朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

 朝日岳山麓は、蜜源樹のトチノキが多く盛んに養蜂が営まれています。ミツバチの巣で作る蜜ろうそくの工房を訪ねます。スライド映写の説明やAsahi自然観近くの養蜂場を訪ねることもできます。ネットを被っての観察会(10人まで5000円)や蜜ろうそく作り体験(一人1500円)もたまわります。
案内 / 安藤竜二
エリア地区 / 杉山、水本

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)
朝日町エコミュージアム研究会〜NPO法人朝日町エコミュージアム協会の活動

平成元年10月13日 第1回研究会設立準備会議
    10月20日 第1回研究会例会
平成2年 1月19日 第3回研究会例会
 エコミュージアム研修会(講師 新井重三先生)
平成2年 5月19日 第6回研究会例会(基本構想委員会として活動開始)
《サテライト候補地調査 (新井先生、丹青総研)》
平成2年10月21日 「朝日町の暮らしと文化」町内めぐり(中央公民館と共催)
 顧問、コンサルタントとの意見交換(第12回例会)(新井教授、丹青総研 里美部長、加藤研究員 来町)
平成3年3月17日「エコミュージアム・シンポジウム」(地域開発研究会主催、中央公民館)
平成3年10月4日 エコミュージアム基本構想調査報告書報告会
平成3年11月7日 第20回例会 (フランス視察研修報告会)
平成4年3月10日 第1回エコミュージアム・フォーラム(都道府県会館)
平成4年3月21日 第10回環境教育セミナー(埼玉県大滝村)
平成4年6月 5日〜6日 国際エコミュージアムシンポジウム(基調講演、パネルディスカッションほか)
平成7年 6月 「エコミュージアム国際会議」(日本エコミュージアム研究会と共催)
平成 8年11月 「旧石器発見60周年記念シンポジウム」
平成 9年12月 「大谷往来シンポジウム」
平成10年12月 「旧三中分校シンポジウム」
平成11年 1月 第1回朝日町の宝物カルタ大会
平成11年 8月 エコミュージアム・ガイド(まちの案内人)の会設立
平成11年10月 「大沼浮島シンポジウム」
平成11年12月 NPO法人朝日町エコミュージアム協会発足
平成12年 6月  エコミュージアムコアセンター「創遊館」オープン(協会でエコルーム・コーナーの管理・運営を受託)
平成12年12月 「ワインシンポジウム」
平成13年 6月 第1回「水とくらしの探検隊」
平成13年 7月 「センス・オブ・ワンダー」上映会
平成13年  8月 「山形県朝日町のエコミュージアム」VTR制作
平成13年11月 「リンゴシンポジウム」
平成14年 7月 第1回早稲田大学 留学生受け入れ (16年度まで)
平成14年 8月 「あさひまち宝さがし」キャンペーン 750 点以上の応募
平成14年 第1回「あさひまちの宝展」
平成15年  6月〜 「エコミュージアム宝紀行(見学会)」キャンペーン全10回
平成15年 3月 宝検索PC「あさひまちの宝箱」設置 入力開始
平成16年12月 「海野秋芳シンポジウム&紀行」
平成16年12月 「かみごう宝さがし展」
平成17年12月 エコミュージアムカルタのリニューアル
平成18年 3月 「暮らしの得手前楽習祭」
平成18年 7月 〜 「最上川学〜おらほの五百川峡谷〜 連続講座」
平成18年11月 「五百川峡谷シンポジウム」
平成19年10月 架橋70周年記念「旧明鏡橋 講演・思い出語り・周辺見学会」
平成20年5月〜 朝日町ふるさとミニ紀行の開催(13回、案内人の会)
平成20年10月 「最上川・五百川峡谷シンポジウム」(白鷹・朝日・大江)
平成21年 「〜朝日連峰初の山岳写真家〜故阿部幸作氏写真展」(3回)



 樹齢およそ700年とされる伊豆権現神社のご神木「種まき桜」が咲き始め、今年も地元有志らによりライトアップが始まりました。代表の長岡秀典氏は「境内には観賞用のベンチも設置した。歴史を感じる幹の迫力と美しい花の調和をゆっくりとながめて欲しい」と。ライトアップは、節電のため毎晩7時から9時までの2時間のみ行われています。
 4/26現在で三部咲きですが、咲き始めの濃いピンクがとても美しいです。

