若者達へ ②父なる川・最上川

 「悲しすぎる子供達」の続編として,「最上川冒険の旅・200キロ」について書いてみたい。平成10年に行われたこの事業は、山形県の子供達を募集し、2泊3日で最上川源流の地・長井から酒田までボートで下るものである。キャッチコピーは「最上川よ、父の強さをこの子達に与えたまえ。母なる心を持ってこの子達を守りたまえ」。長井と新庄市の子供、さらに東京の子供も参加し、15人になった。スタッフは、職場の同僚や坊さん、学校の先生、そして万全を期すために国土交通省、建設協会のバックアップもいただいた。
 初日は、長井に集まり、ボート から落ちたときの練習をやり、長井の参加者の自宅に民泊。翌朝、緊張した顔の子供たちは、それ以上に心配げな両親に見送られていよいよ出発。その日は、村山市の松田清男さんが主催する「卒業のない学校」に宿泊。カレーライスを自分達でつくり、楽しく過ごさせた後に、松田学長の講話の時間である。子供達には、「先生から足をくずして良いですよ」と言われるまでは、正座しなさいと伝えていた。板の間にである。その姿を見て、松田学長は「君達の姿勢は素晴らしい。背骨は人間の柱である」と話して、「山形県民歌」を教えてくれた。県民歌は、昭和天皇の句に島崎赤太郎が曲をつけた歌であり、超レアものである。
 「広き野を流れゆけども 最上川 海に入るまで 濁らざりけり」
 そして2日目は、新庄市の本合海が終着点。そこで、最上川観光会社の会長である押切六郎さんの講話を聞き、本合海地区の人達が作ってくれたバーべキュー大会と花火大会を楽しんだ。子供達が宿舎に帰る時間が近づき、押切さんが子供達を集めて話をした。
 「最上川は山形県の背骨である。君達はその最上川を下って、ここまで来た。君達よ山形県を背負う人間になれ。私が、南洋の戦地にいた時に戦友と共に県民歌を歌ったんだ。その歌を君達と一緒に歌いたい。」と。
 押切さんを中心にして「広き野を、流れ行けども、最上川」と歌い始めたときに、子供達は涙で声を詰まらせて歌を歌えなくなっていた。宿舎に帰るときに、一人一人が、押切さんと泣きじゃくりながら、握手をしていた。
 
2013.01.30:orada:[変な民族学4巻 若者達へ]

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