朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
13.大沼浮島エリア
見学会「朝日町の実方伝説を訪ねる」が詳しく山形新聞に掲載されました! 記者の色摩高幸さん、一日中お付き合い下さりありがとうございました☺️
朝日町エコミュージアム協会:[メモ/13.大沼浮島エリア : 関係団体・書籍] |
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各市町に残る義経伝説(ネットより抜粋) 内陸北上ルートを考えた時に、そのルート上に点々と散らばっていた義経伝説がすべてつながりました! 会津→米沢→長井→朝日→寒河江→河北→大石田→舟形→新庄→ ※写真は長井市の弁慶供養塔 ■弁慶の借用証書 / 会津若松市 源義経が源頼朝から京都を追われた“後の平泉落ち”の際に五郎兵衛飴を所望したとされ、その代金の借証文とされる武蔵坊弁慶自筆の賞状が五郎兵衛飴総本舗には代々伝えられている。この賞状には文治四年(1189年)午四月二日と記録されている。※文治四年は少し怪しいです ■皆鶴姫伝説 / 会津若松市 吉岡鬼一法眼という人が所有する兵法書をどうしても入手したかった義経。それが叶わなかったため鬼一法眼の養女 皆鶴姫と親しくなり、彼女を通して密かに秘伝の書を書き写しましたその時 帽子丸という子が生まれたと言われています。その後義経は、平家の動きを察知して奥州平泉に去っていき、それを嘆いた皆鶴姫は帽子丸を連れ腰元、従僕と共に義経の後を追い奥州に向かいました。そしてその途中 ここ会津で亡くなりました。途中、帽子丸が敵方に捕らえられ沼に投げ入れられて溺死。皆鶴姫も、ここ藤倉までたどり着きましたが我が身を嘆いて沼に身を投じました。18歳の短い人生でした。実はこの時義経は、偶然近くの町にいたそうです。皆鶴姫の話しを聞き、いてもたってもいられなくなりここ藤倉に駆けつけて彼女の菩提を弔ったそうです。 ■荒人神社 / 猪苗代町 猪苗代町渋谷地区にある荒人神社、現在は清神社と合祀されていますが、昔は独立していました。この神社には、源義経伝説が残っています。ここは、磐梯山の麓に位置し、米沢を経由して平泉に至る街道と信夫から仙台を経由して平泉に至る街道との分岐点の場所でした。そこで源頼朝の命を受け義経一行を捕らえる為、部下を引き連れて待ち伏せをしていたのが、渋谷荒人でした。しかし渋谷荒人は元々義経には同情を寄せており、また、武蔵坊弁慶とも親しい間柄でした。そこで渋谷荒人は、弁慶に一騎打ちを挑み、わざと打たれて義経一行を逃がしたと言うことです。後にその行為に感嘆した村人の手によって荒人神社として祀られたそうです。 ■正應山 常信庵 / 米沢市 入口に「源九郎判官義経公接待遺跡」の標柱が立っている。源義経が奥州藤原氏を頼りに逃亡する途中、この寺院に立ち寄ったとする。一行が鼠ヶ関(庄内)を避けて内陸に入り、羽前米沢に立ち寄り、自分の楯となって討死した忠臣、佐藤継信・忠信ゆかりのこの寺に立ち寄り、母の梅唇尼に兄弟を死なせてしまったことを詫びたという。そして「きゃらぼく」の木を植えて菩提を弔ったとされる。梅唇尼の名が記されたミイラも発見され万年塔を建て供養している。境内には、正信。継信、忠信親子を祀った三尊社がある。 『三尊社物語』(手塚貞蔵著・1982年)によると、義経一行は京都から福井県石川県富山県新潟県福島県の会津から桧原峠を越して米沢に入ったとある。米沢に着いた年月日は文治二年の秋だろうと推測している。また謡曲『接待』には一行は十二人としている。 ■塔様(とっつぁま) / 長井市成田 ※写真参照 文治2年(1186年)の秋、羽黒詣りの七人の山伏が民家に宿を願い泊めて貰った。ところが、この一行の中の娘が急に病気になり、仕方なく娘をしばらく宿に泊めて貰うように頼んだところ、その家の人達は心良く引き受けてくれた。それから3年後、義経が主従ともども討死したことがこの地方まで伝わった。