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サンゴ礁の海へ

  • サンゴ礁の海へ

 

 初七日(8月4日)、三十五日(9月1日)、四十九日(9月15日)…。市議引退後の改選花巻市議選の投開票日のその日(7月29日)に妻が急逝してから、節目の忌日(きにち)があっという間に過ぎ去り、目の前には百ヶ日(11月5日)が近づいてきた。仏教ではこの日を「「卒哭忌」(そっこくき)と呼ぶ。「哭」は嘆き悲しむこと、「卒」は終わること…。「どんなに親しい人が亡くなっても、嘆き悲しむのは百ヶ日で終わりにする」という意味だという。「仏式というやつは随分と押しつけがましい。こころの区切りをつけるのはこっち」―。亡骸(遺骨)のそばで寝起きしながら、「喪失感」という得体のしれない気持ちに打ちのめされていた、そんなある日―。

 

 「がんの宣告」―。妻の身の回りを整理しているうちにパンフレットから一枚の紙片がすべり落ちてきた。CT検査(コンピュタ-断層撮影)とPET検査(陽電子放射断層撮影)の結果、ステ-ジ4(末期)の肺がんが見つかったことが記されていた。日付は2014年6月9日、旅立つ4年前の手書きのメモだった。この時期、私自身は2期目の市議選への出馬準備で大わらわだった。重い病を抱えることになった妻はそれでも「頑張ってね」と裏方に徹した。私は当然、医者から告げられて知っていたが、そのメモが「散骨」関係のパンフレットに挟まっていたことにびっくりした。「お墓もないし、死んだら散骨か樹木葬がいいね」と生前、話していた。散骨の資料収集はがんを宣告された以降に集中していた。秘かに死出の旅支度をしていたことに胸を締め付けられた。「あの時、出馬を止めておけば…」―

 

 たとえば、こんな姿を懐かしく思い出す。沖縄・石垣島に住むたった一人の娘夫婦と2人の孫たちのことを一時も忘れることがなかった。死の直前、介護に駆けつけた娘が台所の整理をしていて悲鳴を上げた。買いだめした品々があちこちから出現したからである。そういえば、夜中にゴソゴソと孫たち宛ての宅急便の詰め込みをしていた現場を何度も目撃した。「(沖縄)八重山諸島」での散骨を紹介するパンフレットに「第一候補」とシールが貼ってあった。「あのメモはひょっとして、孫たちのそばに行きたいという遺書だったのかもしれない。そうだ、サンゴ礁の海へ」とそう思った刹那(せつな)、もうひとつの「卒哭忌」の光景が目の前にせりあがってきた。

 

 「まだ遺骨のひとかけらも見つかっていません。だから、3人の生死は誰にも分かりません。もう死んでいるかもしれないし、あるいはまだ生きているかもしれない。そう思うしかないと自分に言い聞かせているんです」―。東日本大震災から百日目の2011年6月18日、三陸沿岸の大槌町で犠牲になった人たちの合同慰霊祭があった。779人のうち、前日までに死亡届が提出された567人の名前と年齢がひとりずつ読み上げられた。母親と妻、それに愛娘の3人が行方不明のままの白銀照男さん(9月14日付当ブログ「『四十九日』と魂の行方」参照)は「名前が呼ばれないのを喜んだら良いものか…」と無言のまま、会場をあとにした。白銀さんが3人の死亡届を役所に持って行ったのは、その2週間後のことである。

 

 「あんたは奥さんと一緒にいられるだけ幸せじゃないか」―と白銀さんに背中を押されたような気持になった。ある日突然、目の前から消えた肉親に自らが死を宣告しなければならない残酷さに体が震えた。「もう、泣き悲しむのは止めにせよ」という仏(ほとけ)の説法の酷(むご)さにも戦(おのの))いてしまった。その一方で、「おまえの喪失感って、一体なにほどなのか」という声が遠音に聞こえたような気がした。私は11月中旬、迎えにくる娘と一緒に妻の亡骸を背中に背負って、石垣島に向かおうと思っている。「卒哭」のためではなく、より多くの死と悲しみを共有することができるように

 

 

(写真は故人が好きだった花々と一緒に海へ眠る散骨風景=インタ-ネット上に公開のイメ-ジ写真から)

 

 

異土の乞食と「乞食の子」、そして、賢治の命日に思うこと

  • 異土の乞食と「乞食の子」、そして、賢治の命日に思うこと

 

