朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

12.五百川峡谷エリア:詳細について

最上川舟運と五百川峡谷
                   横山昭男氏(山形大学名誉教授)

〈金比羅・象頭山信仰と舟運〉
 朝日町長寿クラブ連合会で調査し発行下さった『朝日町の石佛』によると、朝日町には象頭山・金比羅権現の石碑が全部で22基ある。江戸時代末期に作ったものが多い。香川県琴平郡にある金比羅権現は、舟乗りや舟乗りに関係する人たちやその家族が信仰していた。最上川を下って、日本海の西廻り航路を通って江戸に行くにも大阪に行くにもそこを通る重要な経過点なので、安全航海するためや家内安全も含めて信仰していた。舟の仕事をする人がだんだん増えた証拠といえる。

〈最上川舟運の展開と特色〉 
 舟運が急速に発展したのは、江戸時代に全国が幕府により統一され、税金を重たい米で納めるようになってから。便利な川舟や海舟がどんどん使われるようになった。
 最上川舟運開発の大きな出来事は、最上義光による碁天、三河の瀬、隼(村山市)の三難所開削。ここを砕く事により、山形から酒田まで通れるようになった。
 数十年後の寛文年間には、河村瑞賢が西廻り航路を開発した。これが大きな出来事になったのは、起点が最上川河口の酒田だったから。それは、最上川流域に二十万石近い幕府の領地ができ、税金としての米を幕府まで運ばなければならなかったため。海のルートも最上川のルートもしっかりしたものが必要だった。

〈元禄時代の最上川舟運とその後〉
 元禄時代に、最上川舟運に米沢藩の参画があった。寛文年間まで、米沢藩は置賜地方と福島に30万石を持っていた。しかし、寛文四年に15万石に減らされ、今の福島県分がなくなってしまった。これにより、それまで江戸に米を出す場合は、福島へ陸送して阿武隈川から東廻り航路で運んでいたのを、最上川を通すようにしなければならなくなった。通るようにしたのが有名な西村久佐衛門の開削だった。西村は米沢藩の御用商人。自らも多額な投資をして五百川峡谷を開削した。
 五百川峡谷にはおそらく、それまで作業用の舟や渡し舟はあっても、左沢まで一貫して通る舟はなかった。開削のおかげで常時川舟が通れるようになった。これは大きなこと。ここだけでなく、中流、下流まで通ったのだから、最上川全体にとっても大発展だった。この五百川峡谷開削は大革命だったと言える。
 最上川船請負差配役は、いろんな人が所有している川舟をうまく動かすために全体を統括する人のこと。享保年間からはじまり寛政年間の60〜70年位続いた。ただ、最終的にはかなりの困難をきたし、差配役だけには任せられなくなり、川船役所を作った。差配役と幕府の役人と両方で川船の統帥をやって乗り越えた。
 その頃、米沢藩では御手船(大名の船)を作った。上流は小鵜飼船だった。小鵜飼船は左沢からは下って行けない。左沢から下流の酒田まではひらた船(�、平田)だった。寛政4年の記録では、小鵜飼船は100俵積みが12艘、50俵積みが48艘。あわせて60艘位が左沢から上流、五百川峡谷とか白鷹、長井の方まで上り下りしていた。

〈五百川峡谷の舟運〉
 朝日町大舟木村の川船番所の管理は米沢藩だった。船数、怪しい荷物の取り締まり、規定以上の荷物の取り締まりなどをしていた。一石楢村(夏草)の大庄屋佐竹長右衛門家は、米沢藩の通船差配役をしていた。船子(水主)雇い、綱手道の管理、梁仕掛けの管理、破船の救出における人足割り当て、払い米の世話などの仕事をしていた。米沢藩の安全な通船を図る仕事をしていた。

お話 : 横山昭男氏(山形大学名誉教授)
平成18年(2006)最上川学

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
Q1・・いつ建設されましたか。
上郷ダムの建設は、昭和35年11月15日に工事に着工し、昭和37年 2月23日に完成し、その日より発電を開始しております。

Q2・・どんな発電をしていますか。(発電)
最上川本川に高さ23.5メートルのダムを築いて水をせき上げ、それによって得られる落差により発電を行っています。

Q3・・どれ位発電していますか。(量)
発電所では、最上川より最大で毎秒百立方メートルの水を取水し、最大出力一万5400キロワットの発電を行っています。また、年間発生電力量は約8000万キロワット時で一般家庭約二万戸分となっています。

Q4・・どこに配電していますか。(場所)
発電した電気については、地元朝日町や山形周辺をはじめとするお客様に供給しております。

Q5・・どのような仕事をしていますか。
発電のために必要な水車・発電機等の機器の維持管理および洪水時のダム操作を行っています。

Q6・・苦労していることは。
上郷ダムの上流より、生活廃棄物等を含んだゴミが大雨のとき大量に流れてくることから、ゴミ処理に苦労しています。

Q7・・ゴミについての対策はありますか。
ゴミの処理については取水口に設置した移動式除塵機により、河川から陸揚げし、ゴミの分別のうえ、適正な処分およびリサイクルを実施しています。

Q8・・魚道について教えて下さい。
アユ、サケなどの魚が遡上できるように階段状の水路を設置してあります。魚道延長は330メートルあり、ダム水位に関係なく、常時毎秒一立方メートルの水を流しております。

Q9・・建設時のエピソードなど、その他上郷ダムについてご存じでしたら何か教えて下さい。
当時発電所の建設工事は昼夜兼行で進められ、多くの組員や行員、それに地元からも大勢の老若男女の労務者が出て工事現場で働いていました。そんな中で長い期間の大工事ともなれば、そこここの工事現場に何時しか美しいロマンスの花が咲き、寸時の休みを惜しむようにしてささやき合っている何組かのカップルが発見されたそうです。そのロマンス組がやがて実を結び、発電所工事が完成し世の人々に明るい灯を送る頃、めでたくゴールインしたと聞きます。

ご回答 東北電力株式会社山形支店
    電力流通本部土木グループ 笠原信年氏(平成20年)

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五百川峡谷の魅力
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五百川峡谷の誕生1
                   佐竹伸一氏(常盤)
1 はじめに
 最上川は、米沢盆地から上山盆地へと流入することなく、米沢盆地の西北方にある長井盆地に迂回して、出羽丘陵を貫く五百川峡谷を北進し、左沢から山形盆地へと流れを進めています。
 最上川には五百川峡と最上峡の二つの峡谷があり、このうち荒砥〜左沢の約25kmが五百川峡谷と呼ばれています。
 今回の講座では、最上川が、隆起量が結果として最も大きかった所をわざわざ選んで流れ五百川峡谷を誕生させた謎を探っていくことにしましょう。

