朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

13.大沼浮島エリア
 大行院主が江戸幕府に御守札を献上する際に使用することが許された駕篭で、これを使い江戸に出かけ登城しました。材質は、外面が網代作り、内部が漆塗りの檜でできた二人担ぎの駕篭です。朝日町指定文化財。
高さ106.5cm 幅75cm 長さ121.2cm 重さ18.5㎏
※網代 竹・葦または檜などを薄く削ったものを斜め、または縦横に編んだもの。
※緋 濃く明るい朱色
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)
 弁慶が修験道を伝ってきて、大行院に泊まって、宿代の代わりに置いていったという伝説があって、その笈が今も伝わっている。前に研究家が来て見て、室町時代の作ではないかと言ってだっけ。格式によって大きい小さいあるんだけど、資格によって立派な笈を使うそうで、これは立派なほうなんた。分解できて、中に自分の身を守る仏様、蔭仏ってあるんだけど、それ入れて歩くのだった。薬師如来様だ。今は別にしてある。作りも鐇(ちょうな)削りで防水に布を貼ったのに漆が塗らっていたりしている。神様を中に奉っているから、観音開きになる。こっち側さは、勧進帳やお経を入れたようだ。扉の裏に凡字で、武蔵坊弁慶の「武蔵」って書いてある。背中のあたる所は、すり減っていて苦労した面影があるね。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)
 元禄年間だから、今から三百年くらい前。「若御子山」に棲んでいて、あとで骨になって見つかったのが、代々宝物として保存されてあるんだ。災難除け、悪魔払いとか、由緒が書いてあるんだ。それには、三百年くらい前に若い衆が、山に木伐りに行ったら、大蛇が木にくるまっていたんだっけど。そんな大蛇がいるというので、村の人は三年間、山に入るのを差し止めした。その後、恐る恐る行ったら骨になっていたという、そういう伝説だね。その大蛇の棲んでた洞穴が今もあるそうで、そこに行くと大蛇の息音がすると言ってだっけ。専門家の先生も来たけど「ツチノコ」かも知れないという話だった。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)
 山伏のことを、御行様(おぎょうさま)と言うけれど、御行様は昔ここに泊まって、月山の方に行ったり、朝日岳のほうに行ったりしたんだ。記憶にもあるけれど、昔はそういう有名な山に登ることが行の一つだったし、三十日間も登って修行して資格もらったっていう。蔵王あたりにも登ったんだな。京都に聖護院という本山があって、そこから資格の交付を受けていたようだ。そういう書類もうちにある。うちは、御維新なってから、すぱっと辞めて、神道に切り替えたから、今は修験道は全然関係ないけどね。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)
 この文化年間の地図さも、芭蕉塚ってあるけど、これは松尾芭蕉がここに来たわけではないようだな。うちの先祖に「歌詠み」で芭蕉の弟子がいたものだから、師匠を慕って碑を建てたと聞いた記憶があるね。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)
{PDF} ダウンロード 418.2KB_Adobe PDF

 昔、刷って配った地図の原版があったから刷ってたけれど、あんまりきれいには刷れなかった。
 名前がところどころ見えなくなっているけれど、これは消したのではないか。ここは徳川幕府の配下になっていたのが、御維新なって国さ返上したものだから、あまり思わしくないというので隠したみたいだな。
こっちの色が付いている原版は、文化年間に作ったものだな。二百年くらい前だ。三十三坊とか、家の配置が書かってあるべ。あと、関所も書いてあるな。八つ沼の部落と大暮山の部落とそれから勝生の部落に行くところにあったんだな。誰も彼も大沼に入ることはできなかったんだ。許可がいるんだ。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)

※↑上記ダウンロードボタンより「羽州大沼山浮島神池の図」の拡大版を見られます。
 三十三坊は、昔の修験者が泊まったところで、それぞれに名前が付いている。この「坊」というのも、今の神主みたいなもので、昔、熊野山とか月山とかに泊まって、修行して、院とか坊の資格をもらったんだ。この頃では、泊めていたのは二〜三軒だけど、昔は三十三軒みな泊めていたわけだから、かなりの人が泊まれたんだな。昔は、日本海側から漁師の人がいっぱいお参りに来た。それは海上安全で、船が沈まないようにだ。浮島は沈まないからね。うちでも、二十人の上は泊めた記憶があるな。白装束で来て、お精進料理しか食べなかったな。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)

