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老兵の半生(谷中初音町)

「行ってきます」「気おつけて」
49年前の昭和34年の三月、東京台東区谷中初音町
のあるアパートの一室で、主人と奥さん、奥さんの
妹で、仕事している袋物(女物の抱えや、バック)を作る
職人に、弟子入りした私がいました。
再度上京して、一年がたっておりました。
上野七件町を通り、上野駅の前を通り、昭和通りを
抜けて蔵前に入り、浅草橋の問屋まで、
出来上がった品物を、届けに行くのが日課に、
成ってました。
今考えて見ますと、東京ものどかなものだったと思います
自転車で田舎出の、17歳の少年でさえ、東京のど真ん中を
通行できたのですから。
私の部屋は、二階の三畳間でした。
仕事を七時に終わると、近くの銭湯に親方と行き
八時に夕食を食べ、自分の部屋に。
今のようにテレビもなく、本を読んだり両親に現況
報告の手紙を書いたりで、時間を過ごす毎日でした。
休日は、第一日曜日と第三日曜日の月二回でした。
金のあるときは、上野に出て映画館で洋画をみて、
後は、上野公園内を散策したり、上野松坂屋デパート
の売り場をのぞき見る。
金の無いときは、地域にお祭りや、市があれば出かけてみる
そんな休日の過ごし方でした。
友達もいない、職場の同僚もいない生活、私にとって
真に寂しい生活の日々でした。
・・つづく・・

老兵の半生(人の情け)

「如何したの僕たち」車の窓をおろして、年のころ
50前後の運転手のおじさんが、声をかけてくれました。
「上野駅に行きたいのですが、方向がわからない」
「歩いて行きたいのですが、どっちにいけば
いいのでしょうか」
すると「歩いてなんて、無理だよ、田舎に帰るのか」
と聞かれて、三人とももうべそをかいていました。
三人とも、山形へ帰る片道の汽車賃の他は、合わせても
いくらもお金は、もっていなかったのです。
私は汽車賃をのこした、小銭を集めて「これで上の駅まで」
乗せてっていただけないでしょうかと、頼んでみました。
一瞬黙ったその運転手は、「乗りな」と言うなり黄色い
ルノーのドアーを、開けて荷物を積んでくれました。
白々とした朝もやの、町を走りながら彼は、
「どこから来たの」「山形からです」「いつ来たの」
「一週間前です」「職場が合わなかったのだね」
「おじさんは、岩手県が故郷だよ」と言いながら
「上野駅に着いたら、一人は荷物の番をして、二人で
時刻表と行き先をよく確認して、切符を買いなさい」
色々と教えて、くれました。
当然タクシー代には、程遠い料金だったと思います。
彼は、其のことには一言も触れずに、葛飾堀切町から
上野駅まで、乗せてきてくれました。
最後に「東京は良い人だけではないよ、気をつけな」
其の言葉をのこして、走り去って行きました。
私も、其の時のおじさんの様な、大人になりたかったのに
まだ、ほど遠い存在であります。
その後一ヶ月ほど、故郷で過ごし、硬い決意のもと
再度上京したのでした。逃げ帰った二人の仲間とは
いまだ再会を果たしておりませんし、どこにいるのかも
解っておりません。
つづく

老兵の半生(逃走)