2 最上川の誕生
 今から1500万年前ごろ、東北地方の大半は深い海の底に沈んでいました。現在の山形県にあたるところも全域が海の底にあったわけです。1200万年前頃になると、東北地方全域に広がっていたこの深い海の中の所々に山脈のような高まりができ、海の中に盆地のような地形が形成されました。
こうした海盆化されたやや深い海は、1000万年前頃になると、広い範囲で地盤が隆起したことにより、さらに少しずつ浅くなっていきました。現在の地理で言えば、庄内から新庄・山形・米沢にかけての一体が長い入り江となり、入り江の両側は陸地となりました。ヤマガタダイカイギュウは、このような入り江に生い茂る昆布などの海藻を食べて生活していました。
500万年前頃になると、地盤の隆起はさらに進み、日本海から続く入り江は分断されて、米沢、山形、新庄の順に、ほぼ現在の盆地にあたるところが湖沼となっていきました。この時、各地に分断された湖沼をつないで誕生したのが原始の最上川であり、起伏のゆるやかな大地の中を悠然と流れていたのです。

3 五百川峡谷の誕生
 人類が誕生する第四紀という時代をむかえると、それまでゆるやかだった地形は、激しい地殻変動によって彫刻をほどこされることになります。山がより高さを増す一方で、盆地は沈降を続けながらも隆起した山地から運ばれてくる土砂で埋め立てられていくことになったのです。
先に述べたように激しい隆起活動が始まる以前、最上川はすでに本地域を流れの場として選んでいました。川幅は現在よりも広く、ゆるやかな流れでした。しかし、周辺の大地が隆起していくにつれて、そのような環境は激変していくことになります。水の働きによる浸食量より大地の隆起の量が上回れば、川はその流れを変えてしまいますが、浸食が隆起の量を下回らないかぎり、川はより深く大地を削りこんで周辺は切り立った峡谷となります。最上川の浸食の力と大地が隆起する力とがせめぎあい、数万年の時間をかけて五百川峡谷が誕生したのです。
こうした地殻変動は、山形県においては村山変動と呼ばれており、60万年前頃に始まったと考えられています。この変動によって、それまでのっぺりとした丘のような存在にすぎなかった朝日連峰が、断層運動を伴いながら激しく隆起し、現在のような高く深い山岳となっていきます。地殻にできた亀裂からマグマが上昇し、月山や蔵王山が誕生したのも同じ時期です。五百川峡谷の誕生は、こうした激しい地殻変動と一連のものなのです。
平成18年

佐竹 伸一(さたけ しんいち)氏
昭和57年(1982)山形大学教育学部卒業。山形大学理学部教授(地球環境学科長)山野井徹氏に師事。現在、河北町立谷地西部小学校教諭。
山形応用地質研究会幹事。朝日山岳会副会長。現代俳句協会会員・俳誌「小熊座」同人。
著書「朝日連峰の四季」など。また、「朝日町町史 上・下巻」に執筆。


五百川峡谷の誕生2

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4 五百川峡谷の二つの景観
五百川峡谷は上郷付近を境に、直線状をなす上流部と、段丘が発達し曲流が著しい下流部とに二分されます。五百川峡谷が地形的に二分される原因として、まず地質の違いがあげられます。地質図からも明らかなように、前半部は硬質な泥岩層であるのに対して、後半部は軟質なシルト岩や砂岩層です。また、もう一つの原因として、北方にV字形の口を開けた構造で隆起が起こったことがあげられます。V字形の内側は外側よりも隆起量が小さかったので、最上川に河道を選択する余地が残されたということです。地質の硬軟の差に加えて隆起量の程度の差が、五百川峡谷に異なる二つの顔を持たせたということができます。
また、五百川峡谷の下流部の地質構造を最上川と直交する東西方向の断面で見ると、地層が小さな褶曲を繰り返しつつも大局的には向斜構造となっています。このような構造は複向斜構造といわれるもので、最上川は複向斜の軸部付近を流れています。このことから、五百川峡谷の下流部において、最上川は最も隆起量の少なかった所を選んで流れていると言うことができるのです。

5 河岸段丘の形成 
山間部にある朝日町に貴重な平地をもたらしているのが河岸段丘であり、朝日町の集落のほとんどはこの段丘面上にあります。
 段丘は一般的には土地の隆起によって形成され、何段かの平坦面(段丘面)とその間にある崖からなっています。標高の異なる段丘をつなぐ道路は必ず坂道となるので、結果として朝日町には多くの坂道が存在します。 
本地域を流れる最上川、すなわち五百川峡谷の段丘面は五つに区分されます。現在の河床との比高は、段丘群鵯が200〜140メートル、段丘群鵺が140〜70メートル、段丘群鶚が70〜50メートル、段丘群鶤が50〜数メートル、段丘群鶩が数メートル以下です。なお、段丘群は標高の高い所にあるものほど古く、低いものほど新しくなります。
 段丘群鵯はほとんど残っておらず、宮宿柏原葡萄団地や和合平付近などにわずかに分布しているだけです。段丘群鵺は、和合平や能中のクヌギ平。段丘群鶚は、西部公民館のある熊の山、豊龍神社の丘陵、秋葉山の西側の段丘面などです。段丘群鶤には幅の広い段丘面が多く、松程・常盤・宮宿・和合・大谷などの段丘面があります。段丘群鶩は現在の河床沿いに低く分布しています。新しい段丘群が形成される時には、これまでに作られた古い段丘群は側方侵食によって削りこまれてしまうので、結果として古い段丘はあまり残っていません。
 この他、標高220メートル付近に、堆積物の多い埋積段丘群があります。これらは宮宿付近で起こったと考えられる山体の崩壊によって最上川が堰き止められ、その上流が湖沼となった時の湖沼堆積物からなるもので、杉山・沼ノ平・杉の原などはこの埋積段丘であり、20〜30メートルの厚さで砂や粘土が堆積しています。ちなみに、この堰き止めがあったのは段丘群鵺の形成が終わり段丘群鶚の形成が始まるまでの間ということになります。崩壊という自然の力でできた天然のダムは、自然の侵食の力によっていつしか消えてなくなってしまいました。
段丘群鶤が形成された時期は、木片の年代測定から3万年前頃であることが明らかになっていますが、この時期の最上川は現在以上に大きく曲流していました。その後、最上川は流路を直線的に変えたために、曲流の内側には丘ができ川跡は三日月湖となって残りました。すなわち、宮宿と大谷は、その大きく曲流していた最上川の川跡にできた町であるし、豊龍神社の丘と秋葉山は、その周りが最上川に削り取られることによってできた丘陵なのです。

