卯の花姫物語 2-⑩ 前九年役の終結

  奥州前九年役の終結

 清原武則が官軍に味方する可く決定した動機は既述の通りであるが、其様にあの長引いておった清原一門の向背が、彼時俄かに決定を早めた原因の一つを見逃すことの出来ないのはなんと云うても姫が見通しを付けておった八幡太郎義家が天禀の天才が年を逐うに従って益々燦然として光輝を放って来た。
 彼が父に従って奥州に遠征して来た当時には、極めて年少であったがあの様な兵馬こうそうの間に成人した彼は、康平五年を迎えた時には齢己に二十五才の血気正に旺と云う頃であった。彼の様な人と戦などをしたとて勝たれる人間がいるものでないと云う感じが、世上一般に判つきりと知れ亙って終わったと云う事が、清原一門の決定推進の大なる原因をなした一つである事は又云う迄もない事であったのだ。
 清原武則は一門を挙げて官軍の軍勢促進に応じる可くの急使は、国府の多賀城を指して急行した。斑目四郎武忠もかくなる上は、勿怪の幸いだ一層官軍に味方して安倍の一門を一挙に打ち滅ぼして、姫を生け捕りにする。其戦功に依って姫を懇望してもらい受け、非応なしに吾が妻となすを心に描いて勇躍して出陣した。康平五年八月九日清原武則を大将とした一門嫡男荒川太郎、武貞二男、貝沢二郎、武道四男、斑目四郎、武忠以下の軍兵を従えて威風堂々と進軍して来た。
 陸奥国営が岡(タムロガオカ)の官軍の本営に来たって合流した。両軍合わせて一万三千余騎の大軍を以って、安倍氏が本拠衣川の城を一挙に攻略せんとして進軍した。両軍の主力戦が随所で激戦が展開されたが、合戦の様相は省略して直ちに終戦の結果を記して見れば斯うである。
 安倍貞任、藤原経清以下打死。一旦戦場を逃れた安倍宗任は、後に降参して義家に仕えて家来になった。戦後の論功、頼義は正四位下伊予守拝受。義家は従五位下出羽守に任ぜられた。弟義網は左工門少慰に任ぜられた。清原武則は頼義が奏請によって出羽奥州両国の鎮守府将軍に任ぜられたと云う。以下将卒の論功は省略した。世上を騒がした奥州前九年の役は以上如にして終わりを告げたのであった。
2013.01.01:orada:[『卯の花姫物語』 第2巻 ]

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