朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
13.大沼浮島エリア
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お話/長岡清一郎氏(大暮山) (変身) 衣装に着がえる時や、化粧をしている時に、鏡の自分を見ていると、不思議なことに気持ちがだんだん大黒様になってくる。身支度が整うとすっかり大黒様になる。気持ちを切りかえる大切な時間となっている。 (前口上) 舞いの前に述べる前口上には、福を授ける十種類の祈願の言葉がある。 「あ〜っと来たりや皆々様に、明きの方から福大黒様が、ど〜さりと舞いこんだあ〜、さあ〜て、お大黒様というものは、一で俵をどんと踏んまえて、ニでに〜こり笑うて、三で盃の大きいやつでごくごくと飲み干しまして、四つ世の中よいように、五つ泉が台所よりこんこんとわき出すように、 六つ無病息災で、七つ何事、悪事、災難、火災等には絶対に合わないように、 八つ屋敷の悪魔をきれいさっぱりは〜ろうて、 九つ米蔵、金蔵、七十五棟をどんと建てかえまして、十で当座の皆々様がまめで達者で働きますよう、ど〜っさりと祝ってまいろう〜 」 あらゆる福を願って声を上げる。 (大暮山の大黒舞) 私の家でも古くから大黒様を祀っている。知らずに惹かれていたのかも知れないな。 大暮山地区でも昭和30年代頃まで大黒舞はあったと聞いている。小松又一さんや川口米男さんが若い頃に舞い手を務め、五、六人の集まりで門付けをして歩いたと聞いている。子供たちに教えていたとも聞くので、大暮山の大黒舞の歴史は古いのかも知れない。偶然、私が復活したことになった。 (舞いの指導) 地元の人などに頼まれて、舞い方を教えた人もだいぶいらっしゃる。10年前頃は職場で愛好会を作って楽しんでいた。その会員の皆さんは今でも私の応援に駆けつけてくれる。和合婦人会では、敬老会で披露したいと依頼を受け指導をさせていただいた。どんどん広まってみんなで盛り上げられたらいいと思っている。 (やりがい) ご覧になった皆さんに喜んでいただけることがなによりのやりがい。お一人、お一人からお誉めの言葉や、感謝の言葉をかけて頂いたときの達成感、充実感はなんとも言えない味わいがある。また、主役の方を盛り上げ、なおかつ自分も盛り上がることができる。この上ない至福の時に感じる。 だから依頼があるたびに、最善の舞を出せるよう、事前に何度も練習を重ねている。いつも舞うたびに、上へ、上へ研鑽することを心がけている。これからも、もっともっと極めたい。 長岡清一郎(ながおか・せいちろう)氏 昭和34年1月生まれ。52年日東ベスト株式会社に入社。 57年より大黒舞を始める。大暮山在住。 取材 : 平成22年1月 安藤竜二 撮影 : 荒木淳一さん ※上記ダウロードボタンより印刷用pdfファイルが開けます →大暮山の大黒舞(1) |
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藤原実方は正暦5年(994年)に左近衛中将に叙任されました。しかし、翌長徳元年(995年)正月に突然陸奥守に左遷されています。この理由として、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨ててしまい、天皇の怒りを買い「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話があります。 その995年に実方は大沼を訪れて、下記の和歌を二つ詠んでいることが、山形市の千歳山万松寺に伝わっています。 よしやそも 名こそ深山の奥なれや 花にはもれぬ 雲の上かな 四方の海 波静かなるしるしにや 己と浮きて 遊ぶ島かな ■千歳山万松寺誌 藤原實方朝臣 より抜粋 行き行きて別れ路に逢坂山も打ち越えぬ。滋賀の浦浪立つも見つ。勢多の唐橋からころと、馬の蹄の鳴らすにも、如何に鳴海の濱千鳥、鳴く音を聞くも中々に、袖濡せとや宇津の山、遠き砧も今日許り、興津の濱に打ち出でつ…清見の月も曇りては都の空の懐かしく、富士の煙に咽びつつ、歩めば何時か足柄の、山も越えけり早川の、早くも年は暮れ果てて、それとし人も白河の、関路に春は陸奥の異なる境に着きましぬ。 此処か其処かと歌枕、阿古耶の松を尋ねても、更に其の甲斐御座さねば、来し方許り偲ぶ山、信夫の里も後にして、板谷路越えて米澤も後へに見れば、程もなく、大沼といへるにかかり給ふに、こはそも如何に、天の成せる勝地とはいへ、周り一里もあらむかと思はるる清水の漫々と湛へたる沼ありて、風のまにまに、往き交う嶋の面白く、数ふともなく数ふれば大小合わせて六十六嶋あり、風なきも岸を離れ、浪なきも岸を離れ、浪なきも游泳せる様、此の世のものとも思ほえず、恰も物のありて嶋を弄ぶが如く、小松、躑躅も藤波も、色を爭ひ、穂に出ぬ尾花も打ち雑れるに、興がらせ給ひ、 よしやそも名こそ深山の奥なれや花にはもれぬ雲の上かな と一首を遊ばしたるに、俄に水の沸き溢れて、天に漲るかと思はれ、数多の嶋々東西南北へと意に任せて其の状、織るが如く編むが如きに奇異の思ひをなしつつ、 四方の海波静かなるしるしにや己と浮きてめくる嶋かな と又も一首を詠じ給ふに、さしもに恐ろしかりつる沼水の、見る間に収まりて鏡の面よりも滑らかなり、其の折り怒れる波の溢れて枝の枝にかかり、根を洗ひたれば時人「波揚げの松」とて今の世迄も語り傳へぬ。實に「和歌は目に見えぬ鬼神をも感ぜしめし例しにや。 万松寺誌は、上記↑ダウンロードからpdfをご覧ください。 大沼には小野小町も訪れた伝説があります → 落裳観音の小野小町伝説 |