平成18年

佐竹 伸一(さたけ しんいち)氏
昭和57年(1982)山形大学教育学部卒業。山形大学理学部教授(地球環境学科長)山野井徹氏に師事。現在、河北町立谷地西部小学校教諭。
山形応用地質研究会幹事。朝日山岳会副会長。現代俳句協会会員・俳誌「小熊座」同人。
著書「朝日連峰の四季」など。また、「朝日町町史 上・下巻」に執筆。

佐竹伸一さん(常盤)

五百川峡谷の誕生3

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 6 地すべりと活断層    
本地域の大地は、新第三紀の海成層が隆起してできたものであり、砂岩や泥岩などの地質からなるため軟らかく、もともと地すべりを起こしやすい性質を持っています。また、隆起量が多いところほど地すべりが発生しやすいという特徴があるため、本地域の山地部には地すべり地が多く分布しています。
 一般に、斜面を構成する物質が、斜面の摩擦抵抗を排して比較的ゆっくりと断続的に滑動する現象を地すべりと言います。本地域の山手にある集落は地すべり地にあるものが多いのですが、地すべり地は土砂が攪拌されていて耕作しやすい土地であるということが、地すべり地に集落を形成させた大きな要因であると考えられます。
 この地すべりの他に、本地域には数多くの線構造地形が存在することがわかっています。これらは、断層や褶曲によって形成された崖であり、この中には、活断層であるとされているものもあります。
 本町域において活断層とされる断層は、宮宿断層と常盤断層の二つです。宮宿断層は、大滝から栄町まで1.5キロメートルの断層であり、国道287号線部分が断層線にあたります。一方、常盤断層は西部公民館がある熊ノ山の丘陵とその周辺の二、五キロメートルにおよぶ断層です。どちらの断層も10メートルほどずれておりその変位量は1000年に0.5メートル程度であり、3千年から3万年程度の間隔で地震をおこすB級活断層です。

7 おわりに
 五百川峡谷の最上川にはたくさんの瀬が存在しています。こんな所は、最上川のどこにもありません。瀬が多い原因として、隆起帯にある五百川峡谷では岩盤を削りこむ流れであるために川床が浅いということ、最上川の中上流部にあり比較的に水量が少ないこと、最上川を横切る何本もの断層が存在していること、朝日連峰の主峰・大朝日岳を源流とする支流の朝日川からたくさんの花崗岩礫が供給されていることなどがあげられます。
 江戸時代、この瀬の存在が舟運にとっての多くの難所を生みだしていました。このことについては、次回の講座で詳しく語られることでしょう。また、これはあまり知られていないことですが、このたくさんの瀬の存在が最上川の水質浄化に役立っているのです。瀬では、多量の空気が攪拌され、汚れた水にたくさんの酸素が供給されるからです。
瀬を利用して作られていた数多くの簗場、近年盛んになりつつあるカヌーやボートでの川くだりなどは、五百川峡谷の成因と深く関係したものであると言えるでしょう。

佐竹伸一さん(常盤)
平成18年
〈事業のあらまし〉
 国営最上川中流農業水利事業は、朝日町四ノ沢からトンネルで最上川の水を取り、山形市と山辺町・上山市と天童市の一部を加えた三市一町にまたがる農地で不足する水を補っている。
 山形盆地の東側の馬見ケ崎川から一秒間に2t、西側の畑谷大沼、荒沼、玉虫沼などの西部湖沼群から3tまでとれるようになっていて、それで足りない分を最上川から最大8t(現在は4t)まで取水できる。馬見ケ崎川からは、現在1tしかとれない状況なので、ほぼ半分は最上川の水に頼っていることになる。主に須川より西側の西部地域の1500haの農地に使われている。国から委託され、私たち土地改良区が管理運営を行っている。

〈尊い命が犠牲になった大工事〉
 西部幹線トンネルは、山辺町の根際まで9.1kmの長さがある。その間の高低差が3.6mしかない。2500分の1のゆるやかな勾配を二時間以上かけてゆっくり流れてくる。工事費65億円をかけ、昭和48年の着工から10年後の昭和58年に完成。山形盆地の水田を潤し、江戸時代からの悲願が成し遂げられた。
 しかし、昭和51年と53年に、二度のメタンガス爆発で18人の尊い命が奪われた。掘削が1パーティ9人で、朝日町側と山辺側でそれぞれ9人ずつ犠牲になった。出口の山辺町に慰霊塔が建てられ、年に一度遺族の方も参加して慰霊塔の参拝を行っている。トンネルに入る時は、四ノ沢の入口の大きな扇風機で空気を動かし、必ずガス検知器を携帯している。


〈遠隔操作で用水管理〉
 ここは中央管理局といって、頭首工の様子や、揚水機(ポンプ)の運転状態を把握し、遠隔操作できるようになっている。大きなモニターには、四の沢頭首工(取水口)の現在の流れる様子も映し出されている。除塵作業は朝日町の鈴木さんに毎日行ってもらっているが、特に多い日は、再度連絡をし、除塵機を使って取り除いてもらっている。また、取水量の調整などがここでできるようになっていて、雨で増水した時は、たくさん流れ込まないようにゲートを下げ、水かさが減るとゲートを上げて、取水量を調整している。
 西部地域の水の流し方は、自然流下と、高い所までポンプアップして流し直す方法をとっている。六割が管路(パイプライン)になっている。ポンプが故障すると、黄色に表示されブザーもなる。管路の中が空にならないように三つのポンプはいつも稼働できる状態にしている。万一空になると、充水に一週間はかかってしまう。管が壊れるのでいきなり圧力をかけられない。壊れるとお金もかかるし、補修に時間がかかる。水が出ないとお金を出してくれている組合員の皆さんに申し訳ない。なので、取水し続けるため、ポンプの管理をし続けなければならない。そのような管理を夜中も泊まってここで行っている。
※写真は山辺町側の出口

