朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
12.五百川峡谷エリア:住民学芸員のお話
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お話/ 菅井一夫氏 〈古い明鏡橋のこと〉 小さい頃、母親に手を引かれて二見屋の鉱泉によく入りにいったな。旧明鏡橋の前に架かっていた橋は木の橋で、川が板のすき間から見える作りで渡るのがとても怖かった。 〈光玉堂について〉 父が始めたお菓子屋「光玉堂」は、昭和一九年に沼向から今の明鏡橋のたもとに移転したんだ。終戦後は小さな店だった。物資や原料があまりない時代で、最初は最中を作っていた。 私は、若い頃に川崎の軍需工場に就職して、上陸舟艇や特攻機用のエンジンを作っていた。東京空襲は川を挟んで目の前で見た。終戦前に体を壊してしまい、帰って来て光玉堂を継いだ。お菓子作りは、父も世話 になった宮宿の永勝堂さんで修行させてもらった。 明鏡橋にちなんだお菓子「明鏡の月」というお菓子も作っていた。黄身あんをカステラまんじゅうで包んで、型に入れて形を整えてから電気釜で焼いた。法事などで頼まれると忙しくて、三日も寝ないで作ったことがあったな。昭和四八年(一九七三)の全国菓子博覧会に朝日町の菓子組合のみんなで出品したことがあったけど、うちではこの「明鏡の月」を代表作として出した。でも、十数年前に妻が体を壊してから菓子作りは辞めてしまった。 〈明鏡橋付近の様子(大隅側)〉 移転した当時、近くにはお茶屋さんやタガ屋(桶屋)さん、魚屋さんもあった。うちもバスの停留所だったから、祖母が待っている人にお茶を出したりしていたな。 明鏡橋は男女の出会いの場で、夏の夕方になると若い男女が「ヤーヤー」と集まって来て、橋が落ちるほ ど賑わっていた。うちでは左沢の柏屋から氷を買ってきてかき氷を出していた。けっこう繁盛した。橋のすぐそばには簡易な小屋を建てて天然 氷で商売した人もいた。今なら許可出ないだろう。大隅の堤に張った氷を冬のうちに切り出して、大竹国治さんの屋敷にあった穴蔵を借りて夏まで保管していたんだ。国治さんは蚕の種屋をしていたから大きな穴蔵があったんだ。 橋の欄干の両脇には、皇紀二六〇〇年(一九四〇)を記念して植えられた大きな松の木があった。今は枯れてしまった。今考えるともったいながったな。 〈人助けの杉の木〉 事故は毎年のようにあった。十五年くらい前の雪の朝、トレーラーが橋の入口で横倒しになって通行止めになったことがある。幸い運転手は川に落ちなかったが、橋の欄干を川に落としてしまった。その時は、冷蔵庫の電気や電話線も切れて大変だった。 いつだったかは、乗用車が橋と公民館の間から落ちそうになったが、橋のそばの杉の木に引っかかって川に落ちなかった。その杉の木を「人助けの杉の木」と言っている。今もその杉の木は健在だ。 〈増えている見学者〉 最近、旧明鏡橋を見に来る人が少しずつ増えているようだ。夏には、熊本の学生さんが来た。大学の先生から「明鏡橋を見てくるように」と言われたと言っていた。しばらく前には、ダニエル・カールさんが取材で歩いて来てトイレを借りていったことがあった。 古い明鏡橋を壊さないで、そのままにしていただいてありがたいと思っている。私は明鏡橋の恩恵をもらって生活してきた。とてもありがたい橋なんだ。 菅井一夫(すがい・かずお)氏 / 昭和4年生まれ。光玉堂代表。 (2011年1月 取材/小野重信) ※上記、ダウンロードボタンより印刷用pdfファイルを開けます |
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彼岸の頃、川通りのばあちゃんは「マスノスケは夜中に「マスノスケ今ここ通る!」と言いながら最上川を歩いてくんなだ。それを聞くと死ぬなだ」と教えてくれた。おっかなくてがらがら寝るんだっけ。マスノスケは、キングサーモンのことをいう。昔、少しは上ってきたんだ。
