朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
おかげさまで、歴史見学会【朝日町の実方伝説を訪ねる!9/6】は、30人の参加で盛会となりました。県内はもとより東京、埼玉、福島、宮城など半数は県外からのご参加でした。大沼の浮島もたくさん動いて見せてくれました。天気にも恵まれ楽しく学びの時間を過ごせました。
シェアや口コミなど宣伝下さった皆様、心からありがとうございました🙏😊 |
{PDF} ダウンロード 1.2MB_Adobe PDF
見学会「朝日町の実方伝説を訪ねる」 〜なぜ大沼は怒って大波となったのか!?〜 『千歳山萬松寺誌』には、歌枕「あこやの松」を探していた藤原実方が浮島の大沼を訪れ二つの和歌を詠んだことが記されています。その際に、奇怪な現象が起こっていました。一つ目の歌を詠んだ時に大沼の水は松の枝にかかるほどの大波となり、島々は東西南北に奇異な動きをし、二つ目の歌を詠むと波は静かになり、和歌の力で鬼神を鎮めたとしているのです。(下記参照)いったい何が起こったのでしょう? そこで、大沼の浮島や萬松寺を訪ね、これをどう読み解くかを検証する見学会を開きます。 日 時 9月6日(日)9時半〜 参加協力費 各回500円 定 員 各回20人 ■午前の部 9時半〜11時半 講師 最上俊一郎氏(浮嶋稲荷神社宮司) 浮島や波揚げの松の切り株を見学し、最上氏より「浮島に魅了された実方ら有名文人たち」について お話をいただきます。 ※集合は創遊館エコルーム前9時20分。バスで移動します。 ■午後の部 14時〜16時 講師 平清水公宣氏(千歳山萬松寺住職) 実方の墓に参拝し、平清水氏より「萬松寺と実方について」お話をいただき、最後に「なぜ大沼は大波となったのか」について皆様からも考えを求めます。 ※バス利用の方は創遊館エコルーム発13時。 ●どちらかだけの参加も歓迎いたします。 道先案内 安藤竜二(朝日町エコミュージアムガイド) お申込み 朝日町エコミュージアム案内人の会 電話0237-67-2128 → お申し込みフォーム 主 催 朝日町エコミュージアム案内人の会 ●チラシはこちらからダウンロードできます。 ■藤原実方について 光源氏のモデルといわれ、清少納言の恋人とされる歌人藤原実方朝臣は正暦5年(994年)に左近衛中将に叙任された。しかし、翌長徳元年(995年)正月に突然陸奥守に左遷されている。この理由として、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨ててしまい、天皇の怒りを買い「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話がある。長徳4年12月(999年1月)任国で実方が馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した。名取市愛島と千歳山万松寺に墓がある。没時の年齢は40歳ほどだったという。 ■『萬松寺誌』の一節(抜粋) 板谷路越えて米澤も後へに見れば、程もなく、大沼といへるにかかり給ふに、こはそも如何に、天の成せる勝地とはいへ、周り一里もあらむかと思はるる清水の漫々と湛へたる沼ありて、風のまにまに、往き交う嶋の面白く、数ふともなく数ふれば大小合わせて六十六嶋あり、風なきも岸を離れ、浪なきも岸を離れ、浪なきも游泳せる様、此の世のものとも思ほえず、恰も物のありて嶋を弄ぶが如く、小松、躑躅も藤波も、色を爭ひ、穂に出ぬ尾花も打ち雑れるに、興がらせ給ひ、 よしやそも 名こそ深山の奥なれや 花にはもれぬ 雲の上かな と一首を遊ばしたるに、俄に水の沸き溢れて、天に漲るかと思はれ、数多の嶋々東西南北へと意に任せて其の状、織るが如く編むが如きに奇異の思ひをなしつつ、 四方の海 波静かなるしるしにや 己と浮きて めくる嶋かな と又も一首を詠じ給ふに、さしもに恐ろしかりつる沼水の、見る間に収まりて鏡の面よりも滑らかなり、其の折り怒れる波の溢れて松の枝にかかり、根を洗ひたれば時人「波揚げの松」とて今の世迄も語り傳へぬ。