アクセスマップはこちら
エリア地区 / 大谷
見どころ・注意/
・菅原道真の太宰府左遷時に側室家族が移り住んだと伝わります。
・江戸幕府のご朱印寺社がたくさんある由緒ある歴史を持つ地区です。
・秋葉山山頂からの眺めは美しいです。
・睡蓮ため池の見頃は6月中頃〜7月はじめです。
・大谷地区は道が狭く小路も多いので迷いやすいのでご注意下さい。
・小さな寺社やため池は、分かりづらい場所も多いので、エコミュージアムガイドの利用をお薦めいたします。

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)
 朝日町で最大のミズバショウ群生地です。
藤沢盛治さんのお話
杉山のミズバショウ
アクセスマップはこちら
※旧杉山分校跡より細道を南におよそ3km程登ります。道が狭いのでご注意下さい。途中、水田をはさんで分かれ道になりますがどちらからも行けます。

最上川舟運と五百川峡谷
                   横山昭男氏(山形大学名誉教授)

〈金比羅・象頭山信仰と舟運〉
 朝日町長寿クラブ連合会で調査し発行下さった『朝日町の石佛』によると、朝日町には象頭山・金比羅権現の石碑が全部で22基ある。江戸時代末期に作ったものが多い。香川県琴平郡にある金比羅権現は、舟乗りや舟乗りに関係する人たちやその家族が信仰していた。最上川を下って、日本海の西廻り航路を通って江戸に行くにも大阪に行くにもそこを通る重要な経過点なので、安全航海するためや家内安全も含めて信仰していた。舟の仕事をする人がだんだん増えた証拠といえる。

〈最上川舟運の展開と特色〉 
 舟運が急速に発展したのは、江戸時代に全国が幕府により統一され、税金を重たい米で納めるようになってから。便利な川舟や海舟がどんどん使われるようになった。
 最上川舟運開発の大きな出来事は、最上義光による碁天、三河の瀬、隼(村山市)の三難所開削。ここを砕く事により、山形から酒田まで通れるようになった。
 数十年後の寛文年間には、河村瑞賢が西廻り航路を開発した。これが大きな出来事になったのは、起点が最上川河口の酒田だったから。それは、最上川流域に二十万石近い幕府の領地ができ、税金としての米を幕府まで運ばなければならなかったため。海のルートも最上川のルートもしっかりしたものが必要だった。

〈元禄時代の最上川舟運とその後〉
 元禄時代に、最上川舟運に米沢藩の参画があった。寛文年間まで、米沢藩は置賜地方と福島に30万石を持っていた。しかし、寛文四年に15万石に減らされ、今の福島県分がなくなってしまった。これにより、それまで江戸に米を出す場合は、福島へ陸送して阿武隈川から東廻り航路で運んでいたのを、最上川を通すようにしなければならなくなった。通るようにしたのが有名な西村久佐衛門の開削だった。西村は米沢藩の御用商人。自らも多額な投資をして五百川峡谷を開削した。
 五百川峡谷にはおそらく、それまで作業用の舟や渡し舟はあっても、左沢まで一貫して通る舟はなかった。開削のおかげで常時川舟が通れるようになった。これは大きなこと。ここだけでなく、中流、下流まで通ったのだから、最上川全体にとっても大発展だった。この五百川峡谷開削は大革命だったと言える。
 最上川船請負差配役は、いろんな人が所有している川舟をうまく動かすために全体を統括する人のこと。享保年間からはじまり寛政年間の60〜70年位続いた。ただ、最終的にはかなりの困難をきたし、差配役だけには任せられなくなり、川船役所を作った。差配役と幕府の役人と両方で川船の統帥をやって乗り越えた。
 その頃、米沢藩では御手船(大名の船)を作った。上流は小鵜飼船だった。小鵜飼船は左沢からは下って行けない。左沢から下流の酒田まではひらた船(�、平田)だった。寛政4年の記録では、小鵜飼船は100俵積みが12艘、50俵積みが48艘。あわせて60艘位が左沢から上流、五百川峡谷とか白鷹、長井の方まで上り下りしていた。

〈五百川峡谷の舟運〉
 朝日町大舟木村の川船番所の管理は米沢藩だった。船数、怪しい荷物の取り締まり、規定以上の荷物の取り締まりなどをしていた。一石楢村(夏草)の大庄屋佐竹長右衛門家は、米沢藩の通船差配役をしていた。船子(水主)雇い、綱手道の管理、梁仕掛けの管理、破船の救出における人足割り当て、払い米の世話などの仕事をしていた。米沢藩の安全な通船を図る仕事をしていた。