お話 : 仁藤輝夫さん(最上川中流土地改良区管理課長)
取材 : 平成20年7月

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五百川峡谷の舟道遺構

                    佐藤五郎氏(米沢中央高校教頭)

〈舟道の発見〉
 毎年の水質調査時に、五百川峡谷の岩盤の所々に切り目が入っているのを不思議に思っていた。白鷹町菖蒲から上郷ダムまでGPS調査をした結果、人工的に堀削した舟道であることが分かった。目測だが左沢まで30kmに渡り同じような工事が成されている。これは、元禄時代の米沢藩御用商人の西村久左衛門が開削した遺構であり、国内最長の舟道といえる。

〈腑に落ちない工期〉
 西村が幕府に開削普請の願い状を出したのは元禄5年(1692)。翌6年(1693)の正月に許可が下り、6月に工事着工し、翌7年(1694)の9月には完成している。そしてすぐに、米沢藩の藩米13,700俵を長井市の宮から下している。しかし、30kmに渡る大工事を、たった一年三ヶ月位で出来るわけがない。私も腑に落ちなかった。

〈道開削の本当の歴史(私感)〉
 それはやはり表向きであったことが分かった。西村は、左沢の大庄屋海野家に「船は通れるようになったので、船頭の差配や舟屋敷を建てる土地の確保などをお任せしたい」旨を願った手紙を出している。それが幕府から許可が下りる一年前の元禄五年(1692)の正月のこと。これにより大部分の工事はすでに終わり、舟は通れるようになっていたことがうかがえる。
 西村は、京都から当時の舟道開削専門のゼネコン“角倉一門”の間兵衛(まへえ)という優秀な技術者を呼び寄せているが、それは船が開通した元禄7年(1694)のおよそ10年も前になる。すぐに開削工事の可否を調査させたのだろう。
 そして、貞享4年(1687)。51才の三代目西村久左衛門が引退している。その若さで引退したのはなぜか。おそらく工事が可能ということになり、御用商人の家業は息子に任せ、本人はいよいよ本格的に開削工事に取り組みはじめたことを意味しているのではないか。
 翌年の元禄元年には、大石田から舟大工を移住させている。これも開通する五、六年も前のこと。工事の為の舟作りを始めたのではないか。
 おそらく、米沢藩の内諾のもと、藩自身も内々に関わり領外の代官にも根回しをし、下流の左沢から上流に向かい工事を徐々に進めていたのだと思われる。そして、最上流部の黒滝を残し、ほぼ完成の状態に近づいたところで、開削普請願いを出したのではないか。黒滝だけの開削なら一年三ヶ月で充分やれただろう。
 工事は、平らな所を新たに掘るのではなく、所々にある自然の浸食による深みをうまく繋げるようにした。浅いへりや蛇行して出っ張っている岩盤を砕いてまっすぐにしていった。砕くのには、長さが1m位、太さが10cm位、重さは50kg位の先が尖った鉄のかたまりを4、5mの高さのやぐらから落とした。これは、計算すると水中の岩も砕ける破壊力がある。
 工事費は、一万七千両かかったとある。米で換算すると現在の20億円前後とされているが、当時の日当は一人米一升程度。現在の日当一万〜一万五千円とかで計算すれば二百億とか三百億円の額になる。30km区間の大工事も充分可能だったとうなずける。

〈期待される古文書調査〉
 朝日町・左沢間は、元禄5年あたりには工事は終わり、船の往来はあったと思われる。左沢はすでに船着き場の最上流地点だったが、朝日町区間は船着き場としての町並みが充実しはじめた頃と言える。関わる資料が残っていないだろうか。その視点でもう一度古文書等を調べ直して欲しい。
取材 : 平成20年7月

佐藤 五郎(さとう ごろう)氏
山形大学教育学部卒業後、昭和44年(1969)米沢中央高等学校教諭着任、副校長を務める。最上川水系の水質調査を同校科学部で指導され、平成5年(1993)からは毎年ゴムボートで流下しながら水質や河川環境の調査を実施。現在は国土交通省最上川水系流域委員会委員、山形県環境アドバイザーなどの各種委員を兼ねている。著者多数。

※写真は明鏡橋下の舟道遺構
舟道(明鏡橋下)

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五百川峡谷の水質浄化力
                 佐藤五郎氏(米沢中央高校教頭)

〈五百川峡谷は最上川の心臓部〉
 最上川には、狭窄部が5ヵ所あり、人が住む盆地部で汚れた水を浄化しています。なかでも「五百川峡谷」は、最上川最大の峡谷部。難所中の難所です。5ヵ所の中で、最も大きな蘇生力・浄化力を持つので、私は最上川の心臓部と考えています。五百川峡谷がなければ、今のような最上川の水質は維持できません。

〈五百川峡谷の水質浄化のしくみ〉
 五百川峡谷には、白く波の立つ所がたくさんあるので、水質浄化に非常に効果的な役割を果たしています。それは、空気中の酸素を充分水に溶け込ましてくれるので、水に棲んでいるプランクトンや水生昆虫、魚にいたるまで、いろんな生物が活発に活動し、汚れを餌として食べてくれるからです。

〈五百川峡谷の水のきれいさ〉
(硫酸イオン値)最上川の水質で一番多く含まれるのは、源流部の硫黄鉱山から流れる硫酸イオンです。流下に伴い値は下がりますが、五百川峡谷ではかなり下がります。ペーハーは、酸性から中性に変わります。
(濁度)濁りは濁度計で測ります。米沢盆地を過ぎて南陽市から川西にかけて、濁りがピークになりますが、長井で白川が入ると希釈され、さらに五百川峡谷の明鏡橋付近にかけて濁りは特に下がります。上流で汚れた水が徐々に希釈され、息を吹き返して、見た目にもきれいに蘇生されるのが五百川峡谷といえます。
(TOC調査)汚れを燃やして出る二酸化炭素の量を赤外線で測定する調査です。米沢盆地の下流、下田橋や鳳来橋付近で汚れがピークに達し、五百川峡谷の明鏡橋のあたりにかけて一番下がります。
(COD調査)薬品による調査です。やはり、五百川峡谷の五百川橋や明鏡橋のあたりで最低の値になります。水質が最も良くなっています。源流部で水質を落として五百川峡谷で蘇っているのが分かります。
(過去40年間の水質)どの場所も1960〜70年代に高度経済成長であおりを受け汚れました。その後、工場排水の規制や法的にも改善され、1980年代に入ると下水道が普及し、汚れは改善されてきています。最上川の過去40年間のCODデータを、上流は鳳来橋、中流は明鏡橋、下流は庄内橋の3ポイントで比較すると、明鏡橋は常に最もいい値になっています。

