朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
13.大沼浮島エリア : 関係団体・書籍
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藤原実方は正暦5年(994年)に左近衛中将に叙任されました。しかし、翌長徳元年(995年)正月に突然陸奥守に左遷されています。この理由として、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨ててしまい、天皇の怒りを買い「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話があります。 その995年に実方は大沼を訪れて、下記の和歌を二つ詠んでいることが、山形市の千歳山万松寺に伝わっています。 よしやそも 名こそ深山の奥なれや 花にはもれぬ 雲の上かな 四方の海 波静かなるしるしにや 己と浮きて 遊ぶ島かな ■千歳山万松寺誌 藤原實方朝臣 より抜粋 行き行きて別れ路に逢坂山も打ち越えぬ。滋賀の浦浪立つも見つ。勢多の唐橋からころと、馬の蹄の鳴らすにも、如何に鳴海の濱千鳥、鳴く音を聞くも中々に、袖濡せとや宇津の山、遠き砧も今日許り、興津の濱に打ち出でつ…清見の月も曇りては都の空の懐かしく、富士の煙に咽びつつ、歩めば何時か足柄の、山も越えけり早川の、早くも年は暮れ果てて、それとし人も白河の、関路に春は陸奥の異なる境に着きましぬ。 此処か其処かと歌枕、阿古耶の松を尋ねても、更に其の甲斐御座さねば、来し方許り偲ぶ山、信夫の里も後にして、板谷路越えて米澤も後へに見れば、程もなく、大沼といへるにかかり給ふに、こはそも如何に、天の成せる勝地とはいへ、周り一里もあらむかと思はるる清水の漫々と湛へたる沼ありて、風のまにまに、往き交う嶋の面白く、数ふともなく数ふれば大小合わせて六十六嶋あり、風なきも岸を離れ、浪なきも岸を離れ、浪なきも游泳せる様、此の世のものとも思ほえず、恰も物のありて嶋を弄ぶが如く、小松、躑躅も藤波も、色を爭ひ、穂に出ぬ尾花も打ち雑れるに、興がらせ給ひ、 よしやそも名こそ深山の奥なれや花にはもれぬ雲の上かな と一首を遊ばしたるに、俄に水の沸き溢れて、天に漲るかと思はれ、数多の嶋々東西南北へと意に任せて其の状、織るが如く編むが如きに奇異の思ひをなしつつ、 四方の海波静かなるしるしにや己と浮きてめくる嶋かな と又も一首を詠じ給ふに、さしもに恐ろしかりつる沼水の、見る間に収まりて鏡の面よりも滑らかなり、其の折り怒れる波の溢れて枝の枝にかかり、根を洗ひたれば時人「波揚げの松」とて今の世迄も語り傳へぬ。實に「和歌は目に見えぬ鬼神をも感ぜしめし例しにや。 万松寺誌は、上記↑ダウンロードからpdfをご覧ください。 |
エコミュージアムの小径 第3集。国の名勝「大沼浮島」は歴史が古く、伝説の多い昔から著名な観光地です。大沼を代表する皆さんからお話をうかがいました。 A5版
編集・発行/朝日町エコミュージアム研究会 平成7年 |
エコミュージアムの小径 第7集。大沼を由来とする山伏神楽が、宮城県丸森町で伝承されていることが分かり、600年ぶりの里帰り公演が叶えられました。大行院当主最上敬一郎氏のお話、宝物紹介、シンポジウム報告など。A5版 編集・発行/大沼浮島ものがたり実行委員会 平成12年(2000)
※エコルームで販売しております。500円(郵送可) |
平成11年(1999)春、朝日町立大谷小学校大暮山分校は、児童数減少に伴い閉校しました。同時に、一世紀の歴史を持つ校舎も取り壊しの予定でした。惜しまれる声も聞かれる中、地元朝日町の若者たち「おもしろ塾」が、なくなるまえに思いで作りをしようと、試行錯誤の中、第一回の白い紙ひこうき大会を計画しました。それは、ただの競技会ではなく、あったかくて懐かしい夏のワンシーンをみんなで作るような、そんな大会をめざすことになりました。
すぐに、使われなくなった花壇にひまわりの種をまき、その苗は地元の小学生たちが水やりをしてくれました。大会一週間前には校舎を大掃除しました。地元の農家の皆さんは、校庭の雑草を刈って下さいました。また、閉校式の折、ぬかるんだ校庭に大量に敷かれていた砕石も重機できれいにかたずけて下さいました。 そして、ひまわりも咲いた大会当日、たくさんの白い紙ひこうきは、ゆっくりと、ふわりふわり校庭の空を気持ちよさそうに飛行しました。 その後、校舎解体は延期され、新しいスタッフによる新実行委員会も結成され、毎年夏恒例のイベントとして開催され人気を得ましたが、平成21年(2009)に惜しまれる中、校舎は取り壊されました。前年に開催された第10回の最終大会には、分校や大会のファンが全国から300人参加し、歴代スタッフも50人、アマチュアカメラマンも数十人押し寄せ、最後の夏を楽しみました。 →大暮山分校と白い紙ひこうき大会の写真 |
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昔、平安期の女流歌人・小野小町が大沼の浮島を見物するために、京都から当地にさしかかった時、突然天女の姿が現れ、紫の雲の間から羽衣をおとした。その羽衣の上には、十一面観音が立っていた。小町は不思議に思い、里の人々を説いてお堂を建てた。そして、自分の持ってきた守護仏の十一面観音を安置し、天女のおとした羽衣を拾い集め、七宝の念珠といっしょに奉納して霊場とした。これが、寒河江市柴橋にある落裳観音である。
→ 落裳観音
小野小町が京都から来て観音堂を開き、参詣者が沢山集まってきたところから京集山と呼び、天女が羽衣をおとしたという伝説があるので、地名を落裳と呼ぶようになった。また一説には、小町は年をとってから法衣をまとって諸国を巡り、この土地に来て、その法衣を添えて納めたのがその本尊であるともいわれる。
寒河江市柴橋2494-1
■小野小町は浮島を自分に例えた和歌を詠んでいます。多賀城市の浮島を詠んだとされていますが、本当は大沼の浮島を詠んだのではないでしょうか?
陸奥は世を浮島もありと云ふを関こゆるぎの急がざらなん
「つらい浮世に心をなぐさめてくれる浮島(=私)」という場所があるのだから、そんなに急いで私の元を離れていかないで(もう少しここにいて)、と恋人を引き止める女性の心情が表現された一首とされます。
→ 大沼に訪れた藤原実方