「決行は、明日朝3時だよ、寝るときは出かける服装の
まま寝ること。」私は他の二人に、荷物をまとめて
置くように話しました。
逃走を決意して、一週間後の夜でした。
4人の仲間と話し合い、持ってきた小遣いが無くならない
内に、決行しないと逃げられなくなる。
堀切町から、上野にいたる道も分からなければ
どのくらいの距離が、あるかも分かりませんそれでも
線路伝いに、歩いて行けば上野駅に着くことが、できるで
有ろうと思っていたのでした。
4人の内一人は、ギリギリの小遣いで来たので、初めての
給料をもらってから逃げると言い、決行は三人でする事に
きめました。
逃走の決行を、決めたのが仲間の一人が、一人の先輩に
殴られたのが、決断のきっかけでした。
決行の日川の字に寝ている先輩たちに気づかれない様に
寝具をまとめ紐で縛っていると、隣で寝ている先輩が
目を瞑ったまま、「無事帰れよ」と小声で言ってくれました
会社の敷地を、来たときと同じ様に、寝具を背負った三人
は足音をしのばせ鉄製の門をよじ登ってそこを離れたのです
昭和33年の4月の初めでした。
線路伝いに、一時間近く歩いたのですが、まったく方向が
分かりません。私は足に障害を持っていたので、荷物を
背負っての歩行は、かなり辛かったのです。
仲間の一人が、「一休みしょう。俺が持ってやる」
と私の背中から荷物を自分の荷物の上に乗せてくれました。
体格は大柄で、農家に生まれたので小さい時から、農作業
を手伝っており私なんかより、ずっと大人だった様です。
道路の端で、一休みと言うより途方にくれていたと、
言うのが、正解だったのでしょう。
下を向いて、三人とも泣きたい気持ちで、だまって
通行のまばらな、道路の街灯を見つめていました。
其のときです、一台のタクシーが私たちの前に
止まったのです。
・・つづく・・

懐かしい味

今から50年前、当地方で盛んに生産されていた
枝豆(馬のかみしめ).花作大根等の料理試食会に
参加してまいりました。
日本の野菜類の種類は、世界各国から見ても非常に
個々の品種が、少ないそうです。
昔は、そうではなかったのでしょうが、高度成長期
や、経済市場主義の中で、農業生産を行っていくうえで
平均化され、個性ある農作物が淘汰されてきたのかも
知れません。
そんな中、遠藤幸太郎さん達のグループが、過去の
農産物の特徴を見直し、現代に復活させ新しい食の
開発に、努力している運動は、これからの農業経営の
指針を示しているように思え、賛同の気持ち大で
おいしく頂いてまいりました。

老兵の半生(初めての職場)

就職列車で、上野駅に着いた私たちは、葛飾堀切町の
Hシューズ会社の総務担当の人に、引率されその場で
初めて知り合った、三人の仲間と共にチッキで運んだ
寝具を背に電車を乗り継ぎその会社に着いたのでした。
付く早々、荷物を食堂と言われる製品の入ったダンボール
が沢山置かれている、20畳ほどの板敷きの部屋の片隅に、
置くように言われ。そのままの服装で、各作業を行っている
所に連れて行かれました。
私が連れて行かれたのは、婦人靴のヒールを貼り付ける
工程の職場で、接着剤の強烈な匂いで、吐きそうでした。
前掛けを渡されすぐ作業をするように命じられ、
一通りの工具を預けられ、先輩の指導の下に
作業したのですが中々うまくいきません
遅いとか、へたくそとか、一日めから叱られどうしでした。
夕方七時、荷物を置いてある食堂と言われている部屋で
米穀手帳を集められ、私達のほか10名位の先輩たちと
食事を取ることとなったのです。
食事のおかずが、どんなのだったかは記憶にありません
しかしながら、丼飯を渡された時、とても食べる気が
しなかったのです。なぜなら其れは外米であり、普段
食べてきた山形のご飯とは、到底比較にならない不味さで
まずその匂いに食欲が、わきませんでした。
「食べなかったらよこしな」隣の先輩のいわれるままに
丼をわたすと、彼はたちまち食べてしまいました。
私はとても、悲しく第一目でもうホームシックでした。
其の後私たちは、就寝する部屋に荷物を持って連れて
行かれて、またびっくり其の部屋では、女の人たちが
婦人靴の仕上げをしており、シンナーの様な溶剤で、
汚れをふき取りながら、箱詰めをしておったのです。
やはり20畳くらいの畳の部屋で、壁一面に押入れが
付いておりました。しばらくして作業が終わり、製品
を片付けると、先輩がたが一斉に川の字に布団を敷き
はじめました。私たちを含めて十五人ほどの部屋が
作業部屋、兼、住み込みの人たちの寝室だったのです
後でやさしかった同じ山形出身の先輩に聞いたのですが
二三年すると、殆どのひとがアパートを借りて
そこから通勤するか、転職して行くのだそうです。
・・つづく・・