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卯の花姫物語 ⑩

城中餐宴の終了
 其の様な酒宴最中の様相をずっと眺めた、大将頼義やおら声を発して、ああいや、こりや義家之、はは・・・吾々両人が何つ迄も此席上におっては一同の者は迷惑の至りであろう皆の衆はこれから大いに楽しみは多いと思う吾々二人はここら潮合いを見て退座至してよかろうぞよ。義家かたちを改めて畏まつて御座いますと云うて父に向かって頭を下げた。いざや立たんと云うて係の家来に伝えたので、係の武士が立ち上がって大音声に御大将の御立座と呼ばった。一座一同は、はは・・つと云うて一斎に低頭平身した。すくっと立ち上がった大将頼義つづいて義家、高木家経に宝剣持たせたのを従えて立ち上がった。係の女中が二人左右から正面の唐紙すっと開いた処から静々と奥殿に這入って行った。直ぐに唐紙がばちっと閉められた。
 いや喜んだのは一同の皆の衆であった。あ・・いや各々方凡て酒宴は目の上の瘤の親玉を目の前に置いては本当にうまい味じゃないものだ本当の楽しみはこれからじゃと云うて呑んでいる始末、こうした一同の喜びに反対の悲しい思いであったのは卯花姫主従の二人であった。こんな嬉しい思いの日は千年もあって欲しい思いになっておった処を出し抜けに見ておる前から宝の玉を取り上げられた様にされたので、二人は只ぽかんといて終わった。泣かんばかりの悲しい思いになった。桂江は姫様君、姫は桂江之・・と云うて二人は互いに顔見合わせた、最早や帰ろう、御姫様早よう御帰りが宜しい御座いますと云うて二人は静々御帳台から下って来た。
そうして下がってくるその時であった丁度接伴方応援衆が上席の処の前を通りかかった時であった。やおら声をかけた一人の武士、酔眼豪朧となってああ・・・いやそこを御通りの御女中暫らく待たつしやい・・・其事は出羽の国の住人清原武則が四男にて斑目四郎武忠(マダラメシロータケタダ)後の清原武衡となったのの前身(キヨハラタケヒラ)と申する者此度御当家安倍殿主催の行事応援として父武則を代表して応援に参上致した其が面前を御通りに一応の挨拶もなく素通りとは非道い御仕打で御座る。めったに此場は御通し申さぬ、素通りは叶わぬ事、ささ御女中いやさ。御女中とは云わせておかぬ安倍の卯花姫早々此場に御座はり召されと云うて止めた。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑨

卯花姫義家との恋愛
 はつと答えた姫は静かに御帳台の中に這って義家が身近く進んでいった、恭々しく長柄の銚子取り上げて差し出す盃になみなみと注いだ。静かに銚子を置いた拍子のその瞬間互に見交わす視線と視線がばっと合った。姫はぼう・・と頬に紅潮が差し上った。斯うした一瞬にして姫が一生の運命が決定づけられて終わったと云う。扨ても人生の運命と云うものは如何に神様が御支配と云うても、妙不思議極まるものである。とは云うもののこれも全く道理のことであると云うのは、この義家と云う人は生まれつき身体は余り大きい人ではなかったが容顔華麗で色飽く迄で白く品格気高い誰が見ても神々しい様な感じをする。一度会っただけで自然威圧される様な中にも非常な慕わしい様な感じがする風格の人で世人一般から八幡殿以外の名前で呼ばれたことのないと云われたのである。それは一般男性の人でさえ己にそうした感じであると云うのに対して云わんや青春妙齢の女性で、正に人世の妙味をこれから大いに甘受せんとして燃ゆるが様な二八の早熟女性であった姫が場合においておや、当然たるの当然過ぎてむしろ大なる同情に価するものと思うものである。義家が呑む盃が干る間が遅しと待ち兼ねて重ね重ねの酌取りに一生懸命を尽したのも又想像に余りあるものである。
 此時丁度義家が後ろで髪切り丸の宝剣の鐺りを紫の袱裟でおさえ端然として着座しておった一人の武士。主人義家と同年の十七才、義家が片時も側をはなさぬ愛臣高木新三郎家経と云う文武に秀でた家来であった。義家やおら声をかけて、あいや家経其方も一応剣を茲において一盃かたむけて宜しかろう。早う家経が酌を頼むと云うて、姫が召し仕いの侍女に顋をしやくつた。之又姫が片た時も側をはなさぬ愛臣の侍女で、藤原経清が姫で桂江(カツラエ)と云う姫と同じ年の二八、十六才で才気衆に優れた女丈夫の美人であった。最前から其御言葉ばかり遅しと待っておりましたと口にこそ云わないが、はっと答えて家経が御酌を一生懸命、主人に負けずと注いだ。まるで姫と桂江が御酌の競争が始まった様なものであったのだ。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑧

安倍家報恩の餐宴 上
 慰霊祭を終わした後から翌年餐応の催し準備にかかっていた。愈々天喜二年の春がやってきた、其旨国府にも届けて許可を得た。其趣向の内容は斯うである。全く敵意のない真を表することを旨とした趣向によって召連れ行く家来の男は人夫を差図する係の者極小数の者とした餐応接伴の席上は悉く奥州粒選り揃いの美人一層のもてなし方とした趣向である。
 其期日は四月十五日と定めておいた。順序は貢献の物品を先として、安倍家の物から始まった。国府多賀の城門に向かって国産の貢物を担ぐ人夫の行列が進物奉行の下知に従って進んで行った。(当時奉行とは今で云う担任と云う意味である)其献上の品々には真っ先に弓矢、太刀、砂金三千両、呉服物二百領、奥州名産の鞍置馬五十疋、中折紙三百束、海豹の滑し革三百枚、千鯛一千尾、鋳物数品、蜘蛸二千連、悉く白木の台に載せて城内に担ぎ込む、其人夫陸続として前なる者は早門内に這入ったが、あとの者が安倍家の宿舎と定めた栗原寺の門を出来上がらないと云う豪勢なものであったと云う。
 其地奥羽両州の応援の輩清原氏以下身分の上下に応じて貢献したが省略した。
 当時使用の料理酒肴の一切は御膳部奉行の下知によって宿舎の台所で朝早くから調理を終わした、大勢の人夫をして城中に持ち運んで行った其行列又陸続として城門に続いた光景であった。席は城中の大広間、正面御帳台の上段には将軍父子の御座である。下段左右の両側に重臣の面々つづいて各将校級の連中がずらりと居並んだ。
 其次の席は両国応援の各豪族連中が着席した。将軍父子と真向かいになって横に並んだのは其日の行事主役安倍の一族一同の者であったのは云うまでもないことである。
 式開会の挨拶から貢献の物産品目の披露等は係の家来が一切を奉行して萬端滞りなく相済んだ。配膳一切は御膳部奉行の家来が凡てを受け持って滞りなく配って置いた。
 配膳の上には山海河川の珍味渦ず高く盛り並べ真に善尽し美を尽した。其結構全く目を奪うばかりのものであった。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑦

奥州平和の天地 下
 なる程第一に乗り込んで行って其中の一番の(ビフテキ)をせしめるんだと云ったつけ奴っあ誰だっけなぁ・・君なんか、そればり見込みでやって来んだろう・・あんまりろくでもない事ばり狙っていると罰あたるんだよ、などと評判しながら集まり勢の軍兵は各々引き上げて終わった。
 この様にして流石奥羽の天地に猛威を振った安倍の一族も頭をのべて哀れを乞うて膝行したと云う評判が奥羽の全土に伝はつたから諸方の小豪族は先を争って鎮守府将軍頼義の館に参勤、様々の土産の貢物を棒げてご機嫌伺いに膝行すると云う、恩赦並び行わる頼義の治下に属しては民百姓も泰平の恩沢に浴くして大満足で家業に励むと云う、出羽奥羽の天地に花咲きかおる、のどけさであった。
 そうした間の歳月は流れて翌年の天喜元年の秋となった。安倍の一族の間にもつくづく考えたことには、この様に如何に大赦令であったとしてもあれ迄での謀反を起こして前国司の軍兵に多数の死傷者を出した、吾が一族であった。頼義公が寛仁大度の御寛典で無かったならば丸っきりの無罪では済まなかったてありましょうと考えた末こう云う事に決定した。
 報恩謝徳の誠意を表する旨によることを行う一つとして、鬼切部合戦の戦病死者の霊を弔う法要供養の慰霊祭を執行する今年中に。次に来たる明春を期して国府に参勤の上将軍父子を始め幕下の将士へご招待の大餐宴を開催した上に国産の物品を貢献する。以上のことを安倍家一門で決定して奥羽両国の豪族連中へ使者を以て振れ巡り応援賛成を求めた。
 使いを受けた豪族共も奥羽二州第一の大豪族安倍家が行うと云うのでもあり、且つ報恩謝徳と云う善行でもあるので誰一人の異存者もない賛成となったのである。
 そこで改めて正式に国府に届け出して許可を得た上で準備にかかった。
 先づ其年は国府の菩提寺栗原寺に於いて、鬼切部合戦官軍の戦病死者が法要慰霊を将軍父子臨場の上数多の僧侶読経懇ろに終了して盛大裡に執行した。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑥

逆賊降伏奥州の平和
 追討の大軍は鬼おも拉しぐ坂東の荒らくれ武者を以て中堅とした編成の軍勢である。卒いる大将は天下に隠れもない、名将の誉れも高い源氏の大将父子と聞いてはどうしても勝ち目がない、これではたまらないと只々呆れ果てて終わった。そうした圧倒的の対照となると、たとえ味方にも智者や勇者がいても其勇をふるわず其勇をめぐらさず、只茫然として終うものである。流石の頼時父子も官軍の軍門に首をのべて降伏するよりないと未だに口にこそ出さないが心の中で閉口しておった。
 そうした矢先に丁度都合のいい事が出てくれたと云う事には偶々御上に御目出度い事があったので、大赦令が発布された。それが全国布達になって来たので喜んだのは安倍の一族共であった。早速頼義将軍の軍門に無条件降伏をした。追討軍の方でも大赦令のことでもあるので降参をすると云うならばそれで免してもよかろうと云うので軍議の上即座に無罪放免の云い渡しをしたのである。安倍家では取り敢えず一族を挙げて国府の多賀城に参勤して貢ぎ物の金銀財宝山の様に貢献して恭しく赦罪敬意の念を表したのである。そうして戦がなくて済んだが、当時国司が一期の任期の四カ年であったので鎮守府将軍兼陸奥守の任期がその後四年であるので、そのまま国府の多賀に在城して泰平の国府を執ることになったのである。そこで平和の裡に政事を執っておるのに大兵を常備に駐屯して置く必要はない。事ある時はいつでも馳せ参んずることとして将軍直属の将兵を残した外の大軍は一旦召集を解除して各々国へ帰すことにした。
 不平たらたらであったのはそうした将兵連中の人達であった。おいおい何んだい茲まで遠々やって来て矢一本打つぱなさないで、むざむざ帰るとはあっけがないな・・・何んぼ大赦令だからと云ったとて直ぐ無条件で免るして終うなんて俺あ・・・反対だ、これじゃ全く分捕り巧名も出来たもんじゃない。おいおい君ちと当てがはずれ過ぎたないや、衣川の城中にや奥州美人の粒選り揃いが千人もいたと云うことであったざい・・・えと云う噂とりとりの話。
2012.07.07:orada:コメント(0)