朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
14.秋葉山エリア
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(記事 / 町報あさひ 昭和36年(1961)8月5日号より抜粋) 堀敬太郎さんのお話 昭和三十六年の町報あさひに、花火に関する詳細が出ています。 大谷地区では江戸時代から花火を打ち上げておったといわれておりますが、本当かどうかの確証はありません。しかし、この記事には、江戸時代には火薬の取り扱いは医者が扱っており、白田内記家が白田医者を製造元として「旭連」という連を作ったと。そして白田外記家は、ちょうど今の鈴木床屋辺にあったといわれる浜田医者を製造元として「松本連」をつくって、お互い競い合って花火を打ち上げておったと書いてあるんです。それが明治になり、警察がほとんど火薬を取り扱うようになって、勝手に花火を作ることができなくなり、さあ困ったということで、東の白田藤三郎さん(昭和三十九年に亡くなって、ちょうど今年が五十回忌)を福島に花火師として養成するためにやったと。 そこで勉強して大谷に戻り、松本連、旭連を解消しまして「旭連金玉屋煙火製造販売業」という会社を興して、大正14年まで製造販売もしたと。ちょうど愛宕様に火薬庫があったと昔の人から聞いておりますし、実際製造したことは間違いないと思います。私たち小さい頃はよく花火屋、玉屋って呼んでいました。今も屋号は花火屋ですね。白田八郎さんの小屋に行ってよく花火の殻なんかも見たことがあるので、製造したことは間違いないと思うのです。それが大正十四年まで続いたというふうに書いてあります。 そして明治四十三年に東北の花火大会に白田藤三郎さんが出場して、第三位になったんだそうです。その時の賞品が柱時計なんだけど、残念ながらこれはないそうです。今は孫さんが打ち上げを現在も継続してやっています。 (大谷風神祭シンポジウム・パネルディスカッション 2013.9.25) エコミュージアムの小径第15集『大谷風神祭』より抜粋 上記ダウンロードボタンで記事のPDFファイルが開きます →大谷の花火打ち上げ →大谷の風神祭 →空から人形!?人形傘花火 →小径第15集『大谷風神祭』 |
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白田寿春さんのお話 〔祖父と父のこと〕 うちは玉屋とか花火屋とか呼ばれている。じいさんの藤三郎が花火を作って打ち上げていたんだ。そして、親父の八郎がその後を継いだ。だけど、花火製造は、規制がだんだん厳しくなったのと、危険を伴う仕事だったのでしなかったんだ。 じいさんの花火を作る木型とかあったけね。火薬を入れる丸い紙のお椀を作るもので、木の球になっている。そこに何枚も何枚も紙を重ね貼りして、最後に包丁を入れて二つに割るんだな。刃物の跡がついていたっけね。三寸玉とか五寸玉とかのお椀を、昔は、そうして全部手作業で作っていたんだな。 子供の頃、白山神社のお祭りや学校の運動会の日に、昼間の花火を上げるんだけど、ちょうど学校の裏のほうの田圃で親父が打ち上げるから自慢だったね。その頃はパラシュート入れてあったから、それを拾いたくてみんなで田圃の中をこいで行ったりもした。じいさんもそういうのを作っていたようだ。殻玉も魔除けになるからみんな拾うもんだったね。 親父にはよく追っかけていって打ち上げする所を見ていた。大船木の橋が完成した時や上郷のダム祭りの花火打ち上げにも行った。親父が打ち上げる姿はかっこ良かったね。 〔松田花火屋(中山町長崎)とのつながり〕 その頃は、長崎の松田花火屋が作った花火を買って打ち上げていた。松田さんの話では、花火の作り方を、私の曾じいさん(藤三郎の父)から、松田さんの曾じいさんが教わったのが親しくしている始まりだと聞いている。 親父に「お前もしてみろ」みたいなことをよく言われていたから、自然とするようになったんだ。手伝い経験3年以上で講習を受けると「煙火打ち上げ従事者」という資格をもらえるので23歳の時にとった。松田花火屋所属を表す自分の番号がもらえる。 俺がするようになってから、山形や左沢の花火大会にも松田花火屋の手伝いとして行ったことがある。宮城県で花火を製造している仲間も呼んでやるんだっけ。今は、県外から入って来るようになって呼ばれなくなったね。 〔風神祭の花火打ち上げ〕 風神祭(8月31日)の花火打ち上げは、あの頃は連合区とは関係なかったから、親父も一人でバイクに乗って寄付集めしているんだっけ。寒河江や山形までも行くっけね。 昭和46年頃に、うちでだけするのは大変だということで、連合区さお願いするようになったんだ。ちょうど東区でやっていたお神楽(大獅子)も各区で回すようになった時だった。 俺は静岡で働いていたので、毎年風神祭の時には帰って来て打ち上げを手伝うんだっけ。親父は俺が33歳の時、62歳で亡くなった。その年は、お袋にもだんどってもらって、松田花火と一緒にあげたんだ。 打ち上げするのに最低5人いるから、今でも風祭りの時に松田花火に来てもらっている。筒を立てるための杭立ての準備は、朝からしないと間に合わなくなる。3号と4号を10本ずつ、あとは5本ずつ立てる。 打ち上げは、線香花火みたいに散る小さな火種があって、それに火を点けて筒の中に上から入れる。すると筒底に敷いておいた黒煙火薬が爆発して玉は上がっていく。その時に、同時にへそ(導火線)にも火がついて、上まで行って中の色付きの火薬に引火して玉が開くんだ。ちょうどいい高さで開くように火薬の量を調整する。 万一、筒に火薬入れるのを忘れると、上がらないで筒割れして吹っ飛んでくるから危ないなだ。「騒がずゆっくりでいいから火薬はきちんと入れるべ」と呼びかけながら作業している。 火種を筒に入れると、一瞬のうちに花火は飛び出すけど、火花も筒から飛び出すから、その火花を被らないように風向きを考えて入れるようにする。背中に入ったりしたら大変だからね。火種を持つ指先なんかは、いつもピリピリ火傷している。好きでないとできない仕事だね。 打ち上げは、行列している人達も見て楽しめるように、見えやすい保育園の所を通過している時とか休憩している時とかに集中して上げるようにしている。 