お話 : 熊坂正一氏(最上川第一漁業協同組合代表理事組合長)取材 : 平成18年 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
私も上郷ダム建設で冬の間だけ稼がせてもらった。仕事の中身は番線曲げやもっこ担ぎ、セメント、パケットの掃除などいろんなことをしたっけなあ。日当は350円位だった。時には“こまわり”ていうて、ノルマを終わすと二時半頃に終わることもあった。川に中洲があったけど、そこにも畑があって舟で畑仕事に行ったりしたもんだ。はじめはダムの建設に反対したけど、役場も進めているし長いものに巻かれろってことで、賛成したんだ。んだげっと、今考えてみると、いい時代にしてもらた気がするなあ。花火大会もあったし、ワイン祭りもあるし、町や地域のためになったんだと思うな。あと、工事で犠牲になった人もいたけど、工事に来てだ人に嫁行った人も何人かいたな。とても賑やかな時代だったな。
お話 : 柴田つやさん(大滝) 取材 : 平成15年上郷宝さがし →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
魚の番人しながら
私が子供の頃、昭和20年代の話だが、夏に、カヌーランドの所の西側の流れをまるっきりせき止めて魚を捕まえることがあった。私の父も、その4〜5人いた仲間の一人で、5年に1回位ずつ、2回やったことがある。コイやヘラブナがたくさんか獲れた。獲りきれない魚を誰かに持って行かれないように、夜通し“えるが汁”(塩クジラ汁)を食べながら、魚も焼きながら、番人として過ごすっていうのも芋煮会の一つだった。 なじみがなかった牛肉の芋煮 青年会とか男女共同でやった芋煮会は、古い明鏡橋の少し上流や、橋の下の川原でやった。そこらにある玉石を重ねて、釜みたいに作って、大きな鍋を載せて、焚き木は流木が山ほどあるから心配なかった。今みたいに、「焚いで悪い、煙だして悪い」という法律もなかったから、もんもん焚いていた。 こんにゃくやじゃがいも、えるがを入れて作るのだけれど、あの頃は余程の収入がないと、えるがなんて買えなかったから、安いほっけを入れたりした。青年会で、えるがを入れられたのは、今の年代でいうと76、7歳くらいの先輩方だな。 それからあの頃、兎(うさぎ)の肉を入れて食べさせられた記憶がある。皮を売るためにどの家でも飼っていた。半年に1回位ずつなめした皮を買いに来る業者がいて、その時の肉を芋子汁にいれたりした。上手な芋煮会だとユウガオも入れたものだった。小麦粉とじゃがいもを練って作る“すっぽこ”も入れた。私などは、今の牛肉の芋煮には余りなじみがない。えるがとか兎とか、鶏や鴨の肉しか食べられなかった。芋子汁と言うよりは、えるが汁とか鳥汁、兎汁だったな。 夏の芋煮会は男女の出会いの場 特に私が小学校四、五年生の頃は、青年会の人たちが賑やかだった。夜中の2時になろうが3時になろうが構わなかった。おまわりさんが来るわけでもないし、青年会の行事だって言えば、夜通し酒を飲んでいられるものだった。好きな者どうしが寄って恋愛の話をしたり、踊ったり、芋煮会は男女をそういう風に導いてくれるような集まりだった。明鏡橋は“男女の出会いの場”って前も話したけれど、橋の下の芋煮会もそんな風だった。でも、私が青年会に入る頃は少し冷めたような感じだったな。 すたれた夏の芋煮会 えるが汁の芋煮会がすたれたのは昭和42年頃だった。理由はやっぱり物が豊富になったこと。それに上郷ダムができたから水が汚くなって、川に行かなくなったこともあるな。私などは昔のきれいな川を見ているから、今はあんまり行く気が起きないね。 お話 : 志藤正雄さん(栗木沢) 取材 : 平成19年 |
〈材料〉
