朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

12.五百川峡谷エリア
五百川峡谷ビューポイント。「ゆったりと流れる最上川。特に春は桜並木の景色がすごくきれい」
  撰/志藤 渚さん(川通)

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五百川峡谷ビューポイント。「酒田あたりとも違う最上川の雄大さを感じる。夕日が落ちるほんの一時、波がキラキラと夕焼けに染まるのが美しい。りんご畑も広がりっている。冬景色は特に好き」
  撰/浅井周作さん(宮宿)

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※川通り地区より上流へ向かい観音堂を過ぎたあたりです。

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五百川峡谷ビューポイント。「リンゴ畑に囲まれた校庭を進んだ眼下に、大きく曲がりうねった最上川を挑める。翠碧の川面は四季折々に美しい表情を見せる」
  撰/川勝節子さん(大江町)

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五百川峡谷ビューポイント。「連なる山々を従えた大朝日岳を望む。布山と高田、長沼集落を正面に朝日町の象徴的な山村風景が広がる」撰/多数

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五百川峡谷ビューポイント。「新五百川橋の間に、東西五百川郷を結んだ渡し場があった。川・橋・集落の俯瞰が美しく、歴史の面影を残している」
  撰/若月啓二さん(西船渡)

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 昭和30年代まで最上川全体には、およそ40ヵ所の梁(やな)がありましたが、五百川峡谷には11ヵ所、朝日町内だけでも7ヵ所もあり、県内一の梁数を誇っていました。五百川峡谷には、連続する瀬と岩盤そして中洲が多くあるため、簗をかける条件に恵まれていたのです。しかし、残念ながら上郷ダム開発時に全廃してしまいました。現在は白鷹町と大江町に観光簗が復活しています。

熊坂正一さんのお話
最上川で一番多かった簗
マスノスケ
鈴木治郎さんのお話
鮎と鱒(ます)の料理

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 五百川峡谷は巨鮎(大鮎)が育つことで有名です。毎年、県内外から多くの友釣りファンを呼びよせています。巨鮎は重量150グラム以上、全長26センチ以上をいいますが、まれに300グラムを越え40センチ近い大物も育つそうです。鮎の餌である藻が五百川峡谷には特に豊富にあることが理由とされています。
熊坂正一さんのお話
鮎漁と巨鮎
最上川第一漁業組合

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 私も上郷ダム建設で冬の間だけ稼がせてもらった。仕事の中身は番線曲げやもっこ担ぎ、セメント、パケットの掃除などいろんなことをしたっけなあ。日当は350円位だった。時には“こまわり”ていうて、ノルマを終わすと二時半頃に終わることもあった。川に中洲があったけど、そこにも畑があって舟で畑仕事に行ったりしたもんだ。はじめはダムの建設に反対したけど、役場も進めているし長いものに巻かれろってことで、賛成したんだ。んだげっと、今考えてみると、いい時代にしてもらた気がするなあ。花火大会もあったし、ワイン祭りもあるし、町や地域のためになったんだと思うな。あと、工事で犠牲になった人もいたけど、工事に来てだ人に嫁行った人も何人かいたな。とても賑やかな時代だったな。
お話 : 柴田つやさん(大滝)
取材 : 平成15年上郷宝さがし

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
Q1・・いつ建設されましたか。
上郷ダムの建設は、昭和35年11月15日に工事に着工し、昭和37年 2月23日に完成し、その日より発電を開始しております。

Q2・・どんな発電をしていますか。(発電)
最上川本川に高さ23.5メートルのダムを築いて水をせき上げ、それによって得られる落差により発電を行っています。

Q3・・どれ位発電していますか。(量)
発電所では、最上川より最大で毎秒百立方メートルの水を取水し、最大出力一万5400キロワットの発電を行っています。また、年間発生電力量は約8000万キロワット時で一般家庭約二万戸分となっています。

Q4・・どこに配電していますか。(場所)
発電した電気については、地元朝日町や山形周辺をはじめとするお客様に供給しております。

Q5・・どのような仕事をしていますか。
発電のために必要な水車・発電機等の機器の維持管理および洪水時のダム操作を行っています。

Q6・・苦労していることは。
上郷ダムの上流より、生活廃棄物等を含んだゴミが大雨のとき大量に流れてくることから、ゴミ処理に苦労しています。

Q7・・ゴミについての対策はありますか。
ゴミの処理については取水口に設置した移動式除塵機により、河川から陸揚げし、ゴミの分別のうえ、適正な処分およびリサイクルを実施しています。

