卯の花姫物語 ⑬姫と義家の別れ

姫が義家との別れ

 其の趣を姫が所へも伝えられたのは云う迄もない事であった。たとえ一旦の別れですと云うても、あれ程恋しい八幡殿がお側から離れて故郷に遠く帰っていくのは、姫が胸の中は血を吐くばかりの悲しい思いであったのだ。でも頼義公が厚い温情のあふれた御取り計らいを考えて見れば、之れ皆恋しい、可愛い殿御の御身の為め。ひいては私共の身の上まで思うて下さるからこそのご教訓である。八幡殿の御身の為になる事でさえあったならば、どんなつらい事でも忍のばねばならないと思うのだった。元より賢い生まれの姫は、胸に分別して茲に涙を呑んで、一旦別れて帰る事を承知したのである。
 愈々出立の前夜は、義家を迎えて一晩中名残り尽きせぬ寝物語りに、飽かぬ別れを惜しみつつ夜を明かした。其の翌日、高木新三郎家経に送られて桂江と荷物を背負った下部二人とを従えた五人連れで、故郷の衣川へと出立した。其のようにやがて来る義家が正室となる希望を前途に描きつつ、一旦の別れの心づもりで別れたのが、一生の別れとなって終うとは神ならぬ身の知る由もない。後にぞ思い知られたのである。
 其の年も早くれて天喜三年(西暦1055年)となった。姫が毎日指折り数えて待ち兼ねておるのは、一時も早く国司の満期が来て、八幡殿が京に帰還して頼義公のお計らいをもって、八幡殿が正室として迎えの使者が晴れて堂々と来て貰う楽しい日がくるばかりを唯一の希望として暮らしていた。いつでも文の御使いとして家経が来たときは、必ず返事の文をやる。返事をやるとしても向こうから返り言ばかりでなく、家経から君が近況について色々聴いたのによっても書き加えてやらなければならないから、いつでも三四日の逗留になるのは普通のことであった。
 夜分に主従三人で話し語りの折りにふれて、姫はじょうだんに漏らすのに、「早く八幡殿の御側に行きたい。御身達ばっかり時折遇って楽しそうな様子を見ると羨ましうて仕様がない。ほほ・・・。」なんと云うて笑い興ずる事などもあったと云う。愈々其の年も天喜四年(西暦1056年)はやって来た、鎮守府将軍兼陸奥守源朝臣頼義が陸奥の国司満期完了の年となったのである。
2012.12.31:orada:[『卯の花姫物語』 第壱巻]

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