 浮嶋稲荷神社は、役の行者と覚道が創設して、一院三十三坊があった。私の家もその坊のひとつであった。四代前に柴橋から嫁に来た人の持参金で浮島神社神輿を寄付したごとにより、資格を得て、私の家で行者を泊めるようになった。最上家では庄内の人を、私の家では福島の人を泊めた。浮島というイメージが船が沈まねという縁起を生んで、海岸に住んでいる漁師の人がたくさん来て宿泊した。私の家では、昭和十年頃まで、坊を営むことで生計を立てた。行者を、御行様、御行様と呼び、家の前に玄関が二つ、脇に一つと、玄関が三つあった。
 屋根もピーンとした立派な屋根だった。食事には精進料理を出して家の所得も相当なものだった。
 その当時の部落の繁栄を再現するためにも、浮嶋神社を活かしていかなければならない。その当時、浮嶋神社を経由して朝日に出かける行者と月山に出かける行者がいたが、私の家の使用人が先達となり案内した。その修験者の道を復活すったいという話もあり、
古くなったお守りなどを燃やす場所として復活したらなんたべという話が、現在出ている。
お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)

 護摩壇は神社の所と山伏岳(高田の上)にある。この二つの護摩壇を真直ぐ延長していくと大朝日の山頂さつながるんだ。修験者で大朝日まで行けない人は、大沼で祈祷して山伏岳で祈祷して、大朝日を遥拝(ようはい)したんだ。山伏岳の護摩壇には大きな松の木があって、昔は寒河江あたりからも見えるんだっけ。それがなくなって、なんだか物足りない気がするんだ。長岡山あたりからも見えるんだっけ。
お話:最上敬一郎さん(大行院51代当主)
エリア地区 / 大沼、大暮山

・大型バスは八ッ沼〜大沼線をご利用下さい。大谷からは通れません。

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
 よって、サイト内で紹介しているほとんどの見学地は、観光地として整備している場所ではありません。夏は草が茂り道がなくなる場所もあるかも知れません。もちろん冬は雪に閉ざされます。また、個人所有の神社や建物等も一部含まれております。アクセスマップも細道までは表示されません。
 予め御了承の上、見学の際は下記についてご留意下さるようお願い申し上げます。

・安全に留意し危険な場所には近づかないで下さい。
・マナーを守り、無断で個人敷地内に入らないで下さい。
・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)
 大沼部落が干ばつになり、村中みんなで木の地蔵様を沼に入れて祈願して直会をしたところ、物凄い雨が降ったという記録がある。その時に地蔵様の左腕が取れて、負傷して、私の家に保管された経緯は本当の話だ。
 それは、大沼の水が三十センチ位減った時のことだった。村中総出で、婿にきた親父が祈願したれば、物凄い雷とともに雨が降ってきた。そして、一晩のうちに浮島の水量がいっぱいになったが、肝心の地蔵様が見えなくなってしまった。これは、先程話した浮島の空洞になった所に地蔵様が入り込み、そのままにしたから水かさが増して、地蔵様が出られなくなってしまったのではないかと思われる。
 地蔵様がいなくなったことで、私の親父は祖父に大いに怒られ心配して、必死になって地蔵様をさがしたけれど見つかんねがった。その後、しばらくしてから、浮島の手入れをしていた仁吉という人が教えに来てくれた。小さい浮島が真向かいから近づいてきて、仁吉さんの前でくるくる回って戻って行ったんだと。これは神様のお告げと思って、私の親父のとこさ来てこの旨を伝えてくれた。泳ぎが達者だった親父がその浮島の底さ潜ってみたら、そこに地蔵様がいたんだっけど。

お話:白田隆さん(浮島を守る会会長)
取材 : 平成7年
{PDF} ダウンロード 216.1KB_Adobe PDF

お話/長岡清一郎氏(大暮山)

(大黒舞との出会い)
 大黒舞との出会いは23歳の時。日東ベストの大谷工場に勤務するようになって2年目。旅行の宴会で演し物をすることになり、たまたま同僚の武田光昭さん(寒河江市)が清助新田に伝わる大黒舞を舞える事が分かり、彼を師匠に習ったのが始まり。初めての舞は大好評だった。あれから27年にもなる。

