草木塔の郷 DENTAKUJI なあまず日記

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こんばんは。
今日もいいお天気でしたね。

田沢コミセンの前の道路際に植えているアヤメが咲いています。
たいした肥料っけもないし、冬は除雪でしぇめらっちいんのに、毎年ちゃんと咲くものですね。
朴の木の花も咲いています。
これも不思議な姿です。



今度の事務局長さんは花育てがとても上手な人なので、コミセンの周囲も花がいっぱいになってます^^
いがった、いがった。

コミセン裏で咲かせている希少植物「クマガイソウ」は、先週で花が終わりました。
今年も、花の数が増えたようです。



自然に囲まれたコミセン、いいですよぉ。


コミセン事務所に設置されました。

火が見えるストーブって、なんだか、わけわかんないですけど、いいですね。


データで見たサイズより、置いてみたら大きいって言うか存在感があります。
夏はどうしよう、なんて感じもしますけども。


ストーブの前に円卓を置いて、お茶を飲んでみました。
予想以上に暖かい。
20畳足らずの木造で、断熱効果の低い建物ですけども、十分な熱量がありそうです。

ただし、「ペレットの質にもよるので…」という業者さんの声です。
良質で安価なペレットの供給が、このストーブの普及には必要ですね。

ともあれ、ちょいとお茶のみの時間が長くなりそうですね。

 明治22年に三澤村ができたわけですが、「田澤」の名の由来についても記述があります。



「現今の口田澤・神原・入田澤」の三大字、いわゆる三田澤(さんたざわ)は、上長井郷に属し、後亀山帝の御宇(?)天授年間中までは新田冠者 藤原経衡の孫 新田遠江守の居館地たり。
 同氏の門族に澤頼母という者あり。
 よく農民を撫育し、慈仁至らざるなし。
 後故ありてこの村里を発す。
 民その仁徳に感じ永くその恩澤を記念せんとし、澤の一字を採り田澤村と称すという。
 慶長6年、上杉景勝の所領となり…」


 以下は、,侶り返しとなるのです。


 ただ、小樽川をはじめとした澤々があることからついたものと考えていましたが、このような地名の説が伝えられているのでした。

 
 
米沢市の田沢地区は昭和28〜30年の市町村合併まで、南置賜郡三沢村の一地区で、所謂その昭和の大合併で米沢市になりました。

昭和2年当時、田沢尋常小学校で郷土学習に用いられたと思われる資料があり、その中に田沢地区の沿革について記しているので、書き出してみようと思います。


三沢村沿革
「本村は、往昔、置賜郡上長井郷に属し、慶長6年 上杉景勝の所領となりしより以後、上杉家の領地たり。明治2年6月 藩主上杉公の封土人民奉還以来 米沢藩に属し、明治4年7月置賜県の管轄となり、明治9年8月 山形県に属す。

明治22年6月1日、市町村制の改正により従来一ヶ村を成せる赤芝・吹屋敷・舘山・小野川・簗沢・口田沢・神原・入田沢を合し村制を布きたる一大村となる。

人家は鬼面川の上流なる大樽川・小樽川の流域に散在し、山川の形勢から小野川・簗沢・田沢の三大渓流をなすにより三沢村と命名したるなり。」


 というわけで、三沢村ができあがったというわけです。

伊藤孝博さんの著書が田沢コミセンに数冊あります。

○『百年の風光』時間旅行・市制後の米沢 (米沢新聞社 1990年)
○秋田の文化入門講座『菅江真澄と秋田』 (無明舎出版 2004年)
○『東北ふしぎ探訪』 歴史・民俗のミステリーを歩く (無明舎 2007年)
○『六十里越街道』 (無明舎 2008年)
○『とうほく廃線紀行』 (複数の著者と共著 1999年)

この他にも、多数の著書があります。
『山里のオデッセイ』『炭焼き技法随聞記』『銀河鉄道の朝(上・下)』(連合出版)
『賢治からの切符』『奥州街道』 (無明舎)
『義経 北行伝説の旅』『江戸「東北旅日記」案内』 (無明舎)

 伊藤孝博さんは福島県福島市生まれ。通信社記者を経て1984年から山形県米沢市郊外の山里に在住。フリーランスのライターとして現在に至っています。


 田沢に移住して25年、伊藤さんは家族とともに地域にすっかりなじんでおり、コミセンの運営委員としても活動されています。

 地域に伝わる山里の文化の聞き書きをまとめる作業に時間を割いてもらっており、時に日本酒(住吉)を満たした杯をかたむけながら、夢を語っております。