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号外―賢治記念館の上に家をのっけるようなもの…「新図書館」構想に異論噴出!?

  • 号外―賢治記念館の上に家をのっけるようなもの…「新図書館」構想に異論噴出!?

 

 「禍を転じて福となす」―とはまさにこのことか。「新図書館」構想をめぐる花巻市議会と市民との意見交換会の集計結果に目を通しながら、思わず、膝を打った。賃貸住宅との合築(複合化)という意想外の当局案に対し、これまで図書館問題にそれほど関心を示してこなかった市民層がおのれの“惰眠”(寝た子)からふいに目覚めたということかもしれない。そういえば、「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という諺(ことわざ)もあるではないか…

 

 意見交換会は先月、市内4か所で開催され、127人(男性105人、女性22人)が参加した。会場では建設場所や複合化、敷地などに対するアンケ-ト調査も行われ、91人(うち、30歳以下はわずか3人)が回答した。参加者の多寡(たか)についての判断はさておき、当局案との認識の乖離(かいり)に目を見張った。たとえば、JR花巻駅前を建設場所とした当局案に賛成したのは14人(15・4%)だったのに対し、市庁舎に近い「まなび学園」(生涯学園都市会館)を「適地」とした割合が55人(60・4%)にのぼった。さらに、賃貸住宅との合築に賛成したのはわずか1人(1・1%)で、半数以上の49人(53・8%)が図書館の「単独設置」を望んでいることが明らかになった。

 

 一方、市民との意見交換会に先立って、有識者団体の「花巻市立図書館協議会」と「花巻市社会教育会議」との会議も持たれた。ところが、前者が12人の委員のうち5人、後者が20人の委員のうち6人が欠席するという醜態をさらけ出した。ビッグプロジェクトに対する、こうした無関心ぶりはアンケ-ト調査にも如実に反映された。たとえば、合わせて20人の回答者のうち、半数以上の11人(55%)が当局案の「駅前建設」に賛意を示し、「まなび学園」を適地としたのはわずか5人(25%)にとどまった。さらに、「合築」と「単独」を是としたのはそれぞれ3人(15%)と5人(25%)で、市民との間に大きな意識の隔たりを見せた。この数字は逆に、“図書館人脈”とも言われるこの種の関係機関が実は当局側の追認機関と化していることを証明する結果にもなった。

 

 石鳥谷、東和の両会場に足を運んだ私は基本的なスタンスについて、意見表明した。しかし、議会側の答弁にこっちの方が面食らってしまった。「(新花巻図書館整備特別)委員会として、そのことについては議論はしていない。イ-ハト-ブはなまきと新図書館との関係、ゼロベ-スで出直すべきだということについは、ご意見として承りたい」―。喫緊の課題だと思っていたのは私だけで、どうも委員たちには当方の真意が伝わっていないみたいだった。こんな趣旨の意見である。

 

 「現下のコロナ禍の中、ニュ-ノ-マル(新常態)や新しい生活様式など『パラダイムシフト』(価値観の大転換)が叫ばれるいまこそ、想定外のパンデミックに遭遇した際、たとえばデジタル化の加速など将来はどのような図書館像が望まれるのかという発想の逆転こそが必要。その意味では当市の新図書館計画がまだ、構想段階でコロナ禍に見舞われたことはむしろ、幸いだったと言える。“コロナ(感染症)仕様”のモデル図書館を構築する好機到来。ゼロベ-スで検討し直すべきではないか。また、当市は将来都市像として、『イ-ハト-ブはなまき』の実現をスローガンに掲げている。宮沢賢治が理想郷に見立てた理念を図書館に託してみてはどうか」―

 

 会場からは賛同する意見が相次いだ。「コロナ禍については(若者対象の)ワ-クショップでも触れられていない。議会でも議論を戦わせてほしい」、「駅前のマンション(賃貸住宅)ということになれば、人の出入りでコロナも心配される」、「コロナ対策も考えるべきで、公園のある場所に建設してはどうか」…。議会側の反応の鈍さに比べて、市民サイドの時代感覚に元気をもらったような気がした。アンケ-ト調査や質疑応答などで記憶に残った意見を以下にいくつか紹介したい。なお、意見交換会の内容は近く、議会側のHPに掲載される予定。

 

