朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
清野安一家の古文書によると、前九年の役(1051〜1062)の折、出羽仙北の豪族清原氏は源頼義親子に加勢し、天皇の命に背いた陸奥国の豪族安倍頼時父子を滅ぼしましたが、帰陣の時、清原氏の一族である清野義房・渡辺春潔が古槙におちつき、神明大神宮の社を建立したとあります。現在の社殿は明治8年の再建。祭神は天照大神。境内からは古槙集落を一望できます。
※参考文献/『ふるさと朝日町散歩』(朝日町広報委員会・長岡幸助) →アクセスマップはこちら ※長い石段と鳥居が目印です。 |
五百川三十三観音第23番札所。
日月寺跡とされる中堀地内の高台にある千手観世音菩薩のお堂です。創建は不詳ですが、現在のお堂は大正の初期に三吉家が再建したものです。この観音様にまつわる不思議な出来事は数多くあるそうです。祭礼は4月17日と夜観音は8月10日。 ※『送橋の歴史』(送橋長寿クラブ編)より抜粋 →五百川三十三観音縁起 →五百川三十三観音霊場一覧 →アクセスマップはこちら |
観音堂のある中堀地内の小高い丘に造立されています。創建不詳ですが、祭り一切を行っている渡辺多内家よると、明治の神仏分離令の折りにお堂が解体され跡地に石碑を建立したのだそうです。武人の姿のご神体には背に「日月寺」の文字が刻まれています。
※『送橋の歴史』(送橋長寿クラブ編)より抜粋 ※船渡には日月神社があります。 →アクセスマップはこちら |
彼岸の頃、川通りのばあちゃんは「マスノスケは夜中に「マスノスケ今ここ通る!」と言いながら最上川を歩いてくんなだ。それを聞くと死ぬなだ」と教えてくれた。おっかなくてがらがら寝るんだっけ。マスノスケは、キングサーモンのことをいう。昔、少しは上ってきたんだ。
お話 : 熊坂正一氏(最上川第一漁業協同組合代表理事組合長)取材 : 平成18年 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
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大谷往来
倩、徒然の紛れに、村の風景書き続け候わん。そもそも、大谷村東西南北山続き谷深うして、其の景殊に盛んなり。 先ず東に古館あり。清々たる最上川の流れ、前に当り帆懸船の往来を詠む。駒の頭に釣垂る人は水辺に居て竿の梢を見る。寔に(まこと)に用山の明神、粧坂の粧い眼下に相見え候。 後は愛宕山、山の頭に当り、草木の花帯び春の風に綻び落る風情は、秋後の雪の天に飛ぶかとうたがう。御伊勢原の雲雀霞の海に音あり、万世楽を囀る(さえずる)。日光山の鴉(からす)あやふきを告げ松椙に舎る。 南はかん嵯の鍵蕨寸尺延びて蛍に壱夜の宿を借す。面白岩に愛宕山、老若の男女袖を烈ねて参詣す。狐塚の百合草の花は小首を曲げて色を争う。間木山の残月梢の花清に入る。 西に当り社あり、大沼山と号す。其の景勝地森々たり、二十丈の松の枝、空吹く風のその音は颯々たり、琴の調べに耳を峙だて沼の浮島は形勢を揃え水浪に遊ぶ。 瀧の沢の兎子は、嶮岨の山腰を走り飯森山に居す。大暮山の在家夕陽の煙立って高山に登る。初木山の猿猴は杣人の往来を呼ぶ。 北に社あり、北野天神と号す。峯を登れば谷地山なり、岬伝いに所々に雪降り鹿の子斑に村消え、霞の内の松が枝茂蒼たり。後は、中丸、模様見田、狢森、前は田面打ち続き、西の溜井に鷺立ち、寺山の狼は鵜食沢の落馬を覘う。 (入力中) |
『大谷往来』は、今からちょうど303年前に作られたもので、作者が彦七となっています。残念ながら、この彦七については一切分かっておりません。資料も見つかっておりません。
しかし、この文章を見ると、的確に確実に順序よく書いてあるのが分かります。しかも、風景など見事に表現されています。こうした地元のことをよく知っているという観点からすれば、彦七は大谷に生まれ育った人ではないかと考えています。嘘を書いていません。 300年経った今ですら『大谷往来』の随所に、元禄の頃と変わりない情景が見られます。例えば「駒の頭の釣り人」ですが、今でも、その駒の頭で釣り人を見かけます。鯉の釣れる名所になっています。それから、文章の後ろの名所のところに出てきます「猿田山のツツジ」。全部で16の名所や名物が出ていますが、その猿田山のツツジは今でも大分残っています。また、「大清水のマタタビ」。大谷のはずれの大谷川沿いになりますが、夏に行くと葉が白くなって、大きな木々にたくさん絡んでいます。これも三百年たった今でも変わりがありません。時代を超えた自然の素晴らしさを改めて感じています。 お話 掘 敬太郎さん(大谷一) 平成9年12月「大谷往来シンポジウム」にて ※写真中央が「駒の頭」(秋葉山山頂より) |