お話 : 横山昭男氏(山形大学名誉教授)
平成18年(2006)最上川学

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 会が発足してまず取り組んだのは、種子の採取。町外から栽培に適した強い品種を取り寄せることも可能でしたが、「朝日町の在来品種をこつこつそだてていこう」というのが会の方針でした。
 自生のものは植物としてそう強いわけではなく繊細。手間暇がかかることを承知の上、能中の一本松公園に自生しているものから種子を採取し、平成9年秋に種まきを行いました。
 その後、順調に発芽・生育し迎えた平成13年秋、栽培地が手狭になったため、広い土地に移植することになりました。しかし、これが悲惨な結果を生むことに。
 移植場所が距離的に遠く、手入れが行き届かなかったことや土壌が合わなかったことなどが原因で数が激減。平成17年、やむなく当初の自生地である一本松公園に戻すことになりました。
 これまで、いろいろな失敗がありましたが、その都度、会の志である「ヒメサユリの町」らしくなるまで頑張らなくてはならないという「使命感」を思い出し、がんばってきました。これからも会として、一本松公園などへの定植を毎年継続していきますが、これまでの挫折から学んだ栽培技術を、多くの人に伝えていくことが今後の私たちの役割と思っています。
 毎年6月、家庭の庭先など、町内いたるところでヒメサユリが咲く風景…いつしかそんな日が訪れることを夢見ています。

お話 : 長岡嘉一郎さん
(大谷六 ヒメサユリ愛好会会長)
『広報あさひまち平成21年6月号』より抜粋

朝日町の花ヒメサユリ
「棚田で採れた玄米ば使って、朝日町のりんごのハチミツときな粉まぶして作ってみたんだ。」
お話 : 能中婦人会のみなさん
平成21年5月、一本松公園売店にて購入。とってもおいしかったです。
 第四紀、広くゆるやかだった流れは、地殻変動による大地の隆起とともに急流となり、流れは川底を浸食し、数万年の時間をかけて五百川峡谷が誕生しました。特異な瀬がたくさんある理由として、岩盤を削り込む流れのため川床が浅いことや、中上流部にあり比較的水量が少ないこと、横切る何本もの断層が存在していることなどが上げられるそうです。
 
佐竹伸一さんのお話
五百川峡谷の誕生 1
五百川峡谷の誕生 2
五百川峡谷の誕生 3

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 三中分校へは、昭和五年、六年と在学しました。当時の入学児童数は二十二人で、先生が一人、子供たちは着物(和服)やもんぺで通学していました。また、現在のようなノートがなかったことから、石盤(筆記用の粘板岩の薄い板。昔、子供が石筆で文字や絵を書くのに使った)を使い「はな・はと・まめ・ます」などと読み書きをしていたものです。
 終戦後は、三中分校を使い素人演芸会を開いていました。農作業が終わると自然に地区民が集まりああでもない、こうでもないと夜遅くまで練習した思い出があります。
お話 : 鈴木栄一さん(八ッ沼)

 私が入学したのは昭和二十八年で、児童数は五十人くらいだったと思います。当時の思い出は、一生懸命に掃除をしたことや校舎の周りを走り回ったこと、学校の帰り道で化石探しや魚捕りをしたことなどが記憶にあります。最近までは、私の住む能中地区の「協有会」という若衆会で、年一回、校舎周辺の清掃作業をしていました。また同級会では、集合場所を三中分校にして、思い出話に花を咲かせてます。やはり、大人になった今でも、何かしら三中分校と関わりをもっていたい気持ちがあります。
お話 : 海野義弘さん(能中)

 私は昭和六十二年の入学で、児童数は十人でした。授業は普通の教室での授業のほか、野山の探検や青空教室などがあり、楽しかった思い出があります。少人数だからこそできた授業だったと思います。また、三中分校は、勉強だけでなく遊びでも中心でした。これは昔からそうだったと思いますが、卒業してからもつい立ち寄ってしまう、そんな忘れられない存在ですね。
お話 : 佐竹千鶴さん(八ッ沼)

 昔は公民館がなかったことから、地域活動や青年団、消防団活動となると、毎晩のようにこの校舎の三階に集まり、酒などを飲み交わしながら語り合った記憶があります。このように三中分校は、子供たちだけでなく大人も公民館的なものとして利用した、地域に根差した学校でした。閉校となった今でも三中地区のシンボルとして、私たちの心にしっかりと生き続けている宝です。
お話 : 佐竹充廣さん(八ッ沼)