(舞いの思い出)
 その後、話を聞きつけた同級生の結婚式や、町内の方の年祝いなど、いろんなお祝い事に呼ばれるようになった。最初は面白半分にやっていたが、結婚祝いなどで頼まれた時に、「これはその人の「人生の門出」という大事な一コマだ」ということに気付き、そこから心を入れ替え、心を込めて舞うようになった。
 思い出深い舞はいくつもある。山形市のホテルキャッスルで開催された国際交流のイベントではインドネシアの方が民俗舞踏を披露した時に、お返しに私が日本の舞いということでやらせていただいた。終わったあとに笑顔で写真撮影をお願いされた。舞踏に国境はないと感じた瞬間だった。町の移動芸文祭では、民謡会の生歌、生演奏で舞った事もある。一昨年は、空気神社で開催された環境イベントでも舞った。途中でCDプレイヤーの電池がなくなって音楽なしでやったが、温暖化防止を祈願し意義のある舞いとなった。
 なにしろ祝い事なので、なにがあっても絶対に止まらないと決めている。大きな舞台になったのは、日東ベストの60周年記念の総合文化祭。オープニングで250人を前に舞った。最も緊張したのは、私の師匠の武田さんの師匠の方と結婚式で偶然一緒になり交代で舞った時だった。合計すると、これまででおそらく100回以上は舞ったと思う。

(演出)
 いつのまにか舞いだけではなく演出にもこだわるようになっていた。いい発表の場になったのが、私も実行委員をしていた旧大暮山分校の白い紙ひこうき大会だった。ドライアイスや煙幕を焚き、登場の曲を流し、被り物もした。たくさんの紙の蝶も飛ばした。10年の間に実に様々なことをやり、演出が進化していった。初めて参加した方は驚かれたと思うが、知っている方は、今か今かと待っていてくれたようだった。10回の大会で10種類の演出を試みたことになる。一昨年の最終大会では300人以上の皆さんを前に舞わせていただいた。

(衣装と小道具)
 おのずと衣装や小道具をそろえるようになった。衣装は、東京に住む叔母から京呉服等のきらびやかな端切れを送ってもらい、母に縫ってもらった。今の衣装は3着目になる。打ち出の小槌も、はじめは空き缶に色紙を貼り木の柄をつけた自前のものだった。背景にもこだわることがある。桜の木を作ったり、草を描いて立たせたり、四方に立てた笹竹にしめ縄を張ってみたり。昨年の大暮山分校感謝祭では、会社の廃材をいただいて、溶接して「光背」を作り背負った。
 衣装に着がえる時や、化粧をしている時に、鏡の自分を見ていると、不思議なことに気持ちがだんだん大黒様になってくる。身支度が整うとすっかり大黒様になる。気持ちを切りかえる大切な時間となっている。

長岡清一郎(ながおか・せいちろう)氏
昭和34年1月生まれ。52年日東ベスト株式会社に入社。
57年より大黒舞を始める。大暮山在住。

取材 : 平成22年1月 安藤竜二
撮影 : 上、大井寛治さん 下、荒木淳一さん
※上記ダウロードボタンより印刷用pdfファイルが開けます

大暮山の大黒舞(2)
{PDF} ダウンロード 266.2KB_Adobe PDF

お話/長岡清一郎氏(大暮山)

(変身)
衣装に着がえる時や、化粧をしている時に、鏡の自分を見ていると、不思議なことに気持ちがだんだん大黒様になってくる。身支度が整うとすっかり大黒様になる。気持ちを切りかえる大切な時間となっている。

(前口上)
 舞いの前に述べる前口上には、福を授ける十種類の祈願の言葉がある。

「あ〜っと来たりや皆々様に、明きの方から福大黒様が、ど〜さりと舞いこんだあ〜、さあ〜て、お大黒様というものは、一で俵をどんと踏んまえて、ニでに〜こり笑うて、三で盃の大きいやつでごくごくと飲み干しまして、四つ世の中よいように、五つ泉が台所よりこんこんとわき出すように、
六つ無病息災で、七つ何事、悪事、災難、火災等には絶対に合わないように、
八つ屋敷の悪魔をきれいさっぱりは〜ろうて、
九つ米蔵、金蔵、七十五棟をどんと建てかえまして、十で当座の皆々様がまめで達者で働きますよう、ど〜っさりと祝ってまいろう〜 」
 あらゆる福を願って声を上げる。