 「どのような姿の図書館かによって、場所が決められるべき」、「光太郎や賢治に学んで、他の図書館に恥じないように。アパ-ト(賃貸住宅)はもってのほか」、「図書館の上に住宅があれば日常そのものを連想。絶対、いや」、「図書館の上に賃貸マンション。洗濯物や布団が干されると、観光地の花巻はイメ-ジダウンになるのではないか」、「花巻の顔として、花巻城跡を整備していく構想と合わせて進めるのが良い。急ぐこともない」、「賢治のふるさとにふさわしい図書館を。図書館には街なかから賢治を発信する大きな役割がある」、「議会側も新しいアイデアを出すべきだ」、「花巻独自のコンセプトを」、「知恵のある人のアイデアを市議会で取り入れてほしい」、「図書館は営利目的の施設ではない。文化の殿堂、市のシンボル的な存在として、あり続けてほしい」、「まちづくりや活性化構想の中に図書館も全部入れてしまうと、本来の図書館が作れなくなる」、「少し時間がかかっても、『ここにしかない図書館』を目指すべきだ」……

 

 

 

(写真は活発な意見交換が行われた東和会場=8月19日午後、東和コミュニティセンタ-で)

 

 

 

号外―崖っぷち!?…「イ-ハト-ブ」の二元代表制

  • 号外―崖っぷち!?…「イ-ハト-ブ」の二元代表制

 

 「こっちの足元もお先真っ暗だなぁ」―。安倍晋三首相の突然の辞意表明のテレビニュ-スを聞きながら、心底、そう思った。集合住宅付き「図書館」という奇怪な新図書館構想をめぐる議会と当局双方の迷走ぶりに「もう、首長と議員(議会)との同時リコ-ル(解職請求)しか道は残されていないのではないか」とそんな絶望感に襲われたのである。地方自治の両輪である「二元代表制」という大原則が崖っぷちに立たされている。

 

 花巻市議会に設置された「新花巻図書館整備小委員会」(伊藤盛幸委員長)が28日開催され、先に市内4か所で行われた市民との意見交換会での内容や今後の進め方などについて話し合った。総参加者数127人のうち、48・4%が70歳以上と約半数を占めたほか、50歳以上が90%超えと若い世代の参加が極端に少なかったことが明らかになった。また、当局側の説明不足に批判が集中し、ある委員は「市側の新図書館構想の立脚点は国が進める立地適正化計画にあるが、肝心のその計画についての市民への説明は一切ない。言語道断だ」と語気を強めた。私の手元に「まちづくりと施設整備の方向―立地適正化計画による都市再構築の方針(案)」(平成26年11月)というタイトルの資料がある。上田東一市長が同年2月の就任後に表明した政策理念がここに凝縮されている。図書館についてはこう述べている。

 

 「図書館は整備や運営の手法、まちづくりの核としてそのあり方の多様化が全国で見られることから、都市機能誘導区域内に移転するとともに、市街地の振興に資する機能を付加することを検討します」―。この方針に基づき、市当局は平成27年9月から10月にかけて、地域の自治協議会のほか、全市民を対象とした意見交換会を行ったうえ、パブリックコメントも実施している。この図書館構想の是非はさておき、私自身、今後の市政運営の柱になると考え、意見交換の場をハシゴした覚えがある。今回、「これじゃ、そもそも議論がかみ合うはずはない」と今さらながらの認識不足に仰天してしまったのである。ある意味で、新図書館構想を含めた上田市政のビッグプロジェクトは少しもぶれてはいない。逆に議員側の勉強不足(サボタージュないしは無知)ばかりが目に付いてしまう。「議員たちはナメられている」という市民の声が聞こえてくる。「むべなるかな」―

 

 返す刀で、もうひとつ…。今月23日に市当局が主催した「としょかんワ-クショップ」で、市当局が任命するアドバイザ-、富士大学の早川光彦教授(図書館学)は「公共」のあり方に触れ、こう述べた。「その良き見本がニュ-ヨ-ク市立図書館。民間の寄付と税金で運営されており、公立図書館のあるべき姿をここに見ることができる」―。私は質疑の中で、「ご指摘の図書館は正式にはニュ-ヨ-ク公共図書館のことではないか。だとすれば、設置・運営は非営利団体のNPOだと思うが…」とただした。これに対し、早川教授は「NPOではない」と断言。私は自分の誤解と受け止めて引き下がったが、この日になって担当部課に早川教授から「間違いだった」という連絡があったという。”図書館プロ”を自認するこの人にして、ことほど左様である。あえて揚げ足をとろうなどという底意は毛頭ない。真剣勝負の議論にはまなじりを決した“覚悟”が必要だということである。

