朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
最上川・五百川郷の宝物がたり
五百川三十三観音巡り 〜江戸時代における環境保全のパイオニア〜 五百川三十三観音を知っていますか。江戸時代にできた三十三観音巡りの朝日町版です。西奥は、白倉から、立木、太郎、水口、北は、大沼、大谷そして左沢まで、東は、和合、四ノ沢、送橋まで、そして、南は、宮宿、上郷、そして、白鷹町の針生まで、町内外の、三十三の観音様を巡るのが、五百川三十三観音です。 一番札所が、水口の十一面観世音です。三十三番目が、雪谷の如意輪観世音です。なぜこのような順番かといいますと、そこに興味深いいわれが伝わっています。 『江戸時代朝日山地の鉱山が盛んだった時代、鉱山の水が流れ出て朝日川の水が汚れ、朝日町や左沢の稲が不作になり、これを怒った農民たちと、待定上人(たいじょうしょうにん)が立ち上がり、閉山勧告の廻状を出し朝日権現の麓での鉱山を封鎖するように訴えました。 しかし、この一揆を怒った庄内松山藩は首謀者と目された水口の長兵衛と待定上人を捕らえようとしました。 この時、待定上人は長兵衛は見どころのある若者だとして逃がしてやり、自らは捕まって処刑されました。逃げた長兵衛が十年の間、四国八十八箇所など諸国の札所を回って帰ってきたところ、もうないだろうと思っていた水口の実家が、雪谷から見ると残っていました。これも観音様のおかげだと、待定上人の供養も兼ねて五百川三十三観音をつくったということです。』 三十三観音は、朝日町にくまなく存在しています。そして近くには多くの文化財があります。大沼の浮島、佐竹家、八ツ沼、椹平の棚田、空気神社どれも札所のすぐそばです。五百川三十三観音を巡りながら、朝日町の秋の自然と豊かな文化財を巡りませんか。 日 時 平成26年10月25日(土)〜26日(日) 午前9時〜午後16時頃 集合場所 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」 定 員 20人(※定員になり次第締め切らせていただきます。) 参 加 費 6,600円(交通費・弁当・資料代など実費) ※1日のみ参加の場合は4,000円となります。 参加費にご朱印代は含まれません。 別途ご用意ください。(1箇所100円) 申込締切 10月17日(金) 申込・問合せ先 朝日町エコミュージアムルーム ( 9:00〜17:00 月・木曜休館) ■TEL・FAX 0237-67-2128 →五百川三十三観音縁起 →五百川三十三観音霊場一覧 |
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今年も9回目の最上川五百川峡谷のごみ拾いが開催されます。カヌーの皆さんは川下りしながら、一般の皆さんは水辺を拾います。最後に芋煮を囲んで恒例の交流会もあります!五百川峡谷をみんなの力できれいにしましょう!
日 時 9月21日(日)午前9時〜 集 合 朝日町カヌーランド(栗木沢) ※保険に入りますのでお申し込み下さい。 主 催 五百川峡谷クリーンアップ大作戦実行委員会 主 管 SDスポーツ 協 力 NPO法人朝日町エコミュージアム協会 お問い合わせは →カヌー参加 SDスポーツ サイトより →一般参加 NPO法人朝日町エコミュージアム協会 Tel 0237-67-2128へ →これまでの様子 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
■大谷獅子踊り保存会
戦後、後継者難のため解散寸前だった大谷獅子踊りを、昭和47年に浦小路(第4区)の青年たちが、伝統ある郷土芸能の保存継承を決意、幾多の困難を克服して飛躍的に発展させた。その努力と功績が認められ昭和57年(1982)に朝日町無形文化財に、平成三年には山形県無形民俗文化財に指定された。 『大谷郷』(朝日町北部地区郷土資料集編集委員会)より抜粋 →角田流大谷獅子踊 →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
