、息子が獅子踊り、なんて、親子三代で出たこともある。親子二代なんていくらでもあるな。 〈大名行列、昔は320人〉 獅子踊りは、踊り三人、笛三人、太鼓三人だが、道化役の「三八(さんぱち)」てのがあって、ヒョットコの面をかぶっておどけるのだが、この人が、すべてを把握していてだれかが間違えると、さっと行っては直させるのだな。獅子踊りは大名行列の中にいるのだ。道中お殿様が疲れたときに慰めるのだ。行列は、本当はすばらしい人数がいるものだ。本なんかによると、三百二十人ちかくなっている。今はそんなに人がいないから。先払い、御神輿、奴、天狗、武具、槍や鉄砲だな、大獅子、氏子総代、獅子踊りの順だな。 獅子踊りをしたときの楽しみ、子供のころは、氏子とか、役員衆の家を回ると、必ずごちそうが出るから、それが楽しみだった。お盆のごちそうだから、スイカとか貰えたからな。今みたいに、練習のときに、ジュースが出たりとか無かったな。サイダーが出たかな、いや、そんなこと無かった気がする。それに楽しみは、『花』だな。あれが貰えるのを楽しみにしているな。 〈今は子供全員が参加〉 今は全員の子供たちが参加するようになった。子供の数も減ったから。昔は一杯いたのだが、今は全員でも九人くらいだ。だから、今は此の部落に生まれた子供は男の子なら全員する。そして交替交替で踊ることになっている。だから部落全体の行事になるのだろう。女の子は参加しない。このお祭りは、女は参加しないのだ。ただ、子供会は別で、女の子も大獅子の幕をひっぱったりしている。獅子踊りの「かぶりもの」は張り子で作られているので、雨が降ると傷む、そのときは、修理しながら使っている。 「かぶりもの」は山鳥の尾羽根と鶏やチャボの毛でできている。獅子は鹿のことだから、牡獅子は山鳥の羽根の角が大きく立ち上がり、雌は鶏の羽根で巻いている。供獅子は子供だから角が短い。壊れたら修理をしながら使うのだ。 今の練習はテープで行い、本番の何日か前から生笛で行うのだ。テープだと毎日同じだが、生笛だと踊りや太鼓を見ながらするので、それに合わすこともできるのだな。1ヶ月も練習すると、だれがうまくて牡獅子になり、自分は何の役目かわかってくるようになる。昔は牡獅子は1人だけだったが、今は何回も交替ですることになっている。 〈田川家は代々笛〉 俺は長いこと笛をしてきた。この田川家は代々笛を吹いてきたので、百年も続く笛が残っている。昔俺の家は「飴屋」をしていたのだが、左沢まで材料を買いに行った帰りなど、四ノ沢の坂から吹くと、ここまで聞こえたと言う。この笛の音は今ある部落の笛よりは高いので、一緒には吹けないが、俺の家の前で踊ってくれるときだけは、この笛を吹くことにしている。一度、羽黒山とか、空気神社とか荘厳な場所で一人で吹いてみたい。 この祭りが今まで絶える事なく続いてきたのは、おそらく、部落の人の神事や芸能に対する意識だろう。それに、多くの人が子供のころからこのお祭りに関わってきたOBだからだろう。今でもこのお祭りに合わせてお盆に帰ってきて、一緒に楽しんでいる人が多い。部落の人数は少なくなったし費用もかかるが、頑張って残して行きたい。 お話 : 田川 順一さん(八ッ沼) 取材 : 平成10年 →大名行列の様子(2009年) →八ッ沼 春日神社 →八ッ沼の大名行列 →八ッ沼の奴振り →八ッ沼エリア →関連書籍『八ッ沼物語』 |
八ツ沼は康平の頃(1058−1064)は、 沼が多かったので、多沼村と言っていた(13沼)が、その後沼の数が八つに定着したことで、八ツ沼になったとされています。その沼は、1.本社の大沼(春日沼)2.滑田の諏訪沼 3.果沼の薬師沼 4.山屋の菖蒲沼 5.大沼道の芦毛沼 6.荒谷の荒沼 7.明端の葦沼 8.大田代の雨沼であるが、今では本社の大沼(春日沼)だけが残っています。
お話 : 小松寿一さん (平成10年 旧三中分校シンポジウムにて) |
八ツ沼には、七不思議を始め、七名所、六森等があります。
