奥州平和の天地 下巻
なる程第一に乗り込んで行って其中の一番の(ビフテキ)をせしめるんだと云ったつけ奴っあ誰だっけなぁ・・君なんか、そればり見込みでやって来んだろう・・あんまりろくでもない事ばり狙っていると罰あたるんだよ、などと評判しながら集まり勢の軍兵は各々引き上げて終わった。
この様にして流石奥羽の天地に猛威を振った安倍の一族も頭をのべて哀れを乞うて膝行したと云う評判が、奥羽の全土に伝わったから、諸方の小豪族は先を争って鎮守府将軍頼義の館に参勤。様々の土産の貢物を棒げてご機嫌伺いに膝行すると云う、恩赦並び行わる頼義の治下に属しては、民百姓も泰平の恩沢に浴くして大満足で家業に励むと云う。出羽奥羽の天地に花咲きかおる、のどけさであった。
そうした間の歳月は流れて、翌年の天喜元年の秋となった。安倍の一族の間にもつくづく考えたことには、この様に如何に大赦令であったとしても、あれ迄での謀反を起こして前国司の軍兵に多数の死傷者を出した吾が一族であった。頼義公が寛仁大度の御寛典で無かったならば、丸っきりの無罪では済まなかったでありましょう、と考えた末にこう云う事に決定した。
報恩謝徳の誠意を表する旨によることを行う一つとして、今年中に、鬼切部合戦の戦病死者の霊を弔う法要供養の慰霊祭を執行する。次に来たる明春を期して国府に参勤の上、将軍父子を初め幕下の将士へご招待の大餐宴を開催した上に、国産の物品を貢献する。以上のことを安倍家一門で決定して、奥羽両国の豪族連中へ使者を以て振れ巡り、応援賛成を求めた。
使いを受けた豪族共も奥羽二州第一の大豪族・安倍家が行うと云うのでもあり、且つ報恩謝徳と云う善行でもあるので、誰一人の異存者もない賛成となったのである。
そこで改めて、正式に国府に届け出して許可を得た上で準備にかかった。
先づ其年は、国府の菩提寺栗原寺に於いて、鬼切部合戦官軍の戦病死者が法要慰霊を、将軍父子臨場の上、数多の僧侶読経を懇ろに終了して盛大裡に執行した。
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