實に「和歌は目に見えぬ鬼神をも感ぜしめし例しにや。 ■千歳山萬松寺について (萬松寺由来より) 当山は阿古耶姫(中興藤原実方朝臣)の開基で、行基菩薩(法相宗)の開山、慈覚大師(天台宗)の開創でありますが、今は禅宗です。曹洞禅は道元禅師さまが我が国に伝え規範を正され、四祖の瑩山禅師さまが教示し広められたものです。瑩山さまの孫弟子(岩手県正法寺のお弟子)である「清岩良浄」さまが萬松寺を復興開山されたものであります。 (萬松寺案内板より抜粋) 千歳山萬松寺は今より1300年前に阿古耶姫が開基したといわれている。姫の父は藤原鎌足公の曽孫藤原豊充卿で、朝廷の命により陸奥に下って役命を務めておった。姫はこの地にきて生涯を終え、この萬松寺に葬られた(千歳山の山名はここに由来する)。 しばらくは近隣に住む衆の素朴な信仰の寺として存在していたが、幾年かの後に法相宗の行基菩薩が来錫し開山した。その後、天台宗の慈覚大師が来山し寺を開創した。後に禅宗の瑩山禅師の法孫が岩手の正法寺を開き、その正法寺三世清厳良浄禅師が曹洞宗萬松寺を開山した。 阿古耶姫と千歳山の松の精、名取太郎との悲恋物語と、歌枕としての阿古耶の松は、平家物語・今昔物語・古事談に記載され、名勝古跡として、あまりにも有名である。 → あこや姫について ■大沼を訪れた文人たち 大沼には多くの文人が訪れている。寒河江市柴橋の落裳観音には、小野小町が大沼に浮島を見に訪れたことが伝えられており、長徳元年(995)に藤原実方が二首の歌を残し、橘南谿(1754〜1805)は『東遊記』に紹介し全国に知られることとなった。湖畔の芭蕉句碑は享保から天明年間(1716〜88)に地方俳人として活躍し中央にも名の聞こえた鸞窓(大沼大行院43代)が建立したもの。またすぐ近くには、訪ねた記念に建てた大正14年(1925)の花の本聴秋の石碑や昭和10年(1935)の福田古道人の句碑もある。夭折の詩人海野秋芳も『北の村落』で大沼の詩を書いている。 ■関連ページ → 大沼に訪れた陸奥守 藤原実方 → 大沼の浮島について |
長井市に伝わる弁慶の供養塔「塔様」で鎮魂祭が行われました。長井市には弁慶の血が流れている人たちがたくさんいらっしゃるのです!?(写真をクリックすると大きくなります)
■塔様(とっつぁま) / 長井市成田 文治2年(1186年)の秋、羽黒詣りの七人の山伏が民家に宿を願い泊めて貰った。ところが、この一行の中の娘が急に病気になり、仕方なく娘をしばらく宿に泊めて貰うように頼んだところ、その家の人達は心良く引き受けてくれた。それから3年後、義経が主従ともども討死したことがこの地方まで伝わった。これを聞いたかの娘は家の主人に「あの山伏一行は義経主従であって、その中で背の高いヒゲをはやした人が武蔵坊弁慶という者で、私は弁慶の娘」と打ち明けた。その証拠として、日の丸の軍扇を出し、これは弁慶が義経の家来になった時に貰ったもので、父がここを出発するとき形見に渡されたものであると話した。これを聞いたその家の人々は大いに驚き、今まで以上に娘を大切にした。後に娘は、この家の息子の嫁となって子孫大いに栄えたといわれる。その家は現在の鈴木平左衛門家の先祖。この娘夫婦が、亡くなった父弁慶の霊を弔うために供養塔を建て、大法要を行ったといわれている。 → 「朝日町の義経伝説を訪ねる」ご報告 ■義経宿泊所 / 長井市 森 長井市には、義経一行が2ヶ所に別れて宿泊した伝説が残っている。長井市森の小口家と成田の鈴木家。龍神が祀られている小口家の裏山から、弁慶たちの宿泊する川向いの鈴木家を遠望したと伝わっている。ここには「塔の上の石塔」と呼ばれる三段に重ねられた石の塔があり、石塔の下には鎧(よろい)が埋められているともいわれている。ここから成田の塔様と一直線に川原沢の黒附土壇があり山岳信仰とのつながりかともいわれている。すぐ近くには最上三十三観音の一つ「森観音」がある。 |
