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卯の花姫物語 ②

記述の順序   
 此物語りは、郷土としては一番の大物語りでありましょう。何は扨て奥州前九年の役と云う大戦乱に纏りついた事に終始したのであるから事は仰山である。其上此物語りは一種変わっている。と云うのは賊軍の大将の長女と、征討大将軍の嫡男との恋愛物語りと云う変り種のものである。
 記述の順序として奥州前九年の役が起こった奥州や其関係の隣国出羽の国と云う処は日本全国にたいしてどう云う程度の価値で、京都朝廷からどの程度に重要視されておった処であったかを判っきりしておかないとあんな大戦乱がなぜ起こったか、又それを平定するに、あの様に長い歳月を費やしてようやく平げ得たと云う事を解るに都合が悪い。もう一つは安倍氏の様な大豪族がどうして起こったか、又彼らが日常の生活状態はどうであったかも明らかにしておかないと、愈々本物語りの際に其真相を掴むにも不都合であろう。
 よって順序を奥羽二カ国の状態を最先きに書いて、次に此地の豪族安倍氏や清原氏等の存在を記して更に本文の物語りに移るを以て順序とするのである。彼の当時の奥羽二カ国を日本全国が六十余州だから其のうちの二カ国で大きな方であるから六十分の五か六位の勢力の価値だろうと考えたならば甚だしい間違いである。彼の当時の奥羽二州の力の価値と云うものはとんでもない事であった。ある意味からではあるが、驚くなかれ日本の半分の力にも該当する価値のある処であったのである。
 其次第は又次の様なものである。此の当時仮に京都政府へ出羽、奥州から年々送られる献馬、貢金がぴったり行かなくなったとしたならば、京都の朝廷が存在していられないと云う唯一の収入であったと云うことである。
 これは文政頃出た本であるが(日本全国石高一覧表)と云う書物がある。これに拠ると最も石高からの価値を云うのであるが、陸奥は百七十二万四千石、出羽は八十七万石で併せて二百五十九万四千石と云うことになる。全国総石高二千二百五十万石に対する一割強の場所であると云うことであった。これは江戸末期の調べであるが其広範の程度は以前から同じであったろう。そんな処を自由に支配して動かす様な豪の者に叛かれた京都の政府がたまったものではなかったでしょう。
2012.12.29:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ①

 さてさて、成田黒獅子祭りの記事をご覧になった方や、長井市の「黒獅子祭り」をご存知の方は、「もっと黒獅子祭りのことを知りたい。」と思われた方も少なくないことでしょう。そんな皆さんのために、新しいシリーズがスタートしました。
 このシリーズは、かつて昭和30年代に地元長井新聞に連続掲載されていたものを復刻したものです。作者は、五十川地区に住んでいた菊地清蔵さん。そうです、「おせきの物語」の原作者でもあります。
 文語体であり大長編でもあり、読みづらい部分もありますが、頑張って読破してみてください。そして可能であれば、現代語訳にしていただければ幸いです。それでは、始めましょう。

(序) 作者のことば
吾等の郷土長井の里に総宮神社と云う大社があって、昔総宮大明神と称しておった頃には、下長井四十余郷の総鎮守として崇敬されておったのである。そうして此の神社は社号が総宮大明神と云う名称そのままで、たくさんの御祭神社が合祀された神社であるのは云うまでもない事であった。そうした数有る御祭神の一体に卯の花姫の御霊が合祀されてあると云い伝えられておったものである。むしろ一般の民衆などは宮の明神様は卯の花姫を祭祀した神様だと心得ていたのが大たいと云う程度であった。
 処で其一面においてはそれ程尊い郷土守護の神様に事もあろうに、朝敵の大将安倍貞任が娘などを祭祀するとは何事であると疑念をいだくに疑問を抱く人もおる様でもあるが、其次第はこれから項を遂うて述べるので自然判つてくるが、それにしても概要だけを知っておかないと後を読むのに都合が悪いと思う。
 姫は安倍貞任が長女に生まれ源氏の大将鎮守府将軍伊守源頼義が嫡男八幡太郎義家と相愛恋慕の仲となった。二人の間に固い婚約が結ばれておったが、怱ちにして一旦成立した平和が破れて敵味方の身の上となって終わった。奥州前九年の大戦乱とは此の戦争のことである。戦いが終わった後に兼ねて姫が艶色に強烈なる恋愛に陥って来たる機会を狙っていた恋のかたき、出羽ノ国の豪族清原武則が最愛の四男斑目(マダラメ)四郎武忠が戦勝の余威を振って安倍貞任が残党討伐の軍勢として向かう大軍に遂い込められた。降参して我が意に従えば命を助けた上に手活けの花として寵愛を捧げんと云う矢文を幾度も受けたが姫は断固として退けた。義家との恋慕を捨てず吾が身は一旦八幡殿の御寵愛を豪った女である。「死すとも其面目を全うし長く此土地守護の神と化せん」と、遥かに京の空を眺めつつ義家を慕う悲恋の数々を絶叫して千尋の峡谷三淵の深淵にと身を投じて死んで終わった。即ち三淵明神や総宮大明神の祭神たるの由緒はこうした意味に拠るものである。
 之は伝説であるから歴史的真実性には疑わしいのは勿論であるが、古来から吾等が愛する郷土にこうした芳しい逸話の伝説があったと云う事をもって一つの誇りとしてよいと思う。仙境三淵の絶景の地に、姫の追い込められ最後の牙城として建て寵った。一旦寄手の大軍に味方少数の残兵を指揮し智謀略を以て殲滅に打破ったと云う。雲に聳ゆる彼の高嶺(標高10.546)の安倍が館山との二場所は昔を偲ぶに足るものである。
 時正に世の変転に恵まれつつ、やがて完成を相待つ木地山ダムと併せて市内観光地に数えられ、これから観光客や山岳隊の登山客等々を大いに迎えんとしてひたすら待ちわびおるのである。茲に筆者が該小説を試みんと企てた所以も即ちそうした意味に基因したのである。 著者 識
2012.12.29:orada:コメント(0)