角田流大谷獅子踊りは、江戸後期の文化年間(1804〜1818)に仙台藩の角田(現丸森町)の宗吽院(そううんいん)から、大谷の天満神社神官だった白田外記家に入婿した清安が伝えたとされます。
宗吽院は、朝日町の大沼浮島神社の山伏神楽を600年前に伊具郡に伝承した歴史を持ちます。さらに、菅原道真の六女みよこ姫が輿入れし中興の祖となった修験寺でもあり、同じ菅原道真の子孫とされる大谷白田家と共通する歴史を持っていることが双方の強いつながりを物語っています。 参考文献『20年のあゆみ』朝日町大谷獅子踊保存会 『つどいの庭に降りた神々』丸森町文化財友の会 『よみがえれ大沼浮島の響き』大沼浮島ものがたり実行委員会 →角田流大谷獅子踊 →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
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二百十日の稲作について お話 志藤富男さん 稲は、二百十日から二百二十日までの間が一番大切なんだ。実の入り始めだからね。ここで嵐が来て、ぺたっと倒されたら実が入らなくなって全滅になってしまう。熟むれてしまうから、縄や草履作る藁にもならなかった。そこが過ぎれば実が入るから影響は少ないなだ。 同じ時期にスズメの被害もある。二百十日がくる前に案山子を立てるのも仕事だった。固くなる前の実のつゆを吸いにくるんだ。うまいなだべ。ピシャピシャ、ピシャピシャと吸って行く。腹くっつくなんねから、なんぼでも吸うんだな。すると黒くなってダメになる。 →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
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風神祭を網羅した巡行マップと見所を作りました!これがあれば、駐車場・トイレはもちろん見逃した屋台を次にどこで見られるか、串花のもらい方、神輿の参拝方法、行列の役割や意味までを知ることができます。ぜひこのリーフレットをポケットにお出かけ下さい。 ↑上記ダウンロードボタンよりpdfファイルを開けます。 ※大谷のみなさんのお話をもとに作られた朝日町エコミュージアムの小径第15集『大谷風神祭』から抜粋し作りました。 〔屋台と代々神楽(大獅子)について〕 代々神楽(大獅子)は各区の当番制となっていますので、当番となった区では屋台は出さないことが多いです。26年は立小路(第一区)が当番となっていますので屋台は出しません。 →大谷の風神祭 |
露店について
お話 白田都一郎さん ■90年以上続く松谷屋の露店 松谷屋は、大正11年の帳簿を見たことがあるので、9年か10年頃に両親が結婚した時に始めたのだと思う。風祭りで店の前に露店出すようになったのも、その時からだから90年以上経つね。 うちでは毎年、玉こんにゃくと饅頭を売っている。玉こんにゃくは、いい匂いするから買ってもらえる。みそ饅頭や笹饅頭は、風祭りを見に来た人達のみやげとして買ってもらえるんだ。風祭りの日は、人手が足りないから朝早くから手伝いを頼むがった。今でもうちの親戚は手伝って行くけど「招待されたんだか、手伝いに来させられたんだか分からね」なんて言っていくなー。(笑) 天気は心配だね。天気悪いと人が出なくて売れなくなるからね。昔に一度、饅頭がたくさん売れ残ってしまって、栗木沢とか売り歩いたことがあったな。 ■戦前戦後の露店 昔は、店の前の通りに露店が並んで賑やかだった。白田栄一さんの角から今の白田米屋さんまで並ぶんだっけ。でも、戦前はせいぜい十店くらいだったな。賑やかになってきたのは戦後だね。 戦争の前後頃で、特に印象に残っているのは、寒河江から来る「だるませともの屋」だったな。お祭りの次の日も店出すっけね。せとものは、当時の経済状況からしても、おいそれと買えないものだったから、魅力あったんだべな。 おもちゃ屋も人気だった。子供が多かったから売れたんだべ。なにしろ、当時の大谷小学校は600人位いた。おれの同級生も男女合わせて90人位いたったけからね。 当時は、今みたいな「たこ焼き」とか「焼きそば」とかの食べ物屋はなかったね。金魚屋も植木屋もなくて、簡単な店ばっかりだった。 戦争の時は、俺は海軍の兵隊になった。