{PDF} ダウンロード 264.5KB_Adobe PDF
各市町に残る義経伝説(ネットより抜粋) 内陸北上ルートを考えた時に、そのルート上に点々と散らばっていた義経伝説がすべてつながりました! 会津→米沢→長井→朝日→寒河江→河北→大石田→舟形→新庄→ ※写真は長井市の弁慶供養塔 ■弁慶の借用証書 / 会津若松市 源義経が源頼朝から京都を追われた“後の平泉落ち”の際に五郎兵衛飴を所望したとされ、その代金の借証文とされる武蔵坊弁慶自筆の賞状が五郎兵衛飴総本舗には代々伝えられている。この賞状には文治四年(1189年)午四月二日と記録されている。※文治四年は少し怪しいです ■皆鶴姫伝説 / 会津若松市 吉岡鬼一法眼という人が所有する兵法書をどうしても入手したかった義経。それが叶わなかったため鬼一法眼の養女 皆鶴姫と親しくなり、彼女を通して密かに秘伝の書を書き写しましたその時 帽子丸という子が生まれたと言われています。その後義経は、平家の動きを察知して奥州平泉に去っていき、それを嘆いた皆鶴姫は帽子丸を連れ腰元、従僕と共に義経の後を追い奥州に向かいました。そしてその途中 ここ会津で亡くなりました。途中、帽子丸が敵方に捕らえられ沼に投げ入れられて溺死。皆鶴姫も、ここ藤倉までたどり着きましたが我が身を嘆いて沼に身を投じました。18歳の短い人生でした。実はこの時義経は、偶然近くの町にいたそうです。皆鶴姫の話しを聞き、いてもたってもいられなくなりここ藤倉に駆けつけて彼女の菩提を弔ったそうです。 ■荒人神社 / 猪苗代町 猪苗代町渋谷地区にある荒人神社、現在は清神社と合祀されていますが、昔は独立していました。この神社には、源義経伝説が残っています。ここは、磐梯山の麓に位置し、米沢を経由して平泉に至る街道と信夫から仙台を経由して平泉に至る街道との分岐点の場所でした。そこで源頼朝の命を受け義経一行を捕らえる為、部下を引き連れて待ち伏せをしていたのが、渋谷荒人でした。しかし渋谷荒人は元々義経には同情を寄せており、また、武蔵坊弁慶とも親しい間柄でした。そこで渋谷荒人は、弁慶に一騎打ちを挑み、わざと打たれて義経一行を逃がしたと言うことです。後にその行為に感嘆した村人の手によって荒人神社として祀られたそうです。 ■正應山 常信庵 / 米沢市 入口に「源九郎判官義経公接待遺跡」の標柱が立っている。源義経が奥州藤原氏を頼りに逃亡する途中、この寺院に立ち寄ったとする。一行が鼠ヶ関(庄内)を避けて内陸に入り、羽前米沢に立ち寄り、自分の楯となって討死した忠臣、佐藤継信・忠信ゆかりのこの寺に立ち寄り、母の梅唇尼に兄弟を死なせてしまったことを詫びたという。そして「きゃらぼく」の木を植えて菩提を弔ったとされる。梅唇尼の名が記されたミイラも発見され万年塔を建て供養している。境内には、正信。継信、忠信親子を祀った三尊社がある。 『三尊社物語』(手塚貞蔵著・1982年)によると、義経一行は京都から福井県石川県富山県新潟県福島県の会津から桧原峠を越して米沢に入ったとある。米沢に着いた年月日は文治二年の秋だろうと推測している。また謡曲『接待』には一行は十二人としている。 ■塔様(とっつぁま) / 長井市成田 ※写真参照 文治2年(1186年)の秋、羽黒詣りの七人の山伏が民家に宿を願い泊めて貰った。ところが、この一行の中の娘が急に病気になり、仕方なく娘をしばらく宿に泊めて貰うように頼んだところ、その家の人達は心良く引き受けてくれた。それから3年後、義経が主従ともども討死したことがこの地方まで伝わった。これを聞いたかの娘は家の主人に「あの山伏一行は義経主従であって、その中で背の高いヒゲをはやした人が武蔵坊弁慶という者で、私は弁慶の娘」と打ち明けた。