 「よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや…」(9月18日付当ブログ「断捨離の彼方に」参照)―。室生犀星さま、それにしても余りにも強烈なふるさととの“決別”宣言ではありますまいか。大詩人のあなたに一体、何があったでのすか…。詩集『抒情小曲集』の冒頭に収められたこの詩は「ふるさとは/遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」という詩句で始まる。石川啄木が遠く離れた東京の地から望郷の歌をうたったのとは違い、この詩は犀星の生まれ故郷である石川県金沢市でつくられている。詩人の大岡信(故人)は以下のように解説する。

 

 「これは遠方にあって故郷を思う詩ではない。上京した犀星が、志を得ず、郷里金沢との間を往復していた苦闘時代、帰郷した折に作った詩である。故郷は孤立無援の青年には懐かしく忘れがたい。それだけに、そこが冷ややかである時は胸にこたえて悲しい。その愛憎の複雑な思いを、感傷と反抗心をこめて歌っているのである」(「大岡信ことば館」HPより=現在閉鎖中)。つまり、いったん故郷を捨てた“棄郷者”に対する、ふるさとからの容赦のない仕打ちを嘆いた詩なのであろう。「それにしても…」とふたたび、口をつく。「やはり、乞食を引き合いに出すのは尋常じゃないのではないか」と―。

 

 「乞食には家がない。…私たちが最もよく利用したのは墓地の中の百姓公廟であった。私たちは死人と眠ったのだ。そこにいれば人から白い目で見られることもなく、死者も私たちを連れていきはしなかった」―。台湾人作家、頼東進(ライ・トンジン)さんの手になるこの本のタイトルはずばり『乞食の子』(納村公子訳)である。「これ、すごいよ」と妻の葬儀の際に娘が置いていった。犀星の詩を口ずさんでいるうちに忘れていたこの本の存在をふと、思い出したのである。

 

 「墓場に寝て、犬の餌をあさって、家族のために生き抜いた少年の驚嘆と感動の半生」と帯にある。目が見えない父親と知的障がいがある母親の間には12人の子どもたちがいる。長男として生まれた東進さんが全国放浪のその「乞食」人生を自伝風に書いているのが本書である。舞台は1960年代の台湾。100万部を超す空前のベストセラ-になり、東進さん自身、1999年には各界で活躍する青年10人に贈られる「十大傑出青年」に選ばれた。これ以上の悲惨な生活はあるまいという記述が延々と続く。しかし、さげすみの視線の下に思わず、吹き出してしまいたくなるような文脈が出てくる。たとえば、「にせ乞食」を紹介したこんな一節―。

 

 「祭があるというので、乞食が群れをなして集まってきた。道々観察してみると、手や足がないふりをしている人もいれば、ある者は頭に黒い布を巻いて老婆を装い、ある者は泣いて身の上の不幸を訴え、あの世からもどってきたような者もいて、それぞれ奇妙な演出をしていた。…しかし私たちはこうした『同業者』のことを知っていた。これらの乞食の多くは昼間は人の目をごまかし、私たちにまじって物乞いをし、夜になるとかつらをかぶり、背広を着て居酒屋へ行き大酒を食らっているのである」―。このおおらかさは同じ島国といっても、大陸系の血が流れる台湾と日本との違いなのだろうか。

 

 当市・花巻出身の宗教学者、山折哲雄さん(87)は今秋、花巻市名誉市民の第1号に選ばれた。開教師の子としてサンフランシスコに生まれ、戦時中に母親の実家があった当市に疎開、高校卒業まで過ごした。当時の忘れられない“事件”について、山折さんはこう書いている。「それはいまでいうまことに陰湿な『いじめ』であった。…ある日5,6人の悪童に連れ出され、校庭の隅で取り囲まれた。『キンタマを出せ』とかれらはいった。いわれたとおりにすると、交代でそれをいじくりまわした。相手は多勢のことであり、私は泣く泣くその屈辱感に必死にたえねばならなかった」(『学問の反乱』)

 

 さらに山折さんは同書の中で、宮沢賢治についてこう記している。賢治自身、無名の時代には町衆から石を投げつけられるなどの迫害を受けた経験を持っていた。「故郷に骨を埋めるしかなかった賢治は、そのためにこそかえって、銀河系や四次元世界のような非現実的な空間を構想して、現実からの離脱をはかろうとしたのではないだろうか」―。賢治は銀河宇宙という広大無辺の空間を自分自身の「退路」として準備したのかもしれない。

 

