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羽前成田駅前変な民俗学者?⑥最上川を下った子供達

 「悲しすぎる子供達」の続編として,「最上川冒険の旅・200キロ」について書いてみたい。平成10年に行われたこの事業は、山形県の子供達を募集し、2泊3日で最上川源流の地・長井から酒田までボートで下るものである。キャッチコピーは「最上川よ、父の強さをこの子達に与えたまえ。母なる心を持ってこの子達を守りたまえ」。長井と新庄市の子供、さらに東京の子供も参加し、15人になった。スタッフは、職場の同僚や坊さん、学校の先生、そして万全を期すために国土交通省、建設協会のバックアップもいただいた。
 初日は、長井に集まり、ボートから落ちたときの練習をやり、長井の参加者の自宅に民泊。翌朝、緊張した顔の子供たちは、それ以上に心配げな両親に見送られていよいよ出発。その日は、村山市の松田清男さんが主催する「卒業のない学校」に宿泊。カレーライスを自分達でつくり、楽しく過ごさせた後に、松田学長の講話の時間である。子供達には、「先生から足をくずして良いですよ」と言われるまでは、正座しなさいと伝えていた。板の間にである。その姿を見て、松田学長は「君達の姿勢は素晴らしい。背骨は人間の柱である」と話して、「県民歌」を教えてくれた。
 2日目は、新庄市の本合海が終着点。そこで、最上川観光会社の会長である押切六郎さんの講話を聞き、本合海地区の人達が作ってくれたバーべキュウ大会と花火大会を楽しんだ。子供達が宿舎に帰る時間が近づき、押切さんが子供達を集めて話をした。
 「最上川は山形県の背骨である。君達はその最上川を下って、ここまで来た。君達よ山形県を背負う人間になれ。私が、南洋の戦地にいた時に戦友と共に県民歌を歌ったんだ。その歌を君達と一緒に歌いたい。」。押切さんを中心にして「広き野を、流れ行けども、最上川」と歌い始めたときに、子供達は涙で声を詰まらせて歌を歌えなくなっていた。宿舎に帰るときに、一人一人が、押切さんと泣きじゃくりながら、握手をしていた。
 そして、最終日、最大の難所が待ち受けていた。岩が両岸にせまり、大怪我をするかもしれなかった。中学生を中心にクルーを組んだが、東京から一人で参加した男の子が体調を悪くしてしまった。彼に「お前、行くか」と聞いた。彼は、目に涙を浮かべながら「行きます。行きます」と訴えてきた。「よし、行け。頑張れ!」と言って送り出した。後から聞いた話では、皆がボートを降りて引いて歩いた浅瀬から、急な深みに入るときに、彼は小学生を先にボートに乗り込ませ、最後に彼がボートに滑り込んだそうである。いよいよ酒田まで到着したとき、一人一人に感想や俳句を発表してもらった。その中の一人は「酒田には希望というものがあり」と詠んだ。自然との感動体験は、詩人にさせるものだと感じたものである。
 今、心が荒れていると言われ,親子の関係も、子供同士の関係も異常としか思えない事件が報じられている。しかしながら、生まれてきた子供達は、純真無垢なものである。体に障害を持って生まれようと、「たった一つの宝物」の世界がある。子供が荒れるのは、大人のウソを見抜くからではなかろうか。初めて出会った押切さんに涙を流したのは,押切さんの心に触れたからであろう。「あー、夏休みになって子供達の顔を見ないですむ」と言ってスタッフとして参加した学校の先生は、最後に「子供は少しも変わっていなかったんだ」とポツンと語った。あるスタッフは「この旅は、自分探しの旅だったんだ」と語ってくれた。最上川が教えてくれたものは,それぞれに,大きいものがあったのだろう。
 こんなことが,これを読んでくれた人にとって,何かの役に立ってくれれば幸いである。人生には早瀬もあれば澱みもあるさ,広き野を巡って生きれば,綺麗な夕日が見えるさ!
2012.07.21:orada:

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