これを聞いたかの娘は家の主人に「あの山伏一行は義経主従であって、その中で背の高いヒゲをはやした人が武蔵坊弁慶という者で、私は弁慶の娘」と打ち明けた。その証拠として、日の丸の軍扇を出し、これは弁慶が義経の家来になった時に貰ったもので、父がここを出発するとき形見に渡されたものであると話した。これを聞いたその家の人々は大いに驚き、今まで以上に娘を大切にした。後に娘は、この家の息子の嫁となって子孫大いに栄えたといわれる。その家は現在の鈴木平左衛門家の先祖。この娘夫婦が、亡くなった父弁慶の霊を弔うために供養塔を建て、大法要を行ったといわれている。 ■義経宿泊所 / 長井市 森 長井市には、義経一行が2ヶ所に別れて宿泊した伝説が残っている。長井市森の小口家と成田の鈴木家。龍神が祀られている小口家の裏山から、弁慶たちの宿泊する川向いの鈴木家を遠望したと伝わっている。ここには「塔の上の石塔」と呼ばれる三段に重ねられた石の塔があり、石塔の下には鎧(よろい)が埋められているともいわれている。ここから成田の塔様と一直線に川原沢の黒附土壇があり山岳信仰とのつながりかともいわれている。すぐ近くには最上三十三観音の一つ「森観音」がある。 ■子なし沢と弁慶の笈 / 朝日町八ツ沼・大沼 北の方が産気づいて弁慶大いに困った。ふと見ると道の傍に松の大木があり、その下にはきれいな水が流れていた。北の方はここで子を産んだ。その先の大沼には弁慶が修験道を伝ってきて大行院に泊まり、宿代の代わりに置いていったという伝説がある。扉の裏に凡字で、武蔵坊弁慶の「武蔵」と書いてある。 ■義経一行の休憩地 / 寒河江市田代 詳細不明だが、田代地区には義経一行が休憩した場所があると伝わっている。 ■三ツ川一橋 / 河北町北谷地 昔、法師川は三筋に分かれて流れていた。義経がここにさしかかった時、弁慶が大石を担ぎ三本に流れているところに落として橋を架けた。「三ツ川一橋」と呼ばれる由縁。その時担いだ石に弁慶の手の跡が残ったと言われており、「耕地整理記念碑」の台座になっているのがその石だと語りつがれている。 ■義経記とは違う伝承 / 舟形町 「義経記」では会津の津(本合海)から亀割山を越え平泉に向かったとされますが、舟形町ではそれとは異なる伝承が伝わっている。 ・猿羽根村近くで宿泊し、北の方が産着を絹で縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。 ・猿羽根村近くで宿泊し、義経一行の破れた着物を縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。 ・義経一行が獅子口で休憩した。・義経一行が川岸で穴(窪)を掘りそこに水を溜め汚れた手足を洗った。 ・獅子口の対岸にある熊野神社で、出羽三山に代参した弁慶と合流した。 ・実栗屋から毒沢へ笈を利用して渡ったので「笈渡」という地名の由来となりそれが転じて「折渡」となった。 ・上記の笈を乾かした松は「笈掛の松」と呼ばれるようになった。 ・一関集落には関所がある義経一行を厳しく詮議した。 ・義経一行は伊藤半平衛から粟3升借り、明治時代までその証文が残っていた。 ・義経一行は舟形から大平、稲先(ウサギシッタイ)、市野々、休場、亀割山へと向かっていった。 ・舟形から北に進路をとり夜道を進み明け方となり一番鶏が鳴いたので鳥越(新庄市)と呼ぶようになった。 ・弁慶は道を間違えて次年子に行ってしまい、義経は実栗屋熊野神社で待っていて再会できた。次年子の寺には、このとき、弁慶が農家から栗を借りたという借用証文が残っているということである。 「朝日町の義経伝説を訪ねる」資料(2026.7.5)制作/安藤竜二 ※上記よりpdfをダウンロードできます |