(平成10年 旧三中分校シンポジウム・パネルディスカッション「三餘学校は私たちの宝物」にて)

田川順一さんのお話

〈獅子踊りは、子供がする〉
 八つ沼の獅子踊りの獅子は子供がするものだ。獅子は三人牡獅子(オジシ)、雌獅子(メジシ)、供獅子(トモジシ)だ。それに、笛が三人「天」「地」「人」そして、太鼓が「太陽」「月」「雷」の三人で構成されている。
 子供の獅子踊りは珍しいものだ。東北の大会に行ったことがあるが、他はすべて、大人の人が獅子になっていたようだな。大谷の獅子踊りも大人だな。
 ここの、獅子踊りは、小学校三年生くらいになったら始めるのだ。そのころになったら、踊れる体力ができるということだ。
 なぜ子供が、それは、かわいいからだな。ここの獅子踊りは、春日神社のお祭りに合わせているので、昔から、旧暦の閏年にする。だから4年に1回だ。うまくその年にあわないと獅子踊りの仲間に入れないのだ。三年生か四年生で旧暦の閏年になると入れるのだな。

〈昔は道路で練習をした〉
 昔は、三人だけしか練習しなかったので、ケガとか病気ができなかったのだ。春日神社の祭りは、必ず八月十五日と決まっているので、練習は七月の中頃から毎晩一ヶ月も続くのだから、それは大変だ。昔は公民館もなかったので、八ツ沼の道路に裸電球を家から出してしたものだ。だから、雨の日は休みだった。今は公民館があるので雨の日も練習する。演目は全部で二十いくつかある。
 「通し」ですると、五十分もかかるのだから、それは覚えるのも大変なものだ。昔は、他に楽しみなんか無かったので、練習だというと、子供や大人がたくさん集まったものだ。だから、見ていて覚える子供も多かった。選ばれた子供はうれしかっただろう、親達も誇りに思っていただろう。

〈親子3代で出た〉
 今は、一日だけだけど、昔は、祭りの日の本番と、氏子総代とか、役員衆の家回りとか、協力部落の西船渡なんかも回ったので、三日はかかった。大変だったなあ。
 本番当日は春日神社で半分踊って、行列作って関所、関所で踊った。関所て、この辺では『宿』て言うけど、下宿、中宿、上宿て言うんだけど、そこでも踊った。そして、若宮寺では全部「通し」で踊った。そして、納めということで、春日神社で残りの半分を踊るのだ。今は一日で終わるので、西船渡にもその日に回っている。体力はいるのだ。
 獅子は三年生くらいの子供がいい、見るからにかわいいから。牡獅子は、踊りのリーダーだから、六年生位かな。雌獅子も、高学年だな、初めて入った子供が、供獅子になるのだ。当たる人は、三年生から初めて、何回も踊ることになる。昔の閏年は4年に1回ではなく、一年おきとか、二年おいてとかあったからな。俺は、踊りでは二回くらいかな、その後は、笛で高校生から何回も参加した。それに、田川家は笛とか、佐竹家は太鼓とか家によって代々決まった役があったような気がする。俺の家では、親父が、頭取、俺が笛、息子が獅子踊り、なんて、親子三代で出たこともある。親子二代なんていくらでもあるな。

〈大名行列、昔は320人〉
 獅子踊りは、踊り三人、笛三人、太鼓三人だが、道化役の「三八(さんぱち)」てのがあって、ヒョットコの面をかぶっておどけるのだが、この人が、すべてを把握していてだれかが間違えると、さっと行っては直させるのだな。獅子踊りは大名行列の中にいるのだ。道中お殿様が疲れたときに慰めるのだ。行列は、本当はすばらしい人数がいるものだ。本なんかによると、三百二十人ちかくなっている。今はそんなに人がいないから。先払い、御神輿、奴、天狗、武具、槍や鉄砲だな、大獅子、氏子総代、獅子踊りの順だな。
 獅子踊りをしたときの楽しみ、子供のころは、氏子とか、役員衆の家を回ると、必ずごちそうが出るから、それが楽しみだった。お盆のごちそうだから、スイカとか貰えたからな。今みたいに、練習のときに、ジュースが出たりとか無かったな。サイダーが出たかな、いや、そんなこと無かった気がする。それに楽しみは、『花』だな。あれが貰えるのを楽しみにしているな。

