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卯の花姫物語 2-⑨ 清原武則の向背

 清原武則が向背の決定

 斑目四郎武忠が方へ、姫が処を中々手ごわい娘である、が其のうち何とかして騙したり透かしたりして承知をさせる様にしてあげるから、その節はどうぞ宜しく位にしておいた。
 どうも此の戦争外交と云うものは、本当に妙ちくりん極まるものである。色々の事情が卍巴にからまり付いたり、又ほぐれたりしてもつれておる内に年月が長期に亘ることがあるものである。向こうの望みに見込みがない事が判ったからとて、そう正直に封切った事を知らせてやれば、向こうに失望を与える事になる。従って敵の方に走られて大変だと云う関係がある。
 それを手加減をしたあしらい方をしておくと、こちらにも直ぐに付いてこないが、又向こうにも行かないと云う事があるからである。斑目四郎は、こうした云い分を真に受けてもとより惚れた女であったから、空ら頼みを胸に描いて恋火を炎々と燃やしている。
 清原武則は深沈大度の老将であったので、如何に最愛の四男武忠が熱望による安倍方にだとしたとて、そう早計においそれと其の要請に応ずるものではない。さりとて断然と退けて終うと云う挙にも出てない。其の態度は官軍の方へも同断であった。去就両端をじして、じっと両軍の動静を重視して警戒の眼を放さないと云う。まあ以上の様な対峠のままで、康平五年(西暦1062年)の年迄で、五年の歳月が流れて終わった。
 其のようの処迄でになってくると云うと、こちらは官軍で向こうは賊軍であるのに間違いはない事である。奥州では大したものであったにしても対手は日本全国であるのに其の大将は源氏の大将頼義と云う名将である。  兵力増強が完備してくれば素晴らしい大軍となる。そうなってからようやく官軍の味方に付いたのでは、己に時機を逃したというものである。それよりはむしろ官軍の兵備が少ない今の内に官軍に馳せ参じて、清原一門の大軍を合流した戦闘力を以て徒討の実を全とうするを得たと云う戦果に終戦を迎うるのが、吾が一門の有利此のうえや有る可らずと云う事に決定したとは流石老将の清原武則であったのだ。

卯の花姫物語 2-⑧ 源義家の人物

義家の人物

 そこで義家は件の大弓を法皇が御枕元に御供え申し上げて置いたれば、翌朝迄でゆったりと御安眠なされたと云う事である。
 後で法皇が義家を御召しになって御座所近くに御呼びなされた。そちが弓矢の徳は名医妙薬にもまさる効き目であったぞよと仰せられた。義家畏って、いささかなりと御用に足りましたる段身に余る光栄と存じますると申し上げた。法皇重ねて、あれなる霊弓は奥州の徒戦に於いてそちがみずから手に執った弓であったろうがのう・・・と御問いになった。御言葉かたじけのう存じますが、臣義家一向に記憶が御座いませぬと申し上げたと云う事である。
 まことにあっさりとしたものである。まあ・・どの弓で御座いましたかのうと云う意味のものである。普通の人であったならばそこで其の弓にちなんだ戦話で、もしそうなものであると思う。然かし又彼は彼れたるの価値はそれでこそである。謙譲の美徳を具備した名将であるとは其のことである。
 以上の様に、白河法皇が御悩を弓弦を鳴らして止めたと云う事は御目出度い、好い事であつたと云う吉例となって後世に伝えられ、凡て御目出度い時の儀式に鳴弦の法と云う一つの形式行事となって今でも行われておるのである。白河法皇が非常な愛臣であったと云う御信任である上は、皇室から下は津々浦々に至る迄で義家崇拝熱が非常に盛んなものであつた。八幡殿と云えば三尺の童子も軍の神様と云う事を知っていたと云われたものであった。
 以上、義家が人となり全体の概要であるが、其のように万人から好かれる義家が人柄を、姫は最初から見通して深く惚れ込んだのである。今更、斑目四郎が女房にやるために諦めろなんて云われた処で、たとえどんな事情があってだろうがなかろうがを問わず、姫が承知されなかった事などは当たり前などが通り過ぎて、涙で同情を注がないではいられない程可哀想な事であったのだ。いわんやそれに加えるに義家の方から、現在でさえ北上川の河の流れが逆さに流れるとも俺が心に変わりがない意味の手紙を貰っている姫が身に於いておやであったのだ。最も義家が方でも、姫が人物の優れているのに見込みをつけておったので、あくまで愛を注いで止まなかったのである。今では貞任も姫が心をひるがえす事が能はないのが判つきり解ったが、そうだからとて其の旨判っきり封切ってはやられない。と共に又姫を古寺の山中に隠しておいた事も知れない様にしておる。