その証拠として、日の丸の軍扇を出し、これは弁慶が義経の家来になった時に貰ったもので、父がここを出発するとき形見に渡されたものであると話した。これを聞いたその家の人々は大いに驚き、今まで以上に娘を大切にした。後に娘は、この家の息子の嫁となって子孫大いに栄えたといわれる。その家は現在の鈴木平左衛門家の先祖。この娘夫婦が、亡くなった父弁慶の霊を弔うために供養塔を建て、大法要を行ったといわれている。 ■義経宿泊所 / 長井市 森 長井市には、義経一行が2ヶ所に別れて宿泊した伝説が残っている。長井市森の小口家と成田の鈴木家。龍神が祀られている小口家の裏山から、弁慶たちの宿泊する川向いの鈴木家を遠望したと伝わっている。ここには「塔の上の石塔」と呼ばれる三段に重ねられた石の塔があり、石塔の下には鎧(よろい)が埋められているともいわれている。ここから成田の塔様と一直線に川原沢の黒附土壇があり山岳信仰とのつながりかともいわれている。すぐ近くには最上三十三観音の一つ「森観音」がある。 ■子なし沢と弁慶の笈 / 朝日町八ツ沼・大沼 北の方が産気づいて弁慶大いに困った。ふと見ると道の傍に松の大木があり、その下にはきれいな水が流れていた。北の方はここで子を産んだ。その先の大沼には弁慶が修験道を伝ってきて大行院に泊まり、宿代の代わりに置いていったという伝説がある。扉の裏に凡字で、武蔵坊弁慶の「武蔵」と書いてある。 ■義経一行の休憩地 / 寒河江市田代 詳細不明だが、田代地区には義経一行が休憩した場所があると伝わっている。 ■三ツ川一橋 / 河北町北谷地 昔、法師川は三筋に分かれて流れていた。義経がここにさしかかった時、弁慶が大石を担ぎ三本に流れているところに落として橋を架けた。「三ツ川一橋」と呼ばれる由縁。その時担いだ石に弁慶の手の跡が残ったと言われており、「耕地整理記念碑」の台座になっているのがその石だと語りつがれている。 ■義経記とは違う伝承 / 舟形町 「義経記」では会津の津(本合海)から亀割山を越え平泉に向かったとされますが、舟形町ではそれとは異なる伝承が伝わっている。 ・猿羽根村近くで宿泊し、北の方が産着を絹で縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。 ・猿羽根村近くで宿泊し、義経一行の破れた着物を縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。 ・義経一行が獅子口で休憩した。・義経一行が川岸で穴(窪)を掘りそこに水を溜め汚れた手足を洗った。 ・獅子口の対岸にある熊野神社で、出羽三山に代参した弁慶と合流した。 ・実栗屋から毒沢へ笈を利用して渡ったので「笈渡」という地名の由来となりそれが転じて「折渡」となった。 ・上記の笈を乾かした松は「笈掛の松」と呼ばれるようになった。 ・一関集落には関所がある義経一行を厳しく詮議した。 ・義経一行は伊藤半平衛から粟3升借り、明治時代までその証文が残っていた。 ・義経一行は舟形から大平、稲先(ウサギシッタイ)、市野々、休場、亀割山へと向かっていった。 ・舟形から北に進路をとり夜道を進み明け方となり一番鶏が鳴いたので鳥越(新庄市)と呼ぶようになった。 ・弁慶は道を間違えて次年子に行ってしまい、義経は実栗屋熊野神社で待っていて再会できた。次年子の寺には、このとき、弁慶が農家から栗を借りたという借用証文が残っているということである。 「朝日町の義経伝説を訪ねる」資料(2026.7.5)制作/安藤竜二 ※上記よりpdfをダウンロードできます |
{PDF} ダウンロード 424.9KB_Adobe PDF