Q8・・魚道について教えて下さい。
アユ、サケなどの魚が遡上できるように階段状の水路を設置してあります。魚道延長は330メートルあり、ダム水位に関係なく、常時毎秒一立方メートルの水を流しております。

Q9・・建設時のエピソードなど、その他上郷ダムについてご存じでしたら何か教えて下さい。
当時発電所の建設工事は昼夜兼行で進められ、多くの組員や行員、それに地元からも大勢の老若男女の労務者が出て工事現場で働いていました。そんな中で長い期間の大工事ともなれば、そこここの工事現場に何時しか美しいロマンスの花が咲き、寸時の休みを惜しむようにしてささやき合っている何組かのカップルが発見されたそうです。そのロマンス組がやがて実を結び、発電所工事が完成し世の人々に明るい灯を送る頃、めでたくゴールインしたと聞きます。

ご回答 東北電力株式会社山形支店
    電力流通本部土木グループ 笠原信年氏(平成20年)

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 五百川峡谷ビューポイントにも推薦された川通地区の最上川フットパスは、五百川峡谷ならではの切り立った川岸や、舟道、稲荷神社の御池とされた雪花渕と桜並木の風景などを眺めながら歩けるコースとなっています。また、村内には三瀧山観音寺をはじめ、古い絵馬のある観音堂、見事な彫刻のなされた町内唯一の八坂神社、町内で最も古いと推測される石仏などがあります。※詳しくは秋葉山エリア川行をご覧下さい。

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※アクセス看板が未設置です。上流部入口は観音堂のある墓地の終わり(ガードレールの終わり)付近、下流部入口は集落の終わり付近です。

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
五百川峡谷の誕生1
                   佐竹伸一氏(常盤)
1 はじめに
 最上川は、米沢盆地から上山盆地へと流入することなく、米沢盆地の西北方にある長井盆地に迂回して、出羽丘陵を貫く五百川峡谷を北進し、左沢から山形盆地へと流れを進めています。
 最上川には五百川峡と最上峡の二つの峡谷があり、このうち荒砥〜左沢の約25kmが五百川峡谷と呼ばれています。
 今回の講座では、最上川が、隆起量が結果として最も大きかった所をわざわざ選んで流れ五百川峡谷を誕生させた謎を探っていくことにしましょう。

2 最上川の誕生
 今から1500万年前ごろ、東北地方の大半は深い海の底に沈んでいました。現在の山形県にあたるところも全域が海の底にあったわけです。1200万年前頃になると、東北地方全域に広がっていたこの深い海の中の所々に山脈のような高まりができ、海の中に盆地のような地形が形成されました。
こうした海盆化されたやや深い海は、1000万年前頃になると、広い範囲で地盤が隆起したことにより、さらに少しずつ浅くなっていきました。現在の地理で言えば、庄内から新庄・山形・米沢にかけての一体が長い入り江となり、入り江の両側は陸地となりました。ヤマガタダイカイギュウは、このような入り江に生い茂る昆布などの海藻を食べて生活していました。
500万年前頃になると、地盤の隆起はさらに進み、日本海から続く入り江は分断されて、米沢、山形、新庄の順に、ほぼ現在の盆地にあたるところが湖沼となっていきました。この時、各地に分断された湖沼をつないで誕生したのが原始の最上川であり、起伏のゆるやかな大地の中を悠然と流れていたのです。

3 五百川峡谷の誕生
 人類が誕生する第四紀という時代をむかえると、それまでゆるやかだった地形は、激しい地殻変動によって彫刻をほどこされることになります。山がより高さを増す一方で、盆地は沈降を続けながらも隆起した山地から運ばれてくる土砂で埋め立てられていくことになったのです。
先に述べたように激しい隆起活動が始まる以前、最上川はすでに本地域を流れの場として選んでいました。川幅は現在よりも広く、ゆるやかな流れでした。しかし、周辺の大地が隆起していくにつれて、そのような環境は激変していくことになります。水の働きによる浸食量より大地の隆起の量が上回れば、川はその流れを変えてしまいますが、浸食が隆起の量を下回らないかぎり、川はより深く大地を削りこんで周辺は切り立った峡谷となります。最上川の浸食の力と大地が隆起する力とがせめぎあい、数万年の時間をかけて五百川峡谷が誕生したのです。
こうした地殻変動は、山形県においては村山変動と呼ばれており、60万年前頃に始まったと考えられています。この変動によって、それまでのっぺりとした丘のような存在にすぎなかった朝日連峰が、断層運動を伴いながら激しく隆起し、現在のような高く深い山岳となっていきます。地殻にできた亀裂からマグマが上昇し、月山や蔵王山が誕生したのも同じ時期です。五百川峡谷の誕生は、こうした激しい地殻変動と一連のものなのです。
平成18年