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※全写真はPDF↑を開いてご覧ください おかげさまで半数が町外の方、宮城県からは7人も参加いただき盛況に終わりました。「とてもよかった」「勉強になった」と皆さんからあたたかい感想をいただけました。 1.はじめに、会津→米沢市→長井市→朝日町→寒河江市→河北町→大石田町→舟形町に残る伝説を紹介させていただきました。内陸北上ルートも充分信憑性があるのです。参加くださった長井市の伝説を守っている「弁慶会」の飯澤正章さんから詳しい解説もいただきました。2カ所に分かれて宿泊したこと、そして、なんと弁慶の娘は病気をして長井にひとり残ったのです。 → 他市町に伝わる義経伝説 2.北の方が子を産んだとされる、くぬぎ平の棚田と八ッ沼の間にある子なし沢では、そのきれいな流れを見ていただき、弁慶が慌てた様子を想像していただきました。 3.茅の輪をくぐって参詣した浮島稲荷神社では最上俊一郎氏に大沼の深い歴史をお話しいただきました。 4.大沼を一周して義経一行も見たであろうお島様(浮島)や出島、そして大きな樹木たちに歴史の古さを感じていただきました。お島様も軽くですが動いてくれました。 5.大行院ではいよいよ弁慶が宿代代わりに置いて行ったとされる「笈」を拝見しました。そのしくみと精巧な作りに一同驚愕しました。なにより美しいと思いました。そして扉の裏には「武蔵」と書いてありました。おそらく一行は大沼に春まで滞在し、そのお礼として必要無くなった弁慶の娘の「笈」を置いていったのではないでしょうか…。最後に、最上さんのはからいで宮城の参加者の方のためにお宝の一つ「大竹丸の歯」も特別に見せていただき、一同さらに驚愕いたしました。 和気藹々楽しく学べた見学会になりました。最上さん、ご参加いただいた皆さん、いい時間をありがとうございました。 次は9月6日に「朝日町の藤原実方伝説を訪ねる」を計画中です。 ぜひぜひご参加ください! (道先案内/安藤竜二記) 参加下さった橋本彩子さんがブログで紹介くださいました → 橋本あやこのブログ |
寒河江市柴橋の落裳観音には、小野小町が大沼に浮島を見に訪れたことが伝えられています。
■落裳観音(寒河江市柴橋)の由来 昔、平安期の女流歌人・小野小町が大沼の浮島を見物するために、京都から当地にさしかかった時、突然天女の姿が現れ、紫の雲の間から羽衣をおとした。その羽衣の上には、十一面観音が立っていた。小町は不思議に思い、里の人々を説いてお堂を建てた。そして、自分の持ってきた守護仏の十一面観音を安置し、天女のおとした羽衣を拾い集め、七宝の念珠といっしょに奉納して霊場とした。これが、寒河江市柴橋にある落裳観音である。 → 落裳観音 小野小町が京都から来て観音堂を開き、参詣者が沢山集まってきたところから京集山と呼び、天女が羽衣をおとしたという伝説があるので、地名を落裳と呼ぶようになった。また一説には、小町は年をとってから法衣をまとって諸国を巡り、この土地に来て、その法衣を添えて納めたのがその本尊であるともいわれる。 寒河江市柴橋2494-1 ■小野小町は浮島を自分に例えた和歌を詠んでいます。多賀城市の浮島を詠んだとされていますが、もしかしたら大沼の浮島を詠んだのではないでしょうか? 陸奥は世を浮島もありと云ふを関こゆるぎの急がざらなん 「つらい浮世に心をなぐさめてくれる浮島(=私)」という場所があるのだから、そんなに急いで私の元を離れていかないで(もう少しここにいて)、と恋人を引き止める女性の心情が表現された一首とされます。 → 大沼に訪れた藤原実方 |
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お話 最上俊一郎氏(大沼・浮島稲荷神社宮司) 〈発足のきっかけ〉 平成11年に開催されたエコミュージアムの催し「よみがえれ大沼浮島の響き」がきっかけで翌12年に発足した。ちょうど10年前になる。 その催しでは、一部では「大沼浮島の未来を考えるシンポジウム」、二部では役の小角を起源とし大沼から伝わったとされる宮城県仙南地方の「山伏神楽」の600年ぶりの里帰り公演、そして「雅楽演奏」や「浮島太鼓」などの演奏会も行った。 雅楽演奏は、山形市の六椹八幡宮雅楽会にお願いして神社に眠っていた雅楽器で演奏していただいた。