下記日程であさひ星空観望会を開催いたします。今回は春の星座や月・金星の他、春から夏の星雲・星団の観望を行います。是非、ご家族やお友達を誘ってご参加ください! 日 時 令和8年7月18日(土) 20:00〜21:30 会 場 Asahi自然観「ロッジしらくら」 https://maps.app.goo.gl/W4NzniFJeeBXhA4h9 参加費 無料 【申込・問合せ先】 NPO法人朝日町エコミュージアム協会(9:00〜17:00 月・木曜休み) ■TEL/FAX 0237-67-2128 ■E-mail eco@town.asahi.yamagata.jp |
{PDF} ダウンロード 4.2MB_Adobe PDF
7月5日に開催された見学会「朝日町の義経伝説を訪ねる」について、山形新聞で紹介されました。 ↑上記よりpdfもダウンロードできます → 他市町に伝わる義経伝説 |
{PDF} ダウンロード 325KB_Adobe PDF
※全写真はPDF↑を開いてご覧ください おかげさまで半数が町外の方、宮城県からは7人も参加いただき盛況に終わりました。「とてもよかった」「勉強になった」と皆さんからあたたかい感想をいただけました。 1.はじめに、会津→米沢市→長井市→朝日町→寒河江市→河北町→大石田町→舟形町に残る伝説を紹介させていただきました。内陸北上ルートも充分信憑性があるのです。参加くださった長井市の伝説を守っている「弁慶会」の飯澤正章さんから詳しい解説もいただきました。2カ所に分かれて宿泊したこと、そして、なんと弁慶の娘は病気をして長井にひとり残ったのです。 → 他市町に伝わる義経伝説 2.北の方が子を産んだとされる、くぬぎ平の棚田と八ッ沼の間にある子なし沢では、そのきれいな流れを見ていただき、弁慶が慌てた様子を想像していただきました。 3.茅の輪をくぐって参詣した浮島稲荷神社では最上俊一郎氏に大沼の深い歴史をお話しいただきました。 4.大沼を一周して義経一行も見たであろうお島様(浮島)や出島、そして大きな樹木たちに歴史の古さを感じていただきました。お島様も軽くですが動いてくれました。 5.大行院ではいよいよ弁慶が宿代代わりに置いて行ったとされる「笈」を拝見しました。そのしくみと精巧な作りに一同驚愕しました。なにより美しいと思いました。そして扉の裏には「武蔵」と書いてありました。おそらく一行は大沼に春まで滞在し、そのお礼として必要無くなった弁慶の娘の「笈」を置いていったのではないでしょうか…。最後に、最上さんのはからいで宮城の参加者の方のためにお宝の一つ「大竹丸の歯」も特別に見せていただき、一同さらに驚愕いたしました。 和気藹々楽しく学べた見学会になりました。最上さん、ご参加いただいた皆さん、いい時間をありがとうございました。 次は9月6日に「朝日町の藤原実方伝説を訪ねる」を計画中です。 ぜひぜひご参加ください! (道先案内/安藤竜二記) 参加下さった橋本彩子さんがブログで紹介くださいました → 橋本あやこのブログ |
{PDF} ダウンロード 325KB_Adobe PDF
北の方が子を産んだのは朝日町!? 朝日町の義経伝説を訪ねる 朝日町には二つの源義経に関わる伝説が残っています。一つは義経の正妻北の方(郷御前)が出産したという「子なし沢」。もう一つは大行院に宿代の代わりに置いていったという弁慶の「笈」です。 もしかしたら一行は、北の方の産後の回復を待つためにしばらく大行院に滞在していたのかもしれません。また、他市町の伝説も加味すれば内陸ルート説もありえるように思えます。 子なし沢の現場を検証し、大沼では宮司の最上俊一郎さんを講師にお話をうかがい、義経らも参拝したであろう浮嶋稲荷神社やお島様(浮島)を訪ね、最後に大行院にて弁慶の笈を拝見します。 日 時 7月5日(日)午前9時半より 集合場所 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」エコルーム前 参加料金 500円 定員 20人 講 師 最上俊一郎氏(浮嶋稲荷神社宮司) 道先案内 安藤竜二(朝日町エコミュージアム案内人) ●当日は各自の車で移動します。