 

 「法令等に規定されているものを除き、各種委員会、審議会等の委員には議員を選出しないこと」―。花巻市議会先例集はこう規定している。整備小委員会の議員のひとりは各種委員会の社会教育委員を兼務している。この点について私は今月18日に開かれた市民との意見交換会の席上、この“利益相反”の是正を求めた。しかし、この日の会議では議題にすら上ることはなかった。”一人二役”を演じるこの人物のヘラヘラぶりはこの日も健在。一方のテレビの画面は安倍首相の沈痛な面持ちを伝え続けている。「他山の石たれ」、「人のふり見て、我がふり直せ」…とはこのことか―

 

 「病気と治療により大切な政治判断を誤ること、結果を出さないことがあってはならない。国民の皆さんの付託に自信をもって答えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではない」―。国民をなめてかかった末の成れの果ての姿がここにある。「国民」を「花巻市民」に置き換えても何ら異同はない。「百年の計」とも言われる新図書館問題の論戦は9月4日開会の9月定例会で幕が開く。さ~て、我がまちの理想郷「イーハトーブ」で繰り広げられる、上田“一強”市政(=独裁)と、”弱小”議員集団との対決は如何に……

 

 

 

(写真は激しい議会批判も飛び出した議会との意見交換会=8月18日午後、花巻市石鳥谷町の好地振興センタ-で)

 

号外―ルポ「としょかんワ-クショップ」その1…“イ-ハト-ブ図書館戦争”

  • 号外―ルポ「としょかんワ-クショップ」その1…“イ-ハト-ブ図書館戦争”

 

 「新花巻図書館」構想への意見集約をするための「としょかんワ-クショップ」(一般編)が23日から始まった。この日は私を含めた一般公募枠の12人のほか、地域婦人団体協議会や母親連絡会、PTA連合会、商工会議所、青年会議所、ボランティア団体の関係者など22人が出席。花巻、東和両図書館を見学した後、図書館アドバイザ-の早川光彦・富士大学経済学部教授(図書館学)の「図書館って、どんな場所?」と題する基調講演を聴いた。今月に入ってからは市議会の「新花巻図書館整備特別委員会」による市民との意見交換会も相次いで開かれ、「集合住宅付き図書館」という当局案の是非をめぐる“イ-ハト-ブ図書館戦争”の論戦の火ぶたが切って落とされた。

 

 早川教授は講演の中で、自らが副館長を務めた経験がある福島県の南相馬市立図書館の事例などを取り上げ、「図書館が成り立つ要素は人と資料、建物の三つに加え、利用者こそが欠かせない要素である」とし、未来の図書館像を先取りしたような同図書館の姿を写真入りで紹介した。講演に耳を傾けながら、私は“カリスマ店長”の言葉をふと、思い出していた。ベストセラ-の発掘や先駆的なポップ広告で全国に名を馳せ、「新一関図書館整備計画」の委員を歴任した伊藤清彦さんは今年2月17日、急逝した。65歳の若さだった。原発の放射能禍に見舞われた図書館の復活について、伊藤さんはこんな言葉を残している。「(南相馬市立図書館では)一冊一冊の本が生きている。棚のジャンル融合などは見事と言うしかない」(『盛岡さわや―書店奮戦記』)

 

 花巻図書館を見学していた時、新着図書の一冊が目に飛び込んできた。作家、李恢成(りかいせい)さんの近刊『地上生活者』である。「ホ-ムレスが歓迎され、コンピュ-タ-やインタ-ネットを使うことができ、(騒ぎを起こさない限りは)一日中いることが許される数少ない場所のひとつが公共図書館だ」―。最近、読んだばかりの『炎の中の図書館―110万冊を焼いた大火』(ス-ザン・オ-リアン著、羽田詩津子訳)の中にこんな一節がある。「地上生活者」という表現が「ホームレス」に重なったせいかもしれない。ペ-ジを繰ってまた、腰を抜かした。今度は「パラダイム・システム」という文字が…。コロナ禍のいま、「パラダイム・シフト」(価値観の大転換)という横文字が四六時中、頭の中を駆けめぐっている。

 