舞鶴で主計兵として三ケ月教育を受けて鹿児島へ行った。主計兵は事務担当と調理担当と2つに分かれていたけど、俺は兵隊達に料理を作るほうだった。お菓子屋出身だったからだべな。 昭和20年の終戦後は、すぐに帰って来れたけれど、砂糖とかの原料がなんにもなかったからお菓子は作れなかった。少ししてアメリカの放出品の砂糖が配給になったので、農家を回って少しずつ砂糖を売ってもらって飴類を作ったね。少しずついろんな材料を買えるようになったのは昭和23年頃だな。風祭りで露店を出せるようになったのはいつだったかな。うちは田圃も畑もなかったから、仕事なくて東京に2年位、働きに行っていたからはっきり覚えていないな。 ■現在の露店 露店が今みたいにたくさん出るようになったのは、昭和30年代からだな。露店商の人に、「大谷の風祭りはとにかく売れるから人気あるんだ」と聞いたことがある。このあたりの夜祭りでは一番売れるらしいね。 子供たちにとっては、露店とお祭りは一緒だもね。夕方露店が出ていると「お祭りしったけはー」というのが子どもらの昔からの言葉だ。露店とお祭りは付きものなんだよね。 以前は、露店の場所割りを露天商の中に親方みたいな人がいて仕切るんだっけな。集めた場銭の一部をお祭りに寄付ということで持ってくるものだった。15年位前、不公平にならないようにとのことか商工会でするようになった。 昭和58年頃に、浮島線の大きな道路ができたのだけれど、その何年か後に、露店の場所が田中屋さんのほうに移ったんだ。きっと理由はバスの関係だったと思う。バスも大きくなったからね。それで、きっとこちらの通りは寂しくなるだろうし、みんなと同じようにさんなねと思って、一度だけそっちで店を出したことがあったけ。ところがあんまり売れなかったので、それからは、また自分の店の前で出すようになったんだ。変わらず賑やかで売れたっけ。 みそ饅頭は、うちの名物にしたいと思って本格的に作ったのが昭和45年だった。「これはうまい」と思ってもらえるように、その日に作ったものしか売らない方針にしてきた。おかげさまでよその町からも買いに来てくれる。ありがたいことだね。 暴れお神楽(獅子)が来ると、饅頭のパックを口の所さ持って行くんだ。すると、中にいる人は口をぱかっと開けて手を出して持ってく。見ている人達が面白おかしくて大笑いする。それも一つの「笑わせ」「お客様喜ばせ」だね。大抵毎年やるようになったな。 (取材/平成26年3月) 白田都一郎(しらた・といちろう)さん 大正13年3月生まれ 91歳 松谷屋菓子店の二代目当主。 →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
提灯行列の思い出
畑 俊美さんのお話 子供の頃は、提灯の持つ棒が長かった。六尺とかあったから、子供たちの頭よりもぐっと高い所に提灯の灯りが見えて、遠くから見るときれいだった。今は長いと重たくて大変だからということで、だんだん短くなったんだ。昔の子供のほうが体力も力もあったんだべな。 あの頃は、田中から中道っていう田んぼ道を通って元の学校の方に向かったんだけど、家がなかったから、どこまでも見えて見事な眺めだった。提灯だけで百メートルは繋がるっけね。子供は大勢いたからね。それに、今よりみんな信心深かったから、子供のいない家でもご利益あるようにと、じいちゃん達が提灯たがきに出てくるもんだっけ。おらだは中学生まで提灯たがったな。各部落に最低でも子供は三十人いたから、二百人近く行列作るんだった。 がぐど(いたずら)もしたね。行列スタートする前に、人の提灯ば自分の提灯で引っ掛けて倒すと紙さ火付くのったな。あの頃、行列出る前に、紙ぺろっとなくなる子供がいっぱいいたっけたな。(笑) 昭和14年(1939)生まれ。 建築業に55年従事。元朝日町建設労働組合長。田中在住。 柏倉 儀一さんのお話 提灯行列に大谷以外の子供も参加していると聞いたけど、とてもいいことだと思う。近頃は、屋台が大変盛り上がっていていいけれど、提灯行列が寂しくなってきている。やっぱり風祭は提灯行列が伝統だから、なんとか大切にして欲しいものだね。 子供達の提灯を見ていると上手な絵も多いので、青森のねぶたのようにコンテストにして、優秀な作品は表彰してあげたらどうだろう。金賞・銀賞・銅賞とか。連合区長賞とか氏子会長とかでもいいな。絵も益々上手になるだろうし、行列に参加したくなる子供も増えるのでないか。 昭和4年(1929)東京生まれ。 農業。戦後父方の大谷に移り住む。毎年高木区の田楽提灯と高木天満宮の絵馬を描いている。高木在住。 (取材/平成26年3月) →田楽ちょうちんを作ろう! →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