なるべく乗り合わせていただけましたら幸いです。 主 催 朝日町エコミュージアム案内人の会 申し込み エコルーム 電話0237-67-2128 → メールでお申し込みはこちら → チラシはこちらからダウンロードできます (参考) → 子なし沢 → 弁慶の笈 ■内陸ルートの信憑性について 平泉に向かった義経一行は、実は最上川を遡って瀬見温泉に向かったのではなく、米沢→長井→朝日→河北→舟形へと北上していったと思われます。内陸にも伝説があるからです。 [米沢]では、死なせてしまった家臣の佐藤兄弟(継信・忠信)のお母さんに詫びて弔うために常信庵に立ち寄り伽羅木を植えています。 [長井]では、弁慶の娘が急病で動けなくなり宿に置かれ、宿主に育てられその息子と結婚し、のちに弁慶を弔ったという石の塔が残っています。 [朝日町]では、北の方(郷御前)がくぬぎ平の棚田近くで子を産み、大沼大行院に宿代として弁慶が自分の笈を置いていきました。 [河北]では、弁慶が沢に大きな石を投げ入れて橋を作って渡りました。 [舟形]では、最上川から上陸したのは新庄本合海ではなく、わざわざ舟形まで登ってきて船を下り(あるいは地獄谷を通って)、新庄にまた北上したと伝わります。 舟形説も内陸を北上したルートで考えれば辻褄があいます。なにより雪解けの激流最上川を船で遡るなんてとても考えられません。 米沢では晩秋に、長井でも秋に来たと伝わります。おそらく、元々大沼大行院で出産して冬を越す予定だったため、急病の弁慶の娘を長井に置いてまで急ぐ必要があったのでしょう。ところが大沼を目前にして生まれてしまったというわけです。大行院で母子ともに元気になった翌春に、平泉に向けて再び歩き始めた…。きっと一冬もお世話になったお礼として笈を置いていったのでしょう。弁慶の笈はあちこちにあるようですが「武蔵」と梵字で書かれてあるのは朝日町だけです。 米沢からおよそ30kmごとに伝説が残っているのも、1日で歩いた距離が30kmで宿泊した場所ごとに伝説が残されたような気もいたします。 そして、新潟から朝日町までは、北条執権時代までは存在した朝日岳信仰の修験者たちが護り案内していたのだと思われます。きちんとした伝説が残らなかったのは、匿ったことが鎌倉幕府にバレないよう秘密にしていたからでしょう。 試しにAIに聞いてみたら、「あえて最上川を遡上したという情報を流し、鎌倉側の目を川(水上ルート)に釘付けにし、その隙に本隊を陸路で安全に通過させるというのは、秀衡が仕掛けた極めて高度な情報戦(諜報作戦)であったと考えるのが、歴史的にも最も辻褄が合います」と答えてくれました。 ただ、その陸路とは「最上川沿いの険しい山道」だと。それではカモフラージュにはならないですよね。陸路はきっと内陸ルートだったのでしょう。 まずは、朝日町の義経伝説を一緒に検証してみませんか! ご参加お待ちしています。先着20人なのでお早めに^^ (安藤竜二) ■内陸ルートに伝わる義経伝説(ネットより抜粋) ●正應山 常信庵 / 米沢市 入口に「源九郎判官義経公接待遺跡」の標柱が立っている。源義経が奥州藤原氏を頼りに逃亡する途中、この寺院に立ち寄ったとする。一行が鼠ヶ関(庄内)を避けて内陸に入り、羽前米沢に立ち寄り、自分の楯となって討死した忠臣、佐藤継信・忠信ゆかりのこの寺に立ち寄り、母の梅唇尼に兄弟を死なせてしまったことを詫びたという。そして「きゃらぼく」の木を植えて菩提を弔ったとされる。梅唇尼の名が記されたミイラも発見され万年塔を建て供養している。境内には、正信。継信、忠信親子を祀った三尊社がある。義経一行は会津から米沢に入り北上したと伝わっている。 ●塔様 / 長井市成田 文治2年(1186年)の秋、羽黒詣りの七人の山伏が民家に宿を願い泊めて貰った。