佐竹 伸一(さたけ しんいち)氏
昭和57年(1982)山形大学教育学部卒業。山形大学理学部教授(地球環境学科長)山野井徹氏に師事。現在、河北町立谷地西部小学校教諭。
山形応用地質研究会幹事。朝日山岳会副会長。現代俳句協会会員・俳誌「小熊座」同人。
著書「朝日連峰の四季」など。また、「朝日町町史 上・下巻」に執筆。


五百川峡谷の誕生2

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
4 五百川峡谷の二つの景観
五百川峡谷は上郷付近を境に、直線状をなす上流部と、段丘が発達し曲流が著しい下流部とに二分されます。五百川峡谷が地形的に二分される原因として、まず地質の違いがあげられます。地質図からも明らかなように、前半部は硬質な泥岩層であるのに対して、後半部は軟質なシルト岩や砂岩層です。また、もう一つの原因として、北方にV字形の口を開けた構造で隆起が起こったことがあげられます。V字形の内側は外側よりも隆起量が小さかったので、最上川に河道を選択する余地が残されたということです。地質の硬軟の差に加えて隆起量の程度の差が、五百川峡谷に異なる二つの顔を持たせたということができます。
また、五百川峡谷の下流部の地質構造を最上川と直交する東西方向の断面で見ると、地層が小さな褶曲を繰り返しつつも大局的には向斜構造となっています。このような構造は複向斜構造といわれるもので、最上川は複向斜の軸部付近を流れています。このことから、五百川峡谷の下流部において、最上川は最も隆起量の少なかった所を選んで流れていると言うことができるのです。

5 河岸段丘の形成 
山間部にある朝日町に貴重な平地をもたらしているのが河岸段丘であり、朝日町の集落のほとんどはこの段丘面上にあります。
 段丘は一般的には土地の隆起によって形成され、何段かの平坦面(段丘面)とその間にある崖からなっています。標高の異なる段丘をつなぐ道路は必ず坂道となるので、結果として朝日町には多くの坂道が存在します。 
本地域を流れる最上川、すなわち五百川峡谷の段丘面は五つに区分されます。現在の河床との比高は、段丘群鵯が200〜140メートル、段丘群鵺が140〜70メートル、段丘群鶚が70〜50メートル、段丘群鶤が50〜数メートル、段丘群鶩が数メートル以下です。なお、段丘群は標高の高い所にあるものほど古く、低いものほど新しくなります。
 段丘群鵯はほとんど残っておらず、宮宿柏原葡萄団地や和合平付近などにわずかに分布しているだけです。段丘群鵺は、和合平や能中のクヌギ平。段丘群鶚は、西部公民館のある熊の山、豊龍神社の丘陵、秋葉山の西側の段丘面などです。段丘群鶤には幅の広い段丘面が多く、松程・常盤・宮宿・和合・大谷などの段丘面があります。段丘群鶩は現在の河床沿いに低く分布しています。新しい段丘群が形成される時には、これまでに作られた古い段丘群は側方侵食によって削りこまれてしまうので、結果として古い段丘はあまり残っていません。
 この他、標高220メートル付近に、堆積物の多い埋積段丘群があります。これらは宮宿付近で起こったと考えられる山体の崩壊によって最上川が堰き止められ、その上流が湖沼となった時の湖沼堆積物からなるもので、杉山・沼ノ平・杉の原などはこの埋積段丘であり、20〜30メートルの厚さで砂や粘土が堆積しています。ちなみに、この堰き止めがあったのは段丘群鵺の形成が終わり段丘群鶚の形成が始まるまでの間ということになります。崩壊という自然の力でできた天然のダムは、自然の侵食の力によっていつしか消えてなくなってしまいました。
段丘群鶤が形成された時期は、木片の年代測定から3万年前頃であることが明らかになっていますが、この時期の最上川は現在以上に大きく曲流していました。その後、最上川は流路を直線的に変えたために、曲流の内側には丘ができ川跡は三日月湖となって残りました。すなわち、宮宿と大谷は、その大きく曲流していた最上川の川跡にできた町であるし、豊龍神社の丘と秋葉山は、その周りが最上川に削り取られることによってできた丘陵なのです。

平成18年

佐竹 伸一(さたけ しんいち)氏
昭和57年(1982)山形大学教育学部卒業。山形大学理学部教授(地球環境学科長)山野井徹氏に師事。現在、河北町立谷地西部小学校教諭。
山形応用地質研究会幹事。朝日山岳会副会長。現代俳句協会会員・俳誌「小熊座」同人。
著書「朝日連峰の四季」など。また、「朝日町町史 上・下巻」に執筆。