卯の花姫物語 2-⑦ 横恋慕の立場有利に

 斑目四郎が横恋慕の立場益々有利

 以上説いた様に清原武則がどちらに就くかの如何んは重大の中の重大で、周囲の国へ中央政府から派遣になっている文官の国司が応援などは有っても無くても同じことだと云う程度のものであった。情勢己でに以上の様であったからは其清原武則が最愛の四男と云う地位にある斑目四郎武忠が存在も隅には置けない価値となっておったのは云う迄もない事実である。
 彼が姫を恋しておった多年の宿望を達し得られると思う一念がむらむらと起こってきたのである。元来吾がまま者で通して来た彼は、父の許しなど待っておられない、勝手に安倍貞任が許に外交手段の交渉を開始した。姫を俺が妻に呉れる事を承知して呉れるならば父武則を進めて納得させ一門を挙げて御身に味方して協力するから俺が望みも叶えさせて下さいの意味の手紙をどんどん送ってやる。貞任も常になら斑目四郎が存在などは余り大した事には思っておらなかったがこうした場合はそうはいかない。せつない説きにはわら一本にもたぐり付きたいのは人情のならいである。いわんや重大の中の重大問題である。早速文書で右の趣を古寺の山中に囲こまって置いた姫が許へ通じてやる。父の手紙が行く度に反対々不承知々の返事一点張りであった。
 姫が心ではたとえ父の為だろうが安倍家一門の為だろうが、私が為には大事な々八幡殿を諦めて斑目四郎が嫁に行けなんと云う無理な命令に身でも従わないと云う決心であるから誰でも叶わないとはこの事である。遂々終いには父を反駿の書面をよこすと云う始末であった。其の文意はこう云うものであった。父上様はそんなに私の恋路を左右なさるならば貴方が今度の戦乱を起こされたのは女故のことからでは御座いませんか。私の恋愛ばかりをそんな無理に左右なされるとは何事で御座いますかと云う。又そればかりではなかった。始めて私が蜂満殿に見え奉ったのは父上様がご命令を遵奉して彼の殿に従い申しました。今更こんな私にして終まわれたのは皆貴方が責任で御座いますようと云う意味でなかったのである。