じゃがいも、玉ねぎ、ささぎ、ゆうがお、にんじんなどの野菜、丸麩、いるか肉、味噌 すいとん…じゃがいも、片栗粉、小麦粉 〈作り方〉 1.丸麩を水に浸けておく。えるがはざっと洗って塩をとっておく。 2.野菜類を食べやすく切って煮えにくいものから水とともに鍋にいれ、水から煮立たせる。 3.えるがを小さく切って、煮立った2に入れる。 4.野菜が柔らかくなったら味噌をあんばいをみながら入れる。ささぎなど煮えやすい野菜もここで入れる。 5.水に浸けておいた丸麩を手でギュッと絞って、ちぎって鍋に加える。1〜2分煮立てさせる。 6.すいとんを作る。じゃがいもをすりおろし、片栗粉と小麦粉を混ぜてゆるい粥状にする。(スプーンですくってぼてっと落ちるくらい) 7. 煮立たせた鍋に、スプーンですくって入れていく。すいとんが煮えたら出来上がり。 お話 : 志藤三代子さん(栗木沢) 取材 : 平成19年 |
醍醐味は、なんといっても風景です。特に紅葉の季節は素晴らしいです。秋、冬は水も透き通って見えます。八天橋の下から見る空はとてもきれいです。高い断崖にはさまれて八天橋があって、その上に高い空があります。四ノ沢から流れ落ちる滝は川面から眺めるととてもきれいです。手前の瀬では大きな鮎も跳びます。
一番好きな風景は、川通集落を過ぎて右側が和合小学校のあたりです。車からは見えません。切り立った両岸には緑が茂り、流れはゆったりとした“瀞”になっています。人工物は見えないので、まるでジャングルの奥地を漕いでいるように感じます。鴨もたくさんいます。 瀬が連続する五百川峡谷は、カヌーを乗る私たちにとって最高の場所です。地元の人たちにはあまり知られていませんが、朝日町の大きな魅力の一つだと思います。 お話 : 大井寛治さん(曲渕) 平成18年 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
鮎は香魚とも言う。餌が水ゴケなので、西瓜のような爽やかな香りの魚であったから。五百川峡谷では昔、鮎やサクラマスがよく獲れたので、皆さんよく食べていた。
漁をする人々はそれを生計のたしにしていて、最上川の簗で獲れたばたばたとしたマスや鮎は旅館などに売っていたようだ。 家庭で食卓に上るときは串に刺してあぶったのに白砂糖をかけ、その上にしょう油をかけて食べていた。塩焼きや田楽もしたようだ。飯のおかずにも酒の肴にもなったものだ。 酒の肴といえばニンニクの下部がふくらんだ時期に食べる「氷頭もみ」というのがあった。生のマスの頭とニンニクを薄く切って混ぜもみ、火にかけた酢・砂糖・塩で和えたもので、その時期になると料亭などで食べたものだった。今ではサクラマスもあまり獲れなくなり、そのような料理をいただくこともなくなった。 お話 : 鈴木治郎さん(宮宿) 取材 : 平成20年 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
杉山の花山傳夫さんの家には、代々伝わる船曳き絵があります。
舟運が盛んであった時代、酒田や最上川の川港から、荷物を積んだ川船が上流に上る場合、帆(ほ)と綱(つな)を使いました。風のないときや難所の多いところでは、曳き網に頼りました。そのため、各地に綱手道が設けられ、船曳き集落や船曳きを専門とする人々もいたそうです。 この絵について花山さんは、「子どもの頃からあった。いつの時代に手に入れたものかは不明だが、おそらく三百年位前のものかも知れない。舟が描かれず三人の人足衆だけが描かれている点など、大江町の若宮簗所有のものと作風が似ている。」 また、山形大学名誉教授の横山昭男氏からは、「上半身裸で前傾姿勢になり、ありったけの力で曳いているようだ。船曳き人足の実際の様子が生々しく表れている。帰りといっても舟は空ではなく、ある程度沈めて安定させなければならないから、塩などの帰り荷は必要な物だった。重さが足りない時は石や灯篭を積んでいたようだ。 五百川峡谷は瀬が多いので特に大変な場所だったのではないか。船曳きの写真は明治時代のものが少ししかないので、仕事振りを知る上で貴重な絵といえる。」と教えていただきました。 取材 : 平成18年 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