〈今は子供全員が参加〉
 今は全員の子供たちが参加するようになった。子供の数も減ったから。昔は一杯いたのだが、今は全員でも九人くらいだ。だから、今は此の部落に生まれた子供は男の子なら全員する。そして交替交替で踊ることになっている。だから部落全体の行事になるのだろう。女の子は参加しない。このお祭りは、女は参加しないのだ。ただ、子供会は別で、女の子も大獅子の幕をひっぱったりしている。獅子踊りの「かぶりもの」は張り子で作られているので、雨が降ると傷む、そのときは、修理しながら使っている。
 「かぶりもの」は山鳥の尾羽根と鶏やチャボの毛でできている。獅子は鹿のことだから、牡獅子は山鳥の羽根の角が大きく立ち上がり、雌は鶏の羽根で巻いている。供獅子は子供だから角が短い。壊れたら修理をしながら使うのだ。
 今の練習はテープで行い、本番の何日か前から生笛で行うのだ。テープだと毎日同じだが、生笛だと踊りや太鼓を見ながらするので、それに合わすこともできるのだな。1ヶ月も練習すると、だれがうまくて牡獅子になり、自分は何の役目かわかってくるようになる。昔は牡獅子は1人だけだったが、今は何回も交替ですることになっている。

〈田川家は代々笛〉
 俺は長いこと笛をしてきた。この田川家は代々笛を吹いてきたので、百年も続く笛が残っている。昔俺の家は「飴屋」をしていたのだが、左沢まで材料を買いに行った帰りなど、四ノ沢の坂から吹くと、ここまで聞こえたと言う。この笛の音は今ある部落の笛よりは高いので、一緒には吹けないが、俺の家の前で踊ってくれるときだけは、この笛を吹くことにしている。一度、羽黒山とか、空気神社とか荘厳な場所で一人で吹いてみたい。
 この祭りが今まで絶える事なく続いてきたのは、おそらく、部落の人の神事や芸能に対する意識だろう。それに、多くの人が子供のころからこのお祭りに関わってきたOBだからだろう。今でもこのお祭りに合わせてお盆に帰ってきて、一緒に楽しんでいる人が多い。部落の人数は少なくなったし費用もかかるが、頑張って残して行きたい。

お話 : 田川 順一さん(八ッ沼)
取材 : 平成10年

大名行列の様子(2009年)
八ッ沼 春日神社
八ッ沼の大名行列
八ッ沼の奴振り
八ッ沼エリア
関連書籍『八ッ沼物語』
 八ツ沼は康平の頃(1058−1064)は、 沼が多かったので、多沼村と言っていた(13沼)が、その後沼の数が八つに定着したことで、八ツ沼になったとされています。その沼は、1.本社の大沼(春日沼)2.滑田の諏訪沼 3.果沼の薬師沼 4.山屋の菖蒲沼 5.大沼道の芦毛沼 6.荒谷の荒沼 7.明端の葦沼 8.大田代の雨沼であるが、今では本社の大沼(春日沼)だけが残っています。
お話 : 小松寿一さん
(平成10年 旧三中分校シンポジウムにて)
 八ツ沼には、七不思議を始め、七名所、六森等があります。
「七不思議」は、1.鈴ヶ森の鶏の声 2.沼中の変水 3.沼尻の阿吽の清水 4.大石の化け石 5.大石の提灯石6.小関壇の異変 7.自在坊の活地蔵 
「七名勝」は、1.本社(春日神社)の境内 2.沼中(春日沼)の夫婦岩 3.鴻の森の熊野神社 4.若草山の眺望 5.果沼の薬師堂 6.旧城跡(八ツ沼城)の七つ井戸 7.八ツ沼の鐘楼堂
「七名物」は、1.春日沼の源五郎鮒 2.芦毛沼の左巻田螺 3.油子沢の岩まめ 4.滑田の芹 5.長根の小百合 6.大刈屋の赤泥鰌 7.家向の痩せ蕨
「六森」は、1.糖塚森 2.前森 3.田中森 4.若草森 5.鈴ヶ森 6.弁天森
「三石」は、1.大石の臼石 2.若見谷の碁盤岩 3.糖塚の神楽岩

お話 : 小松寿一さん(八ッ沼)
※平成10年 旧三中分校シンポジウムにて