大沼の発見は今を去ること約1300年前の白鳳9年(680)の昔にさかのぼります。大和国(奈良県)の修験者役の証覚(小角)が、その弟子覚道をともない、朝日岳を目指し修行の途中、大沼に着きました、島々が浮遊する神秘的な影に感動した役の証覚が、湖畔に浮島稲荷神社をまつり、弟子覚道に託したとされます。祭神は「宇迦之御魂命」「天熊之大人神」。例祭は5月5日。五百川三十三観音第12番札所
※『大谷郷』より抜粋 → 浮嶋稲荷神社由緒 → 浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表 小林富蔵さんのお話 →神社のお祭り 白田隆さんのお話 →浮島稲荷神社のこと 最上俊一郎さんのお話 →浮島雅楽保存会のこと →五百川三十三観音縁起 →五百川三十三観音霊場一覧 →アクセスマップはこちら |
拝殿前の二基の石灯籠は、元和7年(1621)最上義光の孫にあたる13代山形城主最上義俊(家信)が進納したものです。幢身(竿)には、最上一族のお家騒動のなかで、最上家の武運長久を祈願し、この難局をきり開くために知見を求めている17歳の幼主の心境がきざまれています。一基は熊野権現に寄進されたもので、明治初期浮島稲荷神社に合祀された折に移されました。朝日町指定有形文化財。
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浮島は風の向きなどに一切関係なく、静かに、あるときは走るように動き、すれ違ったり、一列に並んだり自由自在に遊泳する。大正14年に国の史跡名勝地に指定された。「…大小種々の島形の団塊となり、水面に遊し浮島をなせり。島形五、六十に達す。この島は風なくして除々種々の方向に運動し…奇観極まりなし。…全国浮島中最も著名なるものなり。」(指定理由書より抜粋)
※『大谷郷』より抜粋 →アクセスマップはこちら |
大沼には多くの文人が訪れている。古くは長徳元年(995)に藤原実方が二首の歌を残し、橘南谿(1754〜1805)は『東遊記』に紹介し全国に知られることとなった。湖畔の芭蕉句碑は享保から天明年間(1716〜88)に地方俳人として活躍し中央にも名の聞こえた鸞窓(大沼大行院43代)が建立したもの。またすぐ近くには、訪ねた記念に建てた大正14年(1925)の花の本聴秋の石碑や昭和10年(1935)の福田古道人の句碑もある。
※『大谷郷』より抜粋 最上敬一郎さんのお話 → 芭蕉塚 → 大沼を訪れた陸奥守 藤原実方 →アクセスマップはこちら |
文化3年(1806)の浮島絵図面には、「七夕の夜、牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬をかささぎが翼をならべて天の川を渡したという故事によって名づけられた。神秘的で霊験あらたかな浮島にふさわしいところからこの名がある。また、相愛の男女がこの橋を渡ると縁が結ばれると伝えられている」とあるそうです。昭和55年(1980)に閼伽沼と共に復元されました。
※鵲橋説明板より →アクセスマップはこちら |
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別当大行院は役の証覚の弟子覚道の直系であり、現当主の最上氏は54代目を数えます。浮島稲荷神社は、源家、徳川家、大江家、最上家など時の権力者の尊崇厚く祈願所として加護を受けてきたことから、多くの貴重な文書が所蔵されています。
※『大谷郷』より抜粋 ※無断見学不可 最上敬一郎さんのお話 →緋網代の駕篭 →弁慶の笈 →ウワバミのミイラ →大沼絵図 → 浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表 →アクセスマップはこちら |
「雨願い地蔵」と呼ばれ、地区の皆さんに親しまれてきたお地蔵様は、白田隆さんの自宅でお祀りしています。雨を願う時は、このお地蔵様を大沼に浮かべて祈願したのだそうです。
※見学はできません。 白田隆さんのお話 →雨願い地蔵様 |
大沼の六地蔵尊は六体地蔵ともいい町内では珍しい。台座の上に約40センチの円柱が立ち、上部25センチの所に六体の地蔵様が仲良く刻まれている。どの顔も童顔あどけない。全高180センチ。安山岩でできている。