 「功成(な)り、名(な)遂げた」―とたんに手の平を返したようにその「威光」におもねるのもまた「ふるさと」の習い性である。賢治の「イ-ハト-ブ」(夢の国)はいまや花巻市のまちづくりのスロ-ガンとして、高々と掲げられ、少年期にリンチという屈辱を受けた山折さんはそのまちの「名誉市民」に推挙されるという様変わりである。さて、「異国で乞食になったとしても絶対に戻らない」と“決別”宣言をした、あの大詩人の地元はどうなっているのだろうか。16年前に金沢市内の生誕地跡に「室生犀星記念館」がオ-プンし、HPにはこんな文面が張り付けられている。「犀星の生き方やその文学世界の魅力と出会い、ふるさとや命に対する慈しみの心への強い共感を呼び起こしていただけるものと思います」―。

 

 今日9月21日は賢治の命日に当たり、私の自宅近くの「雨ニモマケズ」詩碑の前では恒例の「賢治祭」が開かれた。全国から賢治ファンが集まり、かがり火を囲みながら夜遅くまで「賢治」を語り合うのが通例だが、この日は雨天のために会場を屋内に移して行われた。毎年参加してきたが、妻を亡くした今年はどうしてなのか、足を向けるような気分にはなれなかった。「ふるさととは一体、何者なのか」―。「乞食」人生を全国表彰する彼の国の大人(たいじん)の振る舞いにうなずきながら、私は日がな一日、そんなことを考えていた。ちなみに日本では「軽犯罪法 」(1条22号)で、こじきをし、又はこじきをさせることを禁止し、違反者には拘留又は科料の刑事罰が規定されている。この国はいつの間にか”こじき”を許容しない国になってしまったようである。

 

 

(写真は「乞食」人生を描いたライ・トンジンさんのベストセラー)

 

 

断捨離の彼方に

  • 断捨離の彼方に

 

 妻の死去と議員引退をきっけに初めて、“断捨離”(だんしゃり)なるものを手がけてみた。未練も容赦もない「断・捨・離」という語法に抵抗感があったが、そう長くはない将来を見据えると、ある程度の身の回りの整理はやむを得ない。猿芝居に終始した2期8年間に及ぶ議会資料はバッサリと廃棄処分に…。さて、積読も含めて約3千冊の蔵書が多いのか少ないのかは分からないが、その本の山を前にしてハタと手が止まってしまった。

 

 7年半前の東日本大震災の際、本棚はすべて倒壊し、上掲写真のようにベットの上に総崩れになった。「3・11」のこの日は私の誕生日に当たっており、妻は八戸の魚市場「八食」まで祝宴用の買い出しに行っていた。私の方はちょうど、予算特別委員会の開会中で難を逃れた。就寝中の発生だったら、命を奪われていたかもしれない。大量の魚介類を抱えた妻も数時間かけて無事帰り着いたが、全戸停電の中でせっかくの71歳の誕生祝はお流れとなった。その妻もいまはなく、わずかに我が人生の“地層”ともいうべき蔵書の中にその思い出の片鱗を見つけ出すことができる。

 

 「東北ルネサンス」―。なんとも心が躍るスロ-ガンではないか。私が新聞社を定年退職したのは2000年3月。当時、民俗学者の赤坂憲雄さんらが中心になって、「東北学」の必要性を提唱していた。大都市中心主義の限界を訴え、東北から変革を―という呼びかけに心が動かされた。同郷(花巻)の妻は一方で逡巡(しゅんじゅん)しつつも、次第に軸足をふるさとへ向けるようになっていた。さっそく、宮沢賢治全集を買い求め、生まれ故郷に居を移した。ともに40数年ぶりのUタ-ンだった。「ふるさと再発見」を気取りながら、ふたりで小旅行を続けた。賢治の物語世界をもっと知りたい―と、久慈市の琥珀の採掘現場(地下坑道)を案内してもらった時の感動は忘れられない。「幻想的ねぇ」と妻は歓声を上げた。

 

 花田清輝全集、鶴見俊輔座談集、辻潤著作集、昭和史発掘…。蔵書の“発掘”作業を続けるうちに茶褐色に色変わりした各種全集類に交じって、アイヌ関連本が比較的多いのに気が付いた。「日本列島の中に異言語を話す民族がいる」―ということに興味を持ったことが端緒だった。念願がかなって北海道勤務になり、アイヌ古老の聞き書きに没頭した。こんな姿を見て、妻もアイヌ刺繍を習い覚えるようになっていた。娘夫婦が沖縄・石垣島に移住してからは沖縄関連本が増えていった。妻の沖縄行きも年数回に及んだ。孫に会いに行くのが第一の楽しみだったが、記者時代から続いた「東北」を起点とした「北」と「南」への道行きにも満足そうだった。妻が異様な空咳(からせき)を発するようになったのは、東日本大震災の直後からだった。この時にがんの前兆が始まっていたのかもしれない。そんな体調に鞭打つようにして、妻は被災者支援に打ち込んでいった。