佐竹伸一さん(常盤)

五百川峡谷の誕生3

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 6 地すべりと活断層    
本地域の大地は、新第三紀の海成層が隆起してできたものであり、砂岩や泥岩などの地質からなるため軟らかく、もともと地すべりを起こしやすい性質を持っています。また、隆起量が多いところほど地すべりが発生しやすいという特徴があるため、本地域の山地部には地すべり地が多く分布しています。
 一般に、斜面を構成する物質が、斜面の摩擦抵抗を排して比較的ゆっくりと断続的に滑動する現象を地すべりと言います。本地域の山手にある集落は地すべり地にあるものが多いのですが、地すべり地は土砂が攪拌されていて耕作しやすい土地であるということが、地すべり地に集落を形成させた大きな要因であると考えられます。
 この地すべりの他に、本地域には数多くの線構造地形が存在することがわかっています。これらは、断層や褶曲によって形成された崖であり、この中には、活断層であるとされているものもあります。
 本町域において活断層とされる断層は、宮宿断層と常盤断層の二つです。宮宿断層は、大滝から栄町まで1.5キロメートルの断層であり、国道287号線部分が断層線にあたります。一方、常盤断層は西部公民館がある熊ノ山の丘陵とその周辺の二、五キロメートルにおよぶ断層です。どちらの断層も10メートルほどずれておりその変位量は1000年に0.5メートル程度であり、3千年から3万年程度の間隔で地震をおこすB級活断層です。

7 おわりに
 五百川峡谷の最上川にはたくさんの瀬が存在しています。こんな所は、最上川のどこにもありません。瀬が多い原因として、隆起帯にある五百川峡谷では岩盤を削りこむ流れであるために川床が浅いということ、最上川の中上流部にあり比較的に水量が少ないこと、最上川を横切る何本もの断層が存在していること、朝日連峰の主峰・大朝日岳を源流とする支流の朝日川からたくさんの花崗岩礫が供給されていることなどがあげられます。
 江戸時代、この瀬の存在が舟運にとっての多くの難所を生みだしていました。このことについては、次回の講座で詳しく語られることでしょう。また、これはあまり知られていないことですが、このたくさんの瀬の存在が最上川の水質浄化に役立っているのです。瀬では、多量の空気が攪拌され、汚れた水にたくさんの酸素が供給されるからです。
瀬を利用して作られていた数多くの簗場、近年盛んになりつつあるカヌーやボートでの川くだりなどは、五百川峡谷の成因と深く関係したものであると言えるでしょう。

佐竹伸一さん(常盤)
平成18年
〈仲を取り持つ明鏡橋〉
「ようぐ、こだい大きな機械来たもんだ」。
旧明鏡橋ができたのは、私が小学校を卒業するのと同じ年だったから、橋工事の様子や橋ができた時のことは良く覚えている。コンクリートを上げるタワーが高くそびえて、この静かな山村にゴーゴーと音が鳴り響いていた。子供ながらに、これは景気が良い、活気があるなと思っていた。
 あの当時は戦争中だったから、我々小学生は、工事現場にたくさん落ちていた鉄筋などの鉄くず集めをよくやった。当時はヘルメットなんてなかったから、拾いに行くと「来んなず、この野郎べら」とごしゃがれた。
橋が架かるまでは、大隅と栗木沢は、最上川をはさんでよく喧嘩したものだった。でも明鏡橋ができてからは喧嘩しなぐなった。私の母親はいつも風呂からあがると、「ここは大巻、向がいは栗木沢、仲を取り持つ明鏡橋」。こういう歌を歌っていた。          
(菅井敏夫さん)

〈終戦直後の明鏡橋〉
 私は昭和14年生まれだから、橋の方が2年先輩になる。小学校5、6年生の頃は、学校から帰ると、カバンなんかバーンと投げて、明鏡橋の下によく泳ぎに行ったものだった。橋から上流へ 150メートル位の間が泳ぎ場所だった。
 ある日、5、6人で泳いでいると、明鏡橋の欄干の上で大人の声がして、見上げてみると、欄干に20人ぐらいの大人が手をたたいたりして大声で笑っていた。しばらく立ち泳ぎしたりして遊んでいたら、上の方からチューインガム落としてくれた。落とせば、私たちが潜っては上がってくるから、その姿が面白かったのだと思う。今度はチョコレートも落としてくれた。そうやって30
分くらい遊ばせてくれて、最後にハーモニカを投げてくれた。しかし、そのハーモニカだけは、やっぱり沈むの早くて、子供の私たちは誰一人拾うことができなかった。終戦直後だったから、ガムでもチョコレートでもとても珍しくて、大変貴重なものをいただいたなと思った。帰ってから親に「何であだい大人の人いたんだ?」と聞くと、「アメリカの兵隊さんだ。進駐軍だ。」と教えてくれた。(志藤正雄さん)