子育て地蔵で、安産、縁結び、交通安全の守護仏として昔から崇敬の的となっていた。 戊辰戦争の折り、官軍が大沼に乱入し小清に進軍した時にこの六地蔵は倒されそのままとなっていた。別当白田家の夢枕に地蔵様が立ち、明治37年に復興されたと伝わる。 ※「ふるさと 朝日町散歩」より抜粋 →地図はこちら ※狭いコンクリート道路となっていますのでご注意ください。 |
大暮山地区を一望できる小高い丘に八幡神社が建っています。本殿屋根葺き替えのおり、発見された棟札には「文政□□年、棟梁□□」と書かれており、少なくとも文政年間には建立されていたことが分かります。
ご神体は桧の一本造りで、素朴にして雄大な作品です。高さ40センチメートル。臥獣に乗った応神天皇の立像で江戸中期の作と推定されています。 4月15日の例祭は村を挙げて盛大に行われます。 ※『大谷郷』より抜粋 →アクセスマップはこちら |
元禄4〜5年(1691〜2)頃の大火により、十数戸の村とともにことごとく焼失しました。この時萬福寺のご本尊地蔵菩薩だけはぜひ助けなければならないと、村人は猛火をくぐりぬけなんとか運び出しました。しかし、ご本尊はひどい火傷にあい、それ以来お厨子の奥深く安置され秘仏となっています。境内には、経文を納めた宝篋印塔やあきごぜの墓があります。
五百川三十三観音第14番札所(聖観世音)朝日町大暮山46-1 ※『大谷郷』より抜粋 →五百川三十三観音縁起 →五百川三十三観音霊場一覧 →アクセスマップはこちら |
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お話/長岡清一郎氏(大暮山)
(大黒舞との出会い)
大黒舞との出会いは23歳の時。日東ベストの大谷工場に勤務するようになって2年目。旅行の宴会で演し物をすることになり、たまたま同僚の武田光昭さん(寒河江市)が清助新田に伝わる大黒舞を舞える事が分かり、彼を師匠に習ったのが始まり。初めての舞は大好評だった。あれから27年にもなる。
(舞いの思い出)
その後、話を聞きつけた同級生の結婚式や、町内の方の年祝いなど、いろんなお祝い事に呼ばれるようになった。最初は面白半分にやっていたが、結婚祝いなどで頼まれた時に、「これはその人の「人生の門出」という大事な一コマだ」ということに気付き、そこから心を入れ替え、心を込めて舞うようになった。
思い出深い舞はいくつもある。山形市のホテルキャッスルで開催された国際交流のイベントではインドネシアの方が民俗舞踏を披露した時に、お返しに私が日本の舞いということでやらせていただいた。終わったあとに笑顔で写真撮影をお願いされた。舞踏に国境はないと感じた瞬間だった。町の移動芸文祭では、民謡会の生歌、生演奏で舞った事もある。一昨年は、空気神社で開催された環境イベントでも舞った。途中でCDプレイヤーの電池がなくなって音楽なしでやったが、温暖化防止を祈願し意義のある舞いとなった。
なにしろ祝い事なので、なにがあっても絶対に止まらないと決めている。大きな舞台になったのは、日東ベストの60周年記念の総合文化祭。オープニングで250人を前に舞った。最も緊張したのは、私の師匠の武田さんの師匠の方と結婚式で偶然一緒になり交代で舞った時だった。合計すると、これまででおそらく100回以上は舞ったと思う。
(演出)
いつのまにか舞いだけではなく演出にもこだわるようになっていた。いい発表の場になったのが、私も実行委員をしていた旧大暮山分校の白い紙ひこうき大会だった。ドライアイスや煙幕を焚き、登場の曲を流し、被り物もした。たくさんの紙の蝶も飛ばした。10年の間に実に様々なことをやり、演出が進化していった。初めて参加した方は驚かれたと思うが、知っている方は、今か今かと待っていてくれたようだった。10回の大会で10種類の演出を試みたことになる。一昨年の最終大会では300人以上の皆さんを前に舞わせていただいた。
(衣装と小道具)
おのずと衣装や小道具をそろえるようになった。衣装は、東京に住む叔母から京呉服等のきらびやかな端切れを送ってもらい、母に縫ってもらった。今の衣装は3着目になる。打ち出の小槌も、はじめは空き缶に色紙を貼り木の柄をつけた自前のものだった。背景にもこだわることがある。桜の木を作ったり、草を描いて立たせたり、四方に立てた笹竹にしめ縄を張ってみたり。昨年の大暮山分校感謝祭では、会社の廃材をいただいて、溶接して「光背」を作り背負った。
衣装に着がえる時や、化粧をしている時に、鏡の自分を見ていると、不思議なことに気持ちがだんだん大黒様になってくる。身支度が整うとすっかり大黒様になる。気持ちを切りかえる大切な時間となっている。
長岡清一郎(ながおか・せいちろう)氏
昭和34年1月生まれ。52年日東ベスト株式会社に入社。
57年より大黒舞を始める。大暮山在住。
取材 : 平成22年1月 安藤竜二
撮影 : 上、大井寛治さん 下、荒木淳一さん
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→大暮山の大黒舞(2)