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卯の花姫物語 ⑫姫と義家の恋愛

 姫と義家が恋愛愈々深し

 これ迄の仲となると若い者同士と云う者は、あたりかまわぬ様な振舞に迄なるものである。義家は毎晩、姫が病気見舞いに通う様になった。少しでも足が遠くなると姫の方で桂江を遣わして、家経が許を訪れさせて、「姫が苦しいから早く来て貰いたい。」と云う催促の使いである。義家が駆けつけて行くと、直ぐに苦しみは癒ってぴんぴんとなって、夜行けばみっしりおさえて翌朝迄帰さないと云う始末。ひどい病気もあったものだし。なんぼ押さえられたからとて、次の日迄、泊まり込んでいるとは、非道い御医者もいたものである。
 其の噂が世間に広まらないでいよう筈がなかった。噂はこんな事になって広まった。「お~い君々、聞いたかい。安倍家の姫で奥州一の美人が、病気で行かれなくて泊まっておったのに、八幡殿が病気見舞いにさえ行かれると直ぐに苦しみが癒ってしまう。御足が少しでも遠くなると直ぐに苦しみ出す。いつも御医者迎えが走る。何でも其の特別な御医者様が駆けつけて注射さえしてくれると直ぐ癒えると云う病気だそうであると云う。あ~~~っと、如何にお偉い人達だとてその道ばかりは変わりがないものよう。あはは・・・。」と云う巻説ふんふんとして伝わった。
 其の有り様では将軍頼義が耳にも入らない訳にはいかなかったようである。重臣からの言上によって知った頼義は、元来深謀遠慮の賢者であったのでつくづく考えた末に、若い者同志と云う者は仕様のないものである。然し乍ら安倍貞任が姫は、人物が優れておることは兼々聞いておったので、吾家の嫁としても不足はない女であるが、一旦彼の家は朝敵となって未だ日が浅い今日である。それを今直ぐに源氏正統の義家が正室として発表すると云う事は出来ない事である。さりとて、それ程本人同志が熱望しておる事を直ぐに破棄して終わると云う事も良い事ではない。いずれ国司陸奥守の任期が満了して、京に帰ってから時節を見て正式に発表するから、当分の間余り人の噂に上るような振る舞いを謹む様に、と云う温情のこもった注意であった。
 其の旨を重臣を通して義家が許えと申し渡したのである。義家父が温情こもった申し渡しに感銘、肝にめいじて有り難く謹んで御受けをしたのである。
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卯の花姫物語 ⑪忠の壱

 忠ノ一

 姫は心の内では、初対面の第一感で好かない男と思ったが、家の行事主催に応援衆の上席の人でもあってみれば、止むを得ない、此場の仕儀である。直ぐに座って恭々しく一礼した上に、「仰せの通り安倍貞任が娘・卯花と申する者で御座います。此度は又御後援として、御遠方態々御越し下さいまして有り難う御座います。只今は又気分少々勝れぬ為め、宿に下がって休もうと取り急ぎました。思わぬ不調法でありました。御免遊ばし下さいませ。」と平あやまりになって詫びをした。
 武忠は、姫を其の場に釘付けにとらえた喜びに勝ち誇った思いで大得意になった。大いに笑って、「いやいや卯花殿、最早御心配には及び申さぬ事。然しながら御座るがのう、八幡殿が御酌の御手並みの御見事さは、とくと拝見な仕っておりました。さり乍らとても、武士の片割れの一人で御座る御当家行事の応援として父武則を代表して出羽の国より参りし者。丸っきりのまんざらでも御座るまい一盃の御酌賜わりとう御座いますが如何なものでありましょうか。」と云うて大盃を突き付けた。
 姫は心に進まぬながらも、まさか否やとも云われぬ場合である。否や否や乍ら数盃の酌をしておったが、彼は始終姫が顔ばり眺めて、いやいや美人の御酌で呑む酒は又一段と味が違うもので御座るようと云い乍ら、にやにや面らでもっともっとと云うて果てしがなかった。どうも仕方のないものである。好きな男の御酌だと盃が干るのが待ち遠しい思いでするのであるが、其反対に嫌いな男にそうどこ迄でも強いられては耐えられない思いになるものである。その様子を悟った桂江は、恐る恐る進み出て、「あの申上げます武忠様。主人卯花姫、少々気分が勝れぬ様子で御座いますので、ここらで御暇戴きまして休ませとう御座います。何卒ぞ御免遊ばし下さいませ。」と云うて願った。武忠大いに笑って「いやいやこれはしたり。否なことを聞くものじや。八幡殿が御酌には御気分が御見事な御手並みに勝れて、某が酌が御病気で出来ないとは扨ても重宝な御病気で御座るわい。早よう御帰りになって御養生が肝腎で御座る。」。
 武忠も、「後程改めて御病気御見舞として御宿を訪ねて参らん。」と云うて皮肉っては見たものの、惜しい鳥を逃がした思いで帰してやった。
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卯の花姫物語 ⑩城中餐宴の終了