消防団の役割
お話 榊 寿太さん 風神祭そのものは、消防団と連合区と商店会の三仕組で会場設営などにあたったけれど、監督・指導の総指揮としての一番の実力者は昔から消防団だったね。 風神祭実行委員会の折に、消防団の若者が「なんで消防団が風祭りをさんなねんだ?」と、実行委員長に食ってかかってきたことがあった。確かに普通考えると、お祭りに消防は関係ないもね。 でも、それはとても関係あったんだ。昔の風祭りは、要所要所にもっとローソクの提灯が多いお祭りだった。子供達の田楽提灯も現在の何倍も多かったし、各道路道路には、屋根の付いた提灯が設置されていた。各区でも、ローソクを数本も入れる扇形の大きな祭り専用の提灯も掲げたしね。風が吹いたりするとローソクは危ないし、時々消えるので、その管理を消防団が責任を持って当たっていた。防火上と、治安維持に大切な役割を担っていたんだ。 その後、だんだんと電気で安全に明るくなり、ローソクの提灯は少なくなり、ローソクの係も無くなり、消防団とお祭りの関係は、今日的役割として重責を担っているのが分かりづらくなってしまったんだな。 (取材/平成二十六年三月) 榊 寿太(さかき じゅた)氏 大正12年(1923)生まれ。朝日町役場議会事務局長、社会福祉協議会専門員、朝日町商工会事務局長、空気神社奉賛会事務局長等を歴任。 →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
大谷獅子踊りの思い出
お話/大谷獅子踊り保存会の皆さん ■復活させたチョンガー会 飲んだ勢いで復活話が盛り上がったのは「チョンガー会」だった。チョンガーっていうのは、まだ結婚していない若い男のことを呼んだんだ。浦小路(第4区)の若い衆たちが、毎月50円ずつ会費出して、お茶菓子を買って仲間の誰かの家にお邪魔するんだっけ。そして、そこのお年寄りから昔の話を聞いたり、大谷の将来のことをみんなで話し合ったりしていたんだ。 ■初めてのお披露目 今年で40年になるね。10年位途絶えていたのを若い衆12人で発足した。以前にやっていた師匠たちに教わって、必死に練習して3ヶ月くらいで覚えた。初めての年はとにかく夢中だった。そして、供養獅子として永林寺の8月15日の送り盆で初めて披露した。緊張したっけね。その晩は盆踊りでも踊ったな。 そして2週間後の、31日の風祭りでは、第1区から7区まで公民館全部と高木の旦那様(白田彌次右衛門家)と峯壇の旦那様(鈴木清助家)でも踊った。どこでもみんな出て来くれて、いっぱいの中で踊った。大谷の伝統芸能が復活したから、みんな嬉しかったなんねべかね。真面目にやっていたら最後に足がつって踊れなくなったけ。 これまで、那須の大谷にも7回行ったし、いろんな大会にも出た。町や県の無形文化財にもしてもらった。 ■踊りには物語がある 踊りは、ちゃんと物語になっているんだ。獅子は、雄獅子と雌獅子と友獅子と3匹いるんだけど、友獅子が雌獅子にちょっかいかけてくるんだ。雄獅子は友獅子と喧嘩する。雌獅子は逃げて行く。雄獅子は雌獅子を探して歩く。そしてやっと逢うことができる。よっく見ていると分かる。 本当は45分あるんだけれど、15分につめて踊っている。でも、風祭りでは、15分も踊っていると行列から置いて行かれるから、1ヵ所で一節ずつ踊るようにしている。 全国の獅子踊りには、獅・鹿・猪の三つあるんだそうだ。以前に北海道・東北ブロック民俗芸能大会に出た時は、鹿踊りが多く、大谷のように獅子と太鼓が別れている獅子踊りは無かったね。こういうのは珍しいらしい。他のは、わりと緩やかな踊りだったな。大谷の角田流獅子踊りは、よく意味が分からないけれど「一人立ち三匹獅子」という名前で県の無形民俗文化財に指定されている。 ■練習でつながる 昭和63年の北海道・東北ブロック民俗芸能大会はかなり練習したね。山形県代表で出るっていうので、2ヶ月間毎日練習した。あの大変な練習があったからこそ、次の世代につながるいい経験になったんだと思う。もし、なかったら踊れてもそれなりの踊りで終わっていたかも知れない。一回熱心に練習して覚えると、もう忘れないんだ。メロディーが流れると自然に踊りが出てくるようになるんだよね。 大谷を離れた人でも、獅子踊りには帰ってきて参加する人が何人もいる。一緒に練習することで、若い人たちとも繋がれるし、浦小路のみんなの結びつきは強くなっていると思う。とてもいいことだと思うから続けていきたいね。 ※皆さんのお話をまとめて要約させていただきました。 お話を伺った皆さん 鈴木 清さん 佐藤 伸寛さん 佐藤 孝男さん 白田 信哉さん 佐藤 健さん 長岡 浩利さん 鈴木 吉彦さん 白田 剛さん 東海林 良さん 阿部 哲也さん 佐藤 俊輔さん 白田 薫さん 小嶋 紘太さん ※練習後の懇親会でお話を伺いました (取材/平成24年8月) →角田流大谷獅子踊 →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
各区の屋台のこだわりと見所
第1区 立小路 区長 兼子 正昭さん ◆テーマ 現代物というか、その年の流行りものを基本にしてやってきたね。「バカ殿」から始まって、「ちびまる子ちゃん」「サザエさん」「ドラえもん」「アンパンマン」と、最初は人気アニメをやっていた。被り物はビーチボールに紙を何枚も貼って手作りしていたんだ。 そして、「マツケンサンバ」や「AKB48」「ゴールデンボンバー」「きゃりーぱみゅぱみゅ」と、仮装とダンスにこだわってやるようになった。 ◆演じている人は 青年部の「立青会」を中心にやっている。 ◆見どころ・楽しみ方 派手なパフォーマンス、最新のダンシング、自我を忘れるメイキングだな。特に女装にはずいぶん力入れったっけね。お客さんが手拍子したりして盛り上げてくれると、演じるほうも益々調子に乗れるようだ。それからダンスは、見ている人もその場で一緒に踊れるようなものを選んでいるので、だんだん踊り手は増えてくる。参加型になっているので、ぜひ一緒に踊って欲しいね。 ◆エピソード やっぱり、平成元年に初めて屋台を出した時の「バカ殿」だな。当時テレビで爆発的な視聴率だったから大ウケしたんだ。トラックの屋台に白塗りした二人のバカ殿を乗せて、演じる場所では、志村けんのステップみたいなのを軽く踊っていたっけ。パンダやウサギの着ぐるみも借りてきて一緒に歩いたから、子供たちの人気の的だった。流行ものをすることやメイクは、あの時から始まっていたんだな。 演じたあとに、小さなお菓子をあげる「じゃんけん大会」は、毎回子供がいっぱい押し寄せて大変盛り上がったね。時間なくなって「あと終わり」って断らんなねほどだったな。 →参考動画 第2区 田中 区長 白田 孝さん ◆テーマ 初めは田楽提灯をトラックにたくさん載せて何年かまわっていたけど、峯壇あたりが趣向こらしはじめたので、田中もなにかさんなねべとなった。 一番最初は「極道の妻たち」をして、山形新聞にも載ったけど、子供達によくないかも知れない(笑)ということで、テレビでしていた日本昔話がいいんねがとなった。それから「桃太郎」「浦島太郎」「孫悟空」「花咲か爺さん」等を20数年やっている。 ◆演じている人は 「二和会」の若い人達でやっている。 ◆見どころ・楽しみ方 内容が原作とは少し違う展開になっている。自分達も見ている人も面白くなることを心がけているので楽しみに見て欲しい。 衣装も大道具も凝っている。衣装は、ももひきを染めたりして、それぞれ自分たちで作ってくる。花咲か爺さんが花咲かせる時は、クリスマスの電飾が一瞬で点くようなしくみを作った。本番は、1回目の旧田中屋さん前はまだ緊張していて演技が硬いから、2回目の松谷屋前あたりの公演からが一番面白いと思う。 ◆エピソード 脚本は書かないけれど、練習しているうちに、最後の3日間位でストーリーがだんだんエスカレートして、原作とは違うアレンジになっていくんだ。 