朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

08.館山エリア
 山頂の城跡からは朝日岳や月山・葉山、朝日町西〜中〜北部の町並みを一望することができます。城主の岸美作守も眺めていたであろう景色に、身近に歴史を感じさせてくれる場所です。山頂は遊歩道が整備され、鐘楼堂跡を訪ねることもできます。

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※登り口は東永寺と郷倉の間の細道です。舗装はされていますが狭いです。
 館山山頂へは新宿の東永寺裏手に続く山道を車で10分ほど。(舗装はされているが道は狭い)山頂の鳥屋ヶ森城跡には、通称“テレビ塔”と呼ばれる放送局の中継施設が設置され、朝日町の中部・西部地区(一部北部地区にも)電波を送っています。
 旧新宿警備所は、一階は消防ポンプ庫、二階の畳の敷かれた部屋は仮眠のできる火の見やぐらとして使われ、夜警の拠点となっていました。夜警は戦争中までは毎晩行われていたそうです。明治時代の建物と推定されており、屋根は木場葺きでした。独特な姿が新宿地区の自慢の建物となっています。
熊谷與志雄さんのお話
旧新宿警備所について

紅葉の城下町“新宿”を訪ねる(PC)

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 薬師如来を祀る東善寺 瑠璃殿(堂)は、宝永5年(1708)の棟札から、羽黒山修験の末寺で豊龍神社(宮宿)を祀るもと東守寺の配下寺だったことが分かりました。木造薬師如来立像は平成5年に山形県有形文化財に指定されました。。毎月8日が“おようが”と呼ばれるお参りの日とされ、例祭は5月8日だったが、現在は第2日曜日に新宿区民をあげて賑やかに行われています。

熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さんのお話
お薬師様の管理

紅葉の城下町“新宿”を訪ねる(PC)

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※案内看板はありませんので分かりづらいです。事前にエコミュージアムルームでご確認いただくか、地元の方におたずね下さい。
 昭和のはじめ頃まで、薬師堂参道左側の山手に薬師堂を守っていた不動院と呼ばれる羽黒山の末寺がありました。参道のそばには代々の法印様のお墓が並んでいます。薬師堂の十二神将の像は、この不動院に置かれ入口で薬師様を護っていたそうです。

熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さんのお話
不動院のほうえんさま
 お薬師様のお祭りは、毎年5月の第二日曜日に新宿区を挙げて盛大に行われています。病平癒を祈願して大勢の参拝者で賑わいます。

成原浩さん、小関絹さんのお話
薬師講
熊谷與志雄さん、熊谷小三郎さんのお話 
お薬師様のお祭り

薬師堂 瑠璃殿
 瑠璃殿の薬師如来立像は、肩幅が広く堂々とした正面観をあらわし、衣文も流れるように美しく、藤原様式の典型的な表情をしています。日光・月光菩薩が脇侍を務める薬師三尊の形をとっています。朝日町で最も古い仏像であり、製作年代は12世紀の比較的早い時期と推定され『蒙古録』では、天地天皇の時代(662〜71)京都誓願寺の本尊阿弥陀如来を造立した際、その余材をもって作り瑠璃殿に納めたとされています。
薬師如来立像の文化財的価値

熊谷武四さんのお話
お薬師様の修復
 薬師如来は人々の心身にまつわるあらゆる病や苦悩を取り除いてくれるとされます。脇侍の日光菩薩は昼を、月光菩薩は夜を、薬師如来の助手の働きをして人々を守ります。十二神将は薬師如来や崇める人々の守りや、日光・月光菩薩の手助けを一日十ニ支の刻を交代して務める役割を持ちます。 地方の小さな村で十二神将までそろっているのはとてもめずらしいそうです。全ての像は平成3年に京都美術院で修理されました。(写真は十二神将)

小関絹さんのお話
不動院の十二天
 愛宕山東永寺は、天文年間(1532〜1553)に宥白上人により開山されました。はじめは館山の陰の倉沢にありましたが、寛永年間(1624〜1643)に真言宗の祈祷寺として現在地に移りました。往古はご朱印寺でもあり、信仰を集めひろく寄進された板札が見られます。ご本尊は秘仏の延命地蔵菩薩。脇侍に千手観音、三十三観音、弘法大師像。最上48ヵ所地蔵尊札所第24番札所。五百川三十三観音第25番札所。朝日町新宿245
熊谷與志雄さんのお話
東永寺について
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 東永寺では、天保3年(1832)から明治7年(1874)まで“東永寺学問所”として寺子屋が開かれ、7〜10歳までの教育が行われていました。裕福な家庭の子供だけでなく区別なしに使用人の子供なども学ぶことができ、100人以上の大人数だったといわれています。文久4年(1864)に、お堂左側に立てられた「児翫」の石塔は、子供を愛した東永寺の象徴といえます。
 東永寺には布で作られた乳房がいくつも奉納されてあります。本尊の地蔵菩薩は通称“乳地蔵”と呼ばれ、母乳が出なくて困っている人が祈願していました。念願が叶い母乳が出ると、感謝をこめて布で新しい乳房を作り奉納しました。残念ながら粉ミルクの普及とともに祈願する人も少なくなりました。
 東永寺の隣に、冷害や干ばつなどの不作時に備えて地区で米を蓄えておいた木造の倉が残っています。現在は新宿地区の収納庫として使用されています。

熊谷與志雄さんのお話
郷倉について
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 新宿公民館裏手の高台に、地区を見守るように愛宕神社が建っています。慶応元年から2年(1861〜62)にかけて建立されたと刻まれてありますが、東永寺が開創された寛永年間(1624〜43)にはすでに愛宕山の山号を用いているため歴史はもっと古いと思われます。現在の社は、昭和54年(1979)に強風で倒壊した後に再建されたものです。

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※分かりづらい所にあります。事前にエコミュージアムルームでご確認いただくか地元の方にお尋ね下さい。
 新宿地区の小高い場所に立つ愛宕神社からは、新宿地区や宮宿の町を眼下に眺められます。ベンチも設置され地区民の憩いの場となっています。
 今井治郎三郎家は、鳥屋ヶ森城主岸美作守の家老を先祖とし、新宿の肝煎名主・大庄屋を務めた家柄です。特に14代治郎三郎は、横浜を拠点に蚕糸貿易の大事業を行い横浜商業会議所副会頭も務めました。さらに奥羽鉄道の誘致や電気事業、通信事業の促進など郷土振興に大いに尽力し、15代は東五百川村長、16代は宮宿町長を務めるなど地方自治にも大変功績を残しました。残された石垣に、当時の隆盛ぶりをうかがい知ることができます。

今井治郎三郎家について
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※旧新宿警備所前付近です。
※現在は別の方がお住まいです。敷地内には入らないで下さい。