「七不思議」は、1.鈴ヶ森の鶏の声 2.沼中の変水 3.沼尻の阿吽の清水 4.大石の化け石 5.大石の提灯石6.小関壇の異変 7.自在坊の活地蔵 「七名勝」は、1.本社(春日神社)の境内 2.沼中(春日沼)の夫婦岩 3.鴻の森の熊野神社 4.若草山の眺望 5.果沼の薬師堂 6.旧城跡(八ツ沼城)の七つ井戸 7.八ツ沼の鐘楼堂 「七名物」は、1.春日沼の源五郎鮒 2.芦毛沼の左巻田螺 3.油子沢の岩まめ 4.滑田の芹 5.長根の小百合 6.大刈屋の赤泥鰌 7.家向の痩せ蕨 「六森」は、1.糖塚森 2.前森 3.田中森 4.若草森 5.鈴ヶ森 6.弁天森 「三石」は、1.大石の臼石 2.若見谷の碁盤岩 3.糖塚の神楽岩 お話 : 小松寿一さん(八ッ沼) ※平成10年 旧三中分校シンポジウムにて |
当地の豪族若狭茂経が建久年間に登勢堂(とせど・若宮寺の南の方)に築城したのが八ツ沼城の始まりです。いろいろな資料をまとめると次のようになります。
◆五百川と八ツ沼城の築城 1. 建久年間(1190〜98)五百川城主若狭の祖、蔵人という者、源義家に従って清原の残党平田次郎、同五郎を討ち、この地を賜り五百川と称した。その子孫重経は、泰衡の臣谷川右京を討滅して塞を八ツ沼に造った。 正平年間(1346〜1367)若狭守重政が長崎城主大江綱房によって滅ぼされるまで五百川領は続いた。 2. 文明元年(1469)又は五年、原家の祖先で原越後守は子隠岐忠政、小松加賀等とが五百川に来て八ツ沼に築城し八ツ沼城主となった。 (原家数世九十九年間) 〇1原越後守頼貞 〇2原紀伊守 〇3原隠岐守忠政 〇4原美濃守慶秀 〇5原甲斐守忠重 〇6原半兵衛兼道 ◆ 原家の由緒 原家の祖先は、原土岐光衡と申す仁で、足利尊氏の御舎弟、左典厩直義公の家臣で、その正統は応仁の乱で、細川勝元に属した。乱後越前の国に入り、原越後守時代は敦賀城主として十二万石を領したという。その子隠岐守忠政の時に、明応元年(1492)、三角、佐々木の合戦に加わり、敗れて出羽国の山中に逃れ、八ツ沼に城を構えた。 お話 : 小松寿一さん(八ッ沼) 平成10年 対談「八ッ沼のおこり」より ※写真は古城跡 |
村山地方の領土拡大を狙った最上義光は、八ツ沼城と鳥屋ヶ森城(新宿)を攻略します。これが五百川合戦です。
最上軍は、大蕨口より二千騎、義光本体千騎、併せて五千騎で五百川に攻め入ってきました。そのときの八ツ沼城は五百騎といわれ、最上軍を相手に小関加衛門、客僧羽黒弁寛を中心によく戦いましたが、家老小関加衛門、客僧羽黒弁寛も戦死し、永禄八年八月十五日山形城主最上義光によって八ツ沼城が落城しました。落城説は天正九年、同十二年もありますが、朝日町史では永禄八年説を用いています。 岸家は朝日将軍木曽源義仲後胤、岸美作守源朝臣義満は、木曽義仲十五代の末裔で、柴田兼頼を頼って関東より移住したと言われますが明確ではありません。 宮本 八ツ沼城主原甲斐守重忠、墓が若宮寺に鳥屋ヶ森城主岸美作守の墓が福昌寺にありますが、どちらも永禄八年八月十五日死亡とあります。 お話 : 小松寿一さん(八ッ沼) ※平成10年 対談「八ッ沼のおこり」より 写真は八ッ沼城跡 |
八ツ沼落城には悲しい物語がある。八ツ沼城主原家と、鳥屋森城主岸家との婚姻の話だ。
八ツ沼城主、原甲斐守忠重に原半兵衛兼道という若君がおった。また鳥屋ヶ森城主というと、岸美作守にそれは美しい弥生姫という息女がおったそうだ。果沼のお薬師様のお祭りに二人が出会い、見初めるようになった。半兵衛兼道が弥生姫を八ツ沼の名勝地春日沼に誘い、二人は楽しい一時を過ごしていた。 和合に和合但馬守秋広侍がいて、その日に最上川で釣りをしていたが釣れなくて、春日沼で釣をしようと春日沼に来ていた。たまたまそこで半兵衛兼道と一緒にいる弥生姫をみて一目ぼれをしてしまう。和合但馬守は弥生姫を奪おうとしたが、反対に半兵衛兼道の警護の侍におっぱらわれてしまった。 その後半兵衛兼道と弥生姫の結婚話はとんとんと進み婚約した。