俺は、行列に混ざったのは小学生の時にちょうちんをたがったのが最後だったね。風祭りの行列は近くで見たことないな(笑) 〔やりがい〕 嬉しいのは玉が上がっていって無事開いた時だね。一発、一発嬉しくなる。そして、すべて無事に終わった時は、やっぱり安堵感はあるね。特に去年は途中から土砂降りだったから、濡らさないようにするのが大変だった。事故がなくてほっとした。あんなことは初めてだったけ。部落の年寄りからは「大変だったな」と声かけてもらえるね。 大谷の花火の歴史は古いし、大切な役割だと思っている。うちも代々花火屋しているから無くさないで続けていけたらと思っている。なにより、大谷の皆さんの協力でできているので、これからも喜ばれる花火を上げていきたいね。 取材/平成26年3月 ■白田寿春(しらた・としはる)さん 昭和31年1月11日生まれ 昭和55年に煙火打上従事者資格取得。平成2年より父八郎氏に代わり大谷風神祭の花火打ち上げ従事者となる。 上記ダウンロードボタンで印刷用PDFファイルが開きます。 →大谷の花火の歴史 →大谷の風神祭 →空から人形、人形傘花火 →小径第15集『大谷風神祭』 |
榊寿太さんのお話
夜の花火も良かったけど、昼間の花火も楽しみだった。人形傘が落ちてくるんだっけ。空のうえで爆発すると、鉛の重りに引っぱられて降りる。すると中に空気が入って人形の形にふくらんで、ぶーら、ぶーらと等身大くらいの人形が降りてくるんだ。大黒様とか恵比寿様 福助様とか姉様の人形で、色の付いたものだった。 集団での競争心理というのか、それを競い合って拾うのが楽しかったんだね。これが祭りだもんね。それは子供ではなく、青年団が拾うものだった。火災予防のお守りとして玄関に飾るから、大人も一生懸命探したんだな。拾った優越感もあったんだべな。おらだは拾えなかった。とても子供達が拾えるようなものではなかった。 燃えて降りてくることもあったから、火災予防上危なくて無くなったんだな。 (2014年3月取材) →大谷の花火の歴史 →大谷の花火打ち上げ/白田寿春さんのお話 →大谷の風神祭 →小径第15集『大谷風神祭』 |
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大谷風神祭の神事について お話 豊嶋宏行さん(白山神社宮司) ■風祭りについて 私は大谷白山神社の代々の神職ではなく、南蔵院の小野さんから船渡の日月神社の田原さんが引き継ぎ、次に私の祖父、そして私が受け継いだ。 風神祭(風祭り)は、白山神社だけでなく農村地区ではよく行われている。特に朝日町ではほとんどの神社で行われている。氏子の人達にとっては稲作が重要。秋の稲刈りまで風や雨、洪水などの災害がないように風神、氏神様に祈る祭典。風神のためのお祭りではない。立春から数えて二百十日目が9月1日にあたる。その日からよく台風が来るということで、その前日に前もってお祭りするのが白山神社の風祭りだ。 ■神事について どの神社も同じだが、まず参列された皆様をお祓いして、お清めしてから、お供え物を捧げ、祝詞を奏上、玉串奉奠(たまぐしほうてん)という形でご参拝していただく。最後にお供え物を撤下(てっか)して終わる。その流れはどの神社も同じように斎行している。 白山神社には、大谷の村中にあった神社8社が合祀されている。その神々に風の災いが起きないようにお願いするとともに、併せて奈良県の龍田大社に風の神様として祀られている志那津彦命・志那津姫命(しなつひこのみこと・しなつひめのみこと)を、氏神神社を通して遥拝する。遠くからお参りするという意味合いでお祭りをする。祝詞では「龍田大社の志那津彦・志那津姫命を遥かに拝(おろがみ)奉る」と申し上げる。 ■貴重な白山神社の笙 神事の中で、お供えする時や玉串で拝礼する時に楽(がく)を奏するところがあり、笛を吹いてもらっている。 白山神社に笙が有るのを見つけた。音が鳴らなかったので直すことになり、調べたら大正15年のもので、楽器屋さんによると、蒔絵も入っている素晴らしい立派な笙で、相当吹いている痕跡があるということが分かった。 今の白山神社の楽奏は篠笛しかないが、もしかしたら笛や篳篥(ひちりき)の三管がそろって、譜面もあって、盛んに楽をしていたのではないか。 現在の白山神社の篠笛の皆さんは、氏子区域から選ばれた人を養成しているが、日本では、楽家という家柄があって、代々平安時代から引き継いでいる。有名な東儀秀樹も篳篥の楽家。この辺だと谷地八幡宮の林家も奈良出身の笙専門の楽家だ。大谷も京都からいらした先祖と聞いているのでそういう人がいたのかも知れない。 ■神輿渡御/分霊の移動 白山神社では、そのあと町の中にご利益が行くように町の中を練り歩く「神輿渡御(みこしとぎょ)」を行っている。神様が町内を回る事を神幸(みゆき)と呼ぶ。 まず、神輿の中に、白山大神様のご神体の一部の分霊(わけみたま)を移動しなければならない。神様に「これからこちらの神輿にお遷りいただいて行列を組んで町を回りますよ」という祝詞を申し上げる。 そして、社殿内を暗くしてご神体を移動する。実は、ご神体には光を当ててはならないので、昔からお祭り自体は日が沈んでからするのが本当。そういうことをしている所は少なくなった。 分霊を御神輿に遷す時は、暗くして「おーっ」という警蹕(けいひつ)を掛ける。神職は手袋とマスクをして、ご神体にけっして息が掛からないようにしてそっと移動する。 白山神社の分霊は、藁で編まれたマントのような風を思わせるもの。そんなに大きくはない。それをご神体がわりとして御神輿の中に移す。それは誰にも見せないので総代さんたちも知らない。私が前宮司から引き継いだ時にそれを分霊とすることを受け継いだ。 ご神体は別にある。本殿の中には神仏習合時代のたくさんの仏像があって、どれがどの神様のご神体かは私も確認できていない。立派な金襴の小さな社があって、そこにご神体が入っている。それに関しては神職も見た事がない。基本的にご神体を見る事は恐れ多くて神職もしない。よく見たいという方がいるが断っている。 ■神輿渡御/行列について 行列は天狗から始まるが、実は猿田彦命(さるたひこのみこと)という神様。古事記にあるように天津国から天照皇大神の子孫、ニニギノミコトが高葦原瑞穂國(たかあしはらのみずほのくに)=日本を治めるために降りてきた時に先導した神。