城中餐宴の終了

 其の様な酒宴最中の様相をずっと眺めていた大将頼義が、やおら声を発して「ああいや、こりや義家之、はは・・・。吾々両人が何つ迄も此席上におっては、一同の者は迷惑の至りであろう。皆の衆はこれから大いに楽しみは多いと思う。吾々二人はここらを潮合いを見て退座至してよかろうぞよ。」 義家かたちを改めて「畏まつて御座います。」と云うて父に向かって頭を下げた。いざや立たんと云うて係の家来に伝えたので、係の武士が立ち上がって大音声に「御大将の御立座」と呼ばった。一座一同は、「はは・・つ」と云うて一斎に低頭平身した。すくっと立ち上がった大将頼義につづいて義家、高木家経に宝剣持たせたのを従えて立ち上がった。係の女中が二人、左右から正面の唐紙をすっと開いた処から、静々と奥殿に這入って行った。直ぐに唐紙がばちっと閉められた。
 いや喜んだのは一同の皆の衆であった。「あ・・いや各々方、凡て酒宴は目の上の瘤の親玉を目の前に置いては本当にうまい味じゃないものだ。本当の楽しみはこれからじゃ。」と云うて呑んでいる始末であった。こうした一同の喜びと反対の悲しい思いであったのは卯花姫主従の二人であった。こんな嬉しい思いの日は、千年もあって欲しい思いになっておった処を、出し抜けに見ておる前から宝の玉を取り上げられた様にされたので、二人は只ぽかんといて終わった。泣かんばかりの悲しい思いになった。桂江は「姫君様・・・」、姫は「桂江之・・」と云うて、二人は互いに顔見合わせた。「最早や帰ろう」「御姫様早よう御帰りが宜しい御座います。」と云うて二人は静々御帳台から下って来た。
 そうして下がってくるその時であった。丁度接伴方応援衆が上席の処の前を通りかかった時であった。やおら声をかけた一人の武士、酔眼豪朧となって「ああ・・・、いやそこを御通りの御女中、暫らく待たっしやい。」。其事は出羽の国の住人清原武則が四男にて斑目四郎武忠(マダラメシロウ・タケタダ)後の清原武衡(キヨハラタケヒラ)であった。「われ、此度、御当家・安倍殿主催の行事応援として父武則を代表して応援に参上致した。其が面前を御通りに一応の挨拶もなく素通りとは非道い御仕打で御座る。めったに此場は御通し申さぬ、素通りは叶わぬ事、御女中いやさ。」御女中とは云わせておかぬ安倍の卯花姫、早々に此場に御座はり召されと云うて止めた。
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卯の花姫物語 ⑨卯花姫義家との恋愛 