おもしろくないのが和合但馬守で、花嫁を略奪せんと宮宿清水の渡し場で待ち伏せし、むがさりの行列を襲ったが、行列を守っていた侍におっぱらわれて退散した。腹の虫が納まらない和合但馬守は、山形城主最上義光に八ツ沼城主、原甲斐守忠重と鳥屋ヶ森城主、岸美作守が山形城をねらっていると讒言した。その讒言により最上義光が兵を動かした。これが五百川合戦の原因と言われている。多勢に無勢、八ツ沼城に敗戦の色が濃くなったころ、半兵衛兼道と弥生姫は二人そろって死のうと、お城の後ろ側にある屏風谷へ下り、春日沼に身を沈めた。そして夫婦岩になったと言われている。 お話 : 小松寿一さん(八ッ沼) ※平成10年 旧三中分校シンポジウムにて ※写真は春日沼の弥生姫像 |
大谷の風祭は、今から250年前、宝暦年間(1751〜1764)に始めたといわれ、町では最も賑やかな夜祭りです。
立春から数えて二百十日目、この頃は大暴風雨による農作物の被害が毎年のようにあり、この風水害を鎮め、豊作を祈願する行事が風祭で、毎年二百十日の前日8月31日の夜、盛大に行われます。 祭当日、家々では、御神灯と書いた四角の田楽提灯(でんがくちょうちん)を門口に立て、御神輿が通る道筋から家々の玄関まで、清浄な盛り砂をし、縁側に机を置き、灯明・花・赤飯・果物そして初穂料を供え御神輿を迎えます。 行列は、毎年決められた順序により、夜七時の花火を合図に白山神社を出発し、2時間かけて村中くまなく巡行します。 江戸時代から続く打ち上げ花火は、行列に合わせ夜空を彩り、40店余の夜店も立ち並び、招待客と近辺からの参詣客で、大通りは身動きできないほど混雑します。 車に飾り付けした各区(1〜6区)の屋台は、毎年趣向ををこらした出し物が披露され、観客の拍手喝采を浴びます。 大谷の風祭は、子供からお年寄りまで地区民総参加により、250年の歴史と伝統を継承しながら、大谷地区の融和と活性化に貢献しています。 (堀敬太郎氏資料「大谷の風神祭」より抜粋) ※写真は屋台の寸劇風景/撮影 堀敬太郎氏(大谷一) →大谷風神祭をもっと楽しむためのリーフレット →二百十日頃の稲作について →大谷風神祭の歴史 →風神祭の神事 →提灯行列の思い出 →田楽提灯の絵付けについて →田楽提灯作りのアドバイス →角田流大谷獅子踊 →大谷獅子踊りの由来 →大谷獅子踊り保存会について →大谷獅子踊りの思い出 →代々神楽(獅子神楽)と天狗について →風神祭の屋台について →各区の屋台 こだわりと見所 →大谷の花火の歴史 →大谷の花火打ち上げ →空から人形、人形傘花火 →風神祭の露店 →消防団の役割 →風神祭のお供え物 →大谷風神祭の特異性(基調講演) →大谷風神祭のこれからを考える(バネルディスカッション) →関連書籍 小径第15集『大谷風神祭』 →白山神社マップ →秋葉山エリア(大谷) |
『西五百川小学校百年のあゆみ』によれば、中国の魏の古書『魏略書』の「日餘夜 時餘雨也 而年餘冬也(日の余りは夜にして、時の余りは雨なり。そして年の余りは冬なり)」にあるといわれています。この三つの余りは農作業もできないことから、過ごし方によっては、どのようにも過ごせるものです。しかし、若者たるものは、夜と雨と冬こそ活用し修養に精進せよ、との教訓ととらえることができます。私なりに解釈すれば、「働くこと、生きること、生活すること」の本業を大切にし、その余りを自分なりに工夫し時間を見つけて、有効に勉強に結び付けようということだと思います。
お話 : 石島庸男さん(山形大学教授) ※平成10年 旧三中分校シンポジウムにて |
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藤沢盛治さんのお話
→杉山のミズバショウ
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※旧杉山分校跡より細道を南におよそ3km程登ります。道が狭いのでご注意下さい。途中、水田をはさんで分かれ道になりますがどちらからも行けます。