ところが、この一行の中の娘が急に病気になり、仕方なく娘をしばらく宿に泊めて貰うように頼んだところ、その家の人達は心良く引き受けてくれた。それから3年後、義経が主従ともども討死したことがこの地方まで伝わった。これを聞いたかの娘は家の主人に「あの山伏一行は義経主従であって、その中で背の高いヒゲをはやした人が武蔵坊弁慶という者で、私は弁慶の娘」と打ち明けた。その証拠として、日の丸の軍扇を出し、これは弁慶が義経の家来になった時に貰ったもので、父がここを出発するとき形見に渡されたものであると話した。これを聞いたその家の人々は大いに驚き、今まで以上に娘を大切にした。後に娘は、この家の息子の嫁となって子孫大いに栄えたといわれる。その家は現在の鈴木平左衛門家の先祖。この娘夫婦が、亡くなった父弁慶の霊を弔うために供養塔を建て、大法要を行ったといわれている。 ●子なし沢と弁慶の笈 / 朝日町八ツ沼・大沼 義経は弁慶らを連れて奥州平泉に逃れる途中、朝日町を通ったという。ところが北の方が産気づいて弁慶大いに困った。ふと見ると道の傍に松の大木があり、その下にはきれいな水が流れていた。北の方はここで子を産んだ。その先の大沼には弁慶が修験道を伝ってきて大行院に泊まり、宿代の代わりに笈を置いていった伝説がある。扉の裏に凡字で、武蔵坊弁慶の「武蔵」と書いてある。 ●三ツ川一橋 / 河北町北谷地 昔、法師川は三筋に分かれて流れていた。義経がここにさしかかった時、弁慶が大石を担ぎ三本に流れているところに落として橋を架けた。「三ツ川一橋」と呼ばれる由縁。その時担いだ石に弁慶の手の跡が残ったと言われており、「耕地整理記念碑」の台座になっているのがその石だと語りつがれている。 ●源義経伝説 / 舟形町 「義経記」では会津の津(本合海)から亀割山を越え平泉に向かったとされますが、舟形町ではそれとは異なる伝承が伝わっている。 ・猿羽根村近くで宿泊し、北の方が産着を絹で縫った、義経一行の破れた着物を縫った伝承から絹縫という地名の由来となった。・義経一行が川岸で穴(窪)を掘りそこに水を溜め汚れた手足を洗った。 ・義経一行が獅子口で休憩した。・獅子口の対岸にある熊野神社で、出羽三山に代参した弁慶と合流した。 ・実栗屋から毒沢へ笈を利用して渡ったので「笈渡」という地名の由来となりそれが転じて「折渡」となった。 ・上記の笈を乾かした松は「笈掛の松」と呼ばれた。・一関集落には関所がある義経一行を厳しく詮議した。 ・義経一行は伊藤半平衛から粟3升借り、明治時代までその証文が残っていた。 ・義経一行は舟形から大平、稲先(ウサギシッタイ)、市野々、休場、亀割山へと向かっていった。 ・舟形から北に進路をとり夜道を進み明け方となり一番鶏が鳴いたので鳥越(新庄市)と呼ぶようになった。 ■引用ページはこちら → 正應山 常信庵(米沢市) → 塔様(長井市) → 三ツ川一橋(河北町) → 源義経伝説(舟形町) |
今年も伊豆権現の種まき桜が開花したとの情報をいただきました。花が散るまでライトアップもされていますので、お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください! |
All Rights Reserved by asahimachi ecomuseum





















今回は夏の星座や月・土星の他、夏の星雲・星団の観望を行います。
是非、ご家族やお友達を誘ってご参加ください!
日 時 令和8年9月19日(土) 18:00〜20:00
会 場 Asahi自然観「ロッジしらくら」 https://maps.app.goo.gl/W4NzniFJeeBXhA4h9
参加費 無料
【申込・問合せ先】
NPO法人朝日町エコミュージアム協会(9:00〜17:00 月・木曜休み)
■TEL/FAX 0237-67-2128
■E-mail eco@town.asahi.yamagata.jp