初めの頃に孫悟空の猪八戒をした時、恥ずかしいので、誰だがわかんねように、顔じゅう色を塗ったら子供に泣かれた。 青年部の「二和会」は、二区の「二」と、当時暴力団抗争で有名だった「一和会」をもじって付けた。ちょうどその頃に屋台出すことになって「極道の妻」をしたんだな。 去年は大雨降って、早いうちにアンプがショートして音が出なくなって、酷かったね。 →参考動画 第3区 高木 区長 志藤 彰さん ◆テーマ 「こども神楽」と「風神太鼓」で、台風などの風水害を追い払い、五穀豊穣と家内安全を祈願し、大谷の風神祭に多くの見物客が来てもらえるようにと頑張っている。 ◆演じている人は どちらも、小学4〜6年生が中心になるが、子供が少ない年は小学3年生や中学生まで応援してもらうこともある。 ◆見どころ・楽しみ〕 子ども神楽は、大人顔負けの暴れ神楽。見物客や店に突っ込んで行ったりして、時々、神楽の耳が落ちたり顎が外れたりすることもあって「終わるまで怪我がなければいいな…」と心配になる。 風神太鼓は、少し化粧して色気を見せながら叩くんだけど、本番になると練習の時とは別人のように、風神祭にふさわしい台風を追い払う、迫力満点のばちさばきになるんだ。 ◆エピソード 今から30年ほど前に、大人が代々神楽を練習していた時、それを見ていた小学3年生の子供が、段ボールで神楽の頭を作って、唐草模様の風呂敷をかぶって真似して踊っていた。風祭りの反省会で「来年子供神楽やってみんべ、風祭り盛り上がるぜ」と話がまとまり、翌年から始まった。一時、子供が少なくなった時は大人が演じたことがあった。当番で回ってきた代々神楽と「親子神楽」を演じたこともあったね。 また、当時、女の子も多かったので「お祭りには太鼓が似合うべ」ということになり、2年ほど遅れて「風神太鼓」がはじまった。最初は「大沼の浮島太鼓」の楽譜の一部を借りて叩いていたんだけれど、その後、風神太鼓にふさわしい楽譜を作ってもらい、それを若い人に覚えてもらった。当時、一生懸命習った白田和敏さんが、現在は、太鼓の先生として本番1ヶ月前から毎晩子供達を指導している。 第4区 浦小路 区長 鈴木 清さん ◆テーマ 角田流大谷獅子踊り。200年前に宮城県の角田より大谷に伝承されたもので、戦後途絶えていたものを昭和47年に復活させてから毎年風祭りで踊っている。 ◆演じている人は 大谷獅子踊り保存会。浦小路出身者も帰って来て参加している。 ◆見どころ・楽しみ方 「喧嘩獅子」な所を見て欲しい。他の地区の獅子踊りと違って動きが機敏なんだ。 雄獅子と友獅子が喧嘩して雌獅子を取り合う物語になっている。獅子の頭に山鳥の長い尾羽が2本付いているのが雄獅子、1本が友獅子、付けていないのが雌獅子。それを見てもらうと物語もなんとなく分かると思う。 獅子の頭は鳥の羽でできているんだけど、よく取れてしまうので自分達で直している。今年は、助の巻の布施さんの飼っているチャボの黒い羽もらって付けた。車用の毛ばたきの羽を使ったりしたこともあるね。太鼓の頭の上には、日天、月天、星、風の風車がのっていて、踊る配列は、先頭に星、日天、月天、風と決まっているんだ。 行列では、天狗、お神楽、神輿と続いて、その次が獅子踊りと決まっている。踊るのは村内五ヵ所。最初に元田中屋前十字路、元堀薬屋前十字路、白田米屋前、白田電気店前、最後は鈴木石屋前で踊っている。 ◆エピソード 昭和54年(1979)の風祭りの時は、リヤカーで屋台を作って引っ張った。村中下水道工事して掘っていたので、トラックの屋台を出せなかったんだ。 去年の雨は驚いたね。松谷屋さん過ぎて本部あたりでもの凄く降ってきて区長達でどうするか相談したんだ。子供の提灯行列は帰したけど、ほかはみんな最後までがんばった。今までは、どんなに雨が降っていても出発する7時前には上がるもんだった。あだなこと初めてだったね。獅子頭の羽が痛むんねがと思って心配だった。 第5区 峯壇 区長 長岡 藤夫さん ◆テーマ 毎年、時代物だね。これまで「遠山の金さん」や「銭形平次」「番場の忠太郎」「宮本武蔵」「桃太郎侍」とか20種類以上、28回やった。特に水戸黄門は一番なじみで7回したな。見て下さる皆さんの祭り気分を盛り上げられるようにがんばっている。 ◆演じている人は 壮年部の「峯友会」を中心に演じている。小林重敏さんが脚本書いて、白田健志さんや渡邉恵美ちゃんが演技指導しているね。役者も様々そろっているし、喋るのが得意な人にはナレーターみたいにして喋ってもらっている。 ◆見どころ・楽しみ方 時代劇だけど、話の内容はその年の話題や事件を題材にして脚本を書いている。笑いもとれるような内容にしているから、楽しみに見て欲しいね。 かつらや衣装などは毎年しているから、大体そろっている。カツラは何するかによっても違うんだ。殿様用とか足軽用とかある。 当日は、昼の部は3時頃から、明鏡荘や粧坂、それから地区内で4ヵ所公演している。夜の部は村内六ヵ所でするから、合わせて十二回は公演しているな。 ◆エピソード 昭和61年に、「水戸黄門」を出した頃から屋台が見直されて本格的に各区でも出すようになったようだ。 5〜6分で寸劇するにはちょっと手間の掛かるものもあって、他の区の屋台に順番を抜かれた時もあったね。どうしてもチャンバラが遅くなるんだよね。 宮本武蔵をした頃は、昼間に粧坂や真中も回っていたんだけど、安藤建設あたりで、車を舟に細工していたのが壊れそうになって冷や汗かいて帰って来たことがあった。 水戸黄門がオウム心理教の麻原彰晃を裁く話をした時は大うけしたね。麻原を演じた渡邉勳さんがそっくりだったんだ。 NHKのドラマ「利家とまつ」の時とかに、若い娘たちが出てくれた時があった。その時は華やかで素晴らしがったね。 第6区 東 区長 小野 隆弘さん ◆テーマ お神楽が部落まわりになってからは、「仮面ライダー」とか「安来節」とか、いろんな屋台を出したね。 でも、毎回別の物をするのは大変だとなって「花笠音頭」を踊るようになった。平成元年頃、駐在所の奥さんが尾花沢の花笠踊りの保存会の人だったから、熱心に教えてもらったんだ。 ところが、若い人が少なくなり継続が大変になり、4年前頃から、練習が少なくずーっとできるものをと考え「風神神輿」を作り練り歩くことを公民館の役員会で決めた。 ◆演じている人は 壮青年会で若い人が中心となって担いでいる。寒河江の神輿会のみなさんに「担がせて欲しい」とお願いされ、毎年ひと区間分を応援として担いでもらっている。 ◆見どころ・楽しみ方 神輿は、少人数でも担げるように軽い発砲スチロールで作ってある。毎年手直しして、だんだん改良されているね。屋根のてっぺんには、カラス除けの鷹の飾りをホームセンターから買ってきてくっ付けている。 寒河江の神輿会の皆さんは本格的に担ぐね。掛け声だけでなく、踊り方に迫力があり、ノーエ節みたいな即興の歌で東を応援するように歌ってもくれる。去年はお神楽当番だったから神輿はしないつもりだったけれど、来てくれて東部落内だけ担いでくれたんだ。 ◆エピソード 花笠踊りをしていた頃、子供達に駄賃として5,000円あげていたら、他の部落から「けすぎ」と言われた。 でも、大変な練習は毎日毎日続くし、なにより、子供達に山形の伝統芸能としての花笠踊りを身体で覚えさせて、社会に出てから、忘年会とかなにかの時に役たたせて欲しいという思いがあったんだ。 傘をくるくる回す本場の踊りで迫力あるし、一生の宝になるものだからね。 (取材/平成26年3月) →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
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菅原道真の姫君一統が移り住んだといわれる大谷地区。
本当に雨を降らせていた大沼の雨ごい地蔵尊。
風に関係なく湖面を浮遊する葦の島。大沼の浮島。
大行院最上家に伝わる御宝。義経弁慶伝説・大蛇伝説。
竜神信仰の用山絶壁に現れる如意輪観音菩薩の影を訪ねます。
講師/堀敬太郎氏、白田幸男氏、最上俊一郎氏
道先案内/安藤竜二
日 時 11月9日(日)午前9時出発〜14時
参加費 1000円(資料・弁当・保険代など実費)
お申し込みはエコルーム☎0237-67-2128まで
先着20人
A5チラシを写真下のダウンロードボタンより開けます。
参考
→大谷の四天神
→大沼の浮島
→大行院
→雨願い地蔵
→用山の観音様の影
→用山に現れた竜の雲
→用・船渡地区の竜神信仰