卯の花姫物語 2-⑥ 姫が諌めを

 姫が諌めを貞任が退ぞけた

 八幡殿が人物を見込んで惚れた姫の恋愛があきらめられないのは勿論であったが、どんな父でも親はまた親である。どんなことをしても父をどこまでも叛逆人にはしたくない一念からも諦められないのも人情のならいである。生まれ賢い姫は今度勝った戦の直後こそは降参して哀願を乞うのに絶好の機会だとは頭の聡とい姫だからこそ敏感に考えついたのであったのだ。
 早速父が前に行って和漢古今のためしを説いて叛逆が成就して栄えたためしが無い条理をただして諄々とそれには今度味方の勝利こそ免すべからず好機会である事迄で語ったが、貞任戦勝の勢いに気力隆々の時であったので、姫が大いに怒って汝義家が色香に迷って父を誹謗し義家に心を寄せる不届至極の不孝者奴と云うて叱ったので姫も力無く涙と共に父が前を下がって来た。
 国府多賀城に於ける頼義義家の両将は一回の戦が敗戦であった位の事で不撓不抜の精神がぐらつく様な大将とは大将が違うと云う古今独歩の名将である。飽く迄叛賊征討の策をめぐらして追討の実を挙げて任務を果たさで措かぬと云う固い決心である。
 名将の下に弱卒なしのたとえに漏れずと云う部下の将卒が小勢乍らの堅陣体制であったから安倍の方が如何に士気が旺盛に挙がっておったからとて、うっかり向こうから逆襲してくるなんと云う訳にもいかんのである。まず相方対峙状態と云うままになっておったのである。茲で安倍貞任も姫が諫めを怒って一旦は叱ってみたものの貞任も元来生まれが賢い知勇兼備の大将であったから落ち着いてつくづくと考えて見た。今度の戦の起こった源と云えば自分が一婦人の色香に迷って間違いを出したことから始まったのである。姫が処ばかり義家を慕おうと心を思い切らないのが悪いと云うて叱ってばかりはいられない訳だと考えた。娘がところばかりに責めるは無理だと云う事に気づいた貞任は、然らばとてこのままにしてはおかれない。どんな処置をとったらよかろうと考えた末に、あっと云うと思いついた良いことがあると一人口を云うた。

卯の花姫物語 2-⑤ 頼義父子死地を脱出

 頼義父子死地を脱出

 愈々からだは綿の如くに疲れ果て、矢種も既に尽き果てて終わった。吹雪はひうひうと吹いてくる。このうえ敵の追撃が果てしなく長追いをかけられる上には、髪切り丸の宝剣にもの云わせて、群がりかかる敵兵を切って切って切りまくり、父を逃がして我が身はこの場に打ち死を遂げんと覚悟を極めて、彼方を睨んでおった。 丁度その時であった。入れ替わり立ち代わり追いかけ迫ってくる敵の追撃隊が、またも先き手に代わらんと呼ばり乍ら進み来た新ら手の一隊其勢僅か三十騎にもたらぬ小勢であったが、率いる隊長の武者はそれ者打て打て、と烈しい号令のもとに差しめ引きつめ切って放つその矢はばらばらと射かけてくるが、不思議なこともあるものであった。其の矢は頭上遥かに飛び散るばかりであったのだ。
 義家乙は又いぶかしやとやおら彼方をきっと見渡した。其の隊長の武者は、年は二十才にも足らぬ花にもまごう美少年で卯の花おどしの大鎧、金鍬形の前立てに竜頭の兜を冠って連銭草毛の駒に金覆輪の鞍置いて、白と紫を染め分けの手網をかいくり南ばん鉄の鐙を踏ん張り馬上豊かに悠然と打ちまたがった。武者振り優美の青年将校であった。馬上乍らの大音声にああ・・いや敵の御将軍にそもぢ乍らも一矢参らせんと云うかと見る間もあらばこそ、風を切って飛んでくる矢文みを結んだ一本の矢が義家が足元近くにぶつりとばかりに突き刺さった。取る手も遅しと抜き取って開いてみれば、正しく姫が筆跡である。
 「戦場の走り書き恐れ入り候。今日は一時も早く落ち延びの程、御願いに候。委細、家経様に申し上げ置候。ただ今直ぐにも、君の御そばへ飛んでも参りたく候へども、ままにならぬ浮世で之有り候。御察しの程御願い申し上げ候
  天喜五年十二月三日
          弊女卯花 恐惶謹言
 恋しき殿御の八幡殿へ  」

 読み終わった義家は、深く姫が厚志を謝しつつ、後とをも見ずに一散走りに山を下って来た頼義が一行に追いついて、一緒にやがて二町程を下って、道が二またに分かれた処があったので、今は敵兵も追い来る者も無かったから、主従の一行もどちらを下ってよい道かと暫し迷っておった程度のその時であった。右道の下の方からとぼとぼと上ってくる、蓑笠に身を固め小刀一本差した百姓体いの男がいた。義家早速其の男に道案内を聞かんとして呼び止め言葉をかけた。