〈五百川峡谷の水路の持つ効果〉
 米沢藩の御用商人西村久左衛門が開削した五百川峡谷には、岩盤がすとんと凹んでいる水路が大江町にかけて続いています。現在、水路を測量していますが、水路は幅10〜20m、深さは2〜3mもあります。自然のものか、掘ったものかは、まだ分かりません。
 私は、この数十キロにも及ぶ水路があることが、水質浄化に重要な働きをしていると考えています。それは、浅瀬も深みも同じ場所に存在するので、水生生物にとって好都合だからです。多様に生きられるのです。水路の中がどうなっているかは、今後水中カメラなどを使って確認する予定です。全貌を明らかにしてこの素晴らしい五百川峡谷を全国にアピールしたいと思っています。五百川峡谷はまさに朝日町の宝といえます。
取材 : 平成18年

佐藤 五郎(さとう ごろう)氏
山形大学教育学部卒業後、昭和44年(1969)米沢中央高等学校教諭着任、副校長を務める。最上川水系の水質調査を同校科学部で指導され、平成5年(1993)からは毎年ゴムボートで流下しながら水質や河川環境の調査を実施。現在は国土交通省最上川水系流域委員会委員、山形県環境アドバイザーなどの各種委員を兼ねている。著者多数。


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 朝日町長寿クラブ連合会で調査して発行くださった『朝日町の石佛』によると、朝日町には象頭山・金毘羅権現の石碑が二十二基ある。江戸時代末期に作ったものが多い。
香川県琴平郡にある金毘羅権現は、舟乗りや舟乗りに関係する人たちやその家族が信仰していた。最上川を下って、日本海の西廻り航路を通って江戸に行くにも大阪に行くにもそこを通る重要な経過点なので、安全航海するためや家内安全も含めて信仰していた。船の仕事をする人がだんだん増えた証拠といえる。   
お話 : 横山昭男氏 (山形大学名誉教授)
平成18年

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 最上川の荒砥・左沢間は五百川峡谷と呼ばれ、急流で難所が多い上に、昔は峡谷入り口の菖蒲(白鷹町)に黒滝という丈余(約三メートル)の滝があり、船の運航ができなかった。従って米沢藩の全ての物資の藩外輸送は山越えを強いられ、幕領の年貢米は二井宿峠か板谷峠越えで福島まで馬で運び、阿武隈川を船で下り、東回りの回船で江戸まで運んだので、費用がかさんだほか荷痛みがあった。
 元禄(約三百年前)の頃、米沢藩の御用商人西村久左衛門は、この黒滝をはじめとする五百川峡谷の難所を開削すれば、荷を藩内から船だけで酒田まで下すことができ、当時河村瑞賢により開発されていた日本海西廻り航路に結びつかれば、航路は下関・瀬戸内海・大阪と長くなるがきわめて安全に荷痛みもなく江戸まで運べると考えた。
 西村の本業は青苧商だったが、幸い縁戚に角倉了似という大土木実業家がおり、その援助で間兵衛という優秀な手代を譲り受け、綿密な調査をさせた上、船大工は大石田から、船鍛冶は越後の飛鳥井村から呼び寄せて準備し、藩および幕府の許可を取り付け、元禄六年(一六九三)開削に取り掛かった。
 その工法は、川の流れを迂回させて滝を干上がらせ、岩の上で焚き火をして岩を焼き、川水を掛けて岩を割ったり、岩盤の上に高い櫓を建て、重い鉄錐をロープで縛り、大勢で吊り上げて落とす「どん突き工法」を用いたりした。工期は一年三ヶ月、総工費一万七千両(現在で一七億)の巨費を投じて翌七年九月開通。間兵衛船と呼ばれた船は米沢藩米を積んで、五百川峡谷を矢のように下り酒田まで通船したのである。この上下の通船がもたらした恩恵ははかり知れず、まさに水運の革命といえるものだった。
 しかし昔のことゆえ、工事の成功や船の安全には神仏の加護を祈ることが第一で、川沿いに神仏に堂宇の再建や鰐口の奉納などの安全祈願が行われた。また、この舟運を持続するため、菖蒲と左沢には船陣屋を置き通船を管理し、途中には通船差配役を置いて、船を曳き上げる綱手道の整備や難破船の濡れ米の処理などをさせた。
 五百川峡谷の朝日町域には大滝瀬・どうぎ瀬・三階滝などの難所が多くあり、しばしば船が難破し、その都度濡れ米を引き揚げた。これには川沿いの百姓が頼まれ、引き揚げた米は払い受けて餅をついたそうで「かぶたれ餅」と言われた。
 しかし、この舟運は後に訳あって西村から藩運営に変わった。そして後年、陸上交通の発達でその役目を終えた。綱手道も今では殆ど姿を消し見られなくなった。

お話 : 若月啓二さん(西船渡) 平成18年

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五百川峡谷の魅力
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川岸はサンクチュアリ
                お話 姉崎一馬氏(自然写真家)
 最上川五百川峡谷の川岸は変化の大きい自然といえる。崖が崩れたりする不安定場所は、パイオニア的な植物が多い。ケヤキ類をはじめとして水に強い樹木が多く、大木も結構ある。切り立った川岸では、太くなりすぎると支えられなくなってしまうので巨木とまではいかないが、それでも太い木はいっぱいある。
 なにより、人が入れないので、生き物たちの逃げ場となっていて、サンクチュアリとしてとても貴重な場所といえる。
 以前、仲間と静かに五百川峡谷を下ったときには、青サギやゴイサギ、ヤマセミなどがたくさんいた。特にゴイサギは、四畳半くらいの柳の茂みから百羽以上出てきて驚かされた。ヤマセミは、数十メートルに1羽は出てきた。この鳥は、奥山に行かないとなかなか見られないから一般的に憧れの鳥となっている。町の中でこんなに見られるのはとても珍しいこと。鳥を観察する人たちにとってはとてもおもしろい場所ではないか。
お話 : 姉崎一馬さん (立木) 取材 : 平成19年