神秘的な大沼の自然の中に、神秘的な雅楽の音色が調和して響きわたり、私も村のみんなも感激した。 そして「雅楽を復活させよう」「雅楽とともに浮島を守ろう」と盛り上がった。「浮島雅楽保存会」という名前には、その二つを守る意味が込められている。誰でも参加できるように公民館事業として練習は始まった。 〈眠っていた楽器〉 大沼の雅楽は、50年程前の私が子どもの頃に、やはり「復活させよう」と村人達が習っていたことがあった。楽器は、先祖が昔寄贈したものがあった。宮城県の塩竃神社に務めていて雅楽の指導者だった大滝早見さん(西川町)が、10日程泊まりがけで教えてくれていた。しかし、雅楽への熱は続かず楽器もそのまま眠ってしまっていた。 〈練習・演奏活動〉 私たちの練習は、月に二度ほど集まってやり始めた。ところが、ピアノみたいに叩けば決まった音が出るものではなく、勘をたよりに鳴らさなければならないから、きちんとした音が出ない。肺活量もいる。特に「篳篥(ひちりき)」は大変だった。多くの人が吹いてみたが、みんな「とてもだめだ」とやめていった。そして残ったのが現在のメンバーということになる。 その後、足りない楽器や装束を、町の「志藤六郎村おこし基金」を利用して購入した。演奏の時に私たちを囲むようにして置く赤い欄干は、宮内庁の楽隊もやっている雅楽の舞台。みんなで木を加工して色を塗って手作りしたものだ。 現在は、浮島稲荷神社の大祭や元旦零時からの元朝参り、春の空気まつりなどで演奏をしている。また、学校授業でも取り入れるようになり、地元の大谷小学校などに何度か演奏指導に行ったこともある。 〈これから〉 心配なことは、やはり後継者。現メンバーはみんな50〜60代。いずれ70代になってしまう。でも近頃、吹奏楽をやっていたという20代の女性が入ってくれたのは嬉しかった。せっかく復活した大沼の雅楽だから、若い人達にどんどん入ってもらって、途絶えさせないように伝えていきたいと思っている。 (No.1101 聞き書き 安藤竜二 2010年10月) 最上俊一郎(もがみ・しゅんいちろう)氏 昭和23年(1948)生まれ。浮嶋稲荷神社宮司、山主別当・大行院第52代当主。現大沼区長。浮島雅楽保存会代表。 ※上記ダウンロードボタンで印刷用のpdfファイルを開けます。 →浮島稲荷神社 |
今から375年前御普請(幕府の公費)により築堤されたものです。この西堤も老朽化したため、5年の歳月と1億7300万円をかけ改修。平成九年に完成いたしました。
『大谷往来』に、西の「溜井に鷺立ち(つつみにさぎたち)」、名物は、西堤の鮒(ふな)の記述があり、当時は村一番の堤で、また鮒釣りの名所として有名だったのでしょう。 この堤の特長は、大旱魃(かんばつ)の時でも、三分の一の水は、大谷村の防火用水として残さなければならない約束事が今でも守られていることです。昔の人は不時の災害に備え万全の対策を講じていたようです。 『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋 編集 : 平成14年(2002) →アクセスマップはこちら |
大沼の浮島は、前半は朝日岳と非常に深い関係があります。朝日岳は、人間にとって大切な水の源ですから、神様が山から田植え前に降りてきて、秋に帰っていくと思われていました。ですから、修験者は神様のいる山に入って、体を鍛え験力を得たのです。当時、朝日修験は栄えたようです。
大行院の文書には朝日岳に宿坊を建てたとか、水口、野々山などのルートから登ったとか書かれています。役の行者によって発見された。そして北条時頼の時に閉鎖されたとなっています。しかし、このような言い伝えは県内によくあるようです。竜山、御所山、肘折などもそうです。 ここには、水に対する信仰があったと思います。沼には24から66の島があると言われていたのが、江戸時代には、それが日本の国の数32になったと思われます。池の形は上から見るとキツネに見えます。カササギ橋もあります。キツネは、稲荷様で水の神様。カササギは七夕で農耕の神様です。そんな意味から大沼は神の住む地だったのです。 