醍醐味は、流れを読みながらカヌーを操り、瀬を一つずつクリアしていくところです。
流れは不思議で、壁があるようです。上流から白波のたつ流れに入り込むときは、まっすぐ行こうとするとひっくり返され、流れから出ようとすると、出るところの水が逆に流れているのでやはりひっくり返されます。始めた頃はそういう理屈が分からず、度々ひっくり返されました。まるで河童にひきこまれるようでした。 また、波から出られなくなるポイントがあります。5分くらい動けなくなったこともありました。ひっくり返って、やっと出られると思っても、また戻されて同じ状態に戻ってしまうのです。川に遊ばれていました。 上手な人は、飛んだり、跳ねたり、前回りをしたり、自由自在にカヌーを操ることができます。カヌーランドは、そんなことを楽しめる素晴らしい流れとして、日本でも有名な場所になっているのです。おかげで、全国レベルの大会が開かれるなど、たくさんの人が訪れています。 お話 : 大井寛治さん(曲淵) 平成18年 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
鮎漁と巨鮎
お話 熊坂正一さん (最上川第一漁業共同組合理事長) 私は流し網で鮎を取っている。夕方に川の流れに沿って網を仕掛けておくと、朝方に引っ掛かる。禁漁日まで毎日やっている。重たくて上げられないほど掛かることがある。1シーズンでおよそ4〜500匹捕る。 五百川峡谷は「巨鮎(大鮎)」がいるので有名だ。巨鮎は一尾が150グラム以上、全長26センチ以上。友釣りファンもそれに惹かれてやってくる。私は最高で40センチ位320グラムのを捕ったことがある。五百川峡谷は餌がいいから育つんだ。餌は藻。けい藻、らん藻という藻がつく。3日あったら充分つくな。 今年は天然鮎の遡上が多く、70%以上になった。それは理由がある。県内水面漁場管理委員会の指示により、毎年10月4日から10日まで、県内のありとあらゆる漁法での漁が禁止になる。簗も網も釣りもだめ。親魚を早く海に下らせて産卵させて来年の遡上に資するようにしている。我々もそれに協力している。 熊坂 正一(くまさか しょういち)氏 昭和11年(1936)生まれ。朝日町宮宿在住。昭和35年(1960)法政大学文学部卒業。教員を経て朝日町役場に奉職後、昭和60年(1985)〜平成4年(1992)まで町助役を務める。現在、山形新興株式会社専務取締役。最上川第一漁業協同組合代表理事組合長。 →最上川第一漁業組合 ※写真は巨鮎ではありません →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
最上川全体でおよそ40ヵ所の簗があったが、朝日町にはそのうち7ヵ所あった。荒砥から左沢間の五百川峡谷全体では11ヵ所あった。こんなにある所は他になかった。どうしてかというと、激流(瀬)、岩盤、中州があるから。簗の仕組み上、段差のある瀬がないと仕掛けられない。それに、中州のない所に作るには上流から長くせき止めなければならないから大変だ。