姉崎 一馬(あねざき かずま)氏
昭和23年(1948)京都生まれ。朝日町立木在住。
雑木林から原生林まで日本全国の森林をフィールドとする自然写真家。山形県朝日連峰山麓を活動の中心とした子供のための「わらだやしき自然教室」もボランティアとともに行っている。著書に「はるにれ」(福音館書店)、「はっぱじゃないよ、ぼくがいる」(アリス館)など多数。

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心なごむ明鏡橋を見つめて
                  橋の写真家 平野暉雄氏
                 (株式会社景観技術センター代表取締役)
                      
〈文化が消えてしまうものづくり〉
 私は土木設計会社で10年間設計を学んだ。はじめは手計算だったが、次第にコンピュータの時代になり、「早く・安く・丈夫なもの」を主目的に設計する時代になった。しかし、それだけで作ってはその町の文化が消えてしまうのではないかと思った。34歳の時(1977)に独立し“写真の中に完成する橋のイメージを作る”景観設計の会社を興した。見え方を重視することが美しさになるのではと考えた。
 橋の写真を撮り始めたのは、講義する母校の立命館大学の学生達にきれいな写真で橋を見せたかったから。すると、古い橋が素晴らしいと思った。現代の橋は、大きい橋、新しい橋、化粧した橋など、絵にならない違ったイメージを感じ、味気ない橋が多い。

〈日本一心なごむデザインの明鏡橋〉
 便利よりも、心なごむ観点から物作りしないと世の中全体が味気ないものになってしまう。土地の人が心なごむ橋がいい。
 『日本の近代土木遺産』という文献があるが、この中に橋が1000橋位、写真掲載のほとんどない一覧表で紹介されている。私は大体8〜9割は見てきた。明鏡橋みたいな素晴らしい橋に出会えるのは10橋に一つあったら良いほう。明鏡橋は何度でも来て写真を撮りたくなる橋の一つ。リピートしたくなる橋こそ心なごむ橋といえる。明鏡橋は開腹型アーチ橋では日本一の心なごむ橋だと思っている。

〈明鏡橋の素晴らしさの理由〉
 山形県内では、明鏡橋、大江町の最上橋、寒河江市の臥竜橋の三つが一番素晴らしい。2002年4月に朝日のあたる明鏡橋を撮らせていただいた。明鏡橋がなぜ素晴らしいかというと、アーチの曲線(円弧の両下端を結んだ線と円弧の頂部との高さ)が非常に大きく、並列に3本のアーチ(3主構)のきれいな円弧になっている。また、桁と支柱の接合部も円弧で繋がれている。高欄も円弧でデザインが統一されている。最上橋のようにアーチが3径間連続になると高さが低くなる。明鏡橋のほうがアーチの曲線がゆったりしている。
 ぺらぺらの定規をアーチに曲げると、両端に力がかかり非常に硬くなる。明鏡橋も臥竜橋も、両岸とも岩でできているからアーチができる。岩場のある所が川の流れは早くなるので、芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」の句は、庄内ではないと思う。アーチにすると大きく架けることができるから、流れの早いところに橋脚を立てる難工事をしなくていい。非常に力学や自然にあった作りになっている。一つの円弧でこれ以上きれいなコンクリートアーチ橋は日本にはほとんどない。
 
〈思い入れのあるものを守り継ぐ町づくりを〉
 昨日、佐竹さんの家(佐竹家住宅)の外観を見せてもらった。他にもあると思うが、この地方の特徴を現した家である。あのような作りの家は他のも残してあげるとこの町の誇りになるのではないか。
 現在は安くて丈夫な材料がいっぱい出回っているが、修理される時は、町の景観保全のため(できるだけ元の材料と同じもので」)修理費を出してあげて残して欲しい。
 日本の文化を次の世代に残すのは大変な苦労がいること。私は京都生まれだが約1200年間の歴史があって守り継がれてきた。守るのは新しいのを作るより大変な努力がいる。特に今の時代はどちらかというと新しいほうが好まれているが、そうではない。そこに思い入れがあることによって日本の文化が守られるのではないか。特に、土地の「言葉」「食べ物」「見るもの」を大切にできたら心なごむ町が出来上がっていくと思う。

お話 : 平野輝雄(ひらの・てるお)氏

プロフィール
1943年京都市に生まれる。1968年立命館大学理工学部卒業。会社勤務を経て,1977年〜株式会社景観技術センター代表取締役社長、1992年〜2006年立命館大学非常勤講師、1988年明石工業高等専門学校非常勤講師、日本写真協会会員、土木学会フェロー会員、キャノンクラブ会員。著書に写真集『日本の名景 橋』『橋を見に行こう〜伝えたい日本の橋〜』がある。
※写真は『橋を見に行こう〜伝えたい日本の橋〜』より抜粋しました。

