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卯の花姫物語 ⑭

奥州前九年の大戦乱の始まり
 義家は今度発生した事件が個人的犯罪で。まあ・・・普通今の警察が論説程度のものだとは元より思ったのでないのは云う迄もないが、どうも対手は奥州一の大豪族後世の雄藩に均しいものと云うのでは、たとえ国司の命令であるとしても余り強硬な申し渡しをすると、どう考えてもこれは戦争と云う迄になるじゃないかと思われて仕様がなかった。戦争さえ避けられるならば国府でも十分の満足でないとしてもある程度忍んでもまあ・・仕方ないだろうと考えたのであった、
 そうして治めるには一層安倍家の一門に任せて彼らが手で責任ある処にしろと云う申し渡しに命じた方が一番よろしい方法と考えたのであった。そうしたらまさか安倍家でも吾が息子を死刑にもしないだろうし、責任上無罪にもされまいし、父頼時が命令を以て貞任は  謹慎。家督は次男宗任に相続位の程度の処で事件、落着きになるだろうと思って父を めたのであったがいられなかったので遂々ああした大戦乱に迄なったとはどうしても起らで叶わぬ戦いであったと云うより外ない次第である。安倍家では貞任引き渡しを拒絶して一門をあげて焦土決戦迄での抵抗すると云う事が直ちに国府に処の者の報によって判かったので、どうしても官軍を以て追討するよりないと云う事になった。そこでいざ戦争と云う事になると頼義父子が如何に智謀に富んだ大将とも泰平時の国司の兵力は極めて僅少のものであった。将軍直属の手兵のみと云う手薄のものであった。
 それに反して安倍家の方の軍勢終結は自分が国内から集めるのであるから容易なものである。
 以前奥州征伐として大軍を率いて堂々と始から向かってきた時の情勢とはまるっきり反対である。頼義は早速京都へ急便を飛ばして、安倍の頼時父子の者 す、追討大将軍と陸奥守国司の再任とを朝廷に奏請してやった。一方、関東に於ける源氏の家臣へ軍勢の催促をしてやると共に北陸、東海、東山の方面へ激を飛ばしてやる戦いの準備おさおさ怠りなかったのである。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑬

奥州前九年の役の導火線発火
 大将頼義大いに怒って光貞に弓を引いた以上は吾れに刃向うたも同様である。己れが不義の恨みに因って国法を犯し闘争を起こして平和を錯乱した貞任が大罪そのままには免されない速やかに召し捕って 明申し付けよと云う憤慨甚だしい見幕であった。義家も父頼義が激怒甚だしい様子を知って其驚きと共に落胆も又大なるものであった。自分と卯花姫との関係の故もさる事乍ら引いては国家の一大事であったからである。
 こうした事件は一旦其処理を誤らんか干才を以って争う事に悪化しないをも保し難い事と考えたからであったのだ。これは  此事件を始から闘争事件としては取り扱わない飽く迄で貞任が一人の個人的犯罪人とした範囲に限定する。父頼時外安倍家一門に責任負わせた処断に任せて治むるにしくはないと考えたので早速父頼義が前に出でて己の所信を述べて父を めたが頼義は汝が進言も一応最もであるが安倍家一門に累を及ばさぬ様に寛典に処するは宜しいとしても国法を犯して騒乱を起こした大罪人を一個の犯罪人として罪人の家門の者共に任せ放しにしては全然一国の国司の威令が行なわれざると同様である一門の者共に各は申付ぬとしても犯人一人だけは国府え引き渡す様申し付けよと云うて承知しなかったのである。
 富強を以て奥州一を誇った豪族の安倍の一門が貞任引き渡しに応じればそれ迄でだが命を奉じないとしたならば勢い兵力によって処さねばならない事となる。之迄で折角泰平に治まった奥州の天地が再び修羅の たとなって萬民塗炭の苦しみに陥る国家の大事となるを恐れての進言も空しくやがて奥州の大乱となって姫が望みも一朝にして水泡に帰して終う運命となったとは是非もないことであったのだ。
 貞任引き渡しの命令を受けた安倍家では直ちに緊急一門会議が開催された。老将頼時が平和説であったが次男宗任は始から主戦論を猛烈に主張した。兄上を国府に引き渡して終う上は死罪仰せ付けられても早救い出だす可き道が無くなると云うものである。兄上一人 せられて吾々おめおめ生きておられ様か座して死なんより一層戦って決戦の覚悟と云う義家が先見寸分も違わぬ結果となったのである。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑫

奥州国司満期の年
 愈々天喜四年の年こそは姫が待ちに侍兼ねておった。前記の望みなどがなかったならば之迄で別れてなどはおられない仲であったのだ。恋しい恋しい八幡殿が京へお帰りになった上改めて迎えの使者を御遣し下さる可くの固い々お約束の仲であると思い廻せばまわす程我が身の前途は希望に輝き  と世にも稀れなる高徳の君子八幡殿が正室と恵まれて愉しい此の世が送られると思えば思うほど此の世に女と生まれた甲斐があると、春から秋へと一足飛びにもなれかし思いで暮らしておった。其の秋のことであったのだ。奥州多賀の城下に一大凶変が茫然とし即ち今世に迄でも有名な奥州前九年の役と称しておる大戦乱の導火線が発火したのである。此故によって折角姫が愉しい思いで前途に望みをかけておった其の望みと奥州の仕官が頼義将軍が善政の治下に於いて泰平鼓腹の生活の喜びと併せて木葉微塵に粉砕して終うと云うことになるのである。それは又次の様な次第であったのだ。
 茲に頼義将軍が幕下の部将に藤原光貞と云う人がおった。其館え或晩突然闇に乗じて夜襲を仕掛けた。何者の仕業とも判らなかった、味方が必死の防戦によって追い払ったので味方に死傷者が極く僅かより出なかったのは幸いであったが散々に暴れ廻って引き上げた。厳重なる調べの結果其の犯人は計らずも安倍貞任が仕業であると云う事が判明した。それは又女故の事からであったのは誠に遺憾の至りである。
 藤原光貞が娘に非常な美人の女がおったのに貞任が恋慕して自分が妻に貰いたいと云うて様々に手を尽くして見たが光貞が承知しなかった。と云うのは今こそ源氏に従って家来になってはおるが元を洗って見れば朝敵であった。たとえ金があっても力があっても家柄が悪いから吾が家の娘をやる訳にはいかないと云うて承知しなかった。貞任は にさわって今に見ておれ復讐をしてくれるからと思って其隙を狙っていたのに今度愈々此地を引き上げて京に帰って終うと云うのでは仇を返す機会がなくなると思って鬱憤晴らしにやったのであると云う事が判ったのであると云う事が判ったのである。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑪

姫が義家との別れ

其の趣を姫が処えも伝えられたのは又云う迄もない事であった。たとえ一旦の別れですと云うてもあれ程恋しい八幡殿がお側から離れて故郷に遠く帰っていくのは姫が胸の中ちは血を吐くばかりの悲しい思いであったのだ。でも頼義公が厚い温情のあふれた御取り計らいを考えて見れば之皆恋しい可愛い殿御の御身の為め引いては私共の身の上迄で思うて下さるからこそそのご教訓である。八幡殿の御身の為になる事でさえ、あったならばどんなつらい事でも忍のばねばならないと思うのだ。元より賢い生まれの姫は胸に分別して茲に涙を呑んで一旦別れて帰る事を承知したのである。
 愈々出立の前夜は義家を迎えて一晩中名残り尽きせぬ寝物語りに飽かぬ別れを惜しみつつ夜を明かした。其の翌日高木新三郎家経に送られて桂江と荷物を背負った下部二人とを従えた五人連れで故郷の衣川へと出立した。其のようにやがて来る義家が正室となる希望を前途に描きつつ一旦の別れの心算りで別れたのが、一生の別れとなって終うとは神ならぬ身の知る由もない、後にぞ思い知られたのである。
 其の年も早くれて天喜三年となった。姫が毎日指折り数えて待ち兼ねておるのは一時も早く国司の満期が来て八幡殿が京に帰還して頼義公のお計らいをもって八幡殿が正室として迎えの使者が晴れて堂々と来て貰う楽しい日がくるばかり唯一の希望として暮らしていた。いつでも文みの御使いとして家経が来たときは必ず返事の文をやる。返事をやるとしても向こうから返り言ばかりでなく家経から君が近況について色々聴いたのによっても書き加えてやらなければならないからいつでも三四日の逗留になるのは普通のことであった。
 夜分に主従三人で話し語りの折りにふれて姫はじょうだんに漏らすのに早く八幡殿の御側に行きたい。御身達ばっかり時折遇って楽しそうな様子を見ると羨ましうて仕様がない。ほほ・・・なんと云うて笑い興ずる事などもあったと云う。愈々其の年も天喜四年はやって来た、鎮守府将軍兼陸奥守源朝臣頼義が陸奥の国司満期完了の年となったのである。

2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑩

姫と義家が恋愛愈々深し
これ迄の仲となると若い者同士と云う者は、あたりかまわぬ様な振舞に迄なるものである。義家は毎晩姫が病気見舞いに通う様になった。少しでも足が遠くなると姫の方で桂江を遣わして、家経が許を訪れさせて姫が苦しいから早く来て貰いたいと云う催促の使いである。義家が駆けつけて行くと直ぐに苦しみは癒ってぴんぴんとなって、夜行けばみっしりおさえて翌朝迄帰さないと云う始末。ひどい病気もあったものだしなんぼ押さえられたからとて次の日迄泊まり込んでいるとは、非道い御医者もいたものである。其の噂が世間に広まらないでいよう筈がなかった。噂はこんな事になって広まった。お・・い君々聞いたかい安倍家の姫ですあの奥州一の美人が病気で行かれなくて泊まっておったのに、八幡殿が病気見舞いにさえ行かれると直ぐに苦しみが癒ってしまうが、御足が少しでも遠くなると云うと直ぐに苦しみ出す、いつも御医者迎えが走る。何でも其の特別な御医者様が駆けつけて注射さえしてくれると直ぐ癒えると云う病気だそうであると云う・・・あ・・・と如何にお偉い人達だとてその道ばかりは変わりがないものよう。あは・・・と云う巻説ふんふんとして伝わった。
 其の有り様では将軍頼義が耳にも入らない訳にはいかなかったようである。重臣からの言上によって知った頼義は元来深謀遠慮の賢者であったのでつくづく考えた末に、若い者同志と云う者はし様のないものである。然し乍ら安倍貞任が姫は人物が優れておることは兼々聞いておったので吾家の嫁としても不足はない女であるが、一旦彼の家は朝敵となって未だ日が浅い今日である。それを今直ぐに源氏正統の義家が正室として発表すると云う事は出来ない事である。さりとて、それ程本人同志が熱望しておる事を直ぐに破棄して終わると云う事も好い事ではない。いずれ国司陸奥守の任期が満了して、京に帰ってから時節を見て正式に発表するから当分の間余り人の噂に上るような振る舞いを謹む様にと云う温情のこもった注意であった。
 其旨重臣を通して義家が許えと申し渡したのである。義家父が温情こもった申し渡しに感銘肝にめいじて有り難く謹んで御受けをしたのである。
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