天狗のような恰好をしていたといわれていて、あのような装束になっている。神幸の際はどこでも必ず猿田彦命が先導する。 大獅子の露払いは、神様が通る道を清めて行く役割をしている。 楽人は、現在は太鼓だけだが、昔はやはり三管それぞれいたのかも知れない。 御神輿には分霊が載っていらっしゃるので、通った時には参拝していただきたい。お祈りに関しては、二拝二拍手一拝の基本はあるが、手を合わせるだけでもいいと思う。どういった形であれ、神様に祈ることが大事である。 神幸で私が神輿の後ろを歩くのは、神様を守るためお供する。本来は神輿の前にも先祓いの神職がいてお清めしながら歩く。 道の砂は、暗いから砂を目印にして歩くために、神幸の通る道に置いたのがはじまりではないか。特に獅子舞の人達は前が見づらく下を見て歩かなければならない。それに、各家にも神様が来るようにと繋げるようになっていったのだと思う。 ■大谷ならではの田楽提灯 風祭りは龍田大社や諏訪大社では大きくやっているが、大谷の風祭りも全国的にいっても有名と言えるのではないか。大谷の方々はお盆よりも風祭りに帰省される方のほうが多いとも聞いている。平日でもたくさんの人が集まってくる。花火をお祭りで上げるのもめずらしい。 特に、田楽提灯を持ちながら行列するというのは特殊。他では見た事がない。どうしてこの風習があるのか大変興味深い。子供達が提灯に絵を描いて参加できるのもとてもいい風習だ。この経験が、大人になってもこの祭りを守り伝えて行こうという気持ちになるのではないか。 子供の参加を大切にしていかないと祭りはどんどん廃れていってしまう。今、神輿が町を練り歩けなくなった神社がどんどん増えている。小さな町に限らず大きな町でも同じ状態。神社は地域のコミュニティーの中心になってきた。神社のことを町の人達が力を合わせてやっていく。これができなくなると町は発展せず続いてもいかなくなるのではないか。 ■白山神社例大祭について 7月の白山神社の例大祭は、現在は氏子総代さんと区長さんとだけで細々と斎行している。昔は、例大祭記念剣道大会が体育館ではなく境内で行われて大変賑やかだったとも聞く。神職としては、この例大祭が最も由緒ある日なので、ぜひ多くの村の人にお参りに来ていただきたい。 (取材/2012年7月18日安藤竜二・竹原忠一) 豊嶋宏行(とよしま・ひろゆき)氏 1978年生まれ 國學院大學文学部神道学科卒業。豊龍神社本務権禰宜。里之宮湯殿山神社兼務権禰宜。山形県神社庁協議員、山形県神道青年会会長。大谷白山神社をはじめ大江町2社を含む12社の宮司を務める。 印刷用ノートを上記ダウンロードボタンより開く事ができます。 |
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お話/菅井かちさん(大谷高木) ■大谷連合区からの依頼 じいちゃん(義父・菅井米吉)は、風神祭の田楽提灯の絵付けを毎年していた。連合区の人から「今年も描いでけろな」といつも頼まれるんだっけ。田楽提灯の行列は、七区まで区ごとにまとまって歩くけど、その区の先頭に立つ大きな提灯を七つ描いていたんだ。毎年大変そうだったね。 お盆過ぎると、提灯を家に持って来て描き始めるんだけど、子供たちとリヤカーを引っ張って行って、連合区の公民館の二階から下ろすのを手伝ったりしたね。 絵は縁側で描いていた。紙を枠に貼って、日にあてて、ぱりっとしてから描くんだ。そのほうが描きやすいんだベな。こだわりがあって人に任せられない人だったから、貼る作業も手伝ったことはなかったな。紙は、貼り合わせが透けて見えた記憶がないから、一枚の大きくて丈夫なものを貼っていたと思う。 ■絵付け作業と絵柄 大きな提灯に鉛筆で下書きを「ざっ、ざっ」と描くのを見て、嫁さ来たばかりの頃は間違えるんじゃないかと心配して見ていた。でも、失敗して貼りかえした事はなかったね。 絵の具は、一久薬局から買ってきた染め粉を、どんぶりに溶かして使っていた。黄、緑、赤などの三色位しかなかったので、混ぜて色を作っていたな。 普段から、本にいい図柄があると、その頁を折って重ねて置いたりしていた。一年中、頭から離れなかったんだべ。毎年同じ絵は描けないし、何年か前に描いた絵を描くと「昔あったっけね、と言われるから描けない」と言っていた。近所の白田孝一さんから絵の本を借りたりもしていたな。 絵柄は、弁慶とか武者絵とか時代物が多かった。わらじ履いている姿なんか上手だったね。義父の描いた絵は一枚も残っていない。提灯は破いて新しく描くものだからね。 稲穂に雀のような絵は簡単だから、子供たちに頼まれると「ささーっ」と描いてあげていた。祭りが近くなって、できたものをここに並べておくと、絵を見に近所の大人も子供も集まってくるものだった。子供たちは、自分の持つ田楽提灯にも描いてもらいたくて持ってくるけれど、いつも時間も絵の具もなくなってしまうから、ちゃんとは描けなかったね。赤い絵の具しかなくなって字だけ描いてあげた事もあったな。子供達は気にあわねがったべ。(笑)鞍馬天狗とか月光仮面みたいな絵は、若いお父さん達が子供達の田楽提灯に描いてあげたもんだった。 昭和42年に、72歳で亡くなる年まで描いていた。私が嫁に来た昭和25年には、すでに描いていて、若い時から頼まれていたと聞いたので、二、三十年は描いていたんだべな。 亡くなる年の風祭りの時に、獅子踊りの笛吹きをしていたけど、途中で「疲れてだめだ」って言って帰って来たんだ。そしてその年の10月に亡くなったんだ。 ■棺も作る器用な大工だった 義父は、大工をしていて、誰かが亡くなると頼まれて棺(がん)も作っていた。今と違って、背負うもので、真四角の箱に傘(屋根)を付けるものだった。紙を屋根のように貼ったもので、ただまっすぐでなく神輿の屋根のようにかっこ良く丸みをつけて貼っていた。立派なものは五分位(15mm)の巾に挽いた薄い木を細かい網代編みにして作っていた。 板を買ってくると寝ないで作っていたね。やっぱりこだわりがあって、忙しい時以外は人に任せられなかった。器用な人だっけね。金紙とか銀紙を小さく刻んで飾りを貼り付ける手伝いはさせてもらったな。 取材/平成25年7月18日 安藤竜二 菅井かつこさん 大正15年生まれ。大谷高木在住。 |
お話/渡邉勝美氏(大谷二)