おせきの物語 ①

  • おせきの物語 ①
おせきの物語

 この物語は成田駅の西側に、今もたたずむ供養等にまつわる物語です。
原作は、故菊地清三氏(五十川の岡鼠原地区出身)が、当時の「長井新聞」
に連載していたものです。この原作をもとに、昭和五十六年、地区文化祭において、当時の致芳地区青年団が上演した際の脚本を、復刻したものです。
 懐かしい駅舎の復活と合わせて、私達自身が地域を見直すきっかけとな
ることを願っています。また、成田駅を訪れた皆様が、私達の故郷に関心
を寄せていただき、地域に元気を与えてくれる一助となることを願ってお
ります。      成田駅前おらだの会 代表 宮崎征一

おせきの物語(二場 二幕)

 登場人物
  おせき
  手塚源右衛門
  およし(源右衛門の妻)
  惣三郎(旅の僧)
  村人達

おせきの物語 ②

第 一 場

夕映えの中に、旅の僧のシルエットが浮かび上がる。路傍の石碑の前に立ち、長い祈りの後に、観客の方に向きながら、静かな口調で語りかける。

【旅の僧】 これから私がお話しますのは、今からおよそ四百年前のことでございます。当時、この地方一帯は、まだ荒れた原野でございました。人々の生活は貧しく、日々の暮らしもままならないありさまでございました。
      そんな時、西館部落に住んでおりました手塚源右エ門という方が発起人になり、堰を掘り、この土地を開墾したい、と立ち上がったのでございます。その当時私は、この手塚源右エ門殿に、学問の修養に来ておりました。村人の熱意にもかかわらず、工事は、こぶしが原というところで困難を極めたのでございます。
      そして、それを救ったのが、おせきという当時十九歳の娘でございました。私は、この石碑の前に立つときに、古里の将来にかけた人達の情熱を思わずにはいられません。そして、私たちに、今、生きている私達に、お前たちはこの古里をどうするんだ、と語りかけているような気がしてなりません。

     それでは、私の話を聞いてください。

おせきの物語 ③

第一幕
 舞台の下手より、手に手に鍬や鋤を持ち、笑い声を立てながら、源右エ門、村人がやってくる。背景には、葉山の山並みが照らされ、敬虔で荘厳な姿を映し出している。

【源右エ門】  いやあ、皆の衆ご苦労だったなあ。
【村  人】  今日はだいぶ、はがえった。旦那の顔も、ニコニコだったな。
     ――― 村人一同、笑い出す
【源右エ門】  皆の衆がよくやってくれる。わしは、それがうれしくてなあ。わしらの村は、土地が狭い。そして、その土地もやせていて、ろくな米もとれない。しかしのう、ここに堰を作って野川の水を引けば、この土地は、見事な土地に生まれ変わるだろうよ。のう、わしには、秋の真っ青な空に、黄金の稲穂が出そろうのが目に見えるようじゃ。

―――村人たち、観客(荒地)を見ながら、「ほんにのう、そのとおりじゃ」と言いながら、うなづきあう。

【源右エ門】  皆の衆、もう少しだ。宜しく頼むぞ。
【村  人】  ああ、もちろんだども。

【村  人】  ほんじゃ旦那様、今日は、ごめんくだせえ。
【源右エ門】  ああ、ゆっくり休んでおくれ。助三、今夜はかかあに、ゆっくり背中でも流してもらえや。
【村  人】  そうだ、助三。新婚だからって、あんまり疲れっこどすんなよ。
【村  人】  ほだほだ、お前、この頃、やしぇだんでねえが。

――― 一同、笑いながら帰っていく。一人残った源右エ門は、空を見上げて「きれいな夕焼けだ。」とつぶやく。そのとき、家の陰から、おせきが駆けてくる。