景観技術センター公式サイト(PC)
伝えたい日本の橋

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 九月はじめ一枚のCDが届いた。その一週間ほど前の山新に、朝日町が生んだ詩人海野秋芳の詩を、町の有志グループ「燭の会」が朗読しCDに収めたという記事が出ており、早速朝日町エコミュージアムを通して取り寄せたのだった。
 海野秋芳については、『やまがた現代詩の流れ-2006/やまがたの詩の存在-』で、鈴木直子氏による紹介文を通してはじめて知った。大正六年(1917)生まれの海野秋芳は十六歳で小学校高等科を卒業し上京、薬局の住み込み店員となる。詩に目覚めたのはこの頃だが、その後泉與史郎に師事し本格的に詩作に取り組み、精力的に作品を発表する。薬局を退職後金属工業所の職工として働くが、腎臓結核で太平洋戦争のさ中、昭和十八年(1943)二十六歳の若さで夭折した。
 今回CDとして世に出されたのは、詩人25歳の時に発刊された、唯一の詩集『北の村落』の朗読。町で五年前に開催された「海野秋芳シンポジューム」の参加者の中から数人が集まり「秋芳の詩を読む会」を結成、「燭の会」と名づけ、月一回の集まりで彼の作品を読み解く活動を重ねてきたとのこと。CDには高村光太郎から寄せられた序文と34編の作品すべてを載せたブックレットも添えられている。朗読は、11人の会員がそれぞれ3〜4編を担当しているが、最年少のメンバーは秋芳の大甥にあたる青年で、詩人が亡くなったときとほぼ同じというのも縁のように思われる。
 CDからはじめに流れてくるのは、どこか懐かしい想いにつつまれるメロディー。電子音楽による手作りの曲は朝日連峰の裾野を吹きすぎる風のようだ。集中何度か挿入され特注ののテーマ・ミュージックといったところ。
 高村光太郎の序文に続いて詩の朗読がはじまる。ふるさとの風景や情景、当時の貧困にあえぐ寒村の様子、その故郷への思慕、労働にたずさわる者の思索、そして戦争への複雑な感情-、様々なテーマの作品が、淡々と、読み続けられる。ドラマティックな展開やパフォーマンス的な表現はほとんどない。感情移入も極力抑えられているように思われる。演劇や朗読のプロ、あるいはセミ・プロ的な人が読めば、ずっと違った〈作品〉に仕上がったであろう。率直に言わせてもらえば、いわゆる‘上手な朗読’とはいえないものもある。また‘正しいアクセント’や‘イントネーション’などにこだわって、注文をつけようと思えばいくらでもつけることはできるかもしれない。が、そんなことはここでは瑣末なことだと思わずにいられない。読み手は、生半可な色などつけずに、それぞれの詩のことば一つひとつをていねいに、いとおしむように読んでいる。むしろそれ故に聴き手は自分なりの秋芳の世界をイメージすることができるといってもいい。
 小さな町で制作された素朴な一枚のCDから、海野秋芳はわたし(たち)の宝物」という、会の人々の熱い想いがまっすぐに伝わってきて、手放しで嬉しく、同時に詩人生誕100年にあたる2017年の、詩集『北の村落』復刻版の出版を心から応援したい気持ちでいる。
 最後に短い作品をふたつ紹介しよう。

 故園
あの頃のほころびを
木綿針でつついて
日向ぼっこの婆さんがいる

 土
この生活(くらし)になれても
苔むした無縁墓石に
何の希(ねがい)をかけようか

都会がへりの人見れば
ゆらぐこのこころ
聞かないでくれ

粧ひのまぶしさ
百千の金 何になろう

稲穂天を指す秋
一杯の粥すすりあふても
しぶとく生き抜いて
俺ら
みのりする秋を知っている


『E詩14号』( E詩の会 2009.10発行)より抜粋
この松永氏の寄稿(山形新聞)が海野秋芳を改めて紐解くきっかけとなりました。

海野秋芳の思想伝える〜農民視点に人間の悲哀〜
詩人/松永伍一氏

 書庫で資料探しをしていたら1冊の珍しい詩集が出てきた。海野秋芳の『北の村落』である。昭和16年に鵡鸚社(東京)から出ている。定価1円70銭。
 記憶は確かではないが、三十数年前に私が『日本農民詩史』を執筆中に古本屋で見つけたものらしい。その中の一遍を取り上げて論評しただけで、出生地もプロフィルもわからぬまま歳月が過ぎたが、こんどこの詩集が偶然書庫から出てきたのは、海野秋芳の名とかれの詩業がこのままでは消えてしまうぞ、との天の警告に思えて私は義務感につき動かされた。そしてこのテーマで「直言」に一文を草し、末尾に「ご存じの方があればプロフィルを教えて欲しい」と書き添えた。
 
 すると本紙編集部(山形新聞)から電話があって、山形県朝日町の出身で、昭和18年に二十七歳で他界しているとのことであった。「あの詩集1冊を残して夭折したのか」との思いが、私の胸を打った。
 『北の村落』は東北農村の凶荒をうたい、土着者の目ではなく離農者の望郷の熱い視線で「村」をあぶり出している。しかもあの時代にあって厭戦のテーマが書かれていたのだ。
 詩集が書かれたのは太平洋戦争勃発の年であり、前年は「皇紀二千六百年」を奉祝する行事がつづき「神国日本」を鼓吹するムードがちまたに満ち満ちていた。「美しの日本」をうたいあげるならいざ知らず、農村の貧困や戦がもたらす人間の悲哀を訴えるとなれば、身の危険すら感じなくてはならなかったろう。
 後に戦争協力の詩を書くことになる高村光太郎が、この詩集に序文を寄せている。「此処には東北の冷害がある。北方の水の災いがある。天をさす稲穂のなげきがある。そして農民の低いが凄い言葉がある」という書き出しで「低く生きて下を深く見ることこそ銃後をまもる者の責任」とも述べている。「凄い言葉」の中身を読みちがえたのか、意図的にぼかしたのか、作者には「銃後をまもる」積極的な意識はなかったはずである。

 つぎに引用する「雲低き日」には「親友Y君の英霊かへる」とサブタイトルがある。
 君は
 僕の側から
 隙間風の様に
 征った
 とほく
 海を越へ
 長江のほとりで
 任務についた
 回転する
 世界も知らず
 好きだつた論説欄も見ずに
 固く銃を握ったまま
 また 秋が来て
 君もかへつて来た
 無言のすがた いたましく
 半旗に護られながら
 いまは
 なににも云へない
 御苦労様
 御苦労様
 
 ほかに厭戦をテーマにした「仏間」(夫を戦死させた姉の狂おしい様を描く)などがあるが、それらの視点が娘を売らねばならなかった農民たちの生存への視点と重なっていることに、私は感じ入った。海野秋芳については本紙の「本の郷土館」シリーズで松坂俊夫氏が触れておられる(平成7年7月8日付)が、この機会に一人でも多くの人々がこの詩人の思想に触れて下さればと、願ってやまない。

(平成  年)山形新聞特別寄稿


松永伍一氏(まつなが ごいち)プロフィール
詩人・エッセイスト。1930年福岡県に生まれる。八女高校を出て中学教師8年、1957年以降文筆生活。文学・民族・美術・宗教など広範囲にわたる評論で知られ、とくに子守唄・農民詩・キリシタン・古代ガラスの研究者として著名。あらゆる文学組織に参加せず。『日本農民詩史』全5巻の大作により毎日出版文化賞特別賞を受ける。テレビ・ラジオ出演も多く、ドキュメンタリー番組の制作にもかかわってきた。趣味の絵画で10回を超える個展を開く。著書には『日本の子守唄』『天正の虹』『散歩学のすすめ』『フィレンツェからの手紙』『老いの品格』『花明かりの路』『快老のスタイル』『金の人生 銀の人生』『感動の瞬間』『モンマルトルの枯葉』など140冊がある。2008年没。