〈恋の架け橋、ロマンの花咲く明鏡橋〉
 あの頃は、明鏡橋さ、栗木沢の人も大隅の人も関係なく、みんな夜な夜な集まってきて夜遊びしていた。んだがら私は、橋ができたのがうれしくてうれしくて、何べんも橋の上を走ったもんだった。みんな集まってきて夕涼みして、男女の出会いの場になった。別名「恋の掛け橋」と私は思っていた。事実何組ものカップルが結ばれた。そういう意味でも、橋が架かって本当に良かったと思った。(菅井敏夫さん)

 私の家は、旧明鏡橋のすぐ近くなので、青年会の方々が恋を囁いていたのをよく知っている。一晩に30人くらい集まって、「ワーワーワーワー」。笑った声、叫んだ声が聞こえ、それはすごかった。子供ながらにドキドキして眠れなかった。明鏡橋で何組も花が咲き、今でも幸せに家庭を持っている方がたくさんいらっしゃると思う。  
 もう一回、この明鏡橋を「ロマンの花を咲かせる朝日町の場所」にしたいというのが私の願いだな。(志藤正雄さん)

平成19年「明鏡橋思いで語り会」
※写真提供/堀敬太郎さん
〈事業のあらまし〉
 国営最上川中流農業水利事業は、朝日町四ノ沢からトンネルで最上川の水を取り、山形市と山辺町・上山市と天童市の一部を加えた三市一町にまたがる農地で不足する水を補っている。
 山形盆地の東側の馬見ケ崎川から一秒間に2t、西側の畑谷大沼、荒沼、玉虫沼などの西部湖沼群から3tまでとれるようになっていて、それで足りない分を最上川から最大8t(現在は4t)まで取水できる。馬見ケ崎川からは、現在1tしかとれない状況なので、ほぼ半分は最上川の水に頼っていることになる。主に須川より西側の西部地域の1500haの農地に使われている。国から委託され、私たち土地改良区が管理運営を行っている。

〈尊い命が犠牲になった大工事〉
 西部幹線トンネルは、山辺町の根際まで9.1kmの長さがある。その間の高低差が3.6mしかない。2500分の1のゆるやかな勾配を二時間以上かけてゆっくり流れてくる。工事費65億円をかけ、昭和48年の着工から10年後の昭和58年に完成。山形盆地の水田を潤し、江戸時代からの悲願が成し遂げられた。
 しかし、昭和51年と53年に、二度のメタンガス爆発で18人の尊い命が奪われた。掘削が1パーティ9人で、朝日町側と山辺側でそれぞれ9人ずつ犠牲になった。出口の山辺町に慰霊塔が建てられ、年に一度遺族の方も参加して慰霊塔の参拝を行っている。トンネルに入る時は、四ノ沢の入口の大きな扇風機で空気を動かし、必ずガス検知器を携帯している。


〈遠隔操作で用水管理〉
 ここは中央管理局といって、頭首工の様子や、揚水機(ポンプ)の運転状態を把握し、遠隔操作できるようになっている。大きなモニターには、四の沢頭首工(取水口)の現在の流れる様子も映し出されている。除塵作業は朝日町の鈴木さんに毎日行ってもらっているが、特に多い日は、再度連絡をし、除塵機を使って取り除いてもらっている。また、取水量の調整などがここでできるようになっていて、雨で増水した時は、たくさん流れ込まないようにゲートを下げ、水かさが減るとゲートを上げて、取水量を調整している。
 西部地域の水の流し方は、自然流下と、高い所までポンプアップして流し直す方法をとっている。六割が管路(パイプライン)になっている。ポンプが故障すると、黄色に表示されブザーもなる。管路の中が空にならないように三つのポンプはいつも稼働できる状態にしている。万一空になると、充水に一週間はかかってしまう。管が壊れるのでいきなり圧力をかけられない。壊れるとお金もかかるし、補修に時間がかかる。水が出ないとお金を出してくれている組合員の皆さんに申し訳ない。なので、取水し続けるため、ポンプの管理をし続けなければならない。そのような管理を夜中も泊まってここで行っている。
※写真は山辺町側の出口

お話 : 仁藤輝夫さん(最上川中流土地改良区管理課長)
取材 : 平成20年7月

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