大沼は個人より時の支配者の願いをかなえる場所だったようです。鎌倉の将軍大江氏、最上氏などの名前が残っている文書が多く残っています。江戸時代に朱印地になったのもそんなことからだろう。しかもその順番が、慈恩寺の次になっています。慈恩寺は平泉と並ぶ東北一の寺だから、大沼の位の高さがわかります。そのため月に4度は島にこもり神事をしていたようです。そんな大切な所だから、周りの木は切らないとか、朱印状をもらいに行く時は皆で分担するとかの取り決めがありました。 大沼の人は、神事をする以外は、農業をしていたようです。米を作り、畑を作り、蚕を飼い、青麻を作っていました。 またここには、多くの有名人が来た話が多くあります。藤原実方は本当かどうか分からないが、芭蕉は来ていない。芭蕉塚は、18代の別当が俳句が好きで作ったようです。多くの旅行記に書かれているのは本当で、出羽三山の帰りに寄ったのだろう。出羽三山には7〜8万人が来た。丑の年は15万人もきたのだから、かなりの人が大沼にも来た。大沼では泊めたり案内していたのだろう。明治時代の村山地方の収入は30万で10万が紅花、10万が商業で、10万が出羽三山といわれています。多くの人がその帰りに寄ったとすれば、大沼もかなり賑わったと思います。だから県内に広く知れ渡り、神殿の修復などには多くの寄付が集まったらしい。今の私達が考える以上に大切な所だったのです。だから、大正15年に国の名勝に指定されたのだろう。 お話:鈴木 勲氏(朝日町文化財保護委員、郷土史研究家) |
大正15年に、日本を代表する植物学者三好先生が、国の名称にするために調査に来られました。
大沼は、標高330mですが、非常に珍しい植物がたくさんあります。たとえば、ここのホオノキは、10mくらいのところから枝がまっすぐ上に伸びています。また、ここには雑木林になる標高なのですが、ブナなどの標高の高いところの木と、標高の低いところの木が一緒に生えています。また、沼地の林もあります。山形ではここだけです。ブナは太いものも細いものもありますが、葉が大きいのが特徴です。ブナの葉は、鹿児島が小さく、北海道が大きいのですが、ここのは特に大きいです。 湿原の植物では、ハルニレもあります。この木は、土地が豊かだという証拠です。アイヌは昔からハルニレのあるところを開拓してきたのです。さらに、アイダモ。これはいい板がとれます。それに天然スギもあります。スギは暖かいところの植物で、最上川沿いに少しありますが、それがここに残っています。アサダも神社などに残っているだけで今は少なくなりました。 ここは低層湿原なのですが、白竜湖よりいい状態です。カサスギ、アマモ、カングモ、それにヤナギトラノオなど氷河期の生き残りも5〜6種類あります。 さらに大切なのは、ここは日本で浮島研究の基準地に指定されています。浮島を研究する人は必ずここに来ます。ですから、朝日町だけではなく、日本としても非常に大切なところです。 お話:吉野智雄氏(山形県文化財保護指導員、植物研究家) |
浮嶋神社は、役の行者と覚道が創設して、一院三十三坊があった。私の家もその坊のひとつであった。四代前に柴橋から嫁に来た人の持参金で浮島神社神輿を寄付したごとにより、資格を得て、私の家で行者を泊めるようになった。最上家では庄内の人を、私の家では福島の人を泊めた。浮島というイメージが船が沈まねという縁起を生んで、海岸に住んでいる漁師の人がたくさん来て宿泊した。私の家では、昭和十年頃まで、坊を営むことで生計を立てた。行者を、御行様、御行様と呼び、家の前に玄関が二つ、脇に一つと、玄関が三つあった。
屋根もピーンとした立派な屋根だった。食事には精進料理を出して家の所得も相当なものだった。 その当時の部落の繁栄を再現するためにも、浮嶋神社を活かしていかなければならない。その当時、浮嶋神社を経由して朝日に出かける行者と月山に出かける行者がいたが、私の家の使用人が先達となり案内した。その修験者の道を復活すったいという話もあり、 古くなったお守りなどを燃やす場所として復活したらなんたべという話が、現在出ている。 お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)取材 : 平成6年 |