 単なる目の錯誤に過ぎないのだが、偶然にしては余りの符合に“天啓”(てんけい)とはこのことではないかという思いにとらわれた。早川教授は講演の最後にジョージ・ワシントンの一般教書演説(1790年1月8日)の一部を引用した。「知識はすべての国において、国民の幸せのもっとも確かな基盤である」。まったく同感である。「イ-ハト-ブの図書館もこんな風であって欲しいなあ」―。早川教授の話を聴きながら、よだれが出そうになった。なお、ワ-クショップは今後、9月13日と同27日、10月11日と同25日の計4回開かれる。

 

 それにしても、処女作の『またふたたびの道』を読んだ程度の記憶しかない私の前に、どうしてまた李さんはふたたび、忽然と姿を現わしたのだろうか…….「書物の方がシグナルを送ってくる、そんな不思議な空間が図書館だと思う」―。フランス文学者で思想家の内田樹さん(69)がどこかでそんなことを語っていた。これなんだろうか。

 

 

(写真は図書館司書から説明を受ける参加者たち=8月23日午後、花巻市東和町の東和図書館で)

 

 

 

《追記》~ブログ号外について

 

 7月12日付当ブログで閉鎖のお知らせをしましたが、今回の図書館問題など市民に関わる事案が相次ぐような状況になったため、今後も「号外」の形でその都度、経過などを報告したいと思います。よろしくお願いします。

 

 

 

 

ザ・エンド……We Are the World

  • ザ・エンド……We Are the World

 

 今月末、亡き妻の3回忌(没後2年)を迎える。2年前の7月29日、市議引退後の改選市議選投開票日のその日の未明、肺がんを患っていた妻はベッドから転げ落ちるようにして死んでいた。享年75歳。平成から令和へ…この間、時はあっという間に過ぎ去った。そして、満80歳の老残をねらい撃ちするかのように今度は「コロナパンデミック」が襲いかかった。肺に病を抱えていた妻がこの災厄に遭遇せずに旅立ったのはある意味、幸運だったのかもしれない。ここ数カ月間、コロナ禍に翻弄(ほんろう)される姿を恥ずかしげもなくさらけ出してきた。汗顔(かんがん)の至りである。

 

 「咳(せき)をしても一人」―。自由律俳人の尾崎放哉は果てのない“孤独”をこう表現した。最近はその咳ひとつさえ、憚(はばから)れるご時世である。目の先に広がるのは“孤絶”の風景なのか。西行や芭蕉を気取りながら、老い先短い人生をもう少し徘徊してみたいという気持ちになった。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」―。こんな境地に少しでも近づければという思いである。この道行きの背中を押したのもどうも「コロナ神」の差し金のような気がしてならない。芭蕉が「そぞろ神」にそそのかされて、”奥の細道”(みちのく)をさまよい歩いたように…

 

 公開してきたブログは今回をもって閉じ、今後は日記風のメモ書きを原則、非公開の形で書き連ねていきたいと思う。長い間のお付き合いに心からの感謝を申し上げます。皆さまの幸せを祈りつつ……

 

 

 

 

 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸するより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り…」(松尾芭蕉『奥の細道』原文冒頭、以下に現代語訳)

 

 

 

 「月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。船頭のように舟の上に生涯を浮かべ、馬子のように馬の轡(くつわ)を引いて老いていく者は日々旅の中にいるのであり、旅を住まいとするのだ。西行、能因など、昔も旅の途上で亡くなった人は多い」

 

 「私もいくつの頃だったか、吹き流れていくちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻りその蜘蛛の古巣をはらい一旦落ち着いていたのだが、しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと「白河の関」を越してみたくなり、わけもなく人をそわそわさせるという「そぞろ神」に憑かれたように心がさわぎ、「道祖神」の手招きにあって何も手につかない有様となり、股引の破れを繕い、笠の緒をつけかえ、三里のつぼに灸をすえるそばから、松島の月がまず心にかかり、住み馴れた深川の庵は人に譲り…」

 

 

 

《追記》~We Are the World

 

 

 ブログを閉じて以来、毎日のようにマイケル・ジャクソンやティナ・ターナー、ダイアナ・ロス、ボブ・ディラン、レイ・チャールス、スティーヴィー・ワンダー、ポール・サイモンなど著名なアーティストが歌い上げた「We Are the World」(1985年)を大音量で聴いている。コロナ禍のいまこそ「世界はひとつ」のメッセージが必要な時なのだが、アフリカの飢餓救済に立ち上がった、あのなつかしいキャンペーンソングが耳元に届くことはもうないのかも知れない。米国で再レコーディング化の動きもあるが、「三密」がご法度のいま、総勢45人にのぼる大合唱の実現は夢のまた夢か。