■きっかけ もともとため池にメダカがいることは知っていたが、珍しいとは思わなかった。6,7年前に、噂を聞きつけた城北高校の辻徹先生がため池を訪れてくれて、珍しいとわかった。ある時、小さな鳥がたくさん来てメダカを食べているのを見た。その鳥が憎らしくて、メダカを守るために睡蓮を植えたんだ。そしたらどんどん増えて、メダカよりも睡蓮のほうが逆転して名物になってしまった…。 ■睡蓮と田んぼの花々 睡蓮は、6月20日頃から、6アールのため池一面に咲き始める。白とピンクのほかに黄色も遅れて咲く。8月いっぱい位までは咲いているね。田んぼの土手には、あやめをはじめ色んな花を植えている。睡蓮の花の最盛期はちょうどあやめと同じ時期なんだ。あやめの花が咲いているのが道路から見えるらしくて「咲き頃だな」とみんな見学に来る。遠くから来てくれる人もいる。アザミも7種類ある。珍しいピンクのアザミは、たった一輪咲いていたものから種をとって増やした。これまで何百人もの人に分けてあげたんだ。他にも菊やポピーも育てていて夏は忙しい。 今年はため池の漏水で心配している。代掻きの時に水を抜くと、なかなか溜まらなくなって、繁った睡蓮がばったばった倒れたままでかわいそうだ。ため池は明治時代に造られたものだから簡単には直せないんだ。 ■メダカの管理 新潟辺りまでうちのメダカを持っていったりする。同じ場所にいると、近親交配でいつかは絶滅してしまう。この間もよそから10匹くらい持ってきて放流した。「分けてもらいたい」っていう人がいるから水槽でも育てている。 冬は、氷が張ると空気がいかなくて窒息死するから、池の氷を割りに来るんだ。 ■生き物の天敵ウシガエル 20年くらい前、外来種の食用ガエル(ウシガエル)が爆発的に増えたもんだから、トノサマガエル、モリアオガエル、イモリ、ヤモリ、ゲンゴロウ、みんな食べられちゃっていなくなった。大切にしていた鉄魚(金魚の原種。尾が体と同じくらいの大きさでとても優雅。)もやられてしまった。メダカは割合速く泳ぐから、食べられる率は少ないんだと思う。いきなり外国から入って来たものだから、天敵といったら自分の仲間しかいない。「うかうか外国のものを持ってくるべきじゃない」ってことだな。雑草も野生の動物も、もう半分は外国産だね。 ■最近の生き物 別の池に、一昨年あたりから見たことのないトンボがいる。シオカラトンボみたいな大きさなんだけど生態が違うんだ。去年たくさん産卵していたから水を絶やさないようにしている。それからサンショウウオの卵。ウシガエルにやられてから、見たことがなかった。よく生きていた。今年はウシガエルがいなくなったんだなあと思うと少しよかったね。 (取材/平成23年4月 川邉冬希) →渡邉勝美氏 →大谷の睡蓮ため池 |
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No.1002 佐藤孝男氏(大谷獅子踊り保存会)2010.7 ※上記よりエコミュージアムノート完成版(A4・PDF)をダウンロードできます。のお話 〈復活した獅子踊り〉 父親もしていた大谷の獅子踊りを、私が始めたのは獅子踊りが復活した昭和47年。今年で39年目になる。 昔から続いていた獅子踊りは、昭和37年頃に若者がいなくなって途絶えてしまっていた。だけど、地元の若い衆で話し合って「やっぱり、何とか昔からある伝統を守ろう!復活させよう!」ということになった。当時連合区長を務めていた鈴木幸次郎さんにお願いに行き、念願が叶って、翌年に「大谷獅子踊保存会」が発足した。そうして10年ぶりに獅子踊りを復活させることができた。それから再び風祭りに参加するようになり、現在まで続けてきた。 私は大谷の浦小路(第4区)で育ち、中学を卒業してから宮宿の志藤看板塗装店に住み込みで5年働き、その後宮宿に婿にきたが、獅子踊りにはそのまま参加し現在も頑張っている。 〈練習〉 獅子踊りは「笛吹く人」「太鼓たたく人」「踊る人」の三つの役割りがある。 練習はみんなで音を合わせて、踊りも一緒に合わせて、通しての練習を何度も繰り返している。 私もレコード、テープを聞きながら、見様見まねで練習した。最初は太鼓担当だったが、笛吹く人がいなくなって、途中で笛をするようになった。元々楽器なんてなかったし、したことがなかったから、全体の音とリズムを感覚で覚えてやっている。元々太鼓を担当していたおかげで、笛のリズムは取りやすかった。 しかし、獅子踊りで使う笛は穴が7つもあって、音を出すのがなかなか難しい。未だにその時その時で、上手に吹ける時と調子悪い時とある。水に浸けて吹くといい音が出るんだ。 練習が終わると、「明日も頑張ろう」という事でちょっとした酒飲みが始まる。お酒が入ると、今年のお祭りの話に花が咲いて、だんだん楽しみになってくる。そして頑張ろうという活力になる。 〈後継者の心配〉 31歳になる息子も5年前から一緒に獅子踊りを盛り上げてくれている。親子で笛を担当している。 大谷獅子踊り保存会は、20代半ばの若者から60代半ばの年輩者までいるが、近頃は若い人も参加してくれるようになって嬉しい。でも、年輩の人が多いという事は、これから引退する人も多くなるということ。若い人が少ない現状で、これからも獅子踊りを続けていけるかどうかが、正直心配なところだな。 〈祭りの様子〉 風祭りは台風など風災害を鎮め、豊作を祈る祭り。出店もあり花火も上がり毎年大賑わいする。行列は、その大賑わいの村中を2時間ぐらいかけて周り、各所でそれぞれの区の演し物を披露し盛り上げて回る。 笛を吹いている時はとにかく楽しい。毎年張り切って元気に吹いている。祭りが終わった後は、寂しさは残るね。でも、また来年もある。楽しみな祭りを盛り上げていく事を励みに、また頑張ろうという気持ちになるんだ。 取 材 / 佐藤留美(朝日町観光協会職員) 取材日 / 平成22年7月 写 真 / 堀敬太郎氏(大谷一) ※大谷獅子踊りは、 毎年8月15日の送り盆供養獅子舞(永林寺本堂前)、 8月31日風祭り(大谷地区一円)で披露されます。 →角田流大谷獅子踊 →大谷風神祭 |
大谷往来