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浮島には、科学的には説明できない神秘的なことがうがい。浮島の不思議な出来事は、私の姉の佐藤ちよが、『浮島物語』にまとめて出版している。私の姉は、浮島に隣接した道路を歩いて三年間大暮山分校に通った。毎日、欠かさないで浮島を観察して、不思議だなと思うことを記録に残した。その記録に残したのが『浮島物語』なんだ。
おらだが浮島に関して不思議に思うのは、雑木林の落ち葉が大沼のまん中さ、ひとりで集まり、流れる方さ真直ぐに流れることだ。そして、朝、行ってみると落ち葉が全部消えている。 また生の葉っぱが底に沈んでいる。科学者たちは、いろいろ解釈をするけれど、私達は神秘的なものと思ってる。それは、お姫様が来て大沼を掃くのだという言い伝えがある。 お話:白田隆さん(浮島を守る会会長) |
大沼の湖面の色は昔から変わらず土色だった。泥が厚く堆積している。泥がガスとともに真っ黒になって出てきてそこさ植物の種が落ちて浮島ができたという話もある。また、いくつものちっちゃい島が大きな島に押されて、陸に上げられたりすることもあるから、常に管理する必要がある。昔は手入れする人がいた。島が動かなくなる所まで何べんも押して適当な場所を探す必要があるがだいたいそのポイントがわかって来た。雨の降りそうな時は、水の湧く所さ集まる。その状況を見て天気を予測することもできた。
浮島を守る会は、浮島の環境を守るために、私一人だけでなく、年配者から若者まで、みんなして一生懸命になって活動できないものかと、ボランティアで始めた。そして、結成してから毎年島切りを実施している。以前、浮島の手入れをしない時代には、浮島の数が減ってしまったこともある。根っこが水底にくっついてしまうから、それを切り離さんなねがった。会のメンバーが一生懸命手入れしたさげ、今のような状態になった。 さらに、景観が悪いところの枝を切ったり、林の中を伐り払ったりして、観光と結び付けたいけれど、先生たちが考えている「手を全く加えない自然を目玉にした観光」との考え方の違いに私達も戸惑っっている。 浮島の復元をしてから二十年近くなるが、島切りをする所が1メートル位空洞になっている。これは鯉がつついて根っこを食うからだと思われる。んださげ、島切りをすると、片方には根っこが深くいっぱい付いているが、もう片方には根っこが少ない状況になっている。このため、浮島を切り離して出すと、グラッとひっくり返るみたいになる。これで非常に苦労した。 お話:白田隆さん(浮島を守る会会長) 取材 : 平成6年 |
沼の水が汚染によってアオコが発生していることがわかった。前々から心配していた。それで町に話をし、相談している。町では調査したいとしている。浮島を守る会としては、お客さまが来て喜ばれるようにしたい。自然を守る方たちは、人工的な手を加えるなと助言してける。まず、鯉にえさをやることはダメだと言われる。鯉は進駐軍に捕られて随分少なくなった。なんといっても赤・白の鯉が必要だべということで三十年くらい前に放流した。その鯉が成長して立派な鯉になった。しかし、その鯉に餌をやるのは、水を汚すことになるので、餌は売らんねことになった。
沼の近辺はりんご園がうがいが、昔は林だった。開墾に適した所だったさげ、周囲が全て畑になった。そんで、沼の水を保護するために、早急に側溝を整備する必要がある。そうすねど雨水と一緒に藻も入ってしまう。大沼の水は、湧水だけで維持されている。昔はもっともっと湧いていた。この頃少なくなった。三ケ所位から水が湧いていたが、この湧水量が少なくなると浮島の動きが悪くなる。 お話:白田隆さん(浮島を守る会会長) |
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