 

 

 

 

 

「行くべきか、行かざるべきか」…コロナ禍の中の“ハムレット”

  • 「行くべきか、行かざるべきか」…コロナ禍の中の“ハムレット”

 

 「行くべきか、行かざるべきか」―。地元・岩手出身で満鉄の初代総裁や第7代東京市長(当時)などを務めた政治家で官僚、医師の後藤新平(1857―1929年)の功績をたたえる第14回「後藤新平賞」に当ブロブ(4月24日付「黙示録」)で紹介した古布絵作家で詩人の宇梶静江さん(87)が選ばれた。今回のコロナ禍を「コロナの側」から見る視点の大切さを教えてくれたのが宇梶さんだった。普段ならそれこそ、万難を排してすっ飛んでいくところなのに「未知なる」災厄が目の前に立ちはだかっている。まるでハムレットみたいな心境である。

 

 台湾総督府の民生長官などを歴任した後藤は植民地経営のかたわら、“感染症の第一人者”とも言われた。日清戦争の終結後、伝染病が猛威を振るっていた中国からの帰還兵20万人以上に対する水際検疫の指揮をとり、コレラの蔓延に歯止めをかけた。後藤の足跡を書籍化してきた「後藤新平の会」(東京・藤原書店内)は今回の授賞理由として、こう述べている。「北海道開拓団が入植して150年余。先住民アイヌにとっては、いわれなき差別と大地に根を下ろした独特のアイヌ文化の崩壊を意味した。宇梶氏は50年前、『ウタリ(同胞)たちよ、手をつなごう』とアイヌの結束を呼びかけ、自然への畏敬に満ちた『アイヌの精神性』の意義を多くに人に知ってもらうべく立ち上がった。文明のあり方を思索した後藤と相通じるものがある」

 

大地よ/重たかったか/痛かったか

あなたについて/もっと深く気づいて、敬って

その重さや痛みを/知る術(すべ)を/持つべきであった

多くの民が/あなたの重さや痛みとともに/波に消えて/そして大地にかえっていった

その痛みに今 私たち残された多くの民が/しっかりと気づき/畏敬の念をもって

手をあわす

 

 宇梶さんは東日本大震災の直後、こんな詩篇(ブログ既掲)を発表した。「カムイモシリですね。神様の培われている大地、カムイモシリよ、重たかったか、痛かったかという言葉が出たんです」と宇梶さんは詩作の動機をこう語っている。この精神性は現下のコロナ禍を捉え直す視線へとそのまま、つながっている。受賞スピ-チは7月12日、東京都内の開館で予定されている。「宇梶さんの口からいま、どんな言葉が飛び出すのか」―気持ちが急(せ)く一方で、「この時期にコロナを土産に戻ってきたら、どうなるのか。ちゃんと、考えて見ろ」という“感染ゼロ県”からのある種、強迫じみた声が追いかけてくる。

 

 「東京で10日、過去最多(224人)を更新する243人の感染が判明」―。かたわらのテレビが第2波を予測させるような速報を伝えている。「人口比から見れば、感染の確率は宝くじに当たるようなもの。当たり運のない自分には関係ないさ」、「いや、そういう奴に限って、大当たりがあるんだよな」、「上京中に東京アラ-トが発令されたら、無事に戻って来れるだろうか」…。己自身が「ゼロリスク症候群」に取りつかれていることにハッと我に返る。「感染第1号」の闇の深さにおののく日々…まるで“無間地獄”の様相である。12日の直前ぎりぎりまで、ハムレットの悩みは続くのだろうか。

 

 「To be or not to be/that is the question」(生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ)ー。「行きはよいよい 帰りはこわい」…縁起でもない調べが頭の奥でこだましている。記憶の底に眠っていたはずのわらべ歌がむっくりと目を覚ましたようだ。

 

 

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

 

  (「通りゃんせ」)

 

 

 

 

(写真は不気味な光を放つ「東京アラ-ト」。第2波の足音がひたひたと押し寄せてくるような、そんな気配も=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~上京を断念

 

 ”ハムレットの悩み”を自ら悩み、「行きはよいよい、帰りはこわい」という天神様の戒めを素直に受け入れ、12日に予定していた上京を断念することにした。東京での感染拡大が進む中、ハムレットをもじったこんな川柳が載っていた。「Go To(国が提唱する観光振興) or not Go To それが問題だ」(7月10日付「朝日新聞」)