 卯花姫義家との恋愛

 はっと答えた姫は、静かに御帳台の中に這って義家が身近に進んでいった。恭々しく長柄の銚子取り上げて、差し出す盃になみなみと注いだ。静かに銚子を置いた拍子のその瞬間、互に見交わす視線と視線がばっと合った。姫はぼう・・と頬に紅潮が差し上った。斯うした一瞬にして姫が一生の運命が決定づけられて終わったと云う。扨ても人生の運命と云うものは如何に神様が御支配と云うても、妙不思議極まるものである。とは云うもののこれも全く道理のことであると云うのは、この義家と云う人は、生まれつき身体は余り大きい人ではなかったが、容顔華麗で色飽く迄で白く、品格気高く、誰が見ても神々しい様な感じをする。一度会っただけで自然威圧される様な中にも、非常な慕わしい様な感じがする風格の人で、世人一般から八幡殿以外の名前で呼ばれたことのないと云われたのである。それは一般男性の人でさえ、己にそうした感じであると云う。云わんや青春妙齢の女性で、正に人世の妙味をこれから大いに甘受せんとして燃ゆるが様な二十八の早熟女性であった姫が場合においておやである。当然たるの当然過ぎて、むしろ大なる同情に価するものと思うものである。義家が呑む盃が干る間が遅しと待ち兼ねて、重ね重ねの酌取りに、一生懸命を尽したのも又想像に余りあるものである。
 此時丁度、義家が後ろで髪切り丸の宝剣の鐺りを紫の袱裟でおさえ端然として着座しておった一人の武士。主人義家と同年の十七才。義家が片時も側をはなさぬ愛臣高木新三郎家経と云う文武に秀でた家来であった。義家やおら声をかけて、あいや家経其方も一応剣を茲において、一盃かたむけて宜しかろう。早う家経が酌を頼むと云うて、姫が召し仕いの侍女に顋をしやくつた。之又姫が片た時も側をはなさぬ愛臣の侍女で、藤原経清が姫で桂江(カツラエ)と云う、姫と同じ年の二八、十六才で才気衆に優れた女丈夫の美人であった。最前から其御言葉ばかり遅しと待っておりましたと、口にこそ云わないが、「はっ」と答えて家経が御酌を一生懸命、主人に負けずと注いだ。まるで姫と桂江が御酌の競争が始まった様なものであったのだ。
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卯の花姫物語 ⑧安倍家報恩の餐宴

 安倍家報恩の餐宴 上巻
 慰霊祭を終わした後から翌年餐応の催し準備にかかっていた。愈々天喜二年(西暦1055年)の春がやってきた、其旨国府にも届けて許可を得た。其の趣向の内容は斯うである。全く敵意のない真を表することを旨とした趣向によって、召連れ行く家来の男は、人夫を差図する係の者極小数の者とした。餐応接伴の席上は、悉く奥州粒選り揃いの美人一層のもてなし方とした趣向である。
 其の期日は四月十五日と定めておいた。順序は貢献の物品を先として、安倍家の物から始まった。国府多賀の城門に向かって国産の貢物を担ぐ人夫の行列が進物奉行の下知に従って進んで行った。(当時奉行とは今で云う担任と云う意味である)其献上の品々には真っ先に弓矢、太刀、砂金三千両、呉服物二百領、奥州名産の鞍置馬五十疋、中折紙三百束、海豹の滑し革三百枚、千鯛一千尾、鋳物数品、蜘蛸二千連、悉く白木の台に載せて城内に担ぎ込む、其人夫陸続として前なる者は早門内に這入ったが、あとの者が安倍家の宿舎と定めた栗原寺の門を出来上がらないと云う豪勢なものであったと云う。
 其地奥羽両州の応援の輩・清原氏以下身分の上下に応じて貢献したが省略した。
 当時使用の料理酒肴の一切は、御膳部奉行の下知によって宿舎の台所で朝早くから調理を終わした。大勢の人夫をして城中に持ち運んで行った其行列又陸続として城門に続いた光景であった。席は城中の大広間、正面御帳台の上段には将軍父子の御座である。下段左右の両側に、重臣の面々につづいて各将校級の連中がずらりと居並んだ。 其次の席は両国応援の各豪族連中が着席した。将軍父子と真向かいになって横に並んだのは、其日の行事主役・安倍の一族一同の者であったのは云うまでもないことである。
 式開会の挨拶から貢献の物産品目の披露等は、係の家来が一切を奉行して萬端滞りなく相済んだ。配膳一切は御膳部奉行の家来が凡てを受け持って滞りなく配って置いた。配膳の上には山海河川の珍味渦ず高く盛り並べ、真に善尽し美を尽した。其結構の様は、全く目を奪うばかりのものであった。
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