倩、徒然の紛れに、村の風景書き続け候わん。そもそも、大谷村東西南北山続き谷深うして、其の景殊に盛んなり。 先ず東に古館あり。清々たる最上川の流れ、前に当り帆懸船の往来を詠む。駒の頭に釣垂る人は水辺に居て竿の梢を見る。寔に(まこと)に用山の明神、粧坂の粧い眼下に相見え候。 後は愛宕山、山の頭に当り、草木の花帯び春の風に綻び落る風情は、秋後の雪の天に飛ぶかとうたがう。御伊勢原の雲雀霞の海に音あり、万世楽を囀る(さえずる)。日光山の鴉(からす)あやふきを告げ松椙に舎る。 南はかん嵯の鍵蕨寸尺延びて蛍に壱夜の宿を借す。面白岩に愛宕山、老若の男女袖を烈ねて参詣す。狐塚の百合草の花は小首を曲げて色を争う。間木山の残月梢の花清に入る。 西に当り社あり、大沼山と号す。其の景勝地森々たり、二十丈の松の枝、空吹く風のその音は颯々たり、琴の調べに耳を峙だて沼の浮島は形勢を揃え水浪に遊ぶ。 瀧の沢の兎子は、嶮岨の山腰を走り飯森山に居す。大暮山の在家夕陽の煙立って高山に登る。初木山の猿猴は杣人の往来を呼ぶ。 北に社あり、北野天神と号す。峯を登れば谷地山なり、岬伝いに所々に雪降り鹿の子斑に村消え、霞の内の松が枝茂蒼たり。後は、中丸、模様見田、狢森、前は田面打ち続き、西の溜井に鷺立ち、寺山の狼は鵜食沢の落馬を覘う。 (入力中) |
『大谷往来』は、今からちょうど303年前に作られたもので、作者が彦七となっています。残念ながら、この彦七については一切分かっておりません。資料も見つかっておりません。
しかし、この文章を見ると、的確に確実に順序よく書いてあるのが分かります。しかも、風景など見事に表現されています。こうした地元のことをよく知っているという観点からすれば、彦七は大谷に生まれ育った人ではないかと考えています。嘘を書いていません。 300年経った今ですら『大谷往来』の随所に、元禄の頃と変わりない情景が見られます。例えば「駒の頭の釣り人」ですが、今でも、その駒の頭で釣り人を見かけます。鯉の釣れる名所になっています。それから、文章の後ろの名所のところに出てきます「猿田山のツツジ」。全部で16の名所や名物が出ていますが、その猿田山のツツジは今でも大分残っています。また、「大清水のマタタビ」。大谷のはずれの大谷川沿いになりますが、夏に行くと葉が白くなって、大きな木々にたくさん絡んでいます。これも三百年たった今でも変わりがありません。時代を超えた自然の素晴らしさを改めて感じています。 お話 掘 敬太郎さん(大谷一) 平成9年12月「大谷往来シンポジウム」にて ※写真中央が「駒の頭」(秋葉山山頂より) |
私は明治三十七年生まれで、ずっと大谷で百姓をしてきたが、養蚕なんかもしていたこともある。 区長が終わってから、いろいろな歴史に興味を持って調べるようになったのだ。
〈『大谷往来』と原本について〉 『大谷往来』について初めて聞いたのは、堀敬太郎さんからだと思う。その昔は、長岡久蔵さんの空読みなんかも聞いたような気もする。 興味を持って原本なんかも見せてもらったが、和田さんのと久蔵さんのは同じだったが南蔵院さんのは少し違っていたので、和田さんのが原本だと思った。 南蔵院さんのは十丈の松だったが、十丈の松だったらどこにでもある。だから、二十丈の松の方が正しいと思ったな。 〈「彦七」について〉 左沢の白田佐院長は、白田内記家の出身で、白田家のことを詳しく調べて本を出したのだ。この本なんかを見せてもらい、いろいろと考えて、堀さんなんかとも話して、彦七は風和じゃないかと書いたんだ。 あの時代に、これだけの文章を書くのは、白田風和(秀勝)以外にはいないと思う。 〈私の記録帳に残っている〉 俳句なんか好きで、気がついたら帳面なんかに書いている。歴史のことも好きで昭和六十二年から書いている。この中に何回か『大谷往来』について書いたが、平成二年には「作者彦七を探る」というのを五ページにわたって書いている。 お話 大谷国勝さん 平成9年12月 元禄のエコミュージアム・大谷往来シンポジウムにて |
〈慶応生まれのばあさんも話していた〉
私は、大正十一年生まれで、『大谷往来』を覚えようと思ったのは、昭和三十六、七年頃だ。小学生の頃、俺のばあさん(慶応生まれ)が「かんかけのかぎわらび」なんて言っているのを聞いた事がある。でもばあさんは大谷生まれでないので、こっちに来て覚えてのだろう。 〈久蔵さんのを聞いて覚えようと思った〉 長岡久蔵さんが亡くなったのは昭和三十八年だから、その前に何度か久蔵さんから聞いて、俺の家にも原本があったので、それにカナふって覚えたんだな。 久蔵さん(明治十六年生まれ)がどうして覚えたのか知らないが、確かに節があった。かなり強い節をつけて語った浪曲みたいな節だった。藁仕事をしながら、語った何人かの人が聞いて覚えているのだと思う。 いつ頃から久蔵さんが語ったのかは知らないが、俺の家では何回か聞いた。 〈時々語ったが、あまり興味がないようだった〉 俺の家に何故原本があったかは分からないが、残っていたのだ。同じように百姓の道具のことを書いた本も残っている。 カナをふってから頑張って覚えた。だから、語ったりしたのは昭和三十六、七年以降だ。長寿クラブの総会なんかでも酒が入ると語ったが、そう多かったことはないと思う。でも、誰も興味がなかったようだ。 昭和四十年代、朝日ヌルマタ沢に木の伐採に行っていたので、その製材所で酒が入ると語ったりもした。でも、興味を持ってくれたのは、白田正蔵さん、鈴木幸次郎さんなどほんの少しの人だった。 〈この文章は覚えないと駄目だ〉 昭和四十八年に大谷小百周年で展示してから、たまに原本を借りにくる人がいた。でも、借りに来て写すだけじゃ駄目だ。覚えなくては駄目だと言った。この文章は、覚えるのに良い文章だ。文句も良いし、五七調だし、本当に美しい文章だ。文章が良かったので覚えたのだろうな。 この文章を読んでいるときは、作者彦七はきっと大谷のこの辺に座って作ったのだ。あの辺から見て詠んだのだと考えて読んでいる。すべての場所には行ったことはないが、大谷のことはよく知っているので、この文章の風景が目に浮かぶようによく分かる。 〈少し違うところもある〉 私の覚えているのと、今の解釈と違うところもある。解釈はいろいろあるし、原本もいくつかあるので何とも言えないが、最後のところは、作者は大谷を回って帰ってきて、家に着いて考えてみると、すべてのことが夢のようだと言ってるのではないだろうか。 でもとにかく、こんな機会によって『大谷往来』が、多くの人に知ってもらったのは嬉しい。もう少し若かったら、もっと正確に語ることができたのだが、今は少し不自由で満足のいく語りができなかった。 昔、堀さんと、この『大谷往来』の文章をもっと多くの人に知ってもらいたいと話し合ったことがあるが、今実現して嬉しい。 お話 和田新五郎さん(大谷浦小路) ※平成9年(1997)大谷往来シンポジウムにて |