(大暮山の大黒舞)
 私の家でも古くから大黒様を祀っている。知らずに惹かれていたのかも知れないな。
 大暮山地区でも昭和30年代頃まで大黒舞はあったと聞いている。小松又一さんや川口米男さんが若い頃に舞い手を務め、五、六人の集まりで門付けをして歩いたと聞いている。子供たちに教えていたとも聞くので、大暮山の大黒舞の歴史は古いのかも知れない。偶然、私が復活したことになった。

(舞いの指導)
 地元の人などに頼まれて、舞い方を教えた人もだいぶいらっしゃる。10年前頃は職場で愛好会を作って楽しんでいた。その会員の皆さんは今でも私の応援に駆けつけてくれる。和合婦人会では、敬老会で披露したいと依頼を受け指導をさせていただいた。どんどん広まってみんなで盛り上げられたらいいと思っている。

(やりがい)
 ご覧になった皆さんに喜んでいただけることがなによりのやりがい。お一人、お一人からお誉めの言葉や、感謝の言葉をかけて頂いたときの達成感、充実感はなんとも言えない味わいがある。また、主役の方を盛り上げ、なおかつ自分も盛り上がることができる。この上ない至福の時に感じる。
 だから依頼があるたびに、最善の舞を出せるよう、事前に何度も練習を重ねている。いつも舞うたびに、上へ、上へ研鑽することを心がけている。これからも、もっともっと極めたい。

長岡清一郎(ながおか・せいちろう)氏
昭和34年1月生まれ。52年日東ベスト株式会社に入社。
57年より大黒舞を始める。大暮山在住。

取材 : 平成22年1月 安藤竜二
撮影 : 荒木淳一さん
※上記ダウロードボタンより印刷用pdfファイルが開けます

大暮山の大黒舞(1)
 大沼の発見は今を去ること約1300年前の白鳳9年(680)の昔にさかのぼります。大和国(奈良県)の修験者役の証覚(小角)が、その弟子覚道をともない、朝日岳を目指し修行の途中、大沼に着きました、島々が浮遊する神秘的な影に感動した役の証覚が、湖畔に浮島稲荷神社をまつり、弟子覚道に託したとされます。祭神は「宇迦之御魂命」「天熊之大人神」。例祭は5月5日。五百川三十三観音第12番札所
※『大谷郷』より抜粋

浮嶋稲荷神社由緒

浮嶋稲荷神社及び別当大行院略年表

小林富蔵さんのお話
神社のお祭り
白田隆さんのお話
浮島稲荷神社のこと
最上俊一郎さんのお話
浮島雅楽保存会のこと

五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
アクセスマップはこちら
 拝殿前の二基の石灯籠は、元和7年(1621)最上義光の孫にあたる13代山形城主最上義俊(家信)が進納したものです。幢身(竿)には、最上一族のお家騒動のなかで、最上家の武運長久を祈願し、この難局をきり開くために知見を求めている17歳の幼主の心境がきざまれています。一基は熊野権現に寄進されたもので、明治初期浮島稲荷神社に合祀された折に移されました。朝日町指定有形文化財。

アクセスマップはこちら
 大沼は、標高310mの山あいの地にあり、南北約70mの小さな湖沼で、狐の形をしているといわれています。湖畔にある浮島稲荷神社の神池とされ、湖岸の老い松と四面の深緑が調和する神秘的な沼として千年余の間保存鑑賞されてきました。しかし、戦後周辺の自然環境が大きく変化したため六十余りあった浮島が十数個に減少しました。昭和62年(1987)大沼地区民が主体となって「浮島を守る会」が組織されました。
※『大谷郷』より抜粋

小林富蔵さんのお話
沼の不思議
神聖な場所「大沼」
子供の頃の大沼
島出し
白田 隆さんのお話
『浮島物語』
大沼の水
アクセスマップはこちら