北の村落

なあんだ また雨來るだべ
そうだべな

けふで十日もならうに重すぎる北國の空模様である
この樣に 雨空低くたれ
粟の穂先天を指す秋
それは すざまさしい海浪の迫る豫告ではあるまいか

父(とっ)つあ 行田(なめだ)さ行つて見ろ 穂先 天コふいてるから
俺あ 見たくもない
親も 子も
今年こそと勵ましあひながら
たぎる樣な水田の害草(くさ)をとり 稻株(かぶ)の繁出(もで)を數(かぞ)へたのに
仕方がない大根葉(ひば)を納屋にしまふんだ
それから飮水を汲んで呉れ
冷雨降る日を 木の根などくべて
膏薬をあぶり 疲れた關節(ふしぶし)にはる
おつ母(かあ) 白髪拔いてやるべ
構はないでくれ 針の溝 この暗さでは通らないから――
野良着繕ふ母も老ひたのか
賣薬袋さげた下にうづくまり 振り向きもせず 荒れた
 掌をうごかすのである
野良話は 雨の日を暗くのしかゝつて來る


蕗(ふき)

ながい旅から
ほこり立つ道をゆられ
歸へつて來た

もどかしく
どつと かけ込みたい氣持(こヽろ)を支へて
やきつけられた 日傘

戻らうか
詫びようか

いまさらに 顔のなく歸へつて來て
母を呼ぶこゝろ

うかがへば
しがみつく絆をゆすぶつて
女人が笑つてゐる


北の村落(2)

押し潰されそうな山峡の村落である
今日は下駄屋のよね坊が賣られて行ったそうな‐‐―あれ
 も一年足らずで大きなお腹をかゝえて來るだらうよ
前借に前借を重ねて娘を銘酒屋に沈める貧困な村である
今度は何處の娘が 泣寢のまぶたを覺ますだろうか

大雪が祟って稲穂がつんと立つたきり
收穫(とりいれ)のない秋
淋しい田圃の畔で 爺様たちがこぼしてゐる

―――俺達も長生きするでねがつたなア
―――全くだ 祿な飯も食(くら)へられねいで いつそ
―――まあまあ そう云ふたとて どうにもならないし
來春まで待つだね

齢ぼうけや 女子供寒々と殘り
ひたむきに 若者が出かせぐ都會の魅力

あこがれがあこがれを引いて
義理さへもなく さびれゆく
村落の光なき夕暮である

昭和七年東北地方を苛んだ冷水害は今や忘れられ
ようとしてゐる、忘れてはならない、村を愛す
る心は先祖を愛する心だ―――昭和十五年春――


雲ひくき日に
  -友人Y君の英霊かへる-

君は
僕の側から
隙間風の様に
征つた

とほく
海を越へ
長江のほとりで
任務についた

廻轉する
世界も知らずに
すきだつた論説欄も見ずに
固く銃を握ったまゝ

また 秋が來て
君もかへつて來た
無言のすがた いたましく
半旗に護られながら

いまは
なんにも云へない
御苦勞様
御苦勞様


血型

ながいこと カーキ色の從隊がつゞいた
多くの顎紐をかけた戰闘帽の中から
おまへは 兄さんと呼んでくれた
 章 元氣で行つて來い
握つたおまへの掌は
逞ましくふしくれ 何か どぎついものにおもはれる

前線へ行く兵隊 
百千の旗に歡呼するどよめき
その中で 握ぎりかへすおまへの掌
 章 今日を忘れるな
多くの顎紐をかけた戰闘帽の中に
もつとどぎつい その掌を握らせてくれるまで
私は其の日を待つている
おまへも忘れないでくれ

海山越へて征つても
つながつてゐるものがある
ながれるものがある


飢ゑてみろ

どいつもこいつも 坐りたい車席(クッション)を
總立になつてゆずりあふ手合(てあい)ども
にやにや笑ひながら坐りこんで終ふなら
いっそ立たずにそつぽを向けばいゝでないか

色褪せたそれが道徳か 博愛か-世にすねた盲人(めくら)の仁
 義と云ふものか

金のカマボコ指輪がなんであらう
狐の襟巻きがなんであらう
隣席(となり)のつゝましい勞働者をみるがいゝ
何故のステーブルファイバーか
何故のふしくれ双手(もろて)であるかを

でこぼこの道は 車がゆれるものだ
絶間ない振動が車を壊すのだ
疲れきつた運轉者らがすべての犠牲となる

日毎夜毎 足元から翔けてゆくものの羽叩きを聞け
そいつらの諦めきつた虚空への後姿を見送つてやれ
さってゆく眞白な翼は なぜ灰色の歳月を忘れたか
凍てついた寒月のあたりになぜ神々は新しい子供の産聲
 を聞かねばならぬのか
蒼白い爪を噛んでみろ
なんであらうと 飢ゑてみろ
飢ゑてそのあと血を吐いてみろ




背柱の腐れかゝつた生物のやうに
ありつたけの力をしぼるモートルを据えて
ひとら 油のなかに糧を求める職場である
あの頃の心を いげつなくずらせて
今日もまた十分の休憩を無上の生きがひに待つ心

長すぎる作業のあとの休憩ベルが鳴る
必死の廻轉に太息する機械の沈默がある
よごれきつた少年工のはしたない談笑が崩れて
おれは習ひかけた語學を落し書きする
まるであの頃母の白髪を見つけた つまらない感情に似
 てゐる

窓ごしにちらつく特務工手の視線にふれて
いつかしぼんだ可憐なグルッペの無駄話
今は追ひ詰められたぎりぎりの一日にゐる彼等である
夜があけて 乘りなれた割引電車 はつとする始業の                    
ベル 工長がやけに意張るのだ
――ニグロを使ふ奴等のやうに

味氣ない日課がおまへらのやうにある俺だ
いつそ叩きつけたい書類などもある
磨滅させて終ひたいバイト ドリール
それがおめおめ今日も犬齒をかんでこらへた
やつぱり俺は意氣地がないか 意固地だか

ベルが鳴る 始業 油に蝕まれる一日がある
グッとスイッチを入れた二十五馬力のモーター
あか錆びて シャフトが プーリーが ベルトが廻轉する

工場の 機械の 汚れた菜ッパ服の仲間ら
聞くがいゝ あの古びたモートルのせつない獨白を
なに故の 所詮は束縛(しば)られたものの地團駄であらうか

※海野秋芳詩集『北の村落』より抜粋
夭折の詩人 海野秋芳