 

 ふるさとに移住した直後、1枚の紙片がFAXで送られてきた。「あなたはこの静かなまちを破壊するために帰って来たのか」―。差出人不明の不気味なメッセ-ジだった。70歳にして市議会議員になって以来、このことの意味が実感させられた。議会改革を叫ぶたびに、不思議なことに革新系を含む“抵抗勢力”に包囲された。石川啄木は「石をもて追わるるごとく」に故郷を追われ、室生犀星はこう詠んだ。「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや…」

 

 強烈な排他性を突き付けられたのも同じ「ふるさと」からだった。理解ある同行者を失った今、この先、「ヒカリノミチ」をどう歩み続けたら良いものか。果たして、ひと筋でもヒカリの輝きが差し込むことはあるのか―。「ケハシキタビ」(賢治「精神歌」)を旅する、手探りのひとり旅はこれから先も続きそうである。

 

 

(写真は本棚が倒れ、周囲には本が散乱した=2011年3月11日、花巻市桜町の自宅で)
 

 

 

 

「四十九日」と魂の行方

  • 「四十九日」と魂の行方

 

 「そんなに急がなくたっていいんじゃないの」―。妻が旅立って早くも「四十九日」(9月15日)を迎えた。仏教ではこの日、魂があの世に向かう日だとされている。遺影に向かって思わず、こんなことを口走ったのは『呼び覚まされる「霊性の震災学」』なる本を読みかけていたせいかもしれない。東北学院大学「震災の記録」プロジェクト(金菱清ゼミ=災害社会学)の編集で、7人の学生が卒業論文としてまとめた内容になっている。読み進むうちに、魂に立ち去られることの寂しさがにわかに募ってきたのである。同書には“幽霊”たちとの出会いが例えば、こんな風に紹介されている。東日本大震災で娘さんを亡くした男性のタクシ-ドライバ-(56)の体験談である。

 

 「震災から3ヵ月位くらいたったある日の深夜、石巻駅周辺で乗客の乗車を待っていると、初夏にもかかわらずファ-のついたコ-トを着た30代くらいの女性が乗車してきたという。目的地を尋ねると、『南浜まで』と返答。不審に思い、『あそこはもうほとんど更地ですけど構いませんか?どうして南浜まで?コ-トは暑くないですか?』と尋ねたところ、『私は死んだのですか?』―震えた声で応えてきたため、驚いたドライバ-が『えっ』とミラ-から後部座席に目をやると、そこには誰も座っていなかった」―。この男性は学生たちにこう語ったという。「東日本大震災でたくさんの人が亡くなったじゃない?この世に未練がある人だっていて当然だもの。あれ(乗客)はきっと、そう(幽霊)だったんだろうろうな~」

 

 酷暑に続いた台風被害や北海道大地震…。真夜中に屋根を叩く雨風やコツコツとドアをノックするような音にハッと、目を覚ますことがたびたびあった。以前はこんなことはなかったが、「これが霊性というものだと言われれば、そうなのかもしれない」と思うようになった。当ブログ「『喪失』という物語」(9月4日付)に登場する被災者の白銀照男さん(69)はあの大震災以来、”浮かばれない魂“との交信を続けている。いまも行方不明の母親と妻、それに愛娘の3人が夢枕に現れるのはしょっちゅうで、「あの時は浦島太郎になったような気持ちだった」とこんな話をしてくれたことがあった。

 

 「避難所に戻る途中、がれきの陰から一匹のカメが現われ、車の前を横切ろうとした。とっさにブレ-キをかけて捕まえ、水槽で飼うことにした。カメは長寿のシンボル。3人がどこかで生きているって…。カメの背中に乗って、竜宮城に連れて行ってもらい、3人に再会できるのではないかって…」―。カメの出現にも驚かされたが、よもや浦島太郎にまで話が及ぶとは思ってもみなかった。妻を亡くした今、白銀さんのあの時の真剣なまなざしが脳裏によみがえってくる。「このことこそが、霊性のなせるわざなのかもしれない」ーと。学生たちは幽霊(霊性)たちとの遭遇を以下のように総括している。

 