6〜7月、鱒が簗の仕掛けてあるその瀬の段差を上るとき、水の勢いで、どっとひっくり返されて簾の上に落ちる。これが遡上する魚の取り方。下る魚、落ち鮎などは上からぞろぞろ入る。問題は、いろんな木や草などのゴミも簾にかかる。これを丁寧に落とさないと簗がだめになる。 簗には、必ず魚を食べさせる料亭のような場所があった。鱒の季節には鱒を、鮎の季節には鮎を、それからウナギなどもよくごちそうになった。 簗は、増水で流されれば大きな損害になるが、儲かるときは儲かる。落ち鮎の季節はあまりに掛かりすぎて、手伝い人は面倒くさくなって流してやったほど。 上郷ダム建設で簗を全廃するにあたっては、一簗につき240万円から3,300万円までの補償金が出た。八天簗は簾座が三つもあるから、漁獲数も多かった。 お話 : 熊坂正一氏(最上川第一漁業協同組合代表理事組合長)取材 : 平成18年 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
青苧を売り物にするには、ただ自生するからといって出来るものではなかった。きれいに育つように相当手入れをしていたんだ。枝など出てしまうとダメだし、長さもなんぼ以上と規定があった。短いのや枝が出てしまったものは、家庭用として使っていた。
刈ったものは、束にして水に浸けていた。普通の井戸では無理だったから、長掘に重石を載せて浸けていたような気がするな。それを背負ってくるので、一束でも相当重かった思い出がある。 水に浸けた後は、皮をはいで輪のように丸くおっくり置いていた。はぐ人が広げてすぐできるようにしていた。 はぐのも人によってかなり差が出たな。すっとできる人もいれば、途中でもげてしまう人もいた。私の家では、上手な人を特別に頼んでいた。 売り物の青苧は、先の方をきれいに筆の先のようにして格好よくしていた。どうやっていたかは覚えていないが、じいさんがなめながらしていたような覚えがあるな。本当にのり付けしたようにきれいになっていた。 最後に一束ずつ天日に干して、真っ白く仕上げていた。売り物として出荷するには、色や形は大分やかましく言われていたな。特に色が重要で、真っ白いものが一番だった。 お話 : 志藤富男さん(大谷) 青苧は、おがるほど良いと聞いていた。青苧の高さは二メートル以上あったから、育てるのに肥やしのようなもの、おそらくたい肥をつかっていたのではないかな。 それから青苧の芽がでるのは霜が落ちなくなってからだから、霜は心配なかったな。 本当に青苧は高く売れた。だからみんな一生懸命していた。 私の家には青苧はぎの道具も残っているが、はぐ時に使う「引き板」は、度々新しいものを重ねていくことで、弾力が出てやりやすくなったんだ。 お話 : 白田千代志さん(大谷) 昔から、茎から繊維をとる青苧は、大切な衣料の原料となり、主に夏季衣料に用いられ、奈良さらし、越後縮、近江蚊帳などの原料となった。 明治元年(1864)「最上名所名産名物番付」の横綱は最上の紅花で、その次が最上青苧になっている。その青苧の半数が「五百川苧」「七軒苧」が占め、名産として格付けされていた。今で言えばメーカー品のようなもので高い値で取引されていたといわれている。 しかし、その青苧も明治の末頃から養蚕業の発達によって、畑地は桑が主流を占め、衣類も高級な絹織物に変わった。そのため青苧栽培は衰退してしまったようだ。 お話 :堀敬太郎 さん(大谷) 志藤 富男(しとう とみお)さん 昭和3年(1928)生まれ。農業 朝日町大谷六在住。 白田 千代志(しらた ちよし)さん 昭和3年(1928)生まれ。農業 朝日町大谷五在住。 堀 敬太郎(ほり けいたろう)さん 昭和3年(1928)生まれ。朝日町エコミュージアム案内人 朝日町大谷一在住。 取材 : 平成19年(2007) 志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話 →青苧の使われ方 和田新五郎さんのお話 →和田新五郎さんの青苧 →栽培から糸とりまでの作業 報告 →青苧糸とり体験記 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
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