HOME > 記事一覧

卯の花姫物語 ⑰

斑目四郎が横恋慕の立場益々有利

 以上説いた様に清原武則がどちらに就くかの如何んは重大の中の重大で、周囲の国へ中央政府から派遣になっている文官の国司が応援などは有っても無くても同じことだと云う程度のものであった。情勢己でに以上の様であったからは其清原武則が最愛の四男と云う地位にある斑目四郎武忠が存在も隅には置けない価値となっておったのは云う迄もない事実である。
 彼が姫を恋しておった多年の宿望を達し得られると思う一念がむらむらと起こってきたのである。元来吾がまま者で通して来た彼は、父の許しなど待っておられない、勝手に安倍貞任が許に外交手段の交渉を開始した。姫を俺が妻に呉れる事を承知して呉れるならば父武則を進めて納得させ一門を挙げて御身に味方して協力するから俺が望みも叶えさせて下さいの意味の手紙をどんどん送ってやる。貞任も常になら斑目四郎が存在などは余り大した事には思っておらなかったがこうした場合はそうはいかない。せつない説きにはわら一本にもたぐり付きたいのは人情のならいである。いわんや重大の中の重大問題である。早速文書で右の趣を古寺の山中に囲こまって置いた姫が許へ通じてやる。父の手紙が行く度に反対々不承知々の返事一点張りであった。
 姫が心ではたとえ父の為だろうが安倍家一門の為だろうが、私が為には大事な々八幡殿を諦めて斑目四郎が嫁に行けなんと云う無理な命令に身でも従わないと云う決心であるから誰でも叶わないとはこの事である。遂々終いには父を反駿の書面をよこすと云う始末であった。其の文意はこう云うものであった。父上様はそんなに私の恋路を左右なさるならば貴方が今度の戦乱を起こされたのは女故のことからでは御座いませんか。私の恋愛ばかりをそんな無理に左右なされるとは何事で御座いますかと云う。又そればかりではなかった。始めて私が蜂満殿に見え奉ったのは父上様がご命令を遵奉して彼の殿に従い申しました。今更こんな私にして終まわれたのは皆貴方が責任で御座いますようと云う意味でなかったのである。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑯

姫が諌めを貞任が退ぞけた

 八幡殿が人物を見込んで惚れた姫の恋愛があきらめられないのは勿論であったが、どんな父でも親はまた親である。どんなことをしても父をどこまでも叛逆人にはしたくない一念からも諦められないのも人情のならいである。生まれ賢い姫は今度勝った戦の直後こそは降参して哀願を乞うのに絶好の機会だとは頭の聡とい姫だからこそ敏感に考えついたのであったのだ。
 早速父が前に行って和漢古今のためしを説いて叛逆が成就して栄えたためしが無い条理をただして諄々とそれには今度味方の勝利こそ免すべからず好機会である事迄で語ったが、貞任戦勝の勢いに気力隆々の時であったので、姫が大いに怒って汝義家が色香に迷って父を誹謗し義家に心を寄せる不届至極の不孝者奴と云うて叱ったので姫も力無く涙と共に父が前を下がって来た。
 国府多賀城に於ける頼義義家の両将は一回の戦が敗戦であった位の事で不撓不抜の精神がぐらつく様な大将とは大将が違うと云う古今独歩の名将である。飽く迄叛賊征討の策をめぐらして追討の実を挙げて任務を果たさで措かぬと云う固い決心である。
 名将の下に弱卒なしのたとえに漏れずと云う部下の将卒が小勢乍らの堅陣体制であったから安倍の方が如何に士気が旺盛に挙がっておったからとて、うっかり向こうから逆襲してくるなんと云う訳にもいかんのである。まず相方対峙状態と云うままになっておったのである。茲で安倍貞任も姫が諫めを怒って一旦は叱ってみたものの貞任も元来生まれが賢い知勇兼備の大将であったから落ち着いてつくづくと考えて見た。今度の戦の起こった源と云えば自分が一婦人の色香に迷って間違いを出したことから始まったのである。姫が処ばかり義家を慕おうと心を思い切らないのが悪いと云うて叱ってばかりはいられない訳だと考えた。娘がところばかりに責めるは無理だと云う事に気づいた貞任は、然らばとてこのままにしてはおかれない。どんな処置をとったらよかろうと考えた末に、あっと云うと思いついた良いことがあると一人口を云うた。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑮

頼義父子死地を脱出

 愈々からだは綿の如くに疲れ果て矢種も己に尽き果てて終わった。吹雪はひうひうと吹いてくる。このうえ敵の追撃が果てしなく長追いをかけられる上には髪切り丸の宝剣にもの云わせて群がりかかる敵兵を切って切って切りまくり父を逃がして我が身はこの場に打ち死を遂げんと覚悟を極めて彼方を睨んでおった。丁度その時であった。入れ替わり立ち代わり追いかけ迫ってくる敵の追撃隊がまたも先き手に代わらんと呼ばり乍ら進み来た新ら手の一隊其勢僅か三十騎にもたらぬ小勢であったが、率いる隊長の武者はそれ者打て打てと烈しい号令のもとに差しめ引きつめ切って放つその矢はばらばらと射かけてくるが不思議なこともあるものであった其の矢は頭上遥かに飛び散るばかりであったのだ。
 義家乙は又いぶかしやとやおら彼方をきっと見渡した。其の隊長の武者は、年は二十才にも足らぬ花にもまごう美少年で卯の花おどしの大鎧、金鍬形の前立てに竜頭の兜を冠って連銭草毛の駒に金覆輪の鞍置いて、白と紫を染め分けの手網をかいくり南ばん鉄の鐙を踏ん張り馬上豊かに悠然と打ちまたがった武者振り優美の青年将校であった。馬上乍らの大音声にああ・・いや敵の御将軍にそもぢ乍らも一矢参らせんと云うかと見る間もあらばこそ風を切って飛んでくる矢文みを結んだ一本の矢が義家が足元近くにぶつりとばかりに突き刺さった。取る手も遅しと抜き取って開いてみれば正しく姫が筆跡である戦場の走り書き恐れ入り候今日は一時も早く落ち延びの程御願いに候委細家経様に申し上げ置候ただ今直ぐにも君の御そばえ飛んでも参りたく候へどもままにならぬ浮世で之有り候御察しの程御願い申し上げ候
天喜五年十二月三日
 弊女卯花 恐惶謹言
 恋しき殿御の
 八幡殿へ
 読み終わった義家は深く姫が厚志を謝しつつ後とをも見ずに一散走りに山を下って来た頼義が一行に追いついて一緒にやがて二町程を下って道が二またに分かれた処があったので今は敵兵も追い来る者も無かったから、主従の一行もどちらを下ってよい道かと暫し迷っておった程度のその時であった。右道の下の方からとぼとぼと上ってくる蓑笠に身を固め小刀一本差した百姓体いの男がいた。義家早速其の男に道案内を聞かんとして呼び止め言葉をかけた。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑭

河崎の棚の初戦官軍大敗
 敵の兵力が日をおって増強するの報が次々と忍びの者から伝えられてくる。大将頼義憤然として出陣の決意をした。再任の勅許が届かぬとて国府に在任しておる限りは官軍たるは当然である。大敵たりとも恐れず小敵たりとも侮らず兵家の極意とするものである。敵の勢い益々増大するを手を空なしうして看過を免るさぬ事である。味方の軍勢少数なりとも戦いの勝敗は大将の剛臆によって決するものである。一挙にして衣川の本拠を居って賊徒を悉く誅 して終まえ。と云う命令の許に精兵すごって一千八百余騎、敵の本拠衣川に向かってまっしぐらに進軍した。貞任方においては衣川の前衛として阿騎の棚と云う所に主力を終結して今やおそしと待ち構えておった所に打つつかったので真っ向からの正面衛突で非常な厳しい主力戦となって展開されたのである。(注 いつもおことわりの様に戦争のことは卯花姫物語りによくよく直結した部分の戦さで、そのうちでも始まる動機や結果のみとして戦闘中の様相等は省略することをおことわり致します)
 この戦いの結果り概要だけを書いてみればこうである。
 天喜五年十一月二十九日に始まって十二月三日にいたる四日間の激戦で数倍の大敵と猛吹雪の中においての苦戦、味方全滅の大敗、殆ど頼家、義家が主従僅か六騎と成ってようやく敵の重囲を破って逃た得たと云う結果を招いたのであった。
 然し乍らこの戦いで姫が命をかけて恋慕しておった八幡太郎義家は年二十才の初戦であった。この様な惨敗の中においての戦いにも全く武将として天凛の名将であると云うことを敵味方を問わず立証しないではいられない戦さぶりを発揮したと云われたのであったと云う。
 先に戻って戦闘末期の頼義父子が敗戦逃避の様相は惨たる中にも義家が勇戦力闘はまた目覚ましいものであった。全く部隊行動を失って終わった味方は散り散りばらばらになって逃げた。打たるるに者谷を下って走る者、峰を越えて逃げる者、頼義父子も一旦はぐれて見失っておったが、義家父が安否を気遣い探して一緒になって父子二人従者四人の主従六人で逃げた敵の追跡益々急。
 義家六人の矢を く一手に集めて自ら殿りに止って群がり追いくる敵兵を矢つぎ早手の猛射でばたばたと射倒してはまた味方を追うて走り、また止まって殿り乍ら谷を下って走った。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑭

奥州前九年の大戦乱の始まり
 義家は今度発生した事件が個人的犯罪で。まあ・・・普通今の警察が論説程度のものだとは元より思ったのでないのは云う迄もないが、どうも対手は奥州一の大豪族後世の雄藩に均しいものと云うのでは、たとえ国司の命令であるとしても余り強硬な申し渡しをすると、どう考えてもこれは戦争と云う迄になるじゃないかと思われて仕様がなかった。戦争さえ避けられるならば国府でも十分の満足でないとしてもある程度忍んでもまあ・・仕方ないだろうと考えたのであった、
 そうして治めるには一層安倍家の一門に任せて彼らが手で責任ある処にしろと云う申し渡しに命じた方が一番よろしい方法と考えたのであった。そうしたらまさか安倍家でも吾が息子を死刑にもしないだろうし、責任上無罪にもされまいし、父頼時が命令を以て貞任は  謹慎。家督は次男宗任に相続位の程度の処で事件、落着きになるだろうと思って父を めたのであったがいられなかったので遂々ああした大戦乱に迄なったとはどうしても起らで叶わぬ戦いであったと云うより外ない次第である。安倍家では貞任引き渡しを拒絶して一門をあげて焦土決戦迄での抵抗すると云う事が直ちに国府に処の者の報によって判かったので、どうしても官軍を以て追討するよりないと云う事になった。そこでいざ戦争と云う事になると頼義父子が如何に智謀に富んだ大将とも泰平時の国司の兵力は極めて僅少のものであった。将軍直属の手兵のみと云う手薄のものであった。
 それに反して安倍家の方の軍勢終結は自分が国内から集めるのであるから容易なものである。
 以前奥州征伐として大軍を率いて堂々と始から向かってきた時の情勢とはまるっきり反対である。頼義は早速京都へ急便を飛ばして、安倍の頼時父子の者 す、追討大将軍と陸奥守国司の再任とを朝廷に奏請してやった。一方、関東に於ける源氏の家臣へ軍勢の催促をしてやると共に北陸、東海、東山の方面へ激を飛ばしてやる戦いの準備おさおさ怠りなかったのである。
2012.07.07:orada:コメント(0)