私は明治三十七年生まれで、ずっと大谷で百姓をしてきたが、養蚕なんかもしていたこともある。 区長が終わってから、いろいろな歴史に興味を持って調べるようになったのだ。
〈『大谷往来』と原本について〉 『大谷往来』について初めて聞いたのは、堀敬太郎さんからだと思う。その昔は、長岡久蔵さんの空読みなんかも聞いたような気もする。 興味を持って原本なんかも見せてもらったが、和田さんのと久蔵さんのは同じだったが南蔵院さんのは少し違っていたので、和田さんのが原本だと思った。 南蔵院さんのは十丈の松だったが、十丈の松だったらどこにでもある。だから、二十丈の松の方が正しいと思ったな。 〈「彦七」について〉 左沢の白田佐院長は、白田内記家の出身で、白田家のことを詳しく調べて本を出したのだ。この本なんかを見せてもらい、いろいろと考えて、堀さんなんかとも話して、彦七は風和じゃないかと書いたんだ。 あの時代に、これだけの文章を書くのは、白田風和(秀勝)以外にはいないと思う。 〈私の記録帳に残っている〉 俳句なんか好きで、気がついたら帳面なんかに書いている。歴史のことも好きで昭和六十二年から書いている。この中に何回か『大谷往来』について書いたが、平成二年には「作者彦七を探る」というのを五ページにわたって書いている。 お話 大谷国勝さん 平成9年12月 元禄のエコミュージアム・大谷往来シンポジウムにて |
〈慶応生まれのばあさんも話していた〉
私は、大正十一年生まれで、『大谷往来』を覚えようと思ったのは、昭和三十六、七年頃だ。小学生の頃、俺のばあさん(慶応生まれ)が「かんかけのかぎわらび」なんて言っているのを聞いた事がある。でもばあさんは大谷生まれでないので、こっちに来て覚えてのだろう。 〈久蔵さんのを聞いて覚えようと思った〉 長岡久蔵さんが亡くなったのは昭和三十八年だから、その前に何度か久蔵さんから聞いて、俺の家にも原本があったので、それにカナふって覚えたんだな。 久蔵さん(明治十六年生まれ)がどうして覚えたのか知らないが、確かに節があった。かなり強い節をつけて語った浪曲みたいな節だった。藁仕事をしながら、語った何人かの人が聞いて覚えているのだと思う。 いつ頃から久蔵さんが語ったのかは知らないが、俺の家では何回か聞いた。 〈時々語ったが、あまり興味がないようだった〉 俺の家に何故原本があったかは分からないが、残っていたのだ。同じように百姓の道具のことを書いた本も残っている。 カナをふってから頑張って覚えた。だから、語ったりしたのは昭和三十六、七年以降だ。長寿クラブの総会なんかでも酒が入ると語ったが、そう多かったことはないと思う。でも、誰も興味がなかったようだ。 昭和四十年代、朝日ヌルマタ沢に木の伐採に行っていたので、その製材所で酒が入ると語ったりもした。でも、興味を持ってくれたのは、白田正蔵さん、鈴木幸次郎さんなどほんの少しの人だった。 〈この文章は覚えないと駄目だ〉 昭和四十八年に大谷小百周年で展示してから、たまに原本を借りにくる人がいた。でも、借りに来て写すだけじゃ駄目だ。覚えなくては駄目だと言った。この文章は、覚えるのに良い文章だ。文句も良いし、五七調だし、本当に美しい文章だ。文章が良かったので覚えたのだろうな。 この文章を読んでいるときは、作者彦七はきっと大谷のこの辺に座って作ったのだ。あの辺から見て詠んだのだと考えて読んでいる。すべての場所には行ったことはないが、大谷のことはよく知っているので、この文章の風景が目に浮かぶようによく分かる。 〈少し違うところもある〉 私の覚えているのと、今の解釈と違うところもある。解釈はいろいろあるし、原本もいくつかあるので何とも言えないが、最後のところは、作者は大谷を回って帰ってきて、家に着いて考えてみると、すべてのことが夢のようだと言ってるのではないだろうか。 でもとにかく、こんな機会によって『大谷往来』が、多くの人に知ってもらったのは嬉しい。もう少し若かったら、もっと正確に語ることができたのだが、今は少し不自由で満足のいく語りができなかった。 昔、堀さんと、この『大谷往来』の文章をもっと多くの人に知ってもらいたいと話し合ったことがあるが、今実現して嬉しい。 お話 和田新五郎さん(大谷浦小路) ※平成9年(1997)大谷往来シンポジウムにて |
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日本ナチュラリスト協会カモシカ調査グループは、山形県朝日連峰において、1976年からニホンカモシカの生態調査および保護活動を実施しています。 A4版 1000円