長井市中央地区公民館

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 太橘(たいきつ)は小出の産、幕末俳壇の老大家として郷土俳諧の全盛期
をリードした。
文化文政にかけて約10年間諸国を俳諧師として行脚した。その途中江戸の
大会で「一声で夏になりけりほととぎす」の句をよんで、その名を遠近に知ら
れたという。
 嘉永2年10月72歳で没した。八九は72のこと。日の句は

 名月や雲がいづれば雲を照る

(昭和58年度設置 平成17年度修復再設置 薬師寺境内)





 長井の墓石では一番古いものかもしれない。「心誉宗夢居士」小松仁右衛門
の墓石は寛永10年9月5日の刻印があるので、1633年、二代藩主上杉定勝の
時代のものである。
 小松家については小出白山神社の改築の棟札で、天正12年(1584)のものに
「取持ち小松蔵人」(小松仁右衛門の先祖)とかかれており、室町時代からの
小出村の有力者だった。取持ちとは神社建築の時の世話役ということである。
 家屋敷は、薬師寺門前のあら町西側の南一帯とありあとでこの屋敷は上杉藩
主が下長井に下向したときの宿泊所となり「御殿」とよばれた。
(平成4年度設置 薬師寺境内)





 創建不詳。薬師如来の厨子(ずし)に天文24年の銘がある。薬師堂には
薬師如来、西国三十三観音像、不動明王などの数多の仏像が安置され祭礼
は8月1日賑やかに行われている。
 位牌堂には釈迦如来座像(市指定市宝)、参道の百体水子地蔵も参詣者
が絶えない。
 境内には俳句、川柳などの句碑・墓碑も多く、また糸ざくらが昔の文人
たちの心を引いた。
(昭和60年度設置 平成14年度修復再設置)





 当寺は約400年前、浄西の創始にかかわる。
本宗は「行」や「祈り」にたよらず、阿弥陀の本願を聞き、心を開くこと
によって救済されることを目的とする。
 この主旨に基づき歴代住職は、説法のほか寺子屋を開き、また図書館を
創設して社会教化につとめた。
 現在は、毎日の勤行(ごんぎょう)・法話・テレホン説教・暁天講座を
公開している。
(昭和60年度設置 破損のため平成18年度修復再設置)





 台町を通る旧越後街道は、かつて越後との間に人々の往来・物資の
交流がさかんであった時代には長井の街の一大動脈であった。さらに、
本町にあった米沢藩御蔵屋敷へ年貢米を運ぶための道路が整備される
ようになると、台にも西のはずれで越後街道から枝分かれさせ、町中
へ通じる迂回路ができた。物を運ぶ馬や馬車などはもっぱらこの道を
通り、いつの間にか、誰いうことなく「馬街道」と呼ばれるようにな
った。
 沿道には茶店がたち、そばには水車が回っているという牧歌的な風景
であった。
 なお、この街道は時代を越えて、いまも「市道・馬街道線」として、
長井の人々のくらしの中に生きている。
(平成12年度設置)





 昭和56年9月建碑除幕。

 最上川 にごり上げゆく 水波に
 光するどく 暉らふしばしば

 明治37年大石田町に生まれる。本業は米穀薪炭商。大正14年「アララギ」
に入会、歌風は感性豊かで重厚である。
 昭和21年疎開中の師斎藤茂吉を大石田に迎え、茂吉の歌集「白き山」は
ここで生まれた。歌集「礫底」随筆「白き山と最上川」などを刊行し、斎藤
茂吉文化賞を受賞。
(平成5年度設置 平成19年10月に宮原から白つつじ公園内へ移設)