 「津波や原発によって文化の虚構性が暴かれた社会において、一足飛びに天に向かう動きに飛躍するのではなく、眼の高さを起点とする天と地の間の往復運動によって、身体性を伴う言語以前の、コミュニケ-ションの場を設定しうる可能性が示される。生者と死者が呼び合い、交換し、現世と他界が共存する両義性の世界が、すなわち“霊性”である」(同書)。昨年2月、ノンフィクション作家の奥野修司さんが「3・11後の霊体験」をルポした際のタイトルも『魂でもいいから、そばにいて』ーだった。

 

 若い感性の到達点の深みに今さらながら、驚愕(きょうがく)させられる。そして、私は遺影に向かい直して、ひとりつぶやく。「そう、急がなくてもいいんだよ」―

 

 

(写真はカメの出現にびっくりしたのは当の白銀さん自身だった=2011年6月、岩手県大槌町で)

 

 

ふたたび、「喪失」ということについて

  • ふたたび、「喪失」ということについて

 

 以前ならスル-していたはずだが、妻に先立たれたせいなのか、こんな本の広告が目に止まるようになった。例えばその一冊、『妻が願った最期の「七日間」』は朝日新聞の投稿欄(3月9日付)に掲載された投書がきっかけで、SNSで19万人以上がシェアするなどの大反響を呼び、単行本化された後も重版を重ねているという。「(今年)1月中旬、妻容子が他界しました。入院ベッドの枕元のノ-トに『七日間』と題した詩を残して」という書き出しで始まる投書はこう続く。「神様お願い この病室から抜け出して 七日間の元気な時間をください 一日目には台所に立って 料理をいっぱい作りたい…そして七日目。あなたと二人きり  静かに部屋で過ごしましょ 大塚博堂のCDかけて ふたりの長いお話しましょう」

 

 この約半年後、私の妻が旅立った。訃報を知らせる葉書にこう書いた。「妻、増子美恵子儀が7月29日未明、他界しました。ここ数年間、がんを患っていましたが、直接の死因は消化器出血による”突然死“でした」―。妻容子さんとの交換日記などを加筆した著者の宮本英司さんは投書をこう締めくくっている。「妻の願いは届きませんでした。死の最後の場面を除いて」。この落差に打ちのめされた。一階のベットから転げ落ちるようにして、妻は死んでいた。2階から降りてきて、この異変に気が付いたのは死後4時間もたってからだった。英司さんのように手を握りながら、看取ってやることができなかったという悔恨(かいこん)が今も付きまとう。

 

 私より7歳ほど若い宮本夫妻は早稲田大学の同窓で、妻の容子さんは宮沢賢治を、英司さんは石川啄木を卒業論文に選んでいる。本書の中で英司さんはこう書いている。「盛岡で石川啄木記念館に行って、花巻で(賢治の弟の)の宮沢清六さんにお会いして,平泉の中尊寺に泊ったね」―。容子さんにステ-ジ4の小腸がんが見つかったのは2015年8月。私の妻も前年の6月に同じステ-ジ4の肺がんと診断された。卒論のテーマにそろって、わが郷土・岩手の文学者を取り上げていることにも驚いたが、死に至る病歴もあまりにも似通っている。急に2人の存在が近しくなったような気がした。

 

 「人が亡くなった後の喪失感が、これほどまでに激しいものだとは、体験するまでわかりませんでした。まるで自分の半身が亡くなってしまうような感覚です」と英司さんは妻を病魔に奪われた時の気持ちを記している。私にもぴったりくる言葉である。宮本さんはがんとの闘病記を”夫婦愛“として世に語りかける形で、この喪失感から脱しつつあるようだ。私にはまだまだ、時間が必要である。死の1カ月ほど前から、妻はほとんど寝たっきりの状態になった。ヘルパ-の力も借りたが、入浴だけは他人じゃイヤだと言った。妻の全身をきれいに洗い流す介助役を始めてやった。人生の初体験である。この程度の私だった。背中に石けんを塗りながら、さりげなく聞いてみた。「お母さんに羞恥心(しゅうちしん)はなくなったの」―。その応答に互いに大笑いした。夫婦のきずなが一番、縮まった瞬間だったのかもしれない。

 

 「ほかの男には羞恥心はあるわよ。でもね、あんたになんか、とっくにないわよ」―。息を引き取ったのはその数日後のことである。妻が最後に残してくれたこの言葉をいつまでも大切にしたいと思っている。この日(9月11日)、気の遠くなるような「喪失」をもたらした東日本大震災から7年半目の弔いの日を迎えた。

 

 

(写真は大きな反響を呼んでいる宮本さんの本)

 

2018.09.11:masuko:コメント(0):[マスコラム]