HOME > 記事一覧

卯の花姫物語 22 卯の花姫物語のコミック版をご覧あれ

さてさて,NHKの大河ドラマ以上に,この難解なドラマをここまで読んでくれた人はいないだろう。(じつは,私も読めないのです)

 でも,長井・黒獅子・卯の花姫の関係を,簡単に知る方法があるのですよ。それは,3年前ぐらいのNHK大河ドラマ「直江兼続」で,一躍有名になった,長井市の総宮神社のホームページ(http://www.sohmiya.org/hp/index.htm)に入り,さらに卯の花姫伝説(http://www.sohmiya.org/hp/index2.htm)を覗くと,簡単に理解できすよ。
 覗いてみて,興味が出てきたら,このコーナーにまた来てね!ようやく3分の1が終了。今日から第2ラウンドがスタートですよ。
2012.07.21:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 21

前九年役の戦い終わった後始末

 浮世離れた古寺の山中へも情報が入って行かない訳がない聞いた姫が主従二人の思いはどんなであつたうが現在貞任と経清が娘である。たとえ天子の命令であるとしても手を下でして戦った人は彼ら二人がやがて我が夫と頼んで片時も忘れることの出来ない義家と家経主従の二人が最も力戦奮闘の戦攻者であったと云うに至っては云うに言われぬ憂き思いに沈んだことは想像に 余りあることであったのだ。
  うした中に於いても姫が一行の同勢は正徳上人が深い情けの恩情に隠されて世間に存在を知られぬ様に安隠の生活が保たれておったのだ。一方国府の官軍は其年一ぱいは戦後の始末に関した京都への交渉連絡の往復ばかりに過ぎて終わった。康平六年の春を迎えたのであった。 々二月の始めに去年賊将の首共を塩に漬けて貯え置いたのを京へ送ってやった。正式に逆賊追討の報告を上奏してやったのである。
 それでも未だ何にかれの雑用があって清原家との話し合い等も終わって 々奥州の地を引き上げたのは同年の五月下旬であった。今迄源氏が執っていた官領の事務一切は新しく任命された鎮守府将軍清原武則に引き継いで行ったのである。奥州は引き上げて去ったが京へ真っすぐには未だ帰らない。元来源氏の故知であった相模の国鎌倉に拠つて由井の郷に鶴ケ岡八幡宮を造営して先勝の報告大祭を執行した。
 其年も鎌倉で暮らして 々京へ帰ったのは翌康平七年の春であった。京を追討大将軍として出発した年から丁度十五年であったと云う。終戦後と始末の二年の間には家経を使者として古寺の山中の姫が許に時折の文通はして置いたが 々奥州を立つ時の五月上旬に最後の別れの文み使いを家経として古寺へやったのであった。世が静まってから折を見て忍びやかに越後路を登って京にくる様にと云う意味のものであったと云う。
 朝日別当坊の古寺は当時非常な登山参詣人で繁昌したものであったと云う。宿坊丈けでも何軒もあって物を売る店もあって何商売もいて暮らしになると云う処で今でも古寺千軒と云う言葉が伝えられておるのである。
※ この物語は、まだまだ続きますが、少々疲れたので、今日はこの辺まで。またの投稿をお楽しみに!
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑳

 奥州前九年役の終結

 清原武則が官軍に味方する可く決定した動機は既述の通りであるが、其様にあの長引いておった清原一門の向背が彼時俄かに決定を早めた原因の一つを見逃すことの出来ないのはなんと云うても姫が見通しを付けておった八幡太郎義家が天禀の天才が年を逐うに従って益々燦然として光輝を放って来た。彼が父に従って奥州に遠征して来た当時には極めて年少であったがあの様な兵馬こうそうの間に成人した彼は康平五年を迎えた時には齢己に二十五才の血気正に旺と云う頃であった。彼の様な人と戦などをしたとて勝たれる人間がいるものでないと云う感じが世上一般に判つきりと知れ亙って終わったと云う事が清原一門の決定推進の大なる原因をなした一つである事は又云う迄もない事であったので、清原武則は一門を挙げて官軍の軍勢促進に応じる可くの急使は国府の多賀城を指して急行した。斑目四郎武忠も くなる上は勿怪の幸いだ一層官軍に味方して安倍の一文を一挙に打ち滅ぼして姫を生け捕りにする其戦功に依って姫を懇望してもらい受け非応なしに吾が妻となすを心に描いて勇躍して出陣した。康平五年八月九日清原武則を大将とした一門嫡男荒川太郎、武貞二男、貝沢二郎、武道四男、斑目四郎、武忠以下の軍兵を従えて威風堂々と進軍して来た。
 陸奥国営が岡(タムロガオカ)の官軍の本営に来たって合流した。両軍合わせて一万三千余騎の大軍を以って安倍が本拠衣川の城を一挙に攻略せんとして進軍した。両軍の主力戦が随所で激戦が展開されたが合戦の様相 く省略して直ちに終戦の結果を記して見れば うである。
 安倍貞任、藤原経清以下打死、一旦戦場を逃れた安倍宗任後に降参して義家に仕えて家来になった。戦後の論功、頼義は正四位下伊予守拝受の義家は従五位下出羽守ら任ぜられた。弟義網は左工門少慰に任ぜられた。清原武則は頼義が奏請によって出羽奥州両国の鎮守府将軍に任ぜられたと云う以下将卒の論功は省略した。世上を騒がした奥州前九年の役は以上如 にして終わりを告げたのであった。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑲

清原武則が向背の決定

 斑目四郎武忠が方へ姫が処を中々手ごわい娘であるが其のうち何とかして騙したり透かしたりして承知をさせる様にしてあげるからその節はどうぞ宜しく位にしておいた。
 どうも此の戦争外交と云うものは本当に妙ちくりん極まるものである。色々の事情が卍巴にからまり付いたり、又ほぐれたりしてもつれておる内に年月が長期に亘ることがあるものである。向こうの望みに見込みがない事が判ったからとてそう正直に封切った事を知らせてやれば向こうに失望を与える事になる。従って敵の方に走られて大変だと云う関係がある。
 それを手加減をしたあしらい方をしておくと、こちらにも直ぐに付いてこないが、又向こうにも行かないと云う事があるからである。
 斑目四郎は、こうした云い分を真に受けてもとより惚れた女であったから空ら頼みを胸に描いて恋火を炎々と燃やしている。
 清原武則は深沈大度の老将であったので如何に最愛の四男武忠が熱望による安倍方にだとしたとてそう早計においそれと其の要請に応ずるものではない。さりとて断然と退けて終うと云う挙にも出てない其の態度は官軍の方へも同断であった。去就両端をじしてじっと両軍の動静を重視して警戒の眼を放さないと云う。まあ以上の様な対峠のままで康平五年の年迄で五年の歳月が流れて終わった。
 其のよう  の処迄でになってくると云うとこちらは官軍で向こうは賊軍であるのに間違いはない事である。奥州では大したものであったにしても対手は日本全国であるのに其の大将は源氏の大将頼義と云う名将である。  兵力増強が完備してくれば素晴らしい大軍となる。そうなってからようやく官軍の味方に付いたのでは己に時機を逃したというものである。それよりはむしろ官軍の兵備が少ない今の内に官軍に馳せ参じて清原一門の大軍を合流した戦闘力を以て徒討の実を全とうするを得たと云う戦果に終戦を迎うるのが吾が一門の有利此のうえや有る可らずと云う事に決定したとは流石老将の清原武則であったのだ。
2012.07.07:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 ⑱

義家の人物

 そこで義家は件の大弓を法皇が御枕元に御供え申し上げて置いたれば翌朝迄でゆったりと御安眠なされたと云う事である。
 後で法皇が義家を御召しになって御座所近くに御呼びなされた。そちが弓矢の徳は名医妙薬にもまさる効き目であったぞよと仰せられた。義家畏って、いささかなりと御用に足りましたる段身に余る光栄と存じますると申し上げた。法皇重ねて、あれなる霊弓は奥州の徒戦に於いてそちがみずから手に執った弓であったろうがのう・・・と御問いになった。御言葉かたじけのう存じますが臣義家一向に記憶が御座いませぬと申し上げたと云う事である。
 まことにあっさりとしたものである。まあ・・どの弓で御座いましたかのうと云う意味のものである。普通の人であったならばそこで其の弓にちなんだ戦話で、もしそうなものであると思う。然かし又彼は彼れたるの価値はそれでこそである。謙譲の美徳を具備した名将であるとは其のことである。
 以上の様に白河法皇が御悩を弓弦を鳴らして止めたと云う事は御目出度い好い事であつたと云う吉例となって後世に伝えにれ、凡て御目出度い時の儀式に鳴弦の法と云う一つの形式行事となって今でも行われておるのである。白河法皇が非常な愛臣であったと云う御信任である上は皇室から下は津々浦々に至る迄で義家崇拝熱が非常に盛んなものであつた。八幡殿と云えば三尺の童子も軍の神様と云う事を知っていたと云われたものであった。
 以上義家が人となり全体の概要であるが、其のように万人から好かれる義家が人柄を姫は最初から見通して深く惚れ込んだのである。今更斑目四郎が女房にやるために諦めろなんて云われた処でたとえどんな事情があってだろうがなかろうがを問わず、姫が承知されなかった事などは当たり前などが通り過ぎて涙で同情を注がないではいられない程可哀想な事であったのだ。いわんやそれに加えるに義家の方から現在でさえ北上川の河の流れが逆さに流れるとも俺が心に変わりがない意味の手紙を貰っている姫が身に於いておやであったのだ。最も義家が方でも姫が人物の優れているのに見込みをつけておったので飽くまで愛を注いで止まなかったのである。今では貞任も姫が心をひるがえす事が能はないのが判つきり解ったたが、そうだからとて其の旨判っきり封切ってはやられない。と共に又姫を古寺の山中に隠しておいた事も知れない様にしておる。
2012.07.07:orada:コメント(0)