〈郵便局たよりに載せた〉
若い頃から、歴史や地理に興味があったが、特別な勉強をしたことはなかった。 初めて『大谷往来』を知ったのは、昭和三十五年頃に大谷小の沖津先生が出した『私たちの村』という冊子に載っていたのを見たのが最初だと思う。 昭和五十年前後から、いろいろな原本を見てそれぞれに違うところがあるので、これは何とかしなければならないと考えて勉強した。 初めて皆さんに紹介したのは、昭和六十年頃に大谷郵便局の『郵便局だより』というものに、何か村の情報でも載せようと『大谷往来』のことを書いたんだ。 〈『大谷往来』の写真を同級会に見せようとして〉 昭和四十年頃から写真を撮っていた。北部地区の風景や神社仏閣を全部撮り、同級会でみんなが集まったときに見せようと思った。 昭和六十年頃からは、『大谷往来』の風景をすべて写真で撮ってやろうと思って、大谷のいろいろ名物や風景を撮り始めた。でも、今になっても撮れないものがある。「間木山の残月」「大沼の浮島」など、なかなかうまく撮れない。でも、秋葉山からの景色など、江戸時代と今でも全く一緒だと思う。 〈『大谷往来』を読む〉 『大谷往来』にはいくつか原本があるので、どれが一体本当かというので、各々の文章を集めてとこが違うか調べてみた。 特に鈴木勲先生からは、二冬にわたって文書の解読を北部公民館の行事として教えていただいた。 「落馬をねらう」が「落ち葉をぬらう」になっていたり、「面白岩」が「西白岩」、「北野天神」が「小野天神」になっていたり、いろいろと細かいところで違っていた。「二十丈の松」と「十丈の松」なんかも違うとこだった。 〈『大谷往来』の地名は現存するのか〉 この文章は、だいたい現在も当てはまる。三百年前の風景と今の風景はまったく同じではないが、ほとんど現在に当てはまるものだ。今でもはっきりと場所が分からないのは「狢森」「桐ヶ窪」くらいで、ほかはほとんど分かっている。 「大江の鰌」でも、こんな大きな川があったのかと疑っていたが、古い字限図には本当に大きな川があったようだ。「西堤の鮒」も当時西堤があったのか調べたら、千六百三十年頃には西堤ができていたという記録があった。 〈「彦七」と「風和」について〉 大谷は、白田外記内記と共に栄えてきたのだと思う。「白田」なんて、言葉の意味からいえば「水が無く乾いている土地」ということだから、そこに菅原道真を先祖とする人々がやってきて、いろいろな京風の文化を栄えさせたのだと思う。だから、村の中もT字の道が多かったり、神社仏閣が多いのだろう。 この『大谷往来』の文章をみると、この地方にほんの少し滞在したくらいでは書けないほど情報も多い。だからきっと作者彦七は「風和」じゃないかと思う。証拠がないので何とか探してみたいと思う。でも、彦七だけではなんとしようもない。 〈「風和会」について〉 郷土史講座を北部公民館で長くしてきたので、それを受けて民間の郷土史学習団体「風和会」を作った。自由に北部の歴史を考えたり、『大谷往来』だけでなく、いろいろな古いものを記録に残しておきたいと思っている。 今、大谷は基盤整備でいろいろなものがなくなってしまうかもしれないので、今のうちに見ておきたいと思っている。 写真に撮れるものは撮らないと、特に水に関することはすぐ変わってしまう。ほんの少し前は、「桜清水」「大清水」「香ヶ清水」なんかも良い水が出ていたが、もうすぐ分からなくなってしまうだろう。 「白田」というひどい状態だったところに、水を引っ張って田を開田して生きてきた先祖の苦労を少しでも知るために、いろいろと調べたいと思う。 〈『大谷往来』を永遠に残したい〉 まだまだ、『大谷往来』の文章については調べたい。初木山も間木山も歩いてみたいと思う。三百年も続いてきた文章とその景色が今無くなってしまうのは、本当にもったいない。 もっともっと『大谷往来』を勉強して、多くの人に知ってもらい、これから五十年も百年も先の人に残したい。それには、資料にしたり、本にしたりして残す必要がある。 こんなことが何の役に立つか分からないが『大谷往来』の文章が三百年経って、これだけ多くの人々を引きつけたのだから、またここで大切にすれば、何十年かは残るだろう。 お話 掘 敬太郎さん(大谷立小路) 平成9年(1997)大谷往来シンポジウムにて ※写真は秋葉山頂の秋葉山神社碑と『大谷往来』の説明板 |
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大谷風神祭の特異性 〜あの賑わいはどこからくるのか〜
菊地 和博氏(東北文教大学短期大学部総合文化学科長・教授)
■はじめに
子供が小学五、六年生の頃、夏休みの社会科の自由研究で白山神社と永林寺にお邪魔したことがありました。そこで何を一緒に調べたかといいますと、私の住んでいる東根市の若宮八幡神社神主三浦蔵人(みうらくらんど)と大谷の白山神社宮司の白田外記(しらたげき)が、永林寺に一緒に眠っていることでした。幕末にこの二人は組んで、薩長、薩摩・長州の官軍に対抗しようとして兵を上げたのですが、途中の寒河江川臥龍(がりゅう)橋あたりの川原で首切られるんですよね。
それから、私はシシ踊りを全国的に調査しており、大谷の獅子踊りのみなさんにも大変お世話になっております。シシ踊りは、静岡県の真ん中あたりの掛川市にわずか一団体あるだけで、だいたいは神奈川県以北の東日本にしかない民俗芸能なんです。
こちらでは、十五日の送り盆の時に境内で踊られますが、今となっては珍しいことです。東北地方では、ほとんどそういう風習はなくなってしまいました。現在は神社のお祭りなどで踊られていますが、本来は東北地方のシシ踊りは亡くなった方に対するお盆の鎮魂供養の踊りなんです。
さて、大谷の風神祭は十数年前にはじめて訪れて素晴らしいなと思ってから、二、三度友人たちと来ています。ここに『山形県の祭り・行事調査報告書』というものがありますが、私は村山地域を担当しました。調査執筆委員が、これは特に取り上げたほうがいい祭りだな、と思うものを掲載する方針だったのですが、その一つに大谷の風神祭を選ばせていただきました。
このようなことで、私は大谷にずっと親しみを感じています。今日はこのようなかたちでお招きいただくとは夢にも思っていなかったので、とても嬉しいです。
■風神祭のはじまり
大谷の風神祭の由来・伝承を改めて確認しますと、白山神社の行事と
して宝暦年間(一七五一〜一七六四)に始まっていることが一つ大きなポイントです。宝暦五年は「宝五(ほうご)の飢饉」と言って、特に東北地方に大飢饉が起こった年です。この風神祭は、豊作祈願を祈る切実な気持ちで始められたということが見えてきます。神社とその集落の人々の暮らしと一緒になって作られてきた祭りなのだというふうに思います。
さて、打ち上げ花火が明治以降加わっているということですが、どういう理由で始まったのかをご存知の方はあとで教えていただきたいんです。
実は、全国の先がけでもある隅田川の花火は、江戸時代に飢饉で食べ物が無くて死んだ餓死者と、さらに、餓死する前に栄養失調になって体が弱り、疫病が蔓延して死ぬ疫死者の供養として花火を打ち上げられているのです。新潟県の長岡の花火大会は、戦死者を供養するねらいで始まりました。二年前の東日本大震災の夏もやはり供養の花火という意味で沿岸沿いで打ち上げられました。「三陸海の盆」と称して、花火を打ち上げて、弔いの芸能のシシ踊りや鬼剣舞などを踊りました。
風神祭で田楽ちょうちんを持ち歩いていることや、供養の踊りである大谷獅子踊りが加わっているということなどは、やはり宝暦の餓死者などの供養という意味で加わった可能性もあると思います。
■盛り砂
神輿が通る道筋に、大きな道路から細い路地、そして家の前まで点々と二、三十cmぐらいの間隔で「盛り砂」がまかれています。これは神の通る通り道を示しているんだろうと思います。これほど丁寧にやっている所というのはなかなかないです。祭りのとても素敵な風景ですね。
この盛り砂というのは、古い時代に儀式や貴人、尊い人を出迎えるとき、車寄せの左右に高く盛る砂のことを言います。また、御所車みたいな牛車に位の高い人が乗って到着した家、その前の左右にも三角型に砂を盛るんですね。場合によっては、盛り砂の一番上に神社にある御幣を立てます。それから、お祭りで御神輿が一泊する場所の御旅所(おたびしょ)にも、ここに神がいらっしゃるということを示すために盛り砂をします。
ですから、大谷の盛り砂はそれぐらい神様を尊くお迎えする神祭りだということを示しているのだと思うのです。私は、今まで見たことがなかったものですから最初に見た時はびっくりしました。これはとてもいい習慣だと思いますのでぜひ続けてください。
■参加型の祭り
さて、資料の「大谷風神祭の特異性」というタイトルに「あの賑わいはどこからくるのか」と、あえてサブタイトルに付けさせていただきました。小規模な集落なのに、あれぐらい多くの、しかも若い小・中・高生たちが集まるっていうのが、私にとっては疑問だったのです。そこに何かカラクリがあるんだろうかと思うほどでした。
ひとつはっきり言えることは、地区民参加型ということ。地区民が主役である参加型の祭りって意外とないんですよ。どうしても集客力アップのために、よそから歌手や漫才師などの有名人や演技者を招いて主役として組み立てることが多くなっていますが、こちらはまさに地元の人を資源として大事にし、それを基本として企画立案されています。ここがなんといっても素晴らしいことであり、祭りが盛り上がる要因になっていると思います。
■屋台(山車)
具体的に言いますと、一つに屋台の寸劇・出し物が見事です。舞台から解き放たれた、路上でパフォーマンスをやっておられます。区によって出し物がかち合わないように、またバラエティーに富むよう棲み分けをしておられる。
ここに飾っていらっしゃる大きな絵は、今年の屋台で使った人気ドラマ「水戸黄門」のバックに使った図柄ですよね。「西遊記」もやっていました。以前はNHK大河ドラマの「利家とまつ」や昔話の「花咲か爺」や「桃太郎」をおやりになっていた記憶もあります。民話・昔話などの題材はとてもいいですよね。日本人の心みたいなものを、このお祭りの賑わいの中で、それとなく、あまり説教調でなく伝えている。芝居って非常にいいですよね。
そうかと思えば、いきなりの現代もの「ぱみゅぱみゅ」とか、昨年はダンスチームもあって、今流行の踊りや芸能を取り入れてやっておられる。古いものだけでなく、新しいのも一緒にやることによって若者も参加しやすい。そういう意味で大変成功している例ですね。路上でやるっていうのが、見る者・演じる者が一体化しやすくいいですよね。
■田楽提灯(でんがくちょうちん)
子供たちの参加ということで、各自が持って行列する田楽提灯。祭りの中に、参加の時間と空間がちゃんと保障されているのですよね。みんなで祭りを盛り上げるんだという思いを、子供の頃から体験させている。提灯も出来合いのものを買ってくるわけじゃなくて、手づくりということがまたいい。そして、近代的な灯りではないロウソクが中でボーっと灯って、まだ真っ暗ではない夜の帳(とばり)が降りる頃に、たくさんの提灯がスタートする。中々いい光景が見られます。
この田楽提灯のパレードというのは、実は私の東根市でも「動く七夕提灯行列」ということで毎年八月十日の夜にやっています。戦前からあり、以前は子供の集団の先頭に音楽隊が付いていました。私も小さい時に参加したんです。音楽隊のうち小太鼓をさせていただいたり、それから田楽提灯に自分の好きな絵を描いて、友達と持って歩きました。
最初にこちらにお邪魔した時、同じものがあるということでびっくりしました。向こうが七夕提灯行列、こちらは風神祭の提灯行列なんですよね。
これと同じのは秋田に割りと多いんですよ。秋田県上小阿仁村の「ネブ流し」。やっぱり七夕の提灯行列です。それと、岩城町の「刻(とき)参り」は、主に将棋の駒みたいな形ですね。でもこれらがどこで繋がっているのかどうか、その背景や理由を明らかにするのはちょっと難しいですね。
近年、なかなか子供が少なくなり大変な側面があるかと思いますが、ぜひ続けていただければなと思います。
■角田流獅子踊り
大谷獅子踊りが風神祭に加わっているというのも特徴の一つですね。
ここの獅子踊りの伝来は宮城県の角田市から伝承されたとされますが、角田市には今現在獅子踊りはないんですよね。かつてあったことも、もちろん考えられるんですが、角田流っていう名前が、どこからそうなったのかがいま一つ分からないのです。
今後の手がかりとしてシシの頭数があります。大谷の獅子踊りは三頭のシシ踊りですよね。あと、八ツ沼獅子踊りもそうです。でも、三頭というのは山形県では置賜だけなんです。村山・最上・庄内は、最低でも五頭です。それからあと七、八、というふうに多くなっていきます。東北のシシ踊りは頭数が多いです。関東のシシ踊りが三頭なんです。不思議なことに、この三と五と七とかっていうシシの頭数は、同じ市町村内や地区内でごちゃごちゃあるっていうことは絶対にないんですね。不思議なほど一定のエリアで棲み分けが出来ているんです。これは、東日本全域見てもそうなんです。この頭数からシシ踊りの根拠というか伝播されたかっていうことがある程度分かってくるんです。このことから、大谷獅子踊りは、村山地方南部でありながら置賜圏域に属するものだということがわかります。
これを考えるのにもう一つヒントがあるのが暴れ獅子です。
■獅子神楽
あばれ獅子は、村山地域と置賜地域との文化的融合性を感じさせるものです。あばれ獅子のあの姿ですが、何人か中と外に複数で幕を支えています。そして時折元気につっこみますね。そして地面を這うように頭(かしら)を動かす。なかなか見事で凄い芸だと思います。あの踊り方は、やはり置賜なんです。置賜は“黒獅子”とか“ムカデ獅子”というのですが、黒獅子と呼ぶのはカシラが黒いからなんです。 大谷のは赤いカシラですよね。これは見慣れた「唐獅子系」なんです。ところが置賜の黒は「蛇頭(じゃがしら)系」と言って、蛇とか龍とかを意味しカシラが平べったい。大谷のは少しカシラが立ってる。置賜はムカデ獅子であり幕の中に二十人くらい入るんです。南陽の熊野大社のシシ(「獅子冠」といいます)は、大谷みたいに脇からひっぱってますね。中にも入ってる人いますけど、さらに外にも出ている。
以上、シシが三頭であることやムカデ系獅子舞ということから、大谷は村山地域と置賜地域の境界にあたっていることもあって、双方の文化的要素が溶け合ったということが考えられる。
■望まれる参加型の祭り
私が住んでいる東根市の若宮八幡神社にも「風祭り」があるんです。今は八月最後の日曜日にやっているんですけど、私が小さいころは盛大な祭りだったんです。この祭りでは「若宮八幡神社太々神楽」という神楽が、毎年境内の舞台で演じられています。江戸時代から続く素晴らしい芸能です。そのほかに子供の相撲大会、これも少なくなったけれど今もやっています。それから剣道大会、柔道大会には、近隣から境内が溢れるほど大人や子供がやってきたんです。そして出店もこちらと同じくらい並びました。大谷が四十店近く出るというのは凄いことです。八幡神社では今ではもう少なくなって三つか四つくらい、まったく寂しくなりました。
私はその神社の四軒下った場所にある家に育ったので、小さい頃の賑わいをはっきり覚えています。境内で相撲してみたり野球してみたり、神社とともに育ったみたいです。そのお祭りは楽しくて心待ちにしていました。学校は半分休みで、相撲大会に出るため授業は午後から終わり。昔の学校って地域と一体で、お祭りがあるとお休みだったんですけどね。今は、そういうのがないのは残念です。
大谷ではずっと江戸期以来の賑わいを保ち、参加型が続けられていますが、これとは正反対に東根の若宮八幡神社の風祭りでは地元参加型がほんとに少ないんですよ。
こちらの風神祭は子供や大人ともに七区あげて参加する。屋台、出し物それぞれ工夫を凝らしてやる。その練習も辛いだろうけども楽しい。参加するための練習を公民館で一生懸命やって、そこで人間関係が作られる。祭りの時の披露だけでなくて、子供も大人も準備の段階がとっても大事なわけですよ。私は、まざまざとその比較ができますので、こちらの賑わいが羨ましくてしょうがない。やっぱり若宮八幡神社の風祭りが賑わいを取り戻すためには、地域住民が参加してみずから楽しむ企画内容を工夫しなきゃ駄目だと思いますね。ただ来て下さいだけではなく、その祭りを見る人も一緒に楽しむという、そういう空間・場をつくらないといけないだろうと思います。
■神なき祭りと神々の祭り
最後になりますが、現代の祭りは、あんまり祈り・願いなんて考えない「神なき祭り」が増えている。つまり、祈りを捧げる神様などはあまり意識しない「よさこいソーラン」なんてやっていらっしゃる場合が多い。それに対してこちらの祭りは、伝統の祭り、神々の祭りなんです。白山神社の神に対する、あるいは風の神に対する切実な祈りと願いですね。それらが中心として成り立っている祭りなのです。
そういう意味で、私たちは自然に対する畏れや祈りを取り戻す必要があると思いますね。あの大震災を経験して自然の威力を感じ、やっぱり私たち人間のやれる範囲っていうのは限られていることが分かりました。科学技術も大事だけれども、やっぱり風の神、山の神、田の神、川の神、海の神とか、そういう自然の神々への祈り・願い、畏れ敬う気持ち、つまり信仰心を持ち続ける。傲慢な気持ちを排除して敬虔な気持ちになって、自然と折れ合いながらささやかな幸せを求めていかなければならないと思います。
風神祭というのは、風の神に対して五穀豊穣、悪疫退散、身体堅固、地域社会の平穏な生活の保証を切実に祈り、願いを託する。近代社会になって合理的な世の中になっても、こういう心を大事にすることによってそこに暮らす人々の絆が深まり、集落にまとまりが出来ていく。それが、小さくてもキラリと光る大谷をつくりあげているんだと思っています。ぜひ住民参加型を大事にしてこの祭りを続けていってください。
菊地 和博(きくち かずひろ)氏
昭和24年(1949)生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。文学博士(東北大学)。県立高校教員、県立博物館学芸員などを経て現職(東北文教大学短期大学部総合文化学科長・教授)。専門分野は民俗学・民俗芸能論。主な著書は『シシ踊り 鎮魂供養の民俗』(岩田書院)『庶民信仰と伝承芸能』(岩田書院) 『やまがた民俗文化伝承誌』(東北出版企画)『山形民俗文化論集1 やまがたと最上川文化』(東北出版企画)『手漉き和紙の里やまがた』(東方出版